2020年6月28日

マタイの福音書5:3-12

「神様を見る清い心」

イエス様が教えられた6つ目の幸いな者について、見てみましょう。8節「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。」

イエス様は、心のきよい者は幸いだと言いました。まず、心とは何でしょうか?私達は、おもに心を感情として考え、また時には他人への態度だと考えることもあります。しかし聖書のいう心は、このような概念よりも、はるかに大きいものです。心は、人間の内面全体を含むのです。感情・知性・意志などは、心という大きな概念の一部分なのです。それでは、心がきよいというのは、どういう意味でしょうか?イエス様が教えられたきよい心の一つ目の意味は、表に現われるきよさだけでは十分ではなく、必ず内面のきよさを、備えなければならないということです。当時、蔓延していたユダヤ人の文化では、表面と内面のうち、表面により多くの重点が置かれました。例えばミッシュというユダヤ人の法典を見ると、きよさに関する章がありますが、心のきよさではなく、神殿・テント・礼拝道具などをきれいに守るための扱い方について、200ページ以上も書かれています。それだけでなく、ユダヤ人の律法と伝統は、心のきよさよりも、儀式的なきよさをどのように保つかに焦点を置きました。しかしイエス様は、反対に神の御国では、心のきよさが重視される国であることを強調されたのです。

今度は、心のきよさが持つ2つ目の意味について、見てみましょう。イエス様が教えられたきよい心は、神様への分かれることのないまっすぐな心なのです。心のきよさは、霊的な視力と比例します。私達の心が神様に集中すればするほど、神様は近くに、より鮮明に感じられます。しかし反対に私達が、自分の心を神様以外のものに分ければ分けるほど、世の中の波風はますます大きくて危険に見える反面、神様はますます自分と距離がある、抽象的な存在に感じられるでしょう。頭では神様がどんな方かを知っていながらも、神様が生きておられることが生き生きと感じられないため、根本的に、世俗的な手段に頼るようになります。また適当な信仰と最小限の信仰生活が、賢明な生き方だと判断するようになります。

しかし感謝なことに、信仰の中でイエス・キリストが、私達の罪を代わりに背負われた救いの働きは私達がしたことになり、イエス・キリストが着られた衣は罪人だった私達に着せられました。神様はイエス・キリストの中で、私達を罪人ではなくご自分の子供とされたということです。私達がイエス・キリストを信じて変わったのは、「神の子供になった」という身分の変化だけではありません。神の子供という身分とともに、与えられる恵みがあります。どんな恵みか、確かめてみましょう。第Ⅰヨハネ3:2-3「2 愛する者たち、私達は今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私達は、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。3 キリストにこの望みを置いている者はみな、キリストが清い方であるように、自分を清くします。」

3節によると、神様の子供となった者には、心が清いイエス様にしたがって、私達の心も清くなっていく聖化の恵みが与えられたということです。この聖化の恵みに自分を委ねると、必ず驚くべき変化が起こります。美しい自然を見ると、この偉大な作品を造られた神様の存在が感じられるようになるのです。そして、深く感動します。些細なことが当然のことではなく、神様がしてくださった特別な祝福として感じるようになります。そして、感謝することが多くなります。試練があっても、自分を助けて下さった神様との記憶が浮かび上がり、最後は良い方向に終わるのだという、前向きな思いを持つようになります。み言葉が各状況ごとに、心に浮かぶようになります。そしてそのみ言葉が、神様の御心が何なのかを伝える神様の御声のように感じられます。神様以外のところに散らばった心の彫刻を神様に戻せば、まるで神様を視覚的に見ているように、生きることができるのです。

もちろん、私達が生きている間は、私達の心は完全にきよくなりません。そして私達が神様を見て感じるには、明らかに限界があります。なぜなら、神様の救いはすでに始まりましたが、まだ完成に至っていないからです。しかし神様の決めた時に必ず救いは完成し、私達は神様をありのままに見るようになるでしょう。2節によると、キリストに似る私達の聖化が完成すると共に、私達はキリストをどのように見るようになるでしょうか?「ありのままに」です。イエス・キリストは、私達のような完全な人間であると同時に、完全な神様です。イエス様を「ありのままに」見るということは、人間の体を持っておられるイエス様の人性だけでなく、イエス様の神聖も見るということです。これは目で見るのとは、まったく違う次元の経験です。人が目で見るのは直接見るのではなく、間接的にいろんな経路(光網膜視神経脳)を通して見るのです。ですから同じ物体でも、状況によって姿が変化して見えたり、ゆがんで見えたりします。私達の見方は、あまりにも不完全なものなのです。

しかし神様の救いが完成し私達の心が完全にきよくなると、私達はこのような経路を通さずに、イエス様を見るようになります。完全な人間であり、完全な神様であるイエス様を、直接見るのです。私達が見たことのない、たくさんのものを見ることになるでしょう。私達が感じることができなかった多くのことを、感じるようになるでしょう。私達が知らなかった、多くのことを知るようになるでしょう。そして私達は神様の大きくて驚くべき愛と全能さに、驚異と喜びと感謝を感じるようになるでしょう。私達の心をきよくして下さる、神様の恵みを信頼しましょう。神様以外のものに奪われた自分の心の破片を集めて、ただ神様にだけささげましょう。肉体の視覚を越える、信仰の視覚が与えられるでしょう。

2020年6月21日

マタイの福音書5:3-12

「八福の教え⑥:あわれみの通路となる」              

 イエス様が教えられた5番目の幸いな者について見てみましょう。7節「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。」

イエス様が教えられた幸いは、あわれみと深い関連があります。まずあわれみとは、何でしょうか?あわれみの意味をよく表している有名な話が、第一列王記3章の中にあります。ソロモン王が下した、知恵の判決についてです。二人の女性が一人の赤ちゃんを連れて、ソロモン王の所に来ました。二人の女性は、互いにその赤ちゃんが自分の子供だと言い張って争っていました。そこでソロモン王は、剣を持ってくるように命じました。家来が剣を持ってくると、こう言いました。「その剣で赤ちゃんを2つに切り分け、2人の女性に半分ずつ分けて与えなさい。」この言葉を聞くと、二人の女性は全く異なる反応を見せました。一人は、たとえ赤ちゃんをあげるとしても、その赤ちゃんを生かそうとし、もう一人は赤ちゃんが死んでも、公平に半分ずつ分けようとしました。どちらが本当の母親でしょうか?当然、赤ちゃんを生かそうとした女性です。危機に陥った子供を見た母親の心を、聖書はこのように言います。

「哀れに思って胸が熱くなり」第一列王記3:26

苦しむ子供を見て、心の痛みを感じる母の心が、あわれみと訳されたヘブライ語ラキムが持つ意味です。ラキムは母の胎、子宮という言葉から生まれました。「母が自分の胎で育てた子供に感じる気持ち」という意味があります。このような意味で、あわれみとは、痛がる子供をあわれに思って、胸が熱くなる母の心のように、痛がる他人に向かって感じる強烈なあわれみの心なのです。

新約聖書の著者達はあわれみを示して、ギリシャ語のエレオスまたはスパンクノンを使いましたが、スパンクノンは「内臓」という言葉から生まれました。日本にも断腸の思いという表現があります。苦しんでいる他人を見て、内臓が裂けるような心の痛みを感じるのが、あわれみだということです。このようにあわれみは、子供への母親の心のように、内臓が裂ける苦痛のように、他人の痛みへの強烈な共感であり、積極的な参加なのです。イエス様は苦しむ他の人々に対して、このようなあわれみの心を持つ人が、本当に幸いな者だと教えられました。なぜならあわれみを施す人は、自分も誰かにあわれみをもらっているからです。神の国では、あわれみを交わすことが幸いなのです。

しかし、今私達が生きている世界は、どうでしょうか?あわれみを交わすことが、幸いだと考えられているでしょうか。多くの場合、そうではありません。自分が余裕のある時に、他人にあわれみを施すことは幸いだと思うかもしれませんが、自分があわれみの対象になることは、望んではいないのです。誰かからあわれみを受けるということは、自分で解決する能力が足りないという意味だからです。ですから私達は、あわれみの対象となることを恥と考え、特に日本の社会では、あわれみは受けても必ず返して、その恥をなくさなければならない負担として考えられています。このような認識が、自分が他人にあわれみを施すことにも、大きな影響を及ぼします。あわれみは他の人に、恥や負担を与えます。相手が感謝するのではなく、むしろ不快感を感じるかもしれません。しかし人々があわれみを施すことをためらう、より大きな理由があります。相手のために施す、時間・お金・感情・エネルギーの余裕がないということです。そういう余裕があっても、他人よりも自分のために備えようとしやすいのです。ですから他人の苦痛に対して、関心よりは無関心、共感よりは淡々としやすいのです。この世界では、あわれみを交わすことが幸いではなく、あわれみを受けず、また与えもしないことが、賢明な生き方だとされているのです。

