2020年8月23日

テサロニケ人への手紙第一5章17節創世記 2章1920節前半

「敬虔な心を持つための習慣④:祈りによって自分の日が作られる」

敬虔な心を持つための習慣について、具体的に一つ一つ説教致します。この説教シリーズは、ジャスティン·エリーという、宣教師でありまた弁護士が書いた「共同のルール: 気を散らす時代の中で目標を持つ習慣」に基づいています。この本は、福音派の有名な雑誌であるChristianity  Todayに、2020年「今年の本」として選ばれました。共同のルールというのは、みなが必ず守るべきルールではなく、「一緒に実践するための、共同体の習慣」という意味です。この本には、一日ごとに実践する4つの習慣と、週ごとに実践する4つの習慣について書かれています。これは絶対に守らないといけない規則ではなく、神様と隣人を愛するための一つの標本として提示するものですので、皆さんの状況に合わせて自由に適用して下さい。

今日一緒に分かち合う習慣は、朝・昼(日中)・夜にひざまずいて祈ることです。聖書本文のテサロニケ人への手紙第一は、テサロニケという都市に住んでいたクリスチャン達に、使徒パウロが書いた手紙です。当時、テサロニケはローマの最高国定機関である元老院が直接治めた都市であったので、テサロニケのすべての住民が、ローマ皇帝を崇拝することは当然とされていました。そのような反キリスト教的な文化の中でも妥協せず、皇帝崇拝を拒否したテサロニケのクリスチャン達は、多くの迫害に苦しんでいました。使徒パウロは、彼らが信仰を脅かされる状況の中にあっても、神様との関係の中で成長できるように、3つの重要な習慣を教えました。それは喜ぶこと、祈ること、そして感謝することでした。今日はこの祈りに集中して見ていきます。

17節「絶えず、祈りなさい。」

ここでの「絶えず」という言葉は文字通り、止まらず何もせず、ただ祈りだけをし続けなさいという意味ではありません。諦めずに、持続的に、習慣的に祈りを重ねなさいという意味の比喩なのです。当時の異教徒達も、クリスチャンのように祈りを重視していました。しかし異教達の祈りとクリスチャン達の祈りの最大の違いの一つは、祈りを聞く側への「信頼」でした。異教徒達が祈る目的は、自分が求めることを神が聞き入れるようにその神の機嫌をとるためでした。異教徒達にとって、神は愛と信頼の対象ではなく、常に機嫌を伺い説得しなければならない、気まぐれな存在だったのです。しかしこれとは違いクリスチャンの祈りは、祈りを聞かれる神様はいつも変わらず、ご自分の子どもを愛される良いお父さんであるという、確信の中で行われるものでした。ですからどんな困難な状況でも、自分を愛して下さる父との信頼関係の中で、持続的に習慣的に祈りを重ねる中で、喜び、感謝することができたのです。

私達は、テサロニケのクリスチャン達のように直接的な迫害は受けていませんが、私達も家族や友人との関係の中で、また社会生活の中で、自分の信仰を脅かす様々な状況に直面しています。しかし私達が習慣的に祈りを地道に繰り返して一日を過ごせば、神様の臨在を深く体験する中で状況に引きずられず、神様が意図された人生の目的をはっきりと認識しながら、生きることができるのです。祈りが私達の一日一日にどのような影響を及ぼすのか、創世記の最初の話を通して見てみましょう。

創世記1章によると、神様の創造が始まる前、世界はどうだったでしょうか? 

2節「地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。」

世界はもともと秩序が全くない、混沌そのものでした。しかし神様は、その混沌の世界に何かを入れ込まれ、その結果すべての混沌が征服されました。神様が入れ込まれたそれは何でしたか。それは、御言葉でした。神様がおっしゃったすべてが存在するようになり、世界は混沌から脱して秩序のある美しい姿へと生まれ変わりました。神様は、御言葉で造られたその世界をご覧になり、このようにおっしゃいました。

「見よ、それは非常に良かった。」

御言葉は混沌を征服し、現実を新しくする力を持っているということです。

神様はご自分の形として、人間を造られました。人間は神様に似た存在として、創造されたのです。では人間は、神様のどんな部分と似ているのでしょうか。神様はアダムを造られた後、アダムに特別な仕事をさせられました。

