神戸恵みチャペル(教会)のホームページへようこそ。
神戸恵みチャペルは正統的なプロテスタントのキリスト教会で日本同盟基督教団に所属しています当教会は子どもから大人まで共に礼拝していますどなたでも礼拝に出席することができますのでご気軽にお越し下さい。
🚙 🚙 🚙 駐車場もございます。🚙  🚙 🚙

お知らせ

祈祷会と聖書を学ぶ会に関するお知らせ
祈祷会と聖書を学ぶ会を一緒に行っています。
実施日時は毎週水曜日 午前10:00~のみとなります。

☆春から教会近隣に引っ越しされる大学生の皆さんへ
 神戸恵みチャペルでは、毎週金曜日の夜(18時~)に大学生の集まりをしています
 一緒に美味しい食事を作って食べたりお話したりと、楽しい交わりの時を持っています。教会が初めての方も歓迎です。
 今は新型コロナウイルスでこの集会はお休みしていますが、落ち着きましたらまた再開しますのでお知らせしますね。ぜひ神戸恵みチャペルに一度、お越し下さいお待ちしています(*^^*)

 

グレースキッズ (アフタヌーン)のご案内
 毎月、第2、第4日曜日の午後2時~
  ☆楽しいゲーム・クイズ・歌を歌います。
  また、今はやりのゲーム(ニンテンドースイッチ)や色々なボード
  ゲームもあるヨ!
  待望の卓球台が来ました! みんなで卓球をしよう!
  卓球マシーンもあるよ
  くせになる楽しさです。

牧師からのコメント
「聖書に興味のある方は、是非、気軽にお越しください。
                   共に学んでまいりましょう。」

今週のメッセージ (No.156)  毎週更新

使徒信条⑨:死から命へ』    詩篇16:9~11
 今日は使徒信条の中の「死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり」についてお話しします。「陰府にくだり」という文章は、今まで多くの論争を起こしました。イエス様が私達人間の罪を背負われ、私達が受けるべき処罰を十字架の死で代わりに受けられたということは、クリスチャンなら誰でも認める事ですが、イエス様が死なれた後、地獄にまで下られたということは、受け入れがたいからです。本当にイエス様が死なれた後に行かれたよみは、地獄なのでしょうか? 私達が考える地獄は、死者が最終的に審判と処罰を受ける所です。このような概念の地獄は、ヘブライ語ではヒンノムで、ギリシャ語でゲヘナです。しかし新約聖書が、イエス様の死後に行かれた場所について話す時に使った言葉はゲヘナではありません。使徒2:27「あなたは、私のたましいをよみに捨て置かず、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」このみ言葉は、ペテロがペンテコステの時にした説教の一部です。ペテロは、ダビデが書いた詩篇16篇を引用して、これはイエス様が十字架で死なれた後に経験されたことを示していると教えました。 イエス様が死なれた後、イエス様の魂はよみに行かれましたが、父なる神様はイエス様をよみに放っておかれず、救われたということです。
 ここでよみと訳された言葉が地獄を意味するならば、ギリシャ語のゲヘナでなければなりません。しかしここで使われた言葉は「ゲヘナ」ではなく「ハデス」です。ハデスは地獄ではなく、死の領域を意味します。イエス様がよみ、すなわち死の領域に下られたというのは、イエス様は本当に死なれたということです。先週説教でお話しした通り、 使徒信条はイエス様の死が偽りだと教える異端の攻撃から、信仰を守るために作られました。それで使徒信条は「キリストが死なれた」と単純に表現するのではなく、具体的に描写したのです。イエス様は十字架の上で死なれ、葬られ、3日目まで死の領域に下られたと詳しく表現することで、イエス様の死は歴史の中で本当に起きた事実だと強調したのです。イエス様が私達と同じ人間となられ、死なれたことが事実なら、それは私達と何の関係があるでしょうか?この本文で、ペテロが引用した詩篇16:9~10節「それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。」この詩篇の著者であるダビデは、自分の内面に喜びと安らぎがあふれていると告白します。その理由は何ですか? 自分が死んでも、神様は自分を死の領域に放っておかれず、死が自分の生命を飲み込まないよう守って下さるからです。これはイエス様を通して証明されました。イエス様は私達の罪を背負って死なれましたが、御父は御子イエス様を死の領域に見捨てられず、よみがえさせられました。復活して、死に勝利するようにされました。このようなイエス様のご経験は、いつか経験する私達自身の現実になるということです。
 死とは、何でしょうか? 一般的に死とは命がなくなること、命が絶たれることを意味します。死は私達の命を飲み込んでしまう、残酷な現実です。しかしイエス様は、死の世界に閉じ込められることなく復活されたので、私達にとって死は、これ以上、今まで私達が知っていた死ではないのです。イエス·キリストの中で、死はもう命の終わりではなく、逆に永遠の命に向かう入口であり、罪の影響から離れる瞬間です。 死は、もう神様の愛の中にいる私達を飲み込むことができません。このように死は、イエス·キリストの中で新しく定義された現実なのです。
死に対するこのようなクリスチャンの態度は、初代教会の時から他の人々と大きく異なっていました。初代教会も、今日の墓前礼拝のように墓地の前に集まって祈りを捧げました。このようなクリスチャンの行動は、当時ローマ帝国に住んでいた人々に、非常に衝撃的でした。ローマの法によると、死者は村から数キロ以上離れた場所に埋葬しなければならなかったからです。なぜなら死んだ人の存在は、生きている
人々を汚すと考えたからです。しかしこのようなローマ帝国の常識とは異なり、初代教会の信徒たちは葬儀の中で亡くなった兄弟姉妹を愛をもって見つめたり、優勝トロフィーを持って走り回るサッカー選手のように、殉教者の遺体を担いで行進したり、さらには教会の建物を、殉教者が埋葬された場所の真上に建てたりもしました。初代教会の信徒達は、お墓を死の勢力に支配されている闇の場所ではなく、永遠の命への入り口だと見たのです。それで彼らはお墓を汚れた場所ではなく、聖なる礼拝の場所として考えました。
 イエス·キリストを 信じる者達にとっては、埋葬ではなく、それは蒔かれることです。なぜなら私達は死んで葬られますが、救い主イエス·キリストの中で、美しく咲いていく花のように、美しい復活の実として結ばれるからです。使徒パウロも、こう言いました。Ⅰコリント15:42〜44「死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。」パウロが教えるように、クリスチャンにとってお墓は、死者を廃棄する絶望の場所ではなく、復活の種を植える希望の場所なのです。私達を死の領域から救いだし、生命へと導かれるキリストの中で、死はすでに克服され征服された新しい現実です。したがって、私達は目に見える現実の重さに屈せず、イエス·キリストの復活の福音で世界を新しく見て、人生を新しく生きなければなりません。復活の希望にすべてを託し、神様が喜ばれる道のりを歩みましょう。死に打ち勝つ驚くべき喜びと安らぎが、私達と永遠に共にあるのです。

新着情報

2020/3/20
  今週のメッセージNo.156と大学生への案内を更新しました
2020/3/3
  今週のメッセージNo.155とイベントの計画を更新しました
2020/2/26
  今週のメッセージNo.154を更新しました
2020/2/16
  今週のメッセージNo.153を更新しました
2020/2/11
  今週のメッセージNo.152を更新しました