神戸恵みチャペル(教会)のホームページへようこそ。
神戸恵みチャペルは正統的なプロテスタントのキリスト教会で日本同盟基督教団に所属しています当教会は子どもから大人まで共に礼拝していますどなたでも礼拝に出席することができますのでご気軽にお越し下さい。
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お知らせ

祈祷会と聖書を学ぶ会に関するお知らせ
祈祷会と聖書を学ぶ会を一緒に行っています。
実施日時は毎週水曜日 午前10:00~のみとなります。

グレースキッズ (アフタヌーン)のご案内
 毎月、第2、第4日曜日の午後2時~
  ☆楽しいゲーム・クイズ・歌を歌います。
  また、今はやりのゲーム(ニンテンドースイッチ)や色々なボード
  ゲームもあるヨ!
  待望の卓球台が来ました! みんなで卓球をしよう!
  卓球マシーンもあるよ
  くせになる楽しさです。

牧師からのコメント
「聖書に興味のある方は、是非、気軽にお越しください。
                   共に学んでまいりましょう。」

今週のメッセージ (No.150)  毎週更新

『愛と謙遜を持って飛び込む』  出エジプト3:1~10
 神様はイスラエル人が苦痛の中で泣き叫ぶ声を聞かれ、エジプトからイスラエルを救うために、一人の人モーセを準備されました。今日の聖書本文で、モーセは羊の群れを連れてホレブ山へ行き、不思議な光景を目撃しました。柴に火がついて燃えているのに、その柴は燃え尽きないのです。火や光の中から神様があらわれる場面は、出エジプト記の他の箇所にも何度か出てきますが、いつ神様が火や光の中であらわれたのでしょうか。イスラエル民族がエジプトを出て荒野を歩いた時、神様は昼には雲の柱で彼らを導かれました。この雲の柱はイスラエル人には光を与えましたが、敵の群れには闇を与えました。神様は夜には火の柱でご自分の民を照らし、導かれました。聖なる神様が彼らと一緒におられる時、 強い光がありました。この神様の栄光を、「シェキナ」と呼び、これは神様が共におられること、つまり神様の臨在をあらわします。同じようにモーセが見た柴の火は、神様の臨在をあらわすものでした。モーセが臨在される神様に近づこうとした時、神様は何とおっしゃったでしょうか? 「ここに近づいてはならない。」その理由は、何でしょうか?「あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」罪の属性を持つ人間が近づくには、神様はあまりにも聖なる方だからでした。ですから神様に近寄ると、必ず死ぬことになります。
ところが聖書本文から、例外が発生しました。何でしょうか? 柴についた火は、神様のご臨在をあらわす聖なるものなのに、柴は全く燃えず守られていたのでした。その理由は何でしょうか。4世紀に活動した神学者であるニュッサのグレゴリオスは、神様の聖なる栄光がついたにも関わらず、柴が燃え尽きなかった理由を、人間を救おうとされる、神様の愛と謙遜さから見つけました。 すべての人間は罪によって汚れ、神様に近づくと燃え尽きて当然ですが、神様は人間を見捨てず、むしろ救うことを願われたのです。その救いのご計画のために、イスラエルをご自分の民族として選び、彼らを救うためにイスラエルの歴史の中に直接飛び込まれたのでした。燃えていても燃え尽きない柴は、聖なる神様が汚れた罪人を燃やさず、むしろ彼らの人生の中に飛び込まれた神様の謙遜さと愛を示すものでした。このような面でニュッサのグレゴリオスは、この柴とイエス様を妊娠したマリアが関係していることを発見しました。イエス様は神様のご臨在をあらわす栄光ではなく、神様そのものでした。神様であるイエス様が間接的ではなく、汚れた罪人の体の中に宿ったのでした。しかし燃えていても燃え尽きない柴のように、マリアはその聖なるイエス様を自分の体の中に身ごもったにもかかわらず、燃えたり消滅したりしませんでした。これが可能な理由は、何でしょうか? 神様の愛と謙遜さです。世界を愛され、ご自分の御子を送られた父なる神様の愛。御父の御心に従われ、低い人間となられた御子イエスキリストの謙遜さ。御父と御子を尊重し、その御心を実行された聖霊の働きによって受肉は起こりました。汚れた罪人を燃やして審判されず、むしろ救うために人間の歴史に飛び込まれた、三位一体の神様の愛と謙遜さがクリスマスを可能にしたのです。
神様を信じる前、私達は神様が誰なのか、罪という自分の悲惨な現実も全く知らないまま過ごしていました。私達は聖なる神様に近づくことができるどんな条件も、備えてはいませんでした。しかし神様は、人間となられたイエスキリストを通して、私達の人生の中に飛び込んで来て下さいました。御父は、愛を持って罪人である私達を選んで下さり、私達の中で働いた聖霊によって、尊いイエスキリストは、低い私達の人生の中に入って下さいました。今、こうして私達が神様の御前に集まって礼拝し、神様の聖なる臨在を感じているのは、私達の暗い心の中に飛び込んで下さった神様の恵みによる、驚くべき奇跡であるのです。燃えているのに、燃え尽きない柴のように、また赤ん坊のイエス様の存在を体の中に秘めたマリアのように、私達はイエス様の聖なる臨在を抱いているものの消滅することなく、むしろ神様の子供に与えられる、全ての祝福を享受しているのです。
私達がこの恵みに本当に感謝しているのなら、私達自身だけでなく、他の人々の人生にも飛び
込んでほしいという神様の御心に従わなければなりません。神様はエジプトの奴隷であったイスラエル民族を救うために、まずモーセを呼ばれました。そして当時、ミディアンに住んでいたモーセに、イスラエル民族が閉じ込められていたエジプトの中に、飛び込む使命を与えられました。その使命に従ったモーセの働きの中で、神様はイスラエルの歴史に飛び込まれたのです。同じように、私達が神様を信じて救われたのは、私達自身の選びだけで起きたのではなく、与えられた神様の使命に従って、私達の人生の中に飛び込んでくれた誰かがいたからこそ、可能なことでした。私達は皆、誰かを通して私達の人生の中に飛び込まれた、イエスキリストの恵みを体験した者たちです。神様の恵みは、受けたまま自分の心の中にだけ置いておく装飾品ではなく、自分が受けたその恵みが、他の人々にも流れるように、誰かの人生の中に飛び込む使命への招きなのです。私達はその招きに従い、神様が見せて下さる人々に、愛と謙遜さを持って仕えなければならないのです。これがクリスマスが私達に教える、受肉の恵みを生きる人生なのです。私達の信仰の服従を通して、より多くの人々の人生の中に、キリストの聖なる臨在が溢れることをイエス様の御名で祝福します。

新着情報

2020/1/16
  今週のメッセージNo.150を更新しました
2020/1/5
  今週のメッセージNo.149を更新しました
2019/12/2
  クリスマスの案内をアップ致しました。
2019/12/1
  今週のメッセージNo.148を更新しました