創世記2章19節~20節前半「19 神である主は、その土地の土で、あらゆる野の獣とあらゆる空の鳥を形造って、人のところに連れて来られた。人がそれを何と呼ぶかをご覧になるためであった。人がそれを呼ぶと、何であれ、それがその生き物の名となった。20,人はすべての家畜、空の鳥、すべての野の獣に名をつけた。」

神様がアダムにさせられたことは、「言うこと」でした。神様はご自分が造られた被造物をアダムのところに連れてきて、アダムはそれぞれの被造物を、自分の言葉で呼びました。アダムは鳥を鳥と呼び、犬を犬と呼び、魚を魚と呼びました。そうしてアダムの言った言葉が、それらの名前になりました。この話が意味するものは、何でしょうか。神様の権威と能力が、神様に似た人間に与えられたということです。人間は、神様からどのような権威と能力を受けたのでしょうか。それは、「言葉の力」です。神様の御言葉には何かを存在させ、命を造る力を持っているように、神様に似た人間の言葉も、力を持っているのです。

人間の言葉は、どんな力を持っているでしょうか。一つ目に、を定義する力です。アダムが鳥を鳥と呼んだ時、鳥という言葉がその名前になったように、私達人間は、自分が直面した現実を、言葉で定義する力を持っています。例えば、同じように事業に失敗した二人がいるとします。一人は心の中で、こう言います。「立ち上がることは、不可能だ。もう自分には、希望はない。自分はもともと、何もうまくいかない運命だったんだ」しかしもう一人は、心の中でこう言いました。「必要以上に、萎縮しないことにしよう。大丈夫だ。今回はうまくいかなかったけど、この経験が立ち直るための重要な土台になると思う。まだ終わってはいない。まだ希望がある!」この2人は、同じ状況をそれぞれ別の言葉として定義しました。そしてそのような状況をどのような言葉で定義したかによって、ある人にとっては絶望と闇になり、ある人にとっては成長するための重要なきっかけとなりました。人が言葉でどのように定義するかによって、自分の状況が全く異なる現実となるのです。現実を定義する力、これが人間の言葉が持つ、一つ目の力です。

人の言葉が持つ二つ目の力は、何かを創造する力です。神様の御言葉が世界中を創造したように、人間の吐く言葉は聞く人の心の何かを創造します。誰かからの温かい慰めの言葉が、その言葉を聞いた人の心に希望を創造し、また生かしたりもします。しかし反対に誰かから投げられた憎しみに満ちた批判、汚い悪口の一言が、その言葉を聞いた人の心に劣等感や絶望、傷を創造し、その人を殺したりもするのです。このように私達が吐く言葉は、その言葉を聞く自分と他人の心に、大きな影響を及ぼすということです。

から言葉の威と能力を受けた私達人間は、自分の言葉で現を正しく定義し、神が喜ばれるものを創造しなければなりませんでしたが、罪の道を選択してから言葉の使用に、しばしば失敗するようになりました。そして言葉を間違って使うことによって、最も被害を受ける人は自分自身です。私達が一日を過ごす中で、自分にどんな言葉を言うのか考えてみましょう。まず朝、私達は自分にどんな言葉を聞かせますか。多くの人は朝起きると、自分の手が自然にスマートフォンに向いていると感じます。自分へのメールを確認します。今日のスケジュールを確認します。今日、会社ですべきことを考えます。

主婦は、起きると歯磨きをしてから、すぐに台所へ向かうでしょう。朝食の準備のために、何をすればいいか考えます。夫を職場に行かせるため、子どもを学校に行かせるため、何をしたらいいか考えます。そして夫と子供たちが去った後、やらなければならない家事について考えます。知らず知らずのうちに一日が始まり、自分が初めて聞く言葉は、「今日、何をしないといけない?」なのです。そして「今日、何をしたらいいのか?」を毎朝繰り返し、自分に言います。この言葉によって、自分の現実はこのように定義されます。「自分は、与えられた仕事を終えるために生きる存在だ。自分は、何かを達成するために生きる存在だ。」そうやって無意識に、自分のアイデンティティーを神様ではなく、自分がする働きによって定義するのです。そしてそのような歪んだアイデンティティーを着て、一日を始めます。