あわれみに粗末なのは今日だけでなく、イエス様の時代も同じでした。あわれみを強調する、律法を信じていたユダヤ人社会でも、あわれみは疎かに思われました。善きサマリア人の話に、当時の状況が反映されています。あるユダヤ人男性が、道を歩いている途中で、強盗にあいました。強盗は彼の持ち物すべてを奪い、半殺しにしました。彼が道の上で倒れていると、何人かがそこを通りかかり、彼を見ました。最初に彼を見たのは祭司で、次に見た人はレビ人でした。祭司とレビ人は、倒れているその人と、できる限り距離を置きながら、そのまま通り過ぎてしまったのです。祭司とレビ人が去った後、三人目がそこを通り過ぎました。その人は、サマリア人でした。33節「ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。」

イエス様は、サマリア人が祭司とレビ人とは、まったく異なる気持ちを感じたとおっしゃいました。それはどんな気持ちだったのでしょうか?「かわいそうに思った。」

ここで書かれたギリシャ語は、上にあるような断腸の思い、内臓が裂けるような心を意味します。祭司とレビ人の心には、倒れている男を見て「あの男によって、自分が被害を受けるのではないか」という利己心と恐怖が、充満したのです。その心は、同じユダヤ人としての同質感を圧倒し、倒れたその人を見捨てるようにしました。しかしサマリア人は違っていました。かわいそうなその人を見て、まるで内臓が裂けるように、心が痛かったのです。そしてその心は、相手がユダヤ人だという異質感と敵対感を圧倒し、その人を助けるようにしました。サマリア人は傷の応急処置し、その男を宿屋に連れて行って面倒を見て、必要なすべての費用を肩代わりしました。

イエス様はこの話を終えて、その律法の専門家に尋ねました。「この三人の中でだれが、強盗に襲った人の隣人になったと思いますか。」律法の専門家が答えました。

「その人にあわれみ深い行いをした人です。」あわれみと呼ばれるその善良な心が、彼を善良な行いに導いたのです。

イエス様は、私達にも尋ねられます。「祭司、レビ人、そしてサマリア人の3人の中で、あなたはどこにいるのか」「苦しんでいる人々にとって、あなたは隣人になったのか?」 今日の個人主義的な文化の中で、多くの教会はあわれみに欠けた姿で、存在している場合が多いです。自分の時間・お金・感情・エネルギーが、ただ自分と自分の家族のためにだけ使われます。その枠の外にいる誰かに関心を持って、また関心を受けることが不便に感じます。あわれみを施し、また自分が受けるよりもあわれみを与えずに、また受けることもしない方が、はるかに楽で魅力的に感じられるのです。自分の内面では、利己心があわれみを圧倒しているのです。あわれみがなくなれば、苦しむ誰かを目の当たりにしても、自分の心には内臓が裂けるような痛みはなく、我慢して無視できるほど鈍感になるはずです。もっと怖いのは、自分は誰とも隣人になっていないことに気づかないまま、他人とは違う自分の姿により愛着を持ち、他人にはない聖さが、自分にはあると錯覚することです。

神の御国では、あわれみは選択ではありません。あわれみは、その御国の王である、神様の本質なのです。神様は無限の愛を持って、世界のすべてを創造されました。神様の意図通り、世界のすべてが平和の中で存在していました。しかし世界は、神様の御心に抵抗する、人間の罪によって壊れてしまいました。私達人間は、他人の傷と痛みに無関心のまま、利己的に生きてきました。それにより人が傷つき、自然が傷つきました。暗い罪が全世界を覆い、すべてのものが死の力に縛られることになりました。しかし神様は、罪にさいなまれるこの世界の苦しみを、無視されませんでした。ご自分が愛する被造物が、みじめに崩れた姿を見て、神様は子供への母親の心と、まるで内臓が裂けるような痛みを感じられました。その溢れるあわれみが、神様が御子イエス様を世界に送り込まれた、原動力となったのです。そして私達をあわれむそのあわれみの中で、イエス様は私達と同じ人間となられ、私達の苦しみに完全に共感され、私達の罪を背負って死んで下さったのです。教会はイエス・キリストが成就された、神様のあわれみによって生まれた、あわれみの共同体です。私達は、そのあわれみによって教会の一部になった、神様の子供です。神様の本質があわれみであるように、私達の存在の本質は、あわれみであるのです。そして私達は、神様から受けたあわれみを、今この瞬間、苦しんでいる自分の隣人に流す、あわれみの通路にならなければならないのです。自分が受けたそのあわれみの価値を知り、感謝の心で、そのあわれみを実践しようとする時、他人の痛みを、自分の痛みのように感じる霊的な共感力と、他人を助けるためにその状況に飛び込もうとする勇気が、私達に与えられるでしょう。

2020年6月14日

マタイの福音書5:3-12

「八福の教え⑤:義の源」

イエス様が教えられた4番目の幸いな者について見てみましょう。6節「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」イエス様は、義に飢え渇く者は、満ち足りるとおっしゃいました。義に飢え渇くとは、どういう意味でしょうか?これまで長期間飲まず食わずで、飢えたことがありますか?一食でも抜くと力がなくなり、神経が過敏になるのを感じます。飢えが続くと無気力になり、精神が乱れて何もできなくなります。倫理的に何が正しいか否かを判断する余力もなくなり、他人の物を盗んで奪ってでも、何か食べたいという気持ちが心を支配します。飲食は人間の基本的な欲求です。この欲求が満たされないと、人は正常な生活ができなくなるのです。このように人間にとって神様との関係は、食事のように必ず満たされるべき基本的な欲求でした。創世記の1章から3章に出てくるエデンの園の物語は、神様との関係という人間の基本的な欲求を表します。エデンの園は、天におられる神様が地上に住まわれる、神様の家でした。アダムとエバがエデンの園に住むこと自体、神様と正しい関係にいなければ不可能なことでした。それで神様は、エデンの園のすべての実を許され、善悪を知る知識の木の実は禁止されたのです。人間にとって飲食することよりもっと大切なのは、創造主神様との正しい関係だからでした。そのためアダムとエバは、神様との深い関係を追求する欲求を持って生まれたのです。

アダムとエバが、神様との関係を求めたことを示す聖書箇所があります。創世記3:8

「そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した。」

この節は、アダムとエバが罪を犯した後の話です。アダムとエバは、誰かがエデンの園を歩き回る音だけを聞いて、それが神様だと知りました。なぜならアダムとエバは、以前からエデンの園を歩き回られる神様に会い、頻繁に交わりをしてきたからです。神様が歩き回られるというのは、面白い表現ですね。なぜなら霊である神様は、体がないため、歩かないからです。歩き回られると訳されたヘブライ語の言葉は、神様が幕屋に入られる際に用いられた言葉です。幕屋は、どんな所でしょうか。神様が臨在され、人間を代表する大祭司と会う所です。大祭司が定期的に幕屋の中で神様に礼拝を捧げたように、アダムとエバもエデンの園で定期的に神様に会い、深い関係を結んできたのです。このような神様との関係の中で、アダムとエバはエデンの園の豊かな生活を満喫できたのです。同じように、人間は神様との関係を追求する欲求を持って生まれ、その欲求が満たされてのみ、本当に満足できる人生を送ることができるのです。しかしアダムとエバが罪を犯し、神様との関係が壊れると、人間は自分のその欲求を満たせなくなりました。神様との関係だけで満たされるその欲求を、神様ではない他のものを通して満たそうとするからです。しかしその欲求は、絶対に満たされることはありません。

これと似たような現象を、私達人間の食欲を通して見ることができます。今日は昔に比べて、食べ物が豊富になりました。しかし近頃の人々は、食べたいという欲求に満足しているでしょうか?違います。最近テレビやYoutubeを見ると、食べる番組であふれています。食べ物は豊かになりましたが、逆に食べ物への関心が高くなりました。すでに十分なカロリーと栄養を摂っていますが、人間の食欲はそれで満足できず、それ以上の食べ物を求めています。また私達が美味しく感じる多くの食べ物は、体には悪い場合が多いです。人間が感じる欲求は、自分に本当に必要なものを見つけるように、正しく導かないことが非常に多いのです。霊的な欲求も同じです。罪によって壊れた人間の霊的な欲求は、時には自分自身に不必要なものを追求するように導きます。罪によって壊れた私達の霊的欲求が回復できなければ、私達は自分にとって本当に必要なもの、自分を本当に満足させるものを見つけることはできないのです。

イエス様は、義に飢える人は満たされると言いました。義とは何でしょうか?一般的には、義を倫理的な面で理解しようとします。義人とは、倫理的に正しい行動をする人だと思います。しかし聖書の教える義は、もちろん倫理とつながっていますが、倫理よりは関係から始まります。例えば、夫にとっての義は何でしょう? 夫の義は妻との関係から始まります。一生、妻だけを愛するという約束と共に、配偶者としての関係を結びます。夫は妻との関係を保つ中で、独身だった時とは異なる基準を持って生きます。独身だった時とは違う姿で、他人と人間関係を結びます。他の基準でお金や時間を使います。妻との関係から、夫の正しい倫理が生まれるのです。私達の義も同様に、神様との関係から始まります。罪によって壊れた私達の霊的な欲求は、神様ではない他のものを探すようにと誘惑します。永遠で根本的な満足ではなく、一時的で浅い満足を追求するように、誤った導きます。これにより私達自らの力では、決して神様との関係を回復し、義人にはなれません。しかしイエス様は、これほど悲惨な私達人間を、お見捨てになりませんでした。神様ではない他のものを捜しながら生きる私達のすべての罪を、背負われました。そしてご自分の死と復活を通して、ご自分の義を私達に与えて下さいました。そしてイエス様が与えて下さったその義を通して、神様は私達をご自分の子供として受け入れてくださいました。私達と神様との関係が、回復されたのです。

