2020年9月27日

イザヤ書6:1-5

「聖なる神様を経験する」

今日の聖書本文は、このように始まります。 「ウジヤ王が死んだ年に」南ユダの十番目の王様、ウジヤが亡くなり、今の日本の状況と同じように、国の最高のリーダーシップに、変化があったころでした。 このイザヤ書には、当時の正確な日付を推測できる手がかりが、あまりありません。 しかし、イザヤは例外的に「ウジ王が死んだ年」という、重要な情報を提供しました。 これは、イザヤが何も考えずに言ったことではなく、当時の状況を知ることが、み言葉を理解するうえで、重要なので意図的に言ったのです。 学者によって、少しずつ違いがありますが、おそらくこの聖書本文が背景にしている時は、B.C.739年であった可能性が高いのです。

B.C.739年の状況を理解するために、まずイスラエルの歴史を、簡単に見てみましょう。 ソロモン王が亡くなり、B.C.  930年頃、イスラエルは、二つの王国に分裂しました。 それは、北イスラエルと南ユダでした。 北イスラエルは、B.C.  930年から722年まで約200年間続き、南ユダはB.C.  930年から587年まで、約350年間続きました。 聖書本文がB.C.  739年を背景にしているとすれば、当時はどのような状況だったでしょうか。 北イスラエルの滅亡が近づき、その兆しが徐々に現れる時でした。 北イスラエルを征服したのは、どの国でしたか。 アッシリアでした。 アッシリアは当時、約80年間あまり他国を攻撃せず、比較的国を維持することだけに集中し、静かに過ごしていました。 その理由は、その時のアッシリアの王たちは、あまり野望がなかったからです。 しかし、以前の王たちとはまったく性質の違う人が、アッシリアの王座を継ぐことになりました。 その新しい王とは、ティグラト・ピレセル3世でした。

ティグラト・ピレセル3世は、当時の領土に満足せず、拡張し続けようとした野望家でした。 彼はまず、南の海岸にある都市を、ひとつひとつ征服して、エジプトまで下りました。 なぜ彼は、海岸に沿って攻撃していったのでしょうか。 これには、二つの理由がありました。 一つ目は、当時、貿易において非常に重要だった主要道路が、海岸に沿って伸びていたからです。 この道路を占めれば、経済的に莫大な利益を得ることができました。 もう一つの理由は、海岸を占領すると、他の国々が海に接近できないからです。 あの広い地中海を、アッシリアが独り占めにしたのです。このようにティグラト・ピレセル3世は、野望も大きく、知略も優れた征服者でした。 彼はエジプトまで占領した後、帰り道に、自分に反抗した北イスラエルを残酷に踏みにじりました。これが北イスラエルが、歴史から完全に消えることになった理由でした。

聖書本文は、ティグラト・ピレセル3世がアッシリアの王になり、まもなく、北イスラエルを滅亡させる危機の時を、背景にしています。 しかしイスラエルの人々は、自分たちに降りかかる危険をまったく感知せず、ただ道徳的に、また霊的に堕落していました。  イザヤ書1章から5章までを見ると、当時、南ユダがどれだけ腐敗していたのか、預言者イザヤがこれを見て、どれほど悲しんでいたのかが、よくわかります。 人々は偶像崇拝に陥って、神様と他の神を一緒に崇拝しました。 また指導者たちは賄賂を好み、裁判を公正にせず、孤児や未亡人のような、社会的に弱い人々をなおざりにしました。 これにより、神様の神殿がある都市、エルサレムから、聖なる霊性と正義が消え、不義と暴力が横行するようになりました。

そして、何より絶望的だったのは、強大国であるアッシリアが、世界征服に向けた準備を、徹底的に積んでいるこの危機の中で、南ユダは、「王を失った」ということでした。 ウジヤ王は約50年間、南ユダを安定して治め、ダビデ王やソロモン王時代のように、黄金期をもたらした統治者でした。 ウジヤが治めていた間、南ユダは繁盛していて、他国から干渉されることなく、独立して過ごし、経済的にも悪くはありませんでした。 ウジヤは信仰の面でも、イスラエルの歴史の中でも、数人しかいない素晴らしい王でした。 しかし残念ながら、彼は度重なる成功に、結局最後は傲慢になってしまいました。 ただ祭司だけに許される、香をたくことを、ウジヤ自身が、自分でやってしまったのです。 結局、彼はツァラアトに冒され、死んでしまいました。 息子のヨタムがウジヤの後を継いで、王になりましたが、まだ彼は、強大国であるアッシリアの圧力に耐えるには、経験が足りない、20代半ばの幼い統治者に過ぎませんでした。

