2020年7月26日

箴言4章23節

「敬虔な心を持つための習慣①:心を守る」

今日からは、今年の年間聖句である「敬虔な心を持つための習慣」について、シリーズ説教を致します。箴言4章23節は、こう言います。「何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」箴言の著者は、人生を生きていく上で、何より大事なことは、心を守ることだと強調します。 その理由は、生命の泉が心から湧くからだ、と言います。 これは、私たちが生きる中で行う、すべての言葉と行動が、自分の心から出るという意味だからです。 心が悪ければ、悪行をして、心が善ければ、善い行動をします。 心は、私達が体を持って行う、全ての活動の源なのです。

クリスチャンはみな、自分の人生において、心が大事だということをよく知っています。 そして自分なりに心をきよくし、成長させるために努力してこられたと思います。私達は、ディボーションと祈り、そして聖書、教理、世界観の学びなどをし、それらを通して神様について、より多く知るようになり、信者として、「私がどのように生きるべきか」、についてより深く意識するようになったと思います。しかし、霊的な成長において、何かが足りないという気がすれば、次の質問について考える必要があると思います。「あなたは、自分が正しいと思うことを愛していますか?」

例を、挙げてみましょう。 仕事を終えて、職場から家に帰ってきました。あるいは、学校や塾から帰ってきました。 主婦の方は、家事が終わったばかりの頃を、想像していただければと思います。 夕食を終えて、すべての後片付けが終わりました。 時計を見ると、夜の8時ころです。 寝る前に3、4時間の自由が与えられています。 その時間を、どのように過ごすべきか考えてみます。 自分にとって、神様と交わる時間が大切なのは、よくわかっています。 聖書を黙想し、神様が自分に何をおっしゃっておられるのかと耳を傾けたり、神様と今日一日について分かち合って、祈る時間が必要なことはよく知っています。 しかし実際に、そうした時間を持とうとすると、本能的に抵抗を感じるのです。 そしていつのまにか、自分の体はテレビの前に座っています。 パソコンやスマートフォンを見ています。 好きな動画を見たり、何か魅力的な欲しい商品を検索したり、ゲームをします。 あるいは、家でも続けて働いたりもします。 その一方で、神様との時間が必要なことは意識しています。 しかしずっと後に、延ばしてしまいます。 そしていつのまにか、寝る時間になりました。 「ああ、今日は仕方がない」と思って、少しの罪悪感の中で本当に短く祈ったり、そのまま寝たりします。

「神様との時間は大切だ」という自分の考えと、「実際には、違うことを優先する」という自分の本能の間に、大きな溝ができたのです。 人間は、自分が正しいと思うことを、自分が愛しているかのように錯覚する傾向があります。 実際に、神様ではなく、違うことを優先している自分は、本当の自分ではなく、神様との交わりが大切だと考えている自分が、本当の自分だと勘違いしているのです。 自分が考えるのが、自分というわけです。 そしてこのような傾向は今日、ますます強くなっています。 なぜなら、考えること、つまり知世が人間という存在の根本であるという間違った理解を持っているからです。もちろん、知性は人間だけが持つ、特別な賜物であり、知性は私達の信仰において、重要な部分であることには違いありません。 しかし考えるのが、人間という存在の根本でしょうか。 科学者たちの研究結果によると、一日のうち、私たちがする中で、純粋に自分の意識だけで判断して行ったことは、たったの5%に過ぎないといいます。 残りの95パーセントは、私たちの意識が、無意識に影響を受けて行った、結果だそうです。 そのうちの40%は、無意識が意識を完全に支配して行っているのだそうです。 私たちの考えが、自分の無意識と戦う場合、大半は負けてしまうのです。 私たち人間にとって、考えることは大切ですが、存在の根本ではないのです。

もう一度、聖書本文に戻ってみましょう。 先ほど読んだ箴言のみ言葉は、心を守ることが何よりも大切だと、強調します。 このみ言葉を理解するために、私たちは必ず、1つの質問に答えなければなりません。 聖書の言う心は、何を指しますか? 私たちが意識できる、知性や感情だけが心でしょうか。 心は、ヘブライ語でlevav、ギリシャ語ではkardiaですが、心臓または内臓という意味があります。 今日の人々は、心を体とは区別された精神として、理解する傾向がありますが、聖書本文、当時の古代の人々は、心を心臓、内臓のように、体の一部だと理解しました。 そして彼らにとって、心はもちろん意識の領域を含みますが、それよりも無意識の領域にフォーカスを当てたのです。古代の人々が持っていた心の概念は、科学的にも正しいのです。 人間の無意識の領域は、自分の体を通して感じた、反復的な経験によって、形成されるそうです。人間の心、その中でも無意識の領域は、体を通して感じた反復的、繰り返された経験、つまり習慣によって大きく影響されるのです。