職場に到着し、今日の仕事が本格的に始まりました。日中、 今日すべきことに、会社の人々の視線に、全ての神経が注がれています。疲れをまぎらわすために、コーヒーを一杯飲む余裕は与えられますが、神様を思う心の余裕は全く許しません。神様と対話をする少しの時間も、許さないのです。あふれる仕事に圧倒され、自分にこう言い続けます。「これをしないといけない、あれもしないといけない。そしてその次は、何をすべきか。いつまでに、終えなければいけないのか。上司と同僚は、どんな反応を見せるだろう?」自分も知らないうちに、職場は神様と信仰とは別の場所であり、そこにいる間は与えられた業務を終えることと、職場での評判を守ることを優先しないといけないと認識するようになります。そして自分の働く目的は、神様と人々を愛し仕えることではなく、 反対に自分の価値を証明して、人々に尊敬され、仕えることになってしまいます。間違った言葉で現実を歪曲し、神様が喜ばれないことを創造するのです。

夜には、自分の限界を肌で感じる時間となります。今日してしまった失敗について、自分を責めます。「どうして、あんな風にしてしまったのか。。」「他の人は、どう思っているのか」そして今日終えられなかったことを考え、罪悪感を抱きます。「今日も、あっという間に終わってしまった。今日もまた、あのことができなかった。明日は、何を終わらせなければならないのか?」今日一日をまだ終わらせたくないという残念さと、明日しなければならない仕事の負担のせいで寝る時間が遅くなり、よく眠れません。一日の最後に、自分に誤った言葉を繰り返すことで、自分の未来を間違って定義するのです。自分の未来は、常に愛を持って必要なものを満たしてくださる神様ではなく、自分が築いてきたものと、これから成し遂げることによって守られるのだと錯覚してしまうのです。私達はこのように間違った言葉を繰り返し言って、また繰り返して聞くことによって、自分の一日が目的もなく、ただ状況に引きずり回されて終わってしまうのです。

私達の一日が、間違った言葉の習慣から回復するためには、自分の心と魂に正しい言葉を聞かせる新しい習慣の時間を組み入れなければなりません。それが祈りです。朝、起きるやいなや、自分が最初に言うことは、今日何をしないといけないの?ではなく、「今日、私に命を与えてくださった神様、ありがとうございます。」という祈りなら、どうでしょうか。「今日も、あなたと一緒に過ごす一日を、創造して下さったことを感謝します。」という感謝の告白であれば、どうでしょう。このような聖なる祈りの言葉を聞くことで、神は愛の創造主であり、自分は愛される存在であるという、正しいアイデンティティを着て(持って)、一日を始めることになるのです

日中は、自分のいる場所が職場であっても、短い祈りの瞬間を入れ込むことで、自分が働く意味が変化するのです。「今日、私がすることが、神様の喜びとなるようにしてください。人々のために愛を持って仕事ができるように、自分の仕事が神様が世界のためになさる、善良な仕事の一部となるようにしてください!」このような尊い祈りを聞くことで、自分が仕事をする目的は、に生きるためではなく、神や人を愛するためだ、ということにづくようになります。このような目的意識の中から、私達は神喜ばれることを創造するのです

寝る前には、自責や後悔ではなく、神様への信頼の言葉を祈りの中で告白しましょう。「神様、私を守ってくださる神様の愛の中で、私の体と心が休まるようにして下さい。今日私に与えて下さった愛と恵みが、明日も与えられることを感謝します。」 ベッドに横になって、適当にする祈りではなく、ベッドの横にひざまずいて謙虚に捧げる祈りで、一日を終わらせましょう。愛されるために何かを達成しなければならないというプレッシャーから解放され、変わらず自分を愛してくださる神様にたよる中で、尊い安らぎの時間が与えられるでしょう。私達が絶えず、朝・昼・夜・くりかえして捧げる祈りの言葉が、聖なる習慣の格子となり、私達が送る一日一日が、神様の恵みの中で生まれ変わりますように、主イエス·キリストの御名で祝福します。