イエス様は、私達と神様との関係を回復させ、私達を満足させてくださる義の源です。イエス様はこうおっしゃいました。ヨハネ6:36

「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」

イエス・キリストの中で、私達の霊的な食欲は、また神様に向かうことになりました。神様との関係を深く体験するようになると、他のことはつまらなくなります。神様と関係ないものには、関心がなくなるのです。神様をもっと知りたくなり、もっと身近に感じたくなり、深く愛したくなります。それにより、み言葉と祈りと交わりがもっと楽しくなるのです。私達が神様との関係に飢えるようにと、聖霊が私達を導いて下さるからです。あなたは今、日常の中でこのような体験をしていますか?このような人生を生きられる恵みが、もう私達に与えられたことを信じて下さい。その恵みに信頼し、神様への深い交わりをさらに渇望しましょう。世界が与えることのできない満足感が、私達を満たすでしょう。安らぎと感謝と喜びで、私達自身を満足させるでしょう。

 

2020年6月7日

マタイの福音書5:1~12

「八福の教え④: 本当の強さ」

3つ目の幸いな者:マタイ5:5「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」おそらく5節の後半、「その人たちは地を受け継ぐからです。」これは多くの人々に愛されるでしょう。もし誰かが、あなたに無料で土地をくれるとするなら、それを遠慮する人はいるでしょうか?バブル崩壊以降、土地の人気は下がりましたが、今も土地は最も魅力的な資産の1つです。そこに何かを植えることもでき、ビジネスもでき、また他人にただ貸すだけで収入を得ることができます。ですのでこれまでの歴史において、人々はより多くの地を占めるために激しく戦ってきたのです。この5節後半は受け入れやすいですが、問題は前半部分です。5節前半によると、どのような人が地を受け継ぎますか?「柔和な者」です。現実を見ると、本当にそうでしょうか。柔和な者が土地を所有するでしょうか。いいえ、違います。普段は柔和なように振舞っても、自分の利益がかかった決定的な状況では絶対に退かず、どうしても自分の望むものを他人に強要させる強い者が地を所有します。それでは、イエス様がおっしゃった柔和とは、どんな意味なのでしょうか。

詩篇37:11「しかし柔和な人は地を受け継ぎ豊かな繁栄を自らの喜びとする。」イエス様がおっしゃったマタイ5:5と非常に似ていますね。イエス様は詩篇37篇を引用されたか、少なくともこの内容を反映しておっしゃったのです。したがって、イエス様がおっしゃった柔和の意味を理解するためには、必ず詩篇37篇をよく見なければなりません。この中で、最も多く繰り返されるキーワードを探してみましょう。どんな言葉がよく繰り返えされていますか?1つ目は「悪」です。詩篇37篇が描写する現実の世界は、善良な人や神様の御言葉とおりに生きる人が必ず成功する所、自分の生き方への確かな補償が与えられる所ではありません。またこの世界は、善良な人は最後ハッピーエンドを迎え、悪い人は罪の代価を払う童話とは違います。もちろん人間を善い人・悪い人、この2つで分けることはできません。しかしこの世界では、不義を犯す人々の中で、あまりにも多くの者が成功し、多くのものを受ける反面、善良な生き方を選ぶ人々の中で、多くの人が失敗し、多くのものを奪われることを見ます。利己的で悪い人々の所有は益々増え、欲を捨てて愛と配慮を選ぶ人々は益々失っていく世界なのです。まるで神様が存在しないかのように、または神様がこの世界を捨てたかのように、私達が経験する現実は、神様の御言葉とすれ違うように見えます。

詩篇37篇の中で、悪以外によく繰り返される言葉は何ですか。「主」です。そしてこれと共に、「信頼」に関連した言葉が何回も使われています。主を信頼すること、これが詩篇37篇が教える最も重要なテーマです。強い者達を中心に動くようなこの世界は、神様の御言葉と矛盾しているように見えます。しかしそれにもかかわらず、神様を信頼し、神様の御心に従って生きることが、詩篇37篇が教える柔和です。目に見える現実の前に謙遜になるのではなく、神様の御前で謙遜になる者が、イエス様が教えられた柔和な生き方なのです。神様であるイエス様は、天の王座を自ら捨てられ、私達のよう卑しい人間となられました。そして神様の御心に従われました。しかしイエス様が経験された現実は、決して甘くはありませんでした。宗教指導者達は、イエス様を神聖冒涜者として濡れ衣を着せて殺そうとし、一般的なユダヤ人達も、ナザレという疏外された村の出身であるイエス様を無視しました。もちろんイエス様の非凡さを知って、一時期イエス様に従った弟子達のような人々もいました。しかしイエス様はその非凡ささえお捨てになり、強い人々に捕まり、嘲弄され、あらゆる拷問を受けられました。このような残酷な現実の前に、弟子達すらイエス様を捨ててしまったのです。

イエス様は全能の神様だから、そのような状況を容易に忍耐されたと思ってはなりません。神様としての特権を置かれたイエス様は、私達のようなか弱い人間だったのです。イエス様にとっても、そのような現実は苦しく、また怖いものでした。ですので十字架にかかられる前夜、イエス様は兵士につかまる前、とても辛く死にそうなお気持ちになられました。そして弟子達に、自分のために一緒に祈ってほしいと哀願されました。血のしずくのような汗を流しながら、イエス様はひどい恐れの中で祈りました。なぜイエス様は、このような苦難をすでに知っていたにもかかわらず、十字架の道を選ばれたのでしょうか? イエス様の祈りの中に、その答えがあります。マタイ26:39後半です。

「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」

イエス様は、父なる神様が何を願われるのかをご存知でした。ご自分が造られた被造物を愛される父なる神様は、私達人間の罪によって破壊したこの世界の悲惨な運命を、悲しみました。それで世界を死から救うためにご自分の御子を送り、すべての罪を背負うようにされました。あまりにも無謀に見える計画でしたが、イエス様は父なる神様を信頼され、十字架の道を歩まれました。ご自分がひざまずくべき対象を正確に知っておられたからです。イエス様が服従された対象は、この壊れた世界の現実でも、ご自分の安全や成功でもなく、ただ父なる神様の御心でした。イエス様が背負われた十字架こそ、イエス様の柔和が結んだ最も尊い実なのです。

イエス様を礼拝する私達は、柔和な者でしょうか? この世界の現実の前で、私達はどのように反応していますか。神様でさえも、この現実から私達を守ることができなさそうでしょうか? 神様は、私達が迎える苦難に関心なく、放っておきそうですか? 学校に通う子供たちは、誰かが友達からいじめられている時、それが正しくないと知りながら、そのいじめに参加することがあります。社会人生活をしている大人も、職場で起きている不条理を知りながら、その不条理に参加することがあります。誰でもそれぞれ難しい現実を経験して葛藤します。そして何にひざまずくかを、選ばなければなりません。自分がひざまずく対象が、自分が今一番信頼しているものです。その対象が現実であれば、私達の現実を乗り越えていく自分の知恵を、最も信頼しているのです。そしてその誤った信頼が、私達自身をいかなる形であれ、必ず悪の活動に参加させるでしょう。では私達が柔和な者になることは、不可能なのでしょうか? 現実とは程遠い、理想に過ぎないのでしょうか? 違います可能か不可能かは、私達自身を見て判断しないで下さい。八福の教えは、自分が持つ能力についてのものではありません。八福の教えは、恵みによってすでに神様の御国に属した私達に与えられた、祝福についてのことなのです。イエス様は柔和についてこうおっしゃいました。マタイ11:29

「わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。」

イエス様は、私達に自らの力で、柔和になりなさいとはおっしゃいませんでした。柔和なイエス様と共に十字架を背負い、イエス様から学ぶように言われました。イエス様との深い交わりの中で、柔和を学んでください。神様は、本当に生きておられるという霊的な現実感覚を、私達に与えられるのです。神様は必ずこの世界の矛盾をなくし、ご自分の御心を成就されるのだという深い信仰を与えられるでしょう。今は、柔和の福音が特に重要な時期です。コロナウイルスの問題で世界中がますます暗く、恐ろしくなるからです。このような危機の中で、人々は利己的にでも、自分を守らなければならないのが現実だという誘惑の声を聞くでしょう。そして、自分がひざまずく対象を選ばなければならないでしょう。どのような現実の中にあっても、神様に自分の最も大きな信頼を捧げる私達になることを願います。人々の無関心と利己心の中で、惨めに犠牲になっている隣人を覚え、祈り、愛を与える中で、柔和についての福音を世界に現わす私達になることを願います。損をするかもしれません。何かを失うかも知れません。何の補償もないかもしれません。しかし、イエス様は約束されます。この小さな地ではなく、新しい天と新しい地、すべてを柔和な者に与えられるということです。柔和な者は、決して弱くありません。その柔和さこそ、この暗い世界を照らす本当の強さなのです。