これは、国家の試練だけに当てはまるのではなく、私たち一人ひとりの人生の中に存在する、試練にも当てはまる話です。 誰もが自分の人生で、一番大切に思うことがあります。 誰にでも、自分という存在の価値を、感じさせるもの、自分のプライドを支える、源があります。 ある人にはそれが恋人、ある人には配偶者や子供、ある人には、自分のビジネスや職場での成果、またある人には、自分の財産や余暇生活でもあります。 それらは王様のように、自分に命令を下したりはしませんが、実際に自分の生活を治める、統治者のようなものです。 なぜなら、私たちはそれらを中心に世界を見つめ、自分が生きていく理由や目的を、それらから求めているからです。 また試練が訪れたら、自分が耐えなければならない理由を、それらから探ります。 「辛くても家族を守るために、がまんしなければならない。」 「厳しくても自分の店を守るため、職場の人たちから認めてもらうために、働かなければならない」「厳しくても、お金をもう少し集めなければならない」など、私たちは自分が重要に思う、それらを引き止めるために、試練に耐えようとしています。

しかし、強大国であるアッシリアの攻撃の前で、北イスラエルの王が倒れ、その王に頼っていたすべての人々が、捕虜になってしまったように、歳月が経つにつれて、私たちの人生の中で試練の重さは、ますます重くなります。結局は、自分を支えていたすべてのものが、揺れて、崩れることになるのです。 家庭を守ろうとする家族愛、成果を出そうとする達成欲、認められたいという承認欲、集めようとする物欲など、すべてが人間にとって、重要なことであるかもしれませんが、私たちが根本的に頼れる、統治者になるには、不十分です。 罪によって、私達が生きているこの世界は壊れていて、それによって世界は、いつも正しい方向に流れるのではなく、矛盾と悲劇に満ちています。 私たち自身も、罪の影響の中にあるので、罪から私たちを救ってくれる、何かがなければ、私たちは、神様から遠ざかっていくでしょう。 では、どんな状況でも、私たちを支えてくれる統治者は誰でしょうか?

南ユダの統治者ウジヤ王が亡くなり、強大国のアッシリアからの圧力が強まる中、預言者イザヤは、ある幻を見ました。 御座に着いておられる主は、高くあげられていました。そして主が着ておられる衣のすそは大きすぎて、神殿全体を埋め尽くすほどでした。 この幻が教えることは、何でしょうか? 神様は、偉大な王というものです。 どんな偉大な王よりも高くおられ、神様の主権は、どの統治者のものよりも広く、深く、完全なものなのです。 世界のすべてが、神様の統治の下にあり、神様はそのすべてを、完全に治めておられる真の王様だということです。

またイザヤは、幻の中でセラフィムという天使を見ました。 天使たちは、王座に座られた神様の周りで、このように叫びました。 3節後半を一緒に読みましょう。

「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。 その栄光は全地に満ちる。」

おそらく、皆さんは聖書を読む中で、何かを強調するとき、同じ言葉を2回繰り返すことを、よく見かけたことがあると思います。 しかし、同じ言葉を3回も繰り返すケースは、ほとんど見たことがないでしょう。 同じ言葉を3回繰り返すのは、ヘブライ語で「最上の」という意味です。つまり、神様が持っておられる聖さは、すべての聖さの中でもっとも聖くあるということです。 それでは、”聖なる”という意味は何ですか。 “聖なる”とは、”高い” ”上げられている” ”異なる”という意味です。 神様は誰よりも高く、存在するすべての高さの中で、一番高い所に持ち上げられた存在だというのです。 また、世界に存在する他のものと完全に区別された、全く別の存在だというのです。

イザヤは最上に聖なる神様に出会い、恐れを感じました。 天の存在として造られたセラフィムですら、聖なる神様の御前では顔を覆い、足を覆うほどでした。 恐れは、神様に会ったすべての者が、共通して見せる反応です。なぜ神様の御前で、恐れを感じるのか。 5節を一緒に読みましょう。