2020年8月16日

マタイの福音書 26:36-42

「敬虔な心を持つための習慣③:新しくなった欲望を祈る」

当時弟子たちは、すべてを捨てて、イエス様に従った人たちでした。 彼らはイエス様の中で、それぞれの希望を抱き、明るい未来を夢見ていました。 正義が悪に常に勝利し、信仰は不信仰より、常に幸せな結果を生み出し、神の民であるイスラエルが、すべての民族の中で堂々と立ち、生きておられる神様の存在が、明確に表れる世界を期待したはずです。 しかしイエス様は、このような彼らの希望を、一瞬にして壊してしまいました。 ご自分が、死にかけていることをおっしゃったのです。 そばにいるみんなから捨てられ、惨めに死ぬことをおっしゃったのです。 弟子たちは、非常にあわてふためき、その瞬間を迎えるまで、イエス様の言葉を受け入れることができなかったのです。その夜、イエス様はゲッセマネに行かれました。 そして、弟子3人を連れて、別の場所に行かれました。 37節と38節は、こう言います。

37,そして、ペテロとゼベダイの子二人を一緒に連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。38,そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」

このみ言葉を、注意深く読んだ瞬間、私たちは、自分が持っているイエス様のイメージが、壊れるのを感じます。 神様の御子であるイエス様、病気の者を治されたイエス様、五つのパンと二匹の魚で、五千人を食べさせられたイエス様は、悲しんでおられました。 苦しんでおられました。 心の苦痛が、あまりにも大きくて、死ぬほどでした。 イエス様の死を前にして、天と地の対立は最高潮に達し、義と罪、そして命と死は、激しく対立していました。 このような葛藤の渦の中で、イエス様は、すべてを超越された全能者ではなく、私たちのような、弱い人間として、寂しく立っておられたのです。

人間である、イエス様の両足がついているところは、神様の御心がすべて明確に実現する天ではなく、悪で利己的な者が繁栄する反面、善で信仰深い者に、あらゆる失敗と試練がもたらされたりする、この地でした。 イエス様は、この壊れた地の上に立って、天のお父様にこのようにお祈りしました。

39,「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」

この祈りの中で、偉大なる王の気品は、全く見当たりません。 四方八方、塞がったところから、上に向かって、切実に助けを求める、無力な子羊が見えるだけです。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」「苦しいのです。避けられるのなら、避けさせてください。 」御父から捨てられる、恐ろしい苦痛を前に、イエス様は、御父が他の道を許すことを欲望されました。御父の御前でご自分の弱さと欲望に、余りにも率直になられたのです。 これが、私たちに祈りを教えられた方が、最大の苦難の中で告白した、偉大な祈りだったのです。

それでは、今日の私達が祈るこの場所は、どのような所だと思いますか。 イエス様は、この世界に来られたことで、神の御国はすでに臨みました。 しかし、まだその御国は、完成していません。 まだこの地は、罪の影響によって壊れていて、私たちはいつも、葛藤の場所で祈っているのです。 特にコロナによって、多くの人々が苦しんでいる近頃、現実は、私たちの願いとは違う方向へと、流れています。 突然、自分の家族や周りの人々が、健康を失ったりします。また、多くの人が仕事を失ったり、経済的に莫大な損失も出ています。 また、世界中の多くの教会は、礼拝堂に集まることができず、財政的に非常に困難になっています。このような状況について、無神論者たちは、こう言います。 「愛の神様が存在するなら、なぜコロナのような問題が起きるのか。 コロナこそ、神がいないという明白な証拠だ」。 私たちが生きているこの地に、多くの葛藤が起きる中、人間の目には、すべてを司る神様の手が、不明瞭に見えるかもしれません。 しかし、葛藤は信仰を持っている者にとって、否定的なことばかりではありません。ヘブル人への手紙 11章 6節は、このように言います。