2020年5月31日

使徒の働き2:1-2

「理解し合う共同体」

皆さん、ペンテコステ おめでとうございます。 今日は約2000年前にイエス様に従う人々が集まり、共に祈っていた時、聖霊様が来てくださったことを記念する日です。イエス様が昇天された後の五旬節の日に、 弟子たちみんなは、同じ場所に集まって祈っていました. その時、聖霊が弟子たちに下られました。 すると彼らは、急に自分の言語ではなく、全く知らない他の地域の言語で話し始めました。 みんなガリラヤ出身でしたが、それぞれ違う地域の言語で福音を語りはじめました。 しかし、驚くべきことは、皆がお互いを完全に理解したということです。 互いにそれぞれ異なる言語で話しましたが、聖霊の中で、他人と自分の違いは関係の壁ではなく、むしろお互いを豊かに満たす、美しい調和になったのです。 私たち人間がバベルの塔を築いたときは、他人と自分の違いによってお互いを理解できずに、分裂しましたが、聖霊が下られると、互いへの理解が充満し、あらゆる関係の壁が崩れてしまったのです。

この意味で、Peter Gomesというアメリカの牧師は次のように語りました。 “ペンテコステの贈り物は、理解の賜物です。” 今日の社会は、多様性が重視されている社会ですが、人々はまだ自分とは違う他人を警戒します。 他人から自分を守るために、壁を立てます。 しかしキリストに従う者たちに与えられる、聖霊の贈り物は、理解の賜物です。 聖霊が臨在される教会という共同体の中で、相手が自分と違うということは、自分にはない賜物がその人にあるということです。 その人の持つ賜物は、劣等感を感じたり警戒する対象ではなく、尊重して祝福する対象です。 なぜなら、その人の賜物が自分の足りない部分を豊かに満たすからです。 また、反対に相手にない自分の賜物がその人を豊かに満たすのです。 聖霊が与えて下さる理解の賜物の中でのみ、人々の多様性は人間の利己心を克服し、調和の共同体を生み出すことができるのです。

特に理解の賜物は、今コロナの危機に見舞われている私達が大切にすべき、教会の霊的な資産です。最近、メディアにはポストコロナ時代にどのような変化が起こるかについて、多く話されています。 その中で、最も多く取り上げられる変化の1つは、社会的距離を置くことによって、人々の個人主義が強まり、オンライン·デジタル社会が加速するということです。 キリスト教のメディアは、ポストコロナ時代にクリスチャンたちが注意すべき2つのことを言いますが、一つは信徒が共に集まってささげられる礼拝をおろそかにすること、第二に共同体の交わりを避けることです。 簡単に言えば、共同体性が弱まらないように気を付けるべきだということです。共同体性のない教会は、本当の教会ではありません。 イエス様は、最も重要な戒めについてこうおっしゃいました。 マタイ福音22章37節から40節です。

イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」

イエス様は、神様を愛することと同様に重要なことは、自分の隣人を愛することだと教えられました。 神様を愛することと、隣人を愛することは互いにつながっています。 自分の隣、すなわち共同体を遠ざけながら、神様を愛することはあり得ないことです。 自分の兄弟姉妹ともっと深い関係を持ち、より多く愛すれば愛するほど、神様への愛も深まるのです。理解の賜物は、私たちがお互いに愛して、一つになれるようにと、聖霊さまから贈られたプレゼントです。 もちろん、まだ完成段階に至っていない教会の中には、葛藤と分裂が存在します。 時には誰かのせいで傷ついて、心の痛みを感じたりもします。 しかし、そのような危機が自分の信仰生活を揺るがそうとする時、自分の中におられる聖霊様の存在を覚えてください。 聖霊様がくださる理解の賜物を持って、その人の弱さを理解し、また自分も弱い存在に過ぎないことを理解してください。 そうした理解を持って兄弟姉妹との交わりに忠実に取り組む中で、愛は憎みに勝つでしょう。 その愛は分裂ではなく、調和の実を結ぶのです。

ペンテコステは、五旬節の日に起きました。 五旬節というのは、最初の実を収穫して捧げる感謝の時期です。 聖霊が来られたのは、イエス様が行なったすべての救いの働きが結んだ実が、収穫され始めたということです。 聖霊様が下さったこの理解の賜物は、そのような大切な実の一つなのです。 教会は理解の賜物を活用して互いに一つになり、イエス様が治められる神の御国を世界に見せる共同体です。 共同体性を失いつつあるコロナ時代に、教会は一つになることで、福音が何かを示す証の共同体となるべきです。

2020年5月24日

マタイの福音書5:3-14

「八福の教え③:悲しみと幸い」

今日は、イエス様が教えられた2番目の幸いな人について学びます。 4節です。

「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。」

イエス様は悲しむ者は、幸いだと言いました。 なんだか矛盾していませんか? 一般的な常識では、悲しむ人ではなく、笑う人が幸いな人であるからです。悲しむことは、自分が直面している今の現実に対して、自分は弱いことを認める行為です。 私たち人間の社会では、自分の弱さに対して率直になることはとても難しいです。 その素直さが、慰めと励ましで戻ってくることもありますが、他人から辛辣な指摘をされ、無視され、利用されることもあります。 それで、私達の熾烈な競争社会では、できる限り自分の弱さを隠して、強さを出すのことが、多くの人々が共有している生存の知恵です。この様に、私たち人間の社会では、自分の強さは極大化し、弱さは隠すことが重要視されます。 しかし、神様が治められる国は違います。 イエス様は反対に、自分が持っている弱さについて、率直に悲しむことが幸いな人が生きる姿だと教えて下さいました。

神の御国の幸いな人は、自分のどんな弱さを悲しむのでしょうか。 一つ目に、自分の罪に対して悲しみます。 私たち人間は、普通他の人の罪に関しては、積極的になります。 しかし、自分の罪には消極的に見ようとします。 幼い子どもの行動を見ると、このような傾向を、簡単に見ることができます。私達人間は、子供の頃の自分の行動への親の反応を見て、何が正しいのかを学びます。 親は普段は、自分がやっていることを全て受け入れますが、何か特定な行動をした時に否定的な反応をすると、その拒絶感から子どもは、自分のその行動が間違っていることに気づきます。 親の態度と言葉が何を意味するのかを理解するようになり、自分がしたその行動がなぜ間違っているのか、その理由を学びます。 そして二度とそんな行動をしないと、親と約束します。 子供たちはその約束をよく守るのでしょうか。 違います 子どもたちは、親が自分を見ている時と見ていない時を区別し、状況によってその約束を守ったり、破ったりします。 誰かが教えてくれなかったにもかかわらず、自分の罪に対して消極的になる方法を自ら学びます。私たち人間は大人になってからも、依然として自分の罪には、消極的です。 他人の目のあるところとないところを区別し、状況によって倫理的に異なる姿を見せます。 他人に自分の過ちが知られると、ひどい羞恥心を感じますが、自分の過ちを誰も知らない状況では、自分に対して非常に寛大になります。 自分の行動が誰かに直接被害を与えたり指摘されない限り、自分の罪に対して無関心になりがちです。 そのため、自分の内面で起きる罪の問題には、鈍感になることが多いです。 内面は、他人が覗き込めない自分だけの空間です。 心の中で誰かを憎み、その人の不幸を喜んでも、それが行動につながらない限り、自分の罪について深く考えることは決して容易なことではありません。 このように、人間は自分の罪を省察することを本能的に避けようとするのです。

自分の罪の問題を直面するために必要なのは、自分の罪そのものに注目するのではなく、神様との関係に注目することです。 一般的な常識で考えると、信仰が深まれば深まるほど、自分の罪が減り、自分の罪の問題についてどんどん考えなくなると予想するかもしれません。 しかし実際は、正反対です。 聖なる神様に深く会えば会うほど、自分が持っている罪の問題がどれほど深く根を下ろしているか、どれほど広い領域に広がっているかをもっと敏感に感じ、もっと深刻に考えるようになります。聖書が教える罪は、単に法律を破ったり、他人に被害を与える行為だけでなく、神様の御心よりも自分の満たしたい欲望を優先して生きようとする状態を指します。 神様との深い関係の中で生きる者は、自分の言葉や行動だけでなく、神様の御心を優先しない、内面にあるすべての空間を悲しみます。 したがって、使徒パウロは福音に生き、福音を伝えることにすべてを捧げたにもかかわらず、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」と告白し、悲しんだのです。神様なしに、私たちは自分の罪への赦しを期待することはできません。 自分の罪が赦されることを期待できない状況であれば、人間は羞恥心と絶望のため、絶対に自分の罪に直面する勇気を出すことができません。 ですから、自分の暗い真実から目をそらすために、自分ではなく他の人の罪に対して、もっと関心を持ち、もっと批判的になるのです。 しかし私たちが神様との関係を優先すれば、自分のような罪人を赦し慰める神様の恵みを深く信頼するようになります。 そして神様の赦しと慰めへの希望の中で、自分の持っている罪の問題に対して積極的に取り組み、心から悲しむことができるのです。 イエス様はこのような態度で生きている人を指して幸いな人だと教えたのです。