5  私は言った。 「ああ、私は滅んでしまう。 この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから。」 

神様に会った者たちが皆、恐ろしさを感じる理由は、神様は、自分とはあまりにも違うからでした。神様は、あまりにも明るく、自分の闇が、あまりにも鮮明に現れました。 神様はあまりにも美しく、自分の汚れを隠すことができませんでした。 神様はあまりにも全能で、自分の弱さがあまりにも、みすぼらしく見えました。 偉大な神様の御前で、自分という小さな存在が、ますます小さくなり、消えてしまうような恐怖を感じたのです。

このように、自分とあまりにも違う神様は、たいてい人気がありません。今の世界を生きていく上で、自分の好きなように、人生の統治権を先に自分に渡す神様、助けが必要な時だけ、見つけられる神様が、人気が高いのです。罪の傾向を持つ、私たち人間は、自分をあまりにも、みすぼらしく見せる偉大な神様、自分とあまりにも違う神様が嫌です。偉大でなくても、自分を引き立たせてくれる神、自分とあまり変わらない、自分の存在を神のように高めてくれる神、私たち人間は、そのようなものが好きなのです。 自分と似ていて、恐れではなく、自分を自信満々にさせる神を探しているのです。 しかしその神は、自分が人生の統治者になろうとする、私達人間のエゴが作り出した偽りに過ぎず、人生の中に吹きかける、あらい試練の波風を、ぜったいに治めることはできないのです。

しかし、聖書の本文によると、本当の神様は私たちとはあまりにも違い、私たちを恐れさせる聖なる方だと言います。 人は普通恐ろしい時、勇気を失って、縮こまったり、逃げたりします。 しかし神様の聖さが与える恐怖は、違います。 モーセは神様に会い、怖かったのですが、アロンと二人で、エジプトの奴隷であるイスラエル民族を助けに行きました。 イザヤも同じでした。 聖書本文の8節で、神様はこのようにおっしゃいました。

「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」

神様の御前で、イザヤは怖かったのですが、こう答えました。

「ここに私がおります。私を遣わしてください。」 

神様の聖さが与える恐怖は、むしろ私たちに勇気をくれます。 自分の弱さのために縮こまるのではなく、弱い自分とはあまりにも違う、偉大な神様を信頼し、むしろ試練に立ち向かうようにします。 神様が、自分と全く異なる方であることが、自分にとってかえって大きな慰めと力になるのです。

今、私たちは人生の中で、様々な試練に直面しています。 自分の力で十分克服できるような、甘い試練もあれば、まるで北イスラエルを飲み込んだアッシリアのように、自分を無力にする、巨大な試練もあるはずです。 しかし重要なのは、私たちが直面している試練の大きさではなく、その試練の中で、誰に自分の人生を治める統治権を与えているか、なのです。 もしその統治権を私たち自身が握っているなら、神様以外のものに任せているなら、私たちはいつか、その試練に圧倒されてしまうでしょう。 その統治権を、試練の間だけ神様に渡し、また自分がつかもうとすると、結局は弱い自分に似た、偽りの神に頼る結果になるでしょう。

試練の中で、神様に出会ってください。 以前は罪によって、私たちと聖なる神様の間に、狭められない距離があったのです。 私たち自らの力では、神様に近づくことは絶対に不可能でした。 しかし、私たちのすべての罪を償うために死なれ、よみがえられた救い主イエス·キリストの中で、その距離が消えました。 キリストの中で聖なる、聖なる、聖なる神様が今、私達の中に住んでおられます。 これが、どれだけ驚くべき特権でなのでしょうか? 私たちに与えられた、毎日の時間の中で、神様を経験しましょう。 その聖さの鏡にうつった、私たち自身の汚れと闇を見つめましょう。 まだまだ自分が握り、手放そうとしない何かがあることに気づき、心から悔い改めましょう。 神様の御手に、自分のすべてをゆだねましょう。 そんな体験がたまり、聖なる神様に従って、私たちも聖くなる恵みが豊かに与えられるでしょう。 もちろん、私たちがいくら神様に似ていっても、神様は永遠に私たちとは、全く異なる方として存在するでしょう。 しかし聖なる神様と私たちのその差が、むしろ試練を乗り越える勇気になり、世界が与えることのできない、大きな慰めと平安になるでしょう。