6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

ヘブル人への手紙11章には、ノア、アブラハムのような、信仰の祖先が、一人ひとり言及されています。 彼らが生きていた世界も、善人が常に繁栄し、悪人はいつも滅びるという、分かりやすい世界ではありませんでした。 かえって、今日より矛盾や葛藤がひどく、神様を信頼するに足る証拠が、もっと薄く見える世界だったのです。 しかし、その祖先は目に頼らず、信仰によって、一生神様だけに従って生きました。 同じく, 先ほど私たちが読んだ6節は、この壊れた地の上に生きる、クリスチャンに与えられたみ言葉です。 様は、ご自分を信頼するために、明確な証拠を求める者を喜ばれないのです。 明確さは、私たちに、一時的な楽しさを与えることはできますが、それは絶対に信仰が育たない、荒れた砂地だからです。しかし様は、私たちにこの壊れた世界の中でも、また心と反対に流れていくような状況の中でも、神様が生きておられることを、信じなければならないとおっしゃいました。   この世界の中で、私たちが直面している葛藤は、私たちに大きな苦痛を与えたりもしますが、神様はその葛藤を、私たちの信仰を育ませる、肥沃な土壌にしてくださるのです。 様は、ご自分を求める者に、必ず報いてくださる方であることを、どんな葛藤の中でも信じなさい、とおっしゃいました。 私たちは、葛藤の中で、神様をどのようにして、見つけることができるでしょうか。それは、祈りです。したがって神様は、私たちの信仰が成長できる祈りの環境を、私たちが直面している葛藤を通して、造られるのです。 神様の善良な御心の中で、葛藤は偉大な祈りの土壌になるのです。 ですから私たちは、どんな葛藤の中でも絶望せずに、神様に祈ることができるのです。

は、私たちが葛藤の中で、何を欲望するのかご存知です。 仕事を失う危機にある人々は、経済的に不安定になる状況を恐れる中で、働き続けることを欲望します。 病気になった人は、健康を失うことを恐れる中で、自分が回復することを欲望します。 愛する恋人と別れる危機にある人は、大切な縁を失うことと、一人になる寂しさを恐れる中で、関係が続くことを欲望します。 このように私たちの欲望は、私たちが直面する葛藤と、固く結びついています。 もちろん祈りは、何でも自分の欲しいものを得る、自動販売機のようなものではありません。 しかしは、私たちが祈る中で、自分が恐れることと、欲望することに、率直になることをゆるされます。 の御前で、私たち自身が、それを欲望していることを、正直に認めるようにされます

イエス様は祈る中で、ご自分の欲望に率直でした。「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」イエスのこのような率直さは、「わが父よ」という御言葉に、基づいています。自分の祈りを聞くその方は、御子の弱さを抱くのに、十分な愛の父であることを、信されたのです。もちろん、罪のないイエス様の欲望とは異なり、私たち人間の欲望は、罪から完全に自由なのではありません。 私たちが感じる欲望の一部分は、利己心に染まっていることが多いのです。 それにもかかわらず、イエスは、私たちにこう祈るようにえられました。主の祈りの最初、「天にまします、我らの父よ」神をお父さんと呼ばれたイエスのように、私たちも、神をお父さんと呼ぶようにと、おっしゃったのです。 極度の悲しみと苦痛にもかかわらず、十字架の死を受け入れてくださったイエスの中で、罪人であった私たちが、神の子供になったからです聖くない自分の欲望が、祈りに適しているかどうか、気になるでしょうか? 私たちの祈りを聞かれる天の御父は、私たちを罪から救うために、御子を牲にしてくださったほどに、私たちを愛しておられます。 キリストが背負れた十字架は、神みが、私たちの罪よりも、はるかに大きいことを示している表です。 ですから私たちは、みの大きさに信し、天の御父に、私たちの心にめられたすべてに、率直にできるのです。 御父は、子供の心、そのまま、耳を傾けられる愛の神なのです。 ですから、祈る中で自分が考えることだけでなく、自分が本に欲望することに正直になってください。自分が正しいと思う理想だけを言うのではなく、自分の心が本に何を欲望するのかに注目し、神の御前にその欲望、そのままを下ろしてください