今までイエス様がおっしゃった幸いな人は、自分の罪を悲しむということを見てきました。 では幸いな人が悲しむ2つ目のことは、この世界の罪についてです。 私たちが生きている社会では、自分のことだけに集中し、自分と直接関連のないことに関わらないことは、賢明な生き方だと考えられています。 他人の問題に関心を持ちすぎたり、関わったりすると、自分が傷つくかもしれないからです。しかし聖書を読んでみると、神様の人々はこの世界の問題に積極的に関心を持ち、悲しむ人だったということが分かります。 彼らは、自分一人の信仰生活にだけ集中するのではなく、権力のある者が行っているすべての不義と、貧しい人々、未亡人、孤児、外国人など、疎外された隣人が経験しているすべての悲劇を、自分自身の悲劇として考え、悲しみました。 そして、神様のみことばを宗教という小さな枠組みの中に閉じ込めるのではなく、あらゆる社会の領域に適用し、実現することに積極的だったのです。 彼らがそういう態度で生きていたのは、神様との深い関係の中で、この社会に起きている悲劇に対して神様の感じられるその悲しみに深く共感していたからです幸いな人は、この世界に蔓延した罪に目を背けません。 人間の罪への神様の悲しみに積極的に共感し、祈ります。 また自分のなすべきことを知りながら、積極的に行わなかった自分の罪を悲しみます。 このような態度で悲しむ者は、目に見える現実に圧倒されて絶望するのではなく、いつか回復する新しい天と新しい地を眺め、この壊れた世界の中でも神の御国を経験するでしょう。 聖なる悲しみは、決して悲しみの状態に留まるのではなく、必ずイエス·キリストが与えて下さる大きな慰めを受けることになります。

私達を慰めることのできる存在は、3つの条件をすべて備えた者でなければなりません。 一つ目に、私たちの持つ痛みを理解し、共感する者でなければなりません。 二つ目に、私たちを本当に愛する者でなければなりません。 最後に三つ目、私達が持っている痛みを解決する能力のある者でなければなりません。 私たちの主イエス·キリストは、慰め主としてこのすべての条件を備えた方です。 イエス様は私たちと同じ人間となられ、この世界のすべての苦難を直接経験されました。 私たちよりもっと大きい苦痛を経験されたイエス様は、 私たちの弱さと痛みを完全に理解して下さいます。またイエス様は、私たちのような罪人を救うために十字架にかかられ、ご自分の尊い命まで捨てられました。 イエス様は、私たちが自分を愛する以上に、もっと私たちをく深く愛する方です。最後に、イエス様は単純に私たちの痛みを理解して、私たちを愛して下さるだけでなく、私たちのすべての痛みを根本的に解決される能力があります。 イエス様は私たちの罪を背負って死なれましたが、死の力で勝利して復活されました。 イエス様の復活は、この壊れた世界が、新しい天と新しい地に回復し、私たちは神様の愛の中で、永遠に生きるという確実な約束です。 希望を持って聖なる涙を流しましょう。イエス·キリストは、その涙を通じてご自分の御国を完成し、私たちの悲しみを喜びに変えてくれるでしょう。

2020年5月17日

マタイの福音書5章3-12節

「八福の教え⓶:貧しい自分を見つめる」

今日は、「八福の教え」の中でイエス様がおっしゃった、一つ目の幸いな人について見てみようと思います。 3節です。

「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」

イエス様は心の貧しい者は幸いだと言いました。 なぜ心の貧しい者は幸いなのでしょうか? その理由は、 「天の御国」、つまり天国がその人たちのものだからです。天国は、何を意味するのでしょうか。  「八福の教え」 はマタイの福音書だけでなく、ルカの福音書にも出ますが、ルカの福音書の 「八福の教え」には、「天の御国」ではなく、「神の御国」という言葉が使われます。  ただマタイの福音書だけに、天国が37回出ます。 どうしてマタイの福音書は、天国という言葉を使ったのでしょうか。 たくさんの仮説がありますが、その中で最も広く認められているものを紹介します。 天国は神様の御国を指す、間接的な表現だということです。 マタイの福音書は主に、ユダヤ人を対象にして書かれました。 ユダヤ人は、神様の聖なる御名を直接呼ぶのを避けました。 十戒の第3の戒めは、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。」ですが、ユダヤ人はこの戒めを拡大して、すべての生活の領域に適用したためでした。 律法や祈祷文を読む時以外は、神様の御名を言ったり、書いてはならないというのが、旧約時代にすでにユダヤ人社会の規則として定着して、今日の多くのユダヤ人もその規則を守っています。 それでマタイはユダヤ人読者に配慮して、神様の御名が含まれた神の国ではなく、天国と言ったのです。神の御国と天の国を、同じ意味の言葉として見ても、大した問題はないと思います。

神の国は、神様が治める領域を意味します。 神様の御国と関連して、 当時のユダヤ人たちは、大きい自負心を感じていました.。神様はいつか王として世界中を治めるはずで、神の民である自分たちは、他の民族の上に立つようになると期待していたのです。 ローマ帝国に支配されている弱い民族であるにもかかわらず、当時のユダヤ人は大きく2つの面で優越感を感じていました。 一つ目は、血縁関係、家系です。 ユダヤ人はアブラハムとイサクとヤコブの子孫でした。 神様に特別な選びを受けて、神様に特別愛された、信仰の先祖の子孫でした。 ユダヤ人は自分たちの家系こそ、誰も持たなかった特別な資産だと思っていました。ユダヤ人が優越感を感じた二つ目の要素は、神様の律法でした。 他の民族は世俗的な信仰と価値観を持って、 神様と何の関係もない生活をしていましたが、 ユダヤ人たちは、長い間神様の律法を学び、 その律法の枠の中だけに過ごすために、努力して来ました。律法に反する行動を避けるために、厳格なルールを作り、それを頑張って守ってきました。 神様の律法と関連して、長い間積み重ねてきたその厳格な伝統は、ただユダヤ人だけが所有してきたものでした。 他の国で異邦人として暮らしている貧しい人生にもかかわらず、ユダヤ人は特別な家系と律法の伝統を所有する自分達こそ本当に裕福な者であり、いつか建てられる神様の御国で高くなる者だと思っていました。

このようなユダヤ人の自意識は、私たちに愚かに感じられるかもしれません。 ユダヤ人の話は、今の私達とは程遠いと思うかもしれません。 しかし私たちも、自分の価値を感じる対象がユダヤ人と違うだけで、自分が裕福だと考える点では非常に似ています。今日与えられたイエス様のみ言葉の前で、私たちはある意味でその鍵職人と似ている状況に置かれています。 イエス様は「心の貧しい者は幸いです。」とおっしゃいました。 貧しいということは、空いている、自分が空っぽだということです。あなたは、今まで自分が何か熱心に積んできたと思うだろう。 何かでいっぱいにしたと思うだろう。 しかしあなたが何かを積み重ねたそこには、実際は何もない。 ただ空っぽなのだ。 あなたは裕福ではない。 あなたの中は空いている。 あなたは貧しい者だ。 その現実を受け入れなさい。」という意味です。 これは私たち人間にとって受け入れがたい言葉です。

私たちはみんな、恐らくこの険しい世界で生きていく中で、自分の人生を守るために、自分が愛する人々を守るために、多くの汗を流して、苦難に耐えて、頑張って歩んできたはずです。 今の仕事を持つために、長い時間学校に通いました。 一生懸命勉強しました。 “この道は合ってるのか?”と悩んだことでしょう。 そして他の人々と熾烈に競争したでしょう。 就職した後、自分の地位を守るために、もっと熱心に生きなければならなかったはずです。 朝早くから夜遅くまで一生懸命働きました。 複雑で難しい人間関係の中で耐え忍びました。 時にはとても疲れて、具合が悪くても、与えられた仕事をすべて終えるまで休めなかったでしょう。 仕事だけではありません。 家族を守るため、また子どもを幸せに、正しく育てるため、多くのことを我慢して犠牲にしなければならなかったでしょう。 やりたいことも多く、使いたいことも多かったのですが、自分の限られた時間とお金とエネルギーを、家族に優先して使ってきました。 自分のことよりも、家族のことを心配し、もっと大切にしてきました。 家族の幸せという花を咲かせるために、自分の多くのことを肥料にしなければなりませんでした。 他の人達はどのように評価するか分かりませんが、自分にとって大事なものを切実な心を持って熱心に積み上げてきました。 それなのに、空っぽだなんて。 自分が貧しいだなんて。 今まで送ってきた自分の人生と、そのすべての価値が全て否定されているように思えます。

しかし、誤解しないでください。イエス様は、今まで私たちがして来たことが、すべて無駄なことだったとおっしゃっているのではないのです。今までの努力の時間がすべて価値がなく、意味がなかったと言っているわけではありません。 「心の貧しい者」とは、自分の存在と、自分の人生を支えている実体は、ただ神様だけだということを心から認める人なのです。 神様の人を必死ににぎったヤコブのように、 恵みなしでは自分は生きていけないということを告白しながら、神様をにぎる切実さ、 神様なしでは自分の存在は空っぽであることを認める謙遜さが、 心の貧しさなのです。

