『今週のメッセージ』バックナンバー

No.1「一日」 伝道者の書 3章1節~15節

 伝道者の書について一番初めに思い浮かべるのは、恐らく「むなしい」という 言葉だと思います。なぜならこの言葉は、38回も出てくるからです。 「むなしい」という言葉を聞くと、何か意味がない、ばかばかしい、また空虚な事などをイメージします。しかし旧約聖書の原語であるヘブライ語では、この「むなしい」という 言葉"ヘベル"は、"霧・蒸気・息"という 意味を持ちます。 "霧・蒸気・息"の共通点は何でしょうか?これらすべては、あまりにも短い間に散在し、そして消えてしまうということです。 ヘベル = むなしいという言葉は、"あまりにも短い"という意味なのです。地上での私たちの時間は、あまりにも短いのです。なぜなら私たちみなは、死んでしまうからです。私たちの人生は、死という現実の前で、朝、薄くかかる霧のように、すぐに蒸発して消えてしまうようなものなのです。このことが伝道者の書が教える、最も重要なメッセージのひとつです。伝道者の書は、私達の短い人生そのものが、意味のないものだと言っているのではありません。人生の短さを無視して生きる私たちの愚かさが、自分自身を無意味にさせることを警告しているのです。 人間ならだれでも死ぬことは知っていますが、自分自身もいつかは死んでしまうという現実を、簡単には受け入れられないのです。自分にゆるされた短い時間を、いかに意味のあるものとして送るかよりも、まるで自分の人生が延々と続くかのように、おもに未来に思いを向けるのです。将来にやって来るだろう不幸を恐れ、自分自身を安全に守る何かを積み重ねていこうとします。伝道者の書は、私たちが時間を超越する存在ではなく、逆に人生という時間の制限の中で生きていく存在だと教えます。私たちは、時間を支配する存在ではなく、時間という現実に順応しなければならない存在なのです。神様は、ご自分が造られたすべてのものをご覧になった、良い創造主であられます。霧のような短い時間を生きる人間とは違い、神様は時間の創造者として、世界のすべてのものの背後に存在する時間の秩序を造られました。すべてをそれらの時に美しいように造られる、時間の支配者であるということです。時間を支配する権利は私達ではなく、唯一の創造主、神様にあることを求めるとき、私たちは現在を楽しみながら、生きることができます。なぜなら、私たちが住んでいる今この瞬間は、それらの時にすべてを美しいように造られる神様が準備された、贈り物だからです。もちろん、私たちが生きていくこの世界は、罪によって壊れ、美しく幸せな瞬間だけが存在するわけではありません。私たち人間は、確かに時を分別し、適切な行動を選択することに失敗を繰り返します。 人間は、このような事に対して弱く、それによって世の中にはとても辛い瞬間があります。しかし、このような私たち人間の失敗にもかかわらず、希望があります。なぜなら、時間を治める方が私たちと一緒におられるからです。人間の数多くの過ちにもかかわらず、時間の創造者である神様は、イエス・キリストによる救いの時を定められました。そして、その時が満ち、イエス様はこの地に来られ、私たちの罪のために死んで、よみがえられました。神様がご計画された回復の時が、キリストを通して成就されたのです。彼の死と復活により、神の国、神の統治は、私たちが住んでいるこの場所で、すでに始まっているのです。まだ完成はしていませんが、神の救いは遠い将来のことではなく、今この瞬間、まさに私たちのそばにあるのです。私たちが送る一日の日常の中で、救いの体験と、それによる喜びを持って生きることができるのです。