人間を造られた、創造主なる神様は、このような人間の特性をご存じで、ご自分の民が、肉体的な経験を繰り返しながら、礼拝するようにされました。 旧約の5つのいけにえのすべては、家畜を殺して焼いたり、穀物を燃やしたりしました。 視覚を通して、自分が犯した罪の悲惨さを感じました。 焼きながら、匂いを通して、嗅覚的にも神様の恵みを感じたのです。 空に舞い上がる煙を見ながら、自分の祈りを聞いて下さる神様を、感じたのです。 繰り返されるひびき、韻を歌いながら、聴覚的に神様を感じたのです。 いけにえが終わった後、その食べ物を分かち合いながら、味覚的にも神様の恵みを体験しました。 新約の時代、イエス様は、洗礼と聖餐式という聖礼典を教えて下さいました。 洗礼の中で私たちは、水を通して触覚的、聴覚的に、視覚的にキリストを体験します。 聖餐式を通して、キリストを視覚的、嗅覚的、味覚的に体験します。 イエス様はこのような経験を繰り返し、ご自分を記憶するようにされました。 礼拝を通して繰り返して神様を体験し、私達の心全体、すなわち私達の意識だけでなく、無意識にも神様を愛するようにされたのです。

心が私たちの意識だけでなく、無意識までも含むのであれば、私たちの愛の概念も、それに合わせて変わらなければなりません。 愛は、意識的に神様を追い求めるものでもありますが、愛は意識しなくても、考えなくても、無意識に本能的に神様を欲望することでもあります。

私たち人間は、神様を本能的に欲望するように造られました。愛は、欲望することです。 ただし私たちの愛は、神様に向かって、正しく整えられた欲望でなければならないのです。 そして私たちの欲望が、神様に向かって正しく整えられるためには、必ず神様を愛する習慣を、私たちの日常の中で実践し、また個人的だけではなく、私たち皆が、一緒に聖なる習慣を実践する、共同体にならなければならないのです。世界は、いろんな経路を通して、私たちの心、無意識の領域を攻撃します。 神様より、他のことに欲望するよう誘惑します。 そして私たちは、自分も気づかないうちに、そのような良くない習慣を繰り返したりもします。 自分が間違っていると感じながらも、「自分は正しいことを知っているから、大丈夫。決心さえすればいつでも、自分が考える正しい存在になれる!」と、錯覚したりします。 しかし、そうした習慣を断ち切る習慣、自分の欲望を神様に戻す、新しい習慣を実践しない限り、自分の心は簡単には回復しません。

覚えておきましょう。私たち人間の根本は、考えるのではなく、愛することです。 私たちが正しいと思うことを、私たちは実際には愛していないかもしれません。 自分が思うのが自分ではなくて、自分が愛するのが自分なのです。 神様に対して、ただ思うだけでなく、神様を深く欲望する私たち皆になることを願います。誤解しないでください。 私達をきよく変化させるのは、私たちの習慣ではなく、すべて神様の恵みです。 習慣は手段であり、通路に過ぎません。 しかし、敬虔な心を持つための習慣は、神様の恵みの風が吹いてくる時、その風を迎える大切な霊的な帆になるのです。 敬虔な習慣を共にし、心から神様を愛する私たち全員になることを祈りましょう。

2020年7月19日

マタイの福音書5:10-12

「八福の教え⑨:迫害の中で広がる御国」       

イエス様が教えられた、最後8番目の幸いな者について見てみましょう。10節「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」イエス様が教えられた幸いは、この世界の常識に基づいた幸いではなく、神様の観点から見た幸いです。ですから幸いな人とは、義によって人々に称賛されている人ではなく、迫害されている人だというのは、私達には非常に逆説的に聞こえます。まず、「義」とは何でしょうか? 辞典には「義」は、「人としてふみ行うべき道」と定義されています。ですから一般的に人は、義を道徳的な面から、または法的な面から理解しようとします。しかし聖書における義は、道徳的・法的な用語ではなく、関係的な用語です。義は、神様と私達人間の関係の中で、理解しなければならないということです。それで神様の義は、私達人間と壊れた関係を回復するために、ご自分を犠牲にされたイエス·キリストを通して、明らかになりました。では私達人間が、義のために生きるというのは、どういうことでしょうか?それは神様との正しい関係の中で、生きていくことです。八福の教えが描写する、神の御国に属した民の姿で生きていくことです。