私たち人間は、このような心の貧しさを持って生きているでしょうか。 違います。 自分が神様の恵みだけで生きている存在だと思えば、 なぜ私たちは心配するのでしょうか? 神様はご自分の子供に、けちな方でしょうか。 恵みを節約する方でしょうか。 恵みより、自分の知恵と努力が、自分を支える実体だと認識するので、私たち人間は止まらないのです。 休めないのです。 まるで自分が直接解決しなければ、自分が傷つき、消滅するかのように、何かをし続けようとします。 そうしていくうちに、自分がいくら満たそうとしても満たされない部分があることを感じる時だけ、超自然的な助けを求めるのです。 自分の安全と成功が保障できないと感じる時だけ祈ります。私達人間は、神様の御前で、自分は全面的に恵みが必要な存在ではなく、実際には何かを自分でできると考えているのです。 神様の御前で自分は、空っぽの存在ではなく、実際には何かを持っていると思っているのです。自分のアイデンティティと自分の安全を、神様より、自分が今分かっていることから、自分が今できることから、探しているのです。私たち人間は、自分の貧しい現実を否定し、回避しようとする罪の傾向を持っています。 自分が生きていく方向は、神様の御心ではなく、自分の意志で決めるものだと思うのです。結局自分の人生を責任持って守る実体は、神様の恵みではなく、自分の能力だと思います。 私たち人間は、本能的に神様が治められる御国ではなく、自分が治める自分の国に属して生きることを望むのです。 自分の貧しさより、自分の裕福さを強調する国の方が、もっと魅力的に感じられるからです。 私たち人間自身は、決して自分が王として存在する国の誘惑から逃れることはできないのです。

それでは、心が貧しいのは不可能なのでしょうか? 違います。先週話したように八福の教えはイエス様がすべての人を対象に言った言葉ではなく、すでに神さまの御国の民になった者に言った言葉です。あなたがたが、これからこう生きれば、あなたがたは神の御国に入って幸せになるとおっしゃったのではなく、すでに神の御国に属するあなたがたは、このような態度で、姿で、人生を生きる者だ。 あなたがたはすでに幸せな人なのだと教えられたのです。 私たちはまだ罪を犯す足りない存在ですが、それにもかかわらず、心の貧しさを持って生きることができる神様の恵みが、すでに私たちに与えられているのです。 その恵みを信頼し、神の御国の人生を今ここで生きなければならないのです。神の御国の富は、人間の常識が教える富とは正反対です。 裕福になるためには、より多くを手に入れなければならないのが、人間の常識です。 しかし、神の御国ではすべてを下ろす者、委ねる者が裕福なのです。 神様の御前で自分は空っぽの存在であることを告白する時、神様の臨在で満たされる自分の心の空間が、もっと広くなるからです。 マーティン·ルターは「われわれは、神の御前で物乞いをする乞食だ」と言いました。 神様の御前では、私たちが持っているどんなことも自慢できないのです。 私たちがして来たどんなことも、自慢できません。 神様こそ私たちの存在を始め、私たちのすべての人生を導き、支えて下さった実体だからです。 私たち自ら積み上げてきたものは、何もありません。 私たちが持った良い物は、すべて神様から与えられた贈り物です。 ですから私たちは、神様の御前で破産した乞食なのです。 神様の御前で自分の貧しさを見つめ、神様に切実にしがみつく乞食になることを祈りましょう。 そのような心の貧しさを持つ者こそ、 世界が与える心配と不安から抜け出して、 神様の与える平安と自由を満喫する裕福な者であり幸いな者なのです。

2020年5月10日

マタイの福音書5章3-12節

「八福の教え①: 真の幸いとは」

幸せは、すべての人間のもつ共通的な欲求だと思います。誰かが私たちに”幸せになりたいですか?”と尋ねると、”いいえ”と答える人はたぶんいないでしょう? ほとんどの場合はすぐに”はい”と答えます。 しかし、”幸せとは、何だと思いますか?”と聞かれたらどうでしょうか? 答えにくいですね。 幸せになりたいのですが、でも幸せが何かは、自分の中でまだ具体的に整理されない場合が多いと思います。聖書は、幸せについて何と言うでしょうか。 幸せを扱う本文として最も代表的なものは、マタイの福音書5章の八福の教えでしょう。 今日から数週間かけて一緒に八福の教えを見てみようと思います。 八福の教えを通じて幸せに対する鮮明なイメージが、私たちの心の中に生まれることを願います。 先週私たちは、イエス様が洗礼を受けてから荒野で40日間過ごされたことを学びました。 イエス様はイスラエルが神の民として失敗した使命を回復することを望まれました。 それでイスラエルを代表するために、過去にイスラエルが経験した旅を直接歩まれました。

神様は、エジプトの奴隷だったイスラエルをモーセを通じて救い出されました。 どうやって助けだされたのでしょうか。 イスラエルがエジプトから出たとき、後ろからエジプト軍が追いかけてきていました。 前には紅海がイスラエルを塞いでいました。 イスラエル民族は、紅海に落ちて死ぬか、エジプト軍に殺されるか、この二つのうち一つを選択しなければなりませんでした。 しかし神様は、紅海を分け、溺れて死ぬ運命だったイスラエルは救われたのです。  同様に、イエス様は洗礼、すなわち水の中に入り、水の外に出る儀式を通じて、紅海を渡ったイスラエルの旅を歩まれました。 また荒野で40年間訓練を受けたイスラエルのように、イエス様は荒野で40日間断食し、訓練を受けられました。 

これだけではありません。 今日の本文のすぐ前でイエス様は、イスラエルへの重要な記憶を思い出させました。 マタイの福音5章1節と2節です。

「その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。」

イエス様が弟子たちに教えられた所はどこですか? 山でした。 モーセはシナイ山で受けた神様の律法をイスラエル民族に教え、それによってイスラエルは神様の律法に従って神の民として生きるようになりました。 同じようにイエス様は山でご自分の弟子たちに神の国について教えられました。 モーセが神の民を教えたように、イエス様も神の御国の民に、その御国について紹介された説教が、まさに山上の垂訓です。

そして、八福の教えは山上の垂訓が始まる部分です。 八福の教えの各節には、こんな形の文章が繰り返されます。 「~者は幸いです。」ここで 幸いと訳されたギリシャ語は makariosです。 Makariosはほとんど英語でBlessed (祝福された)という言葉で訳します。 最近はHappyと訳したりもしますが、多くの新約聖書学者たちは、このような翻訳に反対します。 なぜなら、Happyは日常で使う身近な表現ではありますが、聖書が教える幸せを一般的な概念の幸せと錯覚させる可能性があるからです。 先ほど話したように、山上垂訓は神の御国のことで、したがって山上垂訓の最初の部分である八福の教えも、神の御国の幸せ、すなわち神様の観点からの幸せについてのものだからです。 神様が考える幸せとは何か、私たちが考える幸せとは、どう違うのか見てみましょう。

まずイエス様が教えられた本当の幸せは、神様の御前で私たちがどんな姿勢で人生を生きていくかについてです。 一般的に幸せというのは、自分が感じる主観的な感情だと思っています。 小確幸が言うように、朝のコーヒーの良い香りが自分の気分を良くする時、それを幸せと言います。 または学校や職場で目標としていた成績を出せた時の達成感、自分の仕事から感じられるやりがいを幸せと言います。 聖書はこのような幸せの気分を否定するものではありません。 そのような前向きな気分は、神様が私たちにくださった良い贈り物です。 しかし、そんな幸せはとても早く消えてしまいます。 私たちが迎える状況はいつも固定されているのではなく、常に変わるからです。 今日は笑える状況でも、明日は涙を流すことになるかもしれません。 それに、私たちの感情も固定されているのではなく、随時変わります。 自分に良い状況でも、それが何度も繰り返されれば、それに慣れて、それを当たり前に思い、それに満足できず、もっと強い刺激が与えられる状況が欲しくなります。 このような幸福は、主観的であって、一時的なものです。

しかし、イエス様は幸福な人々を一般的な常識と正反対の姿で描写されました。 3節で、幸せな人は、心の貧しい者だと言いました。 4節では、幸せな人は悲しむ者だと言いました。 どうして心が貧しくて、悲しむ人が幸せなのでしょうか。 今は幸せではないけど、これから幸せになるということでしょうか? 違います 新約聖書学者のRaymond Brownによると、幸せという意味のギリシャ語”Makarios”は、既に存在している幸せの状態を指します。 心が貧しく、悲しむ人はもう幸せだということです。 これは矛盾していませんか? 来週と再来週に学ぶ予定ですが、”心が貧しい”、”悲しい”というのは、私たちがどんな感情を感じるかということではなく、私たちが神様の御前でどんな姿勢で人生を生きているかということです。 私たちの感情は状況によって随時変わりますが、神様の臨在の中で生きる私たちの態度、姿勢は、状況によって壊れるのではなく、いかなる状況でも恵みによって守られるのです。ですからイエス様が教えられた幸せは主観的ではなく客観的な現実なのです。

2つ目に、 イエス様が教えられた本当の幸せは、 自分ひとりだけではなく、 隣人にも流れるためのものです。幸せが、自分自身が感じる感情についてのものなら、幸せを追えば追うほど、自分自身に関心が集まり、他人には無関心になる可能性が高いのです。 そして、自分が追求する幸せが他の誰かにとっては、不幸になる現実にも無関心になることがあります。経済学者、政治学者、哲学者らは、どうすれば誰かの犠牲無しに、皆が幸せになれるかについて悩みましたが、解決策を見つけるのは困難です。 社会で起こる多くの葛藤は、それぞれ他人の状況に無関心で、自分だけの幸せを追求する現実に起因する時が多いです。 それで、Abraham Heschelは、無関心とは、最も破壊的な罪であり悪だとまで言いました。