最後に自分の欲望が、神の御心と調和して、新しくなることを祈ってください。 イエス様は、ご自分の欲望に正直でしたが、同時に、このように祈られました。「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」イエスは、ご自分が必要と感じることを率直に告白されましたが、天の父の御心が優先され、またその御心と、自分の欲望が調和することを祈られました。 そして祈りを終えた後、イエスはご自分の死を通して、世界を救おうとされる神の御心に服されたのです。 イエス様は主の祈りを通して、私たちもそのような祈りを捧げるように教えました。「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈る中で、自分が必要と感じるものを、素直に求めるようにされました。 しかし、主の祈りの核心は順序にあります。主の祈りは、神と天にする願いが前半部にあり、私たち人間と地にする願いが後半部に出てきます。 このような順序で構成された理由は、祈る私たちの心がまず、神の御心と神の御を欲望することを願われたからです。祈りは私たちの欲望を無視するのではなく、神の御心と調和し、新しくなるものです。 の御心が私たちの率直な欲望を抱く中で、 が喜ばれることを私たちも喜ぶようになりが悲しまれることを私たちも悲しむようになっての聖なる形に似ていくようになるのです。祈りこそ、敬虔な心のために。繰り返すべき聖なる習慣なのです。矛盾と葛藤にちたこの地で、自分の欲望が新しくなることを祈ってください。 の御前で、裸の本の自分に直面してください。 そして自分の存在の中に閉じ

められたすべてのものが、神の御心が照らす、照明の下で、新しく整えられることを期待してください。 そのような祈りを通して、神様が私たちの信仰を固くしてくださり、死まで御父の御心に従われた、イエス様のように私達も全ての状況の中で神様を信頼し、服従するようになることを、私たち主イエス·キリストの御名で祝福します。

2020年8月2日

出エジプト記20章2、8-11節

「敬虔な心の持つための習慣②:創造主の喜びに参加する安息」

今日は、敬虔な心を持つための最初の習慣として、安息についてお話します。今日は、肉体的な労働は減ったものの、仕事にさらされる時間は、かえって増えました。 昔は、働いている時間と仕事が終わった後の間には、明らかな境界線がありましたが、今日は、その境界線が崩れています。 インターネットやパソコン、スマートフォンなどを通して、職場だけでなく、どこでも、またいつでも仕事にアクセスできるようになり、仕事は私たちの私生活の中にも、深く入ってくるようになりました。 人々は、他人との無限の競争の中で、自分の休みの時間までも犠牲にして、最大限多くのものを生産しようとします。 それによって、人々はもっと忙しくなり、 いつの間にか忙しい生活を、自分が価値ある存在だという証拠として思うようになりました。それとは反面、休むということについては、十分に努力していないという怠惰なイメージを持つようになりました。 休息の価値を忘れ、疲れに苦しむ、疲労社会になったのです。

聖書は、このような働くことと、休むことを重要なテーマとして扱います。 聖書の中で、誰かが働く場面はどこで初めて出ますか。 創世記1章、聖書の最初の部分です。 聖書は、神様が世界を創造される姿を、神様が働く姿で描写します。 神様は、世界を造られる仕事を6日間されました。そしてついに、7日目になりました。私たちが、先ほど聖書交読で読んだ、創世記2章の最初の部分は、その第7日にあったことについて話します。 3節はこう言います。

“神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。”

第7日に、神様は他の日とは違い、創造の働きはされず、休まれたのでした。 人間のように、疲れて休んだのではなく、ご自分が造った被造世界の存在を、記念して喜ぶために休まれたのです。 被造物の存在を喜ぶための、創造主の休息が、神様の安息です。 そして、このような神様の安息の中で、創造は完成したのです。

創世記2章と3章に登場する『エデンの園』は、神様が喜ばれた世界には何の葛藤もなく、平和で満たされていたことを示しています。 神様は、人間をエデンの園に置き、そこを耕かし、守る仕事をさせられました。 働くことは罪による呪いではなく、神様が与えられた人間の大切な使命だったのです。 喜びを持って自分を造ってくださった、創造主に従う中で働くことは、人間にとって祝福となったのです。  しかし人間は、創造主の御心に従って生きることを、拒否しました。 自分が人生の主人になって、自分の心に従って生きることを望みました。 このような罪の道を選んでからは、人間は働くことの祝福を受けることができず、逆に働くことに支配される仕事の奴隷になったのです。人間は、創造主が造られた自分の存在そのものに、満足することができず、また感謝することができず、常に自分が望む理想の姿になろうとします。 理想の自分になるために、自分の力で何かを達成しようと思います。 ですから、自分という存在を造られた創造主の喜びが、自分の自尊心の源になるのではなく、自分の労働が自尊心の源になるのです。 ですから不安で心が休まず、理想の自分になるために、最大限に何かを生産しようとします。 ずっと何かになろうとする人間の執着が、人間自身を仕事の奴隷にする罪の心理なのです。