そのような姿で義のために生きれば、安全で平安に、また裕福な人生を過ごすことができるでしょうか。いいえ、違います。聖書を見ると、正反対の現象が神様の人々に起こったことを、簡単に知ることができます。旧約聖書に登場するアブラハム、モーセ、ダビデなど、神様のしもべたちは義のために生きる中で、多くの人々から攻撃を受けました。新約聖書も同様です。イエス様ご自身が、人々から最もひどい迫害を受けられ、最も悲惨な姿で殺されました。イエス様は、こうおっしゃいました。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。」 (ヨハネ15:18)迫害は、反キリスト教的な国家だけで、起こるものではありません。義のために神様の民の姿で生きると、どこでも迫害を受けるのです。神様との関係を優先する中で、社会・職場・隣人・友人・家族から、さまざまな方法を通して私達の信仰は脅かされます。信仰生活をおくったり、伝道をするだけでも迫害を受けたりしますが、この社会が悪へと向かって流れる時、神様の義を実現しようとしても迫害を受けます。ヨーロッパとアメリカの白人達が、アフリカの黒人を奴隷として取り引きをした時、ウィリアム·ウィルバーフォースは、神様の義のために動き、多くの人々から攻撃を受けました。南アフリカ共和国の黒人達が人種差別政策で苦しんだ時、ネルソン·マンデラ氏は、神様の義のために動き、数十年間刑務所に閉じ込められました。アメリカ人のマーティン·ルーサー·キングは、殺害されました。信仰は単に、宗教という狭い領域だけに限られているのではなく、政治・文化・芸術など世界のすべての領域へとつながっています。すべての領域で神様の義を追求する中で、迫害は必ず来るのです。

その理由は、何でしょうか。私達人間の内面には、神様の御心に抵抗しようとする罪の傾向があります。ですから神の御国は、常にその御国に抵抗する罪と悪の勢力から攻撃を受けます。イエス様が始められた神の御国はすでに始まっていますが、まだ完成はしていません。今神の御国は、中間段階にあります。神様は教会を通して、御国を拡張させられ、完成へと導いておられます。教会は、神の御国の大使館です。私達一人ひとりは御国の大使館として、神様の御心が天から届くように、地にも尽くすべきです。そしてそのような人生は、必ず迫害をもたらすでしょう。信仰生活を通して、今この世界で受ける利益を重視する、日本の宗教文化と真反対なのです。これがおそらく、キリスト教が日本で困難を強いられている理由かもしれません。しかしイエス様は、義のために迫害を受ける人は不幸な人ではなく、幸いな者だとおっしゃいました。天国、つまり神の御国がそのような人のものであるからです。迫害される時は悲観的にならず、むしろ喜んで楽みなさいと言われました。神の御国で頂く賞が大きいからです。迫害する今のこの国は永遠に続くのではなく、いつかは消えます。しかし私達が、キリストを信じる信仰の中で与えられた神の御国は、永遠なのです。しかしこの両方の国は、単に長さの差だけではありません。ローマ8:35で、パウロは迫害の真ん中にいる教会に、こう質問します。

「だれが、私達をキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害

ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」

そしてパウロは、 38、39節でこのように答えます。

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスにある神の愛から、私達を引き離すことはできません。」

迫害する国と、神の御国の本当の違いは、時間よりも質です。私達を愛される神様と、永遠に一緒に過ごすのですから、その永遠という時間は、私達が喜んで楽しむべき真の祝福なのです。今まで私達は、数か月にわたって八福の教えを学んできました。イエス様がおっしゃった幸いは、一つ一つが私達が一般的に考える幸いと、すべて外れる逆説でした。しかし私達は、神の御国の民として、その逆説を生きていく中で、真の幸いは他でもなく、私達を愛される神様との関係の中にあることを、発見することを願います。私達が歩む信仰の道のりがたとえ大変で険しくても、神様を信頼して歩いていきましょう。義のために、一歩一歩踏み出す中で、神様の下さる真の幸いが、まるで蝶のように飛んで来て、私達の魂の上にそっと留まるはずです。