2020年8月30日

ヨシュア記178

「敬虔な心を持つための習慣⑤:御言葉によって自分の日が作られる」

今日の聖書本文は、自分自身を御言葉に浸らせる習慣が、いかに重要かを教えます。 当時の状況を言いますと、現在日本の総理の地位が安倍氏から、これから決まる後任者に継承されるように、イスラエルの統帥権が、モーセからヨシュアに継承される時でした。 神様は、モーセをエジプトに送り、奴隷生活をしていたイスラエル民族を、そこから救い出されました。 しかし彼らは、約束の地に行くために荒野を旅する途中、自分を救って下さった神様の恵みを忘れ、神様を信頼しなかったのです。 結局、20歳以上の出エジプトの第1世代のうち、ヨシュアとカレブ以外のすべての人は、約束の地に入ることができず、荒野で死んでしまいました。

残念ながらモーセも、約束の地を目の前にして、モアブの地で亡くなりました。 モーセの死後、神様はヨシュアを、新しい指導者として立てられました。 そしてヨシュアに、出エジプトの第2世代の人々を連れて、約束の地に行く使命を、与えられました。 7節と8節は、こう言います。

「7  ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである。 8  このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。」

本文の中で、神様がヨシュアに一番強調されたことは、何でしたか? いつも神様の御言葉を親しんで、それを心に刻んで、守ることでした。 神様の御言葉を、最優先しなさいというのは、一般的な常識から見れば、ヨシュアが直面する現実から、かけ離れている話に違いありません。 その時ヨシュアは、どのような状況に置かれていましたか。 これまで40年間、荒野を歩き回りながら、主に霊的な訓練を積んできましたが、そこからの状況は全く違ったものでした。 約束の地であるカナンに入るために、通過しなければならない地域には、すでに多くの人々が住んでいました。 彼らと戦って勝たない限り、荒野から出て、カナンに入ることはできなかったのです。

紀元前6世紀頃、中国に孫武という、有名な軍事戦略家がいました。 彼が書いた「孫子の兵法」という本は、日本や韓国でも、広く読まれてきました。 その本には、誰もが一度は聞いたことのある、有名な一言が書かれています。 「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」 一般的には「敵と味方の実情を熟知していれば、百回戦っても負けることはない」と言われています。 この言葉は、後代の軍事家、政治家などが、敵と戦って生き延びるべき時に、何度も心に刻む名言となりました。 ヨシュアにとって本当に必要だったのは、このような、実用的なアドバイスではなかったでしょうか。 これから起こる、熾烈な戦いの中で、イスラエル民族は、生き残る道を探さなければなりません。そのような状況の中で、敵の数は何人なのか、敵はどのような武器を持っているのか、どれだけ訓練されているのか、自分達の戦力で戦えば、どの程度の勝算があるのか、敵と自分を把握することより、もっと重要なことがあるのでしょうか。

実は、その時から40年前にも、これと似たような状況があったのです。 エジプトから救い出されたイスラエル民族は、カナンに向かって歩いていました。 エジプトからカナンまでの距離は、約640キロ、車で時速80キロで走れば8時間、小さな子供や高齢者の群れを連れて、ゆっくり歩けば、遅くても2~3カ月で着く距離でした。 イスラエル民族が、パランの荒野に陣取って待機していた時、神様はモーセに、一つの指示を出されました。 それは、イスラエルの各部族の中から1人ずつ、計12人を選んで、カナンの地に偵察を送りなさい、というものでした。 選ばれたその12人は、40日間にわたって、カナンに住んでいる敵の姿がどのようなものか、そこの地形はどうなのか、どれだけ肥沃なのかを、直接調べて戻ってきました。