このような人間の罪を証明する事が、出エジプトの出来事です。 イスラエル民族は、エジプトでどんな生活をしていましたか。 エジプトの奴隷となり、休みたくても、休めなかったのです。 エジプト人は、イスラエルの子孫に、あらゆる困難な労働をさせ、彼らに余裕のない忙しい生活を追い込みました。 休みのない仕事の連続で、いつも疲労感の中でいきるようにしたのです。 苦しんでいるイスラエル人たちの叫びが、神様に聞こえました。 神様は、イスラエル民族を救うために、モーセを送りました。 モーセは、エジプトの王パロにこう言いました。 出エジプト記5章1節です。

“その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」”

神様が、まさに王パロに命令したことは何でしたか。 イスラエル民族が、神様のために祭りを行うように送れ、ということでした。 つまり、彼らが神様を記念して喜べるように、仕事を止めて休むように、ということでした。 すると王パロは、神様のその命令にどう反応しましたか。 その命令を無視して、むしろイスラエル民族に、より多くの労働をさせました。 もっと忙しく、もっと疲れさせ、もっとたくさんの休みを奪いました。 奴隷として経験する労働の悲劇の中で、休みを奪って仕事に執着させる罪の姿が、鮮明に反映されているのです。 

私たちは、イスラエル民族が経験した悲惨な状況を見て、自分たちを忙しくさせることが、どれほど危険なことかを悟らなければなりません。忙しい現代人たちは、便利な生活をしていますが、心に感じられる幸せの指数はとても低いのです。 体は楽なのですが、ストレスによるうつ病、不安症など、精神的な問題に悩まされることが多くなります。 休みの欠乏は、自分の体だけではなく、心を傷つけることに必ずつながるのです。皆さんの心は、忙しさから守られていますか? 皆さんは、十分に休みをとっておられますか? マーク·ブキャナンというカナダのクリスチャン作家は、「神の休息」という本で、このように述べています。 

自分が、十分に休んでいるかどうかを知る、一つの方法は、自分が重要だと思うことを、どれほど重要に扱っているか、を自分に問うことである。

自分は神様との交わりを大切に思っているのに、聖書と祈りに時間をかける心の余裕がないのでしょうか? 今、自分と一緒にいたい大切な人がいるのに、一緒に喜んだり、一緒に泣きたいと思っているのをわかっているのに、その人と一緒に時間を過ごす心の余裕がないのでしょうか? 自分の周りの人に、何か問題が起こったという知らせを聞いた時、その人の安否よりも、その問題が自分に影響を及ぼさないことを望むことが、まず気になりませんか?このように忙しさは、自分にとって本当に重要なことを、重要に扱えないように、心を集中的に攻撃します。 神様が造られた自分が、今このように存在しているという事実よりも、これから努力して、向上する未来の自分が、もっと重要に感じられます。今、自分のそばにいる愛する人々の存在より、これからもっと良い条件を備えた自分になって、彼らに認められる存在になることが、もっと大切に感じられます。 私たちにとって本当に重要なことは、存在そのものにあるにもかかわらず、何かになるための執着によって、本当に重要なことの価値に、鈍感になってしまうのです。 忙しさは、このように神様を愛し、隣人を愛するのに必要な、私達の霊的な敏感性を奪うのです。 忙しさから自分の心を守るためには、安息という習慣が、私たちに必要です。

神様は、イスラエル民族を仕事と忙しさの奴隷とした王パロを屈服させて、彼らを助け出されました。そして長い間休めなかった彼らに、神様が一番先に教えられたのは安息でした。 出エジプト記20章2節と8節はこう言います。

2,「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。8,安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。

神様は、イスラエル民族に自分達が奴隷だった時の悪い習慣を捨てさせ、救われた神様の民として、自由の中で生きることを望まれました。そして、その自由を満喫するためには、イスラエル民族に安息の習慣が必要だったのです。