2020年7月12日

マタイの福音書5:3-12

「八福の教え:平和を分かち合う」

イエス様が教えられた、7番目の幸いな者について見てみましょう。9節「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」

イエス様がおっしゃった幸いな者は、平和を作る者、つまりピースメーカーです。 平和を作る必要があるのは、私達の周りには敵対関係にある人々が多いからです。 聖書には、互いに敵対する話がよく出てきます。  聖書の中で、もっともよく出てくる代表的な例は、神様と私達人間です。神様は人間の敵、そして人間は神様の敵なのです。 このような神と人との敵対関係の中で、聖書の物語は展開されているのです。本来人間は、自分を造られた神様の御心に従って生きるように、創造されました。 しかし人間は、そのような神様の御心を拒んだのです。 人生の主人は神様ではなく、自分であるべきだと思ったからです。 人間は、神が自分を治める権利を無視し、自分の欲望に従って生き始めました。 そしてすべての人間は、このようにして罪人になりました。

ローマ人への手紙 8章 5節から8節までは、こう言います。「5 肉に従う者は肉に属することを考えますが、御霊に従う者は御霊に属することを考えます。6 肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。7 なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。8 肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。」この本文の著者である使徒パウロは、人間を二分類で見ていました。 肉に従う者と、御霊に従う者です。 一般的に人は肉という言葉を聞くと、人間の体を思い浮かべます。 しかしパウロは、ここで人体のことではなく、人間が持つ罪の傾向を指して、「肉」という表現を使いました。 肉に従う者は、神様の御心に従うのではなく、自分が持つ罪の傾向、つまり自分の願うことを実現しようとする欲望に従って、生きる人です。 肉に従う者の内面には、神に敵対する本能があります。 その本能によって、自分の願うものを優先して生きようとしますが、神様はそのような生き方の敵となるのです。 「あなたに与えられた人生は、あなたではなく、あなたを造った私のものだ。 私はあなたが存在する理由であり、またあなたが生きていく目的なのだ」と主張されるからです。 イエス·キリストに従う信仰なしには、私達人間は皆、肉に従う者に属します。 そして自分も知らないうちに、神を敵対し憎むのです。

神を敵とすれば、神だけではなく、職場の同僚・隣人・友人・家族、さらには自分と全く関係のない人々まで、自分の敵となるのです。 自分の意志や快楽にとって、壁となるような存在を憎むようになる傾向が、人の心の中にあるからです。 それによって私達みな、自分の幸せのために生きていますが、皆が幸せではありません。 人間は自分の幸せを邪魔する者に敵対するのですから、いつの時代も、どこにあっても、人間が集まって暮らす社会では、常に葛藤が絶えません。ではどうすれば、互いを敵としてみなさなくなるのでしょうか。どうすれば、平和を作ることができるでしょうか。イエス様がおられた当時、ローマ帝国は強力な力で広い領土を治めていました。 ローマ皇帝は、自分の植民国にこのように約束しました。 「偉大なローマ皇帝の権威に服従し、ローマのルールに従え。 そうすれば、あなたたちはローマ帝国の中で安全に保護され、平和を享受できるのだ!」 多くの国々がローマ皇帝の言葉に服従し、不満があっても皇帝の前で目立つことがないように、問題を起こさなかったのです。 これにより他の時代に比べて戦争が少なくなり、民族間の葛藤が表に出ない時期が長期間続きました。 それでローマ皇帝は、自分を「ereipoios(平和を作る者)」と呼びました。 そして後代の歴史家は、比較的平和だったその時期を「Pax Romana (ローマの平和)」と呼びました。しかし実際の歴史から分かるように、ローマ社会の平和は人々の敵対心が消えたのではなく、ローマの強力な軍事力の前で、敵対心を隠していただけだったのです。誰であれ、目に障る者は一気に皆殺しにするという、ローマ皇帝の恐ろしい敵意が、当時の人々が受けた平和の大元、源だったのです。 敵意で平和を作ろうとしたローマ皇帝は、真のピースメーカーではありませんでした。