No.2「恵みで積まれた階段」   創世記28:10-19

 今日の本文は、自分の故郷を離れ、悲しい状況の中で生きた一人の男の話が出てきます。彼の名前は「ヤコブ」です。 彼は年取った父親をだまし、兄エサウが受ける祝福を奪おうとしました。神様が嫌がられる方法で、神様の祝福を手に入れようとしたヤコブは、私たち人間の矛盾な側面を見せています。 兄エサウは、自分が受け取る祝福を弟ヤコブに奪われた事で非常に怒り、彼を殺そうと心に決めました。ヤコブはこの事実を知り、生き残るためには、遠くに逃げるしかありませんでした。ヤコブは神様さえも欺けると信じていた自分の知恵に裏切られ、自分の故郷を離れたのでした。  ヤコブは、これらの悲惨な運命を肌で感じながら、ハランという場所に行く途中、路上で寝ていました。そして、彼は神秘的な夢を見ました。彼が寝ていた地面から階段が立てられていたのです。ヤコブが見上げてみると、その階段の頂上は天まで届いていました。神様がおられるその天と私たち人間が住んでいるこの地を結ぶその階段は、人間が絶対に作ることができないものであることを、表していました。その階段の上には、神様に仕える天使たちが上り下りし、天と地が交わっていました。 より高くしようとする途中、むしろより低くなってしまったヤコブに、突然現れたこの階段の存在は、驚異そのものでした。しかし、何よりも彼を驚かせたのは、まさに彼の隣に神様が立っておられたことでした。神様はヤコブのような低い者のために、あの高い天から降りて来られ、彼に近づいて下さいました。強制的に神様を操ろうとしていたヤコブでしたが、そんな彼を神様ご自身から祝福してくださったのです。  ヤコブは、神様をだまそうとした詐欺師であり、故郷から追放された放浪者でしたが、神様はそのような彼に会われたのです。そしてヤコブに会われたこの地に再び彼を連れてこさせ、いつも彼と一緒にいてくださると約束して下さったのです。 ヤコブは初めて悟りました。自分と同じ罪人でさえお見捨てにならず、いつも共にいてくださる神様のそばこそ、自分が戻って行かなければならない真の故郷であることを。その故郷に行く階段は、人間が造り上げるものではなく、神様から与えられる恵みの贈り物であり、私たちが神様に向かって上に上がっていくためのものではなく、主が私たちのような低い者へと降りて来られるためだという事実を、ヤコブは知りました。  ヨハネ1章51節で、イエス様は、ご自身についてこう言われました。 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」イエス様はヤコブが見たその階段について言われ、その階段がまさにご自身であることを明らかにしてくださいました。この世界を愛し、ご自分のひとり子を送ってくださった神様の恵みによって、イエス・キリストという仲介者は、私たちが住んでいるこの地上に降りて来られたのです。まさにこのイエス様の中で、神様と罪人である私たちの関係が回復され、天と地が出会うのです。イエス様こそ、私たちが住むベテル、神の家であり、天の門なのです。私たちは、救い主イエス・キリストへの信仰によって、私たちの故郷である神様に戻ることができるのです。その旅の中で起こるどのような状況の中にあっても、主イエス様は、私たちと共にいて下さり、永遠に変わらない愛で守ってくださるのです。

No.3「恵みから始まるシャローム」  ローマ人への手紙 1:1-7

 7節では、「恵みと平安」と言ったパウロの挨拶が出てきます。その挨拶が私たちにとって、どんな意味があるのかでしょうか。この「恵みと平安」は、パウロが書いた他の手紙にも、よく使われている挨拶の言葉です。新改訳聖書では、「恵みと平安」と訳されていますが、新共同訳では「恵みと平和」と訳されています。「平安」と「平和」、どちらもEirene(エーレネ)という同じ新約聖書の言葉から来たものです。これは皆さんよくご存知の旧約聖書に出てくる、シャロームと同じ意味の言葉です。シャロームは神様と私たち被造物、そして私たち被造物互いのハーモニーで満ちている状態を意味しています。 本文では、パウロはローマの教会の信徒たちに、「恵みと平安(シャローム)が、あなたがたの上にありますように」と挨拶しました。パウロがローマの信徒に教えようとしたのは、うわべだけの平安(シャローム)ではなく、本当のシャロームとは一体どこから始まるのかについてでした。当時、ローマの教会には、ユダヤ人クリスチャンだけでなく、異邦人のクリスチャンも一緒にいました。しかし、彼らはお互いを教会の家族として認めず、無視していました。「恵みとシャローム」という挨拶を聞いたユダヤ人と異邦人のクリスチャンたちは、これは何を意味しているか簡単にわかることができました。「恵みとシャローム」というこの言葉は、ユダヤ人の挨拶と異邦人の挨拶を合わせたものだからです。 その当時、異邦人たちは「喜べ」と互いに挨拶をし、ユダヤ人たちは「シャローム」と挨拶をかわしました。この二つの挨拶を合わせれば、「喜べとシャローム」です。しかし、パウロは、「喜べ( chaire カイレ) 」をよく似た音の単語である「恵み( charis カリス )」に変えることによって、クリスチャンのアイデンティティーがこめられた新しい挨拶を作りたかったのでした。「恵みとシャローム」この言葉は、異邦人とユダヤ人のように敵対するすべての関係が、主の恵みによって和解することを願う祝福の挨拶でした。本当のシャロームは、御子イエス・キリストを通して、神様と私たち被造物、そして私たち被造物互いに和解された神様の恵みから始まったことをパウロは言いたかったのです。 これは単に、ローマの教会にいたユダヤ人と異邦人だけに向けられたメッセージではありません。私たち人間の罪によって分裂された、この全世界に向けてのシャロームの宣言なのです。ご自分の御子、ひとり子を差し出されたほど私たちを愛してくださった天の父、そして死に至るまで私たちを愛してくださったイエス・キリストのこの恵みこそが、壊れた世界を回復させる真のシャロームの源なのです。恵みは人を変え、この世に本当のシャロームをもたらします。私たちはこの世界を生きる間、主の恵みに反抗するこの世の過酷な壁を経験します。しかし、私たちの魂はその中にあっても、希望を失いません。真のシャロームの王は、すでに私たちのそばに来られ、罪に染まったこの世界をいつの日か神様の恵みにより統治され、この地のすべてに神様のシャロームだけがいっぱいになるからです。