第一に、安息は働くことの束縛から、人を自由にします。 神様が、イスラエル民族を救い出された後、連れて行かれた所は荒野でした。 荒野は、自分の力では何も生産できない、荒涼とした土地でした。 彼らが食べられるのは、神様が天から授けてくれるマナだけでした。 彼らに与えられた仕事は、一日分の量のマナを、拾うことでした。 その翌日のマナまで、貯めておこうとすれば、そのマナは腐ってしまいました。 特に6日目には、その翌日に食べる量まで増やしてくださったのです。 それで第7日に、彼らがマナを拾うという働きを止めて、安息するようにされました。 命が守られるのは、マナを拾う自分達によってではなく、毎日マナを下さる神様の恵みであることを教えるためでした。 安息は、日々必要な糧をくださる神様を信頼することで、未来の自分の安全を確保するために、何かを積み重ねようとする、働くことの束縛から自由になるのです。第二に、安息は、時間の束縛から人を自由にします。 今日は、時間がお金より大事な時代になりました。 お金は稼げますが、時間はお金でも買えないからです。 時間の問題において、人間にできることは、節約することだけです。 それで人々は、自分に利益にならなかったり、生産的でないことに、時間を取られることを極度に嫌います。 そして自分の時間を、分単位で分けて、細かく計画を立て、いつも忙しいスケジュールに苦しめられています。 それが時間を節約して稼ぐ、賢明な生き方だと思っているからです。 しかし時間に束縛されて、心に余裕がなくなると、本当に大切なことに、時間を使うことができず、重要ではないことに、必死に時間を費やすようになります。 実際には、時間を稼いでいるのではなく、捨ててしまっているのです。へブル書4章9節は、安息の習慣を実践する、本当の目的についてこのように言います。

“したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています。”

神様が、イスラエル民族に安息を命じられた理由は、神様の民に与えられる本当の安息に入るためでした。 今、私たちに与えられた安息は、一時的なものです。 しかし、神様が建てられた救いの計画が完成する時には、私たちは神様が準備された永遠の安息に入るということです。 永遠なる神様には、時間の制約がありません。 唯一、時間を越えて存在される神様のそばで、私たちは永遠に安息します。 安息は、時間の主である神様を信頼する中で、働くことを止めて永遠を味わうことです。 ですから安息は、自分の時間が減っているという不安から、私たちを自由にしてくれるのです。

仕事と時間に束縛されれば、なぜ敬虔な習慣が重要なのか、その価値を感じることができません。 またその習慣を、実践することができません。 これが、すべての習慣の中で、安息を最初に説教する理由です。 皆さんの毎日の時間の中で、全てのことを止める時が、必ず必要です。 安息の時が、必要です。 安息というのは、創造の働きを止めて、ご自分の被造物を喜ばれた創造主のその喜びに、賛同することです。 理想の自分になろうとする執着を捨てて、今の自分に向けられた、神様の喜びを感じることに時間を使ってください。 具体的に、どのように過ごすかをあげてみます。聖書の黙想と祈りを通して、自分に神様が何をおっしゃっているかを聞くのも良いでしょう。 好きな賛美を聞いたり、歌ったり、演奏することもいいです。 静かに日記を書きながら、神様と自分について、文章で残すことも良いです。散歩をしながら、美しい自然を造り出された創造主の手を感じるのも良いでしょう。 自由に、安息を実践してください。 そして、安息を通して、隣人の存在を創造された神様の喜びに、参加しましょう。 すべてを止めて、今自分のそばに、自分の愛すべき人々がいることを、大切にしてください。 最も近い家族と、率直に意味のある話をするのも良いでしょう。 夫婦で手をつないで歩くのもいいでしょう。 友達と一緒に、食事をるのもいいです。 励ましが必要な誰かに、電話をかけることもいいことです。 試練の中で悲しんでいる人を慰め、一緒に祈るのも良いでしょう。 自由に、安息を実践してください。 安息の本当の精神は、何をしてはいけないかではなく、創造主の喜びに同参するために、何かをすることにあるのです。安息を通して、神様と人を愛するための、真の自由を受ける私たちになることを、創造主であり救い主である、私たち主イエス·キリストの御名で祝福します。