その12人は、それぞれどのような報告を、したのでしょうか? 驚いたことに、彼らは、同じカナンの土地を見てきたのに、報告の内容が、全然違っていたのです。 12人のうち、10人の報告によれば、カナンが乳と蜜の流れる土地であることは、間違いありませんが、地形がとても険しかったです。 また敵があまりにも強く、勇敢に見える反面、イスラエルの戦力は、あまりにもみすぼらしく、勝算は全くないと、報告しました。 この、絶望的な報告を聞いたイスラエルの民は、大きく動揺しました。 いっそう、「もうエジプトに戻った方がいい!」などと、不平を言い出したのです。 しかし、12人の偵察隊のうち、カレブとヨシュアだけは、「神様が共におられるから、イスラエルは必ず勝利するのだ!」と励ました。 しかし人々はそれを聞き、ヨシュアとカレブに、石を投げて、殺そうとしました。 敵を知り己を知ることによって、共におられる神様の存在が、完全に排除されてしまったのです。 これにより、ゆっくり歩いても2、3ヶ月で終わる、カナンへの道のりは、神様を信頼するための、40年間の訓練期間へと変わってしまったのです

それから40年後、ヨシュアは再び、似たような状況に直面しました。 そして神様はヨシュアに、イスラエル民族が犯した、過去の過ちを繰り返さず、何よりもみ言葉を守るように、強調されました。 7節の後半で、こう言いました。 「これを離れて、右にも左にもそれてはならない。」御言葉から離れれば、必ず右にも左にも、それるようになるということです。 御言葉から離れれば、敵と自分を知ることによって、信仰が圧倒されてしまうからです。 敵の強い姿と、それに比べてみすぼらしい自分に捕らわれてしまい、神様がおられないような、嘘の現実を生きさせるからです。

このような状況を、私たちもこれまで、数え切れないほど、頻繁に経験してきました。 就職活動をする中で、それぞれの会社の知名度、給料などの現実的な条件などと、自分の信仰生活を守るために、求める条件が互いに葛藤したりします。 一生を共に過ごす配偶者を探す中で、職業、社会的地位、収入、外見、性格、趣味などの基準と、信仰の面で求める基準が、互いにぶつかることもあります。 職場では、業務の分担において、または問題が発生した場合「誰が責任を負うのか?」について、皆が自己中心的になる中、多数が選ぶ道と、自分の信じる道が対立することもあります。 また、時間の使い方において、自分の時間を誰のために使うのか、何のために使うのか、またどう過ごすのかを決める時にも、霊的な戦いがあります。 お金の使い方においても、自分のお金を何のために使うのか、どれだけ使うのか、何のために貯金するのかを決める時にも、霊的な戦いがあります。

そして多くの人々が、この熾烈な戦いの中で生き残るために、自分を守るために、孫子の兵法の知恵に従います。 敵を知り、自分を知るために、最善を尽くします。 自分が置かれている状況が、どれだけ危険なのか。自分に、どれだけの被害を与えるのか。敵対する人は、どれだけ強いのかなど、敵の戦力を把握しようとします。 それに立ち向かう自分の力は、どれくらいなのか、どこまで被害に耐えられるのかなど、自分の戦力を把握しようとします。 いつも目の前の現実は、強そうに見えます。 いつも信仰の道は、勝算がないように見えます。 そして結局、神様がおられないような現実を、生きようとします。孫子の兵法は、霊的な戦いの中では、全く通じません。 神様が共におられることを、全く認知できなかったイスラエル民族のように、私たちは、敵と自分自身を見る前に、神様がどのような存在かを知らなければ、本当の現実は、何であるかを知ることができないからです。 自分の心が、神様の御言葉に根付かないまま行う、敵と自分の戦力把握は、百回戦って、百回負ける敗北の近道なのです。

敵と自分だけを見つめ続けることは、敵と自分が誰なのかを、把握するのに全く役に立ちません。 皆さん、割れた鏡を見たことがありますか? 私が小学校 5年生の時,  “スラムダンク”というバスケットボールのマンガが、韓国でも非常に人気が高かったのです。”スラムダンク”のおかげで、バスケットボールがとても好きになったあまり、どこへ行くにも、バスケットボールを持って行きました。指の上でボールを回したり、壁に弾きながら遊びました。 そんなある日、家の洗面室でも、バスケットボールで遊んでいるうちに、洗面台の鏡を割ってしまいました。 私は、怖かったのです。 その鏡は毎朝、父が自分の顔を見ながら剃る、鏡だったからです。 鏡を見ると、全面にわたってひびが入り、自分の顔が歪んで見えて、よく見えなかったのです。