しかしイエス様が教えられた幸せは、必ず隣人への関心と愛につながります。 イエス様は7節で 「あわれみ深い者は幸いです」とおっしゃいました。 9節では「平和をつくる者は幸いです」とおっしゃいました。 10節では「義のために迫害されている者は幸いです」とおっしゃいました。 イエス様がおっしゃった幸せな人たちは皆、自分の利己心の中に閉じ込められず、他人に仕えるために自分を低くし、広い世界観で世界を抱く人です。 創世記12章3節後半で、神様はアブラハムに「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」と言われました。 その祝福は、最初からアブラハム一人のためだけでなく、すべての人に流れるためのものだったのです。 アブラハムは生きている間、その祝福を自分の手に入れることはできませんでしたが、それがいつか成就することを信頼して生きてきました。

そしてついにその祝福は、アブラハムの子孫であるイエス·キリストによって成就しました。 罪人のためにご自分の命まで犠牲にされたイエス様の中で、私たちに救いの祝福が与えられたのです。 その祝福によって、わたしたちはイエス·キリストの御体である教会の一員になりました。 教会は、どのような共同体でしょうか。 教会は自分に与えられた、その祝福を持って、世界に出て行く使命を持った共同体です。 それが毎週礼拝の最後に、私たちが祝祷を受ける理由です。 私たちは神様の祝福を持って、世界に送られ、自分の隣人にとって、祝福の存在にならなければならないのです。 イエス様が教えられた幸せは、このように利己的なものではなく、利他的なものです。

最後に、イエス様が教えられた幸せは、神様との関係についてです。 イエス様は神の御国の民が追うべき究極の目標は幸せではなく、神様との関係であることを教えて下さいました。 しかし多くの人々は幸せそのものを目標とし、幸せを追いかけて一生懸命生きていきます。 そして自分も知らないうちに、自分を幸せにする環境を構築することに執着することになります。 そしてその執着は、自分自身を精神的にも、肉体的にも疲れさせます。 また自分にとって本当に大切なものは何かを感じ、それを追求する心の余裕を奪います。 テレビを見ると、他人から羨ましがられるすべての環境を持っていても満足できず、憂鬱感の中でさまよう人々の話がよく出ます。 幸せは追って得られるものではないからです。

八福の教えの各節の前半は「~な者は幸いです。」という文章で始まり、後半はその幸せの内容が出てきます。 その幸せは、何でしょうか? 神様の御国、神様の慰め、神様が与える地、神様が与える満足感、神様の憐みなど、すべて神様との関係から与えられたものです。イエス様は山上の垂訓の中で、こうおっしゃいました。 マタイの福音6章33節です。 「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」 イエス様は私たちにとって、神様との関係より重要なものはないと教えられました。 幸せそのものを追うと、幸せは私たちから逃げます。 しかし私たちが神様との親密な関係を目標にして生きれば、幸せは一緒にいらっしゃる神様から与えられるものです。 幸せは目標ではなく、神様を追い求める中で、与えられる副産物です。 八福の教えを通じて、私たちの心に本当の幸せについての聖書的な概念が生まれ、私たちの体と心、すべてが自分の中にすでに臨在されている神様に注目することを主イエス·キリストの御名で祝福します。

2020年5月3日

マタイの福音書4:1-2

「孤独の中へ」

本文のすぐ前で、イエス様はバフテスマヨハネから洗礼を受けられました。 洗礼の中で聖霊がイエス様の上に降り、父なる神様はこうおっしゃいました。 「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」 バフテスマ·ヨハネがイエス様に与えた洗礼と、イエス様を御子として認める父なる神様の宣言は、これから本格的に繰り広げられるイエス様の救いの働きを予告しました。

もし皆さんが、マタイの福音を初めて読むとすれば、この次にどんな場面が出ると予想しますか? 神様の御子であるにもかかわらず、30年間大工として平凡に過ごしてきたイエス様が、ついに多くの人々の前でご自分の非凡さをあらわされる、驚くべき反転を期待しないでしょうか。 しかし、イエス様はこのような予想とは正反対の行動をされました。 イエス様が洗礼を受けられた後に行ったところは、多くの人で賑わう繁華街や広場ではなく、反対に誰もいない静かな場所だったのです。 そこはどこだったのでしょうか。 マタイ福音4章1節です。

「それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。」

イエス様が行かれたところは、ギリシャ語でerēmosすなわち荒野でした。 具体的にどこにある荒野だったのでしょうか。 ほとんどの聖書学者は、ユダヤの荒野のどこかだったと推測しています。 ユダヤの荒野は、エルサレムから近い死海とヨルダン川の左側にあります。 ユダヤの荒野はどんな姿だったのでしょうか。 エレミヤ書2章6節です。

『彼らはこう尋ねることさえしなかった。「主はどこにおられるのか。われわれをエジプトの地から上らせた方、われわれに、あの荒野、穴だらけの荒れた地を、乾いた、死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は。」』

このみ言葉のように、イエス様が行かれたユダヤの荒野は穴が多くて、荒涼で、干からびた土地でした。あまりにも乾きすぎて、誰も通らず、誰も住まない孤独の地が、まさにユダヤの荒野でした。 イエス様はご自分の働きを本格的に始めるために、人が多い所ではなく、逆にすべての人々から離れて一人で過ごす孤独の場所に入られたのでした。イエス様は神様ですが、 私たちのように寂しさがきらいな人間でもありました。しかしイエス様はなぜ孤独の場所に入られたのでしょうか? なぜなら、聖書が教える孤独は、寂しさとは違うからです。 寂しさは、関係の面で、自分が他人から孤立することへの苦痛の感情です。 それで多くの人々と一緒にいても、寂しくなることがあり、むしろ一人でいる時より、もっと寂しくなることもあります。 でも孤独は、寂しさとは違います。 聖書の言う孤独は、一人でいても、実際には一人でいることではありません。孤独は、一人でいることを通して、自分と一緒におられる神様に、完全に集中することだからです。

荒野は、神様の人々が生まれる場所です。イスラエル人がエジプトの奴隷だった時、神はモーゼを通じて彼らを救われました。 そしてイスラエル人が与えられた使命を本格的に始める前に、神様はまず彼らをある場所に連れて行かれました。 そこはまさに荒野でした。 彼らは荒野で外の世界と遮断され、ただ神様と一緒に過ごしました。 何も実りそうにない荒涼とした土地でしたが、荒野からイスラエルという神様の民が生まれたのです。 それだけではありませんでした。 神様がダビデを王にしようとされた時、サウル王はダビデに嫉妬して殺そうとしました。 そのためダビデは王座につく前に、どこかに隠れて過ごさなければならなかったのです。 その場所も、荒野でした。 荒野からイスラエルの最も偉大な王が生まれたのです。

私たち皆が知っているように、イスラエル民族は約束の地に入ると、すぐに荒野で学んだ神様の律法を忘れてしまいました。 そして結局、彼らは神様の民としての使命を捨ててしまいました。 誰かがイスラエルを代表して、イスラエルが失敗したその使命を回復させなければなりませんでした。 イエス様は、その使命を本格的に始められる前に、イスラエルが生まれた荒野に入られました。 そして40年間、荒野で神様の民となる訓練を受けたイスラエルのように、イエス様は荒野で40日間断食され、イスラエルの使命を完成させるメシアとして、ご自分を訓練させました。 イエス様はただ神様だけに集中する荒野の時間を通じて、ご自分のアイデンティティを確立されたのです。

同じく神様は、私達を荒野という孤独の地に招いていらっしゃいます。Henri Nouwenは、本当に重要なのは、体の孤独ではなく、心の孤独だと言いました。 心の孤独は、自分の心を他のすべてから落とし、ただ神様にだけ注目させることです。 外の世界から聞こえてくる声、自分の心から聞こえてくる声をすべて静めて、ただ神様にだけ耳を傾けるのです。 このような神様との交りの中で、私たちは人生の本質的な問題に直面することになります。 自分が誰なのか、自分はどこから始まった存在であり、どこに向かっているのか、自分にとって何が重要で、何が重要でないのか、何が永遠で、何が消えるのかを心から悟るようになります。 そして、その孤独の中で、神の子供という自分のアイデンティティへの確信が生まれるのです。

また孤独は、他の人々を愛するために必ず必要な準備の過程です。 イエス様はご自分を他人から隔離するために荒野に行かれたのではなく、私たちのような罪人に近づき、罪人に仕えられるための準備として荒野に行かれたのです。 同様に、孤独の中で私たちは他人に大胆に近づき、謙虚さを持って彼らに仕えるための内面の準備をするようになります。また孤独は信仰を持って、外の世界に直面するための準備です。 イエス様は世界から離れるために、荒野での孤独を経験されたわけではありません。 罪にまみれたこの世界の悲惨な現実に直面し、罪からその世界を救われるために、荒野で準備されたのです。 同様に孤独の中で神様との交わりを経験すると、私たちは世界の中で起こることにさらに関心を持ち、もっと敏感になります。 なぜなら、それは神様が治める世界で起きたことなので、自分とは関係のないことではなく、自分が祈らなければならないことであることを知るからです。 孤独の中で私たちは、自分が世界の中で見た現実をすべて神様の御前に持って行き、その悲惨さを深く考えます。 そして苦しむ人々の心に共感し、彼らのために祈り、自分ができることを実践できるようになるのです。