今日も同じです。 人々は、柔和で強力なリーダーシップ、または発展した政治制度などを通して、平和を作ろうとしています。 このような努力は、必ず必要なことに違いありません。 しかし限界があることは、明らかです。 いくら良い枠に人を入れて管理しようとしても、その枠内にいる人々の敵意が消えない限り、葛藤はなくならないからです。 罪の問題が解決され、神様と和解しなければ、私達は誰とも本当に和解することはできず、真の平和をつくることはできないのです。イエス様はその事実をご存じだったので、全能な方にもかかわらず、ローマの皇帝のように力で平和を作ろうとされませんでした。 逆に自ら自分の力を閉じ込めて、低くなられました。 そしてご自分の命までも、犠牲にされました。 その理由は、何でしょうか。 ローマ書5章10節と11節は、こう言います。「10 敵であった私達が、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私達が、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。11 それだけではなく、私達の主イエス・キリストによって、私達は神を喜んでいます。キリストによって、今や、私達は和解させていただいたのです。」父なる神様は、罪に染まったこの世界と和解するために、イエス様を送られました。 けがれた私達人間を、聖なるご自分のもとに連れて行くためには、必ず人間が持つ罪の問題が解決されなければなりませんでした。 完全な神様であり、完全な人間であるイエス様は、十字架の死で私達の罪を背負われました。 遠ざかった神様と私達を和解させる、真の仲介者となられたのです。 イエス様の仲介の中で、神は私達を敵ではなく、ご自分の子供として迎えて下さいました。 イエス様が創られた神様との平和の中で、私達の運命は死ではなく、永遠の命となりました。 それによって私達は、肉の中にいる時に経験したことのない平和を満喫しているのです。

私達は生きていく中で、 敵対する人々や自分を脅かす現実によく直面します 。しかしどんな状況でも私達は絶望せずに、神様の御心に従って生きられるのは、どんなものも私達を主イエス·キリストの中にある神の愛から、切り離すことはできないからです。 しばらく私達を傷つけるかもしれませんが、どんなものも私達を根本的に害することはできません。 私達の安全は、揺るぎないものです。 私達の喜びは消えないのです。 これが神様と和解した私達が、神の子として受ける真の平和なのです。この平和を今味わう人々は、自分一人だけでこの平和を所有することに、満足しません。 主イエス·キリストの中で神様と自分が和解したように、他の人も神様との和解の中で、平和を受けることを望んでいます。 私達はこの社会が互いに敵対し合うことで堕落する時、もちろん政治的にも平和のために努力しなければなりませんが、神様が私達に本当に願われる使命は、伝道と宣教です。 神様を敵とする人々に福音を伝え、神様と和解させる通路になる者こそ、真のピースメーカーであり、真の神の子なのです。

もちろん平和を作ることは、決して簡単ではありません。 リスクが大きいからです。 互い敵対する二人を仲裁しようとする時によく起こる現象は、両方から攻撃されることです。しかし心配しないでください。 神様と人を仲介することで、両方から攻撃されることはないからです。 私達の救い主であるイエス·キリストは、神と人を仲介するために、両方から激しい攻撃を受けられました。 イエス様は、人に裏切られ、拷問され、殺されました。 イエス様ほど、人から傷ついた者はいません。 またイエス様は、神様からも攻撃されました。 神様の攻撃は、人間のものと比べものにならないほど、苦しくて恐ろしいものでした。 神様は正義なる方なので、私達人間が犯したすべての罪への怒りを、すべてイエス様に浴びせました。 その痛みはあまりにも大きいので、使徒信条はイエス様が黄泉に下って行かれたとまで言います。 イエス様が神と人との両方から攻撃を受けられ仲介して下さったので、神様と私達は本当に和解することができたのです。それによって神と人が和解すること、また私達が参加する時、私達は決して傷つかないでしょう。 私達とすでに和解された神様は、福音を伝える私達の側に立ってくださるからです。 そして私達に恐れと戦う勇気と、賢く伝えられる知恵と忍耐力を与えて下さいます。 覚えてください。 真の仲介者は、私達ではなくイエス様です。 私達がすべきことは、愛を持ってその人に仕え、福音を伝えることだけです。 実を結ばせることは私達ではなく、キリストがなさるのです。 それで私達は相手の反応に挫折したり、あきらめたりするのではなく、キリストに委ねながら伝道を続けることができるのです。皆さんをご自分の子どもと呼ばれる神様が、平和を作っていく全ての瞬間の中で、共にいてくださいます。 自分が受けているその平和を、続けて愛する人々と分かち合ってください。 伝道は、人の魂を愛する最善の方法なのです。 神様との平和を分かち合い、真のピースメーカーであるイエス様に似ていく私達皆になることを、主の御名で祝福します。