No.4「羊飼いの声」  ヨハネ10:1~5

 イスラエル人が生きていた世界は、いつも偽りの羊飼いたちの声で満ち、戦場のようでした。今日の本文の1節で、イエス様はこう言われました。 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」イエス様が言われた盗人や強盗とは、イスラエルの宗教指導者たちの事でした。彼らが最も関心を置いたのは、神様ではなく、彼ら自身の権力でした。宗教指導者たちは、それぞれ自分の血統が他人よりも優れていると主張し、それにより彼らはいくつかのグループに分裂していました。そして、それぞれ自分の縄張りを守るために、信仰の本質とは関係のない伝統と律法を作り、人々にそれを守るように強制しました。イスラエルの羊たちは、敬虔といううわべに見せかけた偽りの羊飼いたちの声の中で、混乱を感じていました。彼らの声で満ちた世界は、神の民であったイスラエル人にとって、霊的な戦場だったのです。 私たちが生きていくこの世も、また多くの声で満ちています。命と恵みへと導く声もあれば、死と苦痛へ導く声もあります。どの声に従うかによって私たちの人生に大きな影響を与えます。羊飼いのそばから独立しようとした私たち人間は、最終的には偽りの羊飼いの声に従ってしまいました。罪人になった人間は、もはや神様の声に反応できない悲惨な運命を迎えることになりました。そして、破壊的な声が自分自身から聞こえ始めるのです。私たちの中の罪の性質からの声、「人生の主人は神ではなく、自分自身なのだ。」という声が聞こえてくるのです。神様は続けて人間を激しく呼びますが、人間は神様の声を無視し、自分自身の声に従っていきました。そしてついに人間の社会はますます貪欲と利己心の声で溢れる戦場になってしまいました。溢れるほど多くの世界の声の中で、神様の声を区別し、またその声に従って行くのは、私たち自身では、あまりにも弱く、また不足していることを感じています。 しかし、今日の本文で、3節から5節でイエス様は私たちを羊にたとえられ、羊は羊飼いの声を知っており、他の人の声は知らないと言われています。牧畜文化で生活されたイエス様は、これらの羊の特性をよく知っていました。羊は羊飼いの声を知っています。羊たちは羊飼いが吐き出す呼吸と声量を知り、声の太さと高さを知っています。その声の震えと響きを知り、その音声を通して伝わってくる羊飼いの感情を知っています。なぜなら、羊飼いは羊にとって、命そのものであり、全てだからです。羊飼いはいつも自分の羊と一緒に行動します。彼らを導き、守り、そして必要なものを提供するのです。羊は徹底的に羊飼いに頼ることによって生きていくことができます。ですから羊は羊飼いの声以外を知らないのです。 イエス様は、羊飼いを失った羊のような、私たちの状況をご存じでした。罪の穴に落ちて自分では出て来れず、その場所で死を迎える悲惨な私たちを見ました。イエス様は私たちを探しに来られ、私たちのためにご自分のすべてを犠牲にされました。なぜなら、私たちは彼の羊であり、私たちの羊飼いだからです。イエス様は失われた羊を見つけるために、また私たちを救うためにご自分の命