コロナウイルスによって自宅の荒野の中で過ごす時間が長くなった今日この頃、私たち皆が心の孤独を経験するいい機会になればと思います。 イエス様は忙しい働きの中でも毎日すべての人々から離れて、神様との時間を過ごされました。 同じように私たちも自分の心を麻痺させようとする忙しさの誘惑から抜け出し、 すべての事を止めて、 すべての声を静めて、 ただ神様にだけ心を集中する時間をもっと切望されることを望みます。そしてその孤独の中におられる神様によって、私たちが神の子どもだという自分のアイデンティティを確信し、他人を愛し、世界の苦しむ人々のために心から祈ることを望みます。

2020年4月26日

エペソ人への手紙3:20-21

「祈りに答えられる神様」

エペソ人への手紙3章14節から21節までは、パウロがエペソにいる聖徒のために捧げた祈りです。 これは、パウロがたった一度だけ捧げた単発的な祈りではなく、エペソの聖徒たちを覚えて、いつも捧げていた祈りでした。 このパウロの祈りを詳しく観察することによって、私たちは祈りの核心的な要素を学ぶことができます。まず20節です。

「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、」

このみことばを通して、私たちはクリスチャンの祈りが、他の祈りとどのように異なるのかが分かります。 クリスチャンの祈りは、用語を使い間違えたり、時間が短かったり、順番を間違えたりして、効力が落ちる祈りではありません。 クリスチャンの祈りは、内容が不十分だったり、考えが浅かったり、切実さが足りなくて失敗する祈りではありません。 祈りについてこのような心配をする時、 自分でも知らないうちに、 私たちは神様を低くして見ている証拠なのです。神様は、私達が何らかの条件を満たして、自分の願う通りに答えるように説得しなければならない対象、ではありません。

神様は、私たちが言葉で表現できるすべてより、私たちについてもっと深く分かっておられます。 神様は、私たちが考えることができるすべてのものより、もっと高いものを考えておられます。 そして神様は、単純に分かることで終わらせないで、 このすべてをご自分の力で成就できるお方です。神様の御力は、私たちの弱さによって少しも減ることはないのです。神様は、私たちの足りなさを超えて、ご自分の立てられた御心を必ず成し遂げられるお方なのです。 したがって祈りにおいて、神様は私たちが説得する対象ではなく、私たちの信頼の対象なのです。 したがって、祈りを学ぶ最も重要な一歩は、祈る方法を学ぶのではなく、私たちの祈りを聞かれる神様が、「どのようなお方なのか」を信仰を持って理解することです。

イエス様が私たちに教えて下さった祈りは、どのように始まりますか?  「天にまします我らの父よ。」 以主の祈りの中で、地はどんな所を指しますか。 私たち被造物が生きる有限、限りのある領域です。 では天は、どんな場所ですか。  永遠で、絶対的な創造主がおられる領域です。 神様が天におられるということは、神様は創造主として私たち被造物と全く違う次元の存在であり、すべてを治められるお方だということです。 イエス様は祈りを捧げる中で、まず神様の全能さを認識しなさいと教えられたのです。そしてイエス様は、神様をどのように呼ばれましたか。「我らの父よ」イエス様は、子供が父親を親しく呼ぶ時に使う Abbaというアラム語で、神様を呼ばれました。 神様は、子どもにいつも厳しくする、距離を置く、強い権威意識のお父さんではなく、子どもに愛情を持ち、いつも子どものそばにいる親密なお父さんだということです。 もし私たち人間が絶対的な権力を持てば、自分の野望を実現するために他の人々を犠牲にする場合が多いでしょう。 しかし神様は、ご自分の全能さを誰かを抑圧するために使うことはなさらず、ご自分の子供に本当に良いものを与え、もっと成長させるために、その全能さを使われる愛の父だということです。 イエス様は、私たちの祈りを聞かれる神様が、完全な力と完全な愛の調和をお持ちになる唯一のお方であることを信じて信頼するようにと教えられたのです。

パウロも同じく、神様の御力と愛を信頼する中で祈りを捧げました。 本文の15節です。

「天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。」

パウロは、自分の祈りを聞かれる神様が、天にいる天使たちと、地にいるすべての被造物を創造され、また治めていることを告白しました。 パウロは天と地のすべてを導き、ご自分の御心を成し遂げられる全能の神様を心から認める中で祈ったのです。

またパウロは神様の愛を信頼する中で、祈りました。 17節後半から19節前半までです。

「そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」

パウロはエペソの聖徒が、キリストの愛を理解できるようにと祈りました。 私たち人間を、罪から救うためにご自分の命を捨てられたイエス·キリストは、私たちより、私たち自身をもっと愛されるお方です。 その救いの愛を単に頭で知るのではなく、心からその愛がどれほど広く、長く、高く、深いかを知ることができるようにと祈りました。 祈りは私たちのために、ご自分の全能さまでも捧げられたキリストの愛を信頼する中で、捧げるものです。 私たちが祈るすべてに答えられる神様の御力と、その御力を常に善良な目的で使われるキリストの愛に信頼する中で、私たちは自分の祈りが失敗するかも知れないという不安から抜け出して、平安と感謝の心で祈ることができるのです。

またパウロは、祈りの重要な要素をもう一つ教えます。 パウロが、どのように祈りを終わらせるのか見てみましょう。 最後の20節と21節です。

「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に、教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン。」

パウロは祈りに答えられる神様とキリストの栄光を讃え、自分の祈りを終わらせます。 これを指す礼拝の用語は、何でしょうか? 私たちはすでに、その答えを知っています。 礼拝の最初と最後に、三位一体である神様の栄光を歌う、短い賛美を何と呼びますか。 “頌栄”です。 私たちは頌栄を賛美しながら、私たちが祈るする目的は、私たちの栄光ではなく、神様の栄光であることを告白します。 祈りも同じです。 祈りの目的は、私たちの栄光ではなく、神様の栄光であるのです。

自分が願うことのために祈ることは、決して悪いことではありません。 反対に神様は、私たちが祈る時自分が必要と感じることについて、率直に告白することを願われます。 しかし私たちの願いは、必ず神様の栄光と調和しなければなりません。罪の傾向を持つ私たち人間は、楽に祈るために、昔から今まで多くの偶像を作ってきました。 なぜなら人間が作った物に過ぎない偶像は、祈る人に何も言えないからです。 ただ祈る人が願うことを、聞くだけです。 ですのでこのような祈りは、祈りを聞く神が中心ではなく、祈る自分を中心とする祈りとなります。 しかし聖書が教える祈りは、自分が中心ではなく神が中心になるのです。 なぜなら、何も言えない、話せない偶像とは違って、神様は私たちの祈りを聞かれるだけでなく、私たちにおっしゃるからです。 祈りを通じて私たちは神様と人格対人格として話し合い、交わります。 そして神様は、私たちが聖なるご自分に似ていくように変化させて下さいます。 偶像への祈りは、神がこたえるように神の心を変えることが目的です。 しかし、聖書が教える祈りは、神様を変えることではなく、神様が私たちを変えることです。 ですので、祈りの中心は私たち自身ではなく、神様であるのです。

キリスト教の教会は、伝統的に祈りは神様中心ということを覚えるために努力してきました。私達が礼拝の中で祈る主の祈りがその証拠です。 聖書に書かれている主の祈りは、元々“悪より救い出したまえ”で終わります。しかし私たちはそこで終わらず、最後に「国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。アーメン」と祈ります。なぜでしょうか? その主の祈りの最後の部分は、初代教会が頌栄として加えたものだからです。 “祈りの目的は私たちの栄光ではなく、神様の栄光なのだから、私たちはすべての祈りを神様で始め、神様で終わることを願います”という信仰でその頌栄をつくったのです。 私たちは信仰の先祖が、主の祈りの頌栄を通じて子孫に伝えようとしたその祈りの真理を心に刻み、私たちではなく、神様中心の祈りをしなければならないのです。説教の最後になりますが、今は祈らなければなりませんが、祈りが容易でない時です。 コロナウイルスによってすべてが難しくなり、毎日の状況が私たちの祈りとは正反対に流れるように感じられる時期です。 私達の心が平安よりも不安に、希望よりも挫折に、感謝よりも不満に傾きやすい時であります。 しかし祈りの中で、すぐには成し遂げられない自分の願いに注目するのではなく、私たちの祈りを聞かれる神様がどのような方なのかに注目しましょう。 神様は私たちが言葉で表現し、考えられるすべてのものより、私たちに必要なことをもっと知っておられて、もっと豊かなこたえを下さる、良い方であることを理解しましょう。 私たち人間の理解を超えて、天と地にあるすべてをご自分の善良な御心に従って導びかれる全能であり愛の神様であることを信頼しましょう。 このような信頼の祈りの中で、 神様が私たちの信仰をもっと成長させて下さり、 神様の栄光がこの苦難の世界の中を照らすでしょう。