誰もが生きる中で、自分が誰なのか、何のために生きる存在なのかなど、アイデンティティの問題に直面する時があります。 そして多くの人が、自分自身を知るために、自分自身だけに集中し続けます。 自分のアイデンティティを、ただ自分自身から探そうとします。 しかしそれは、割れた鏡に映った自分の姿を見るようなものです。 神様はご自分の形として、私たち人間を創造されました。 私たちは、神様の聖なる姿を照らす、鏡のようでした。 しかし、その鏡は割れてしまいました。 私たちが選んだ罪の道によって、私たちの存在の中に込められた、神様の形が歪曲してしまったのです。 あまりにも多くのことが、元の自分と違ってしまいました。 ですから私たち自身だけを見つめていては、神様が意図された本当の自分を見ることができないのです。

自分のアイデンティティを探すための出発点は、自分自身ではありません。 自分という存在を造ってくださった、創造主なる神様だけが、本当の自分自身を取り戻すための出発点なのです。 神様を知ってこそ、自分を知ることができるのです。 同様に、自分の置かれている状況も、状況そのものを見るだけでは、わかりません。 罪によって壊れたこの世界は、神様が意図された元々の良い姿を、たくさん失ってしまったからです。 自分が置かれている状況の真実も、まず世界を造られた神様を知ってこそ、分かるものなのです。 神様の中にこそ、自分を知り、敵を知ることができ、勝利の日々を生きるための道を、探すことができるのです。

神様を知るためには、私たちに何が必要でしょうか。 神様の御言葉です。 私たち人間が互いを知っていく上でも、相手が自分のことを話してくれなければ、その人をよく知ることができません。 創造主である神様は、被造物である私たち人間と、比べ物にならないほどの、大きな存在です。神様が、私たちが理解できる方法で、ご自分を現わさなければ、絶対に神様を知ることはできないのです。 しかし神様は、私たちがご自分をある程度理解できるように、私たち人間の言葉で、ご自分を紹介されました。 それが聖書です。 「Ⅱテモテ3章16節と17節は、こう言います。

16  聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。 17  神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

聖書は、神様の霊感、すなわち聖霊の働きによるものです。 聖霊は、著者が聖書を記録する中で働かれ、神様の御心通りに書かれるようにされました。 そして聖霊は著者だけでなく、読む人々の心の中にも、働かれます。 私たちが信じて聖書を読む中で、神様を知り、自分の本当のアイデンティティを、取り戻せるようにしてくださいます。 自分が、なぜ存在しているのか、何のために生きるべきか、何が正しいのかを分かるようにして下さいます。 これによって、人生という熾烈な戦場の中にあっても、神様の存在を認識し、神様の御心に従って生きる力を、与えてくださるのです。 これが、神様の御言葉である聖書が、私たちに与える、霊的な有益なのです。

それで神様は、ヨシュアにこう言いました。 8節は、こう言います。 「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。そのうちに記されていることすべてを守り行うためである。そのとき、あなたは自分がすることで繁栄し、そのとき、あなたは栄えるからである。」神様の御言葉を、昼も夜も、それを口ずさみなさい、というのは、私たちの日常の中で、持続的に、また習慣的に、神様の御言葉に自分を浸らせなさいという意味です。 これによって、神様の御言葉が、自分の心に刻まれる時にだけ、私たちは神様と自分を知り、自分の状況が与える恐怖から抜け出して、神様の御心に服従して、生きることができるのです。 神様の御言葉に従うことが、一般的に考えられる、繁栄と成功へと、いつもつながるわけではありません。 しかし神様の御言葉は、神様に服従すること自体が、真の繁栄であり、成功であることを、心から悟って喜ぶようにさせます。これが毎日の霊的な戦いの中で、百戦百勝する知恵なのです。

聖書はありふれた、単なる本ではなく、私たちのために存在する、神様からの奇跡の贈り物です。 聖霊の中で、聖書の御言葉一つ一つが、それを読む私たちのために生きて、息をするのです。 聖書に書かれた言葉一つ一つが、文章一つが、今日一日、私たちが生きるための食べ物となり、熾烈な争いの中で、勝利を収める力になるのです。 驚異と感謝の心で、聖書を楽しむ中で、私たちの一日が、神様が喜ばれる姿になることを、御言葉を語られる御父、御言葉となられた御子、御言葉を実現される御霊の御名によって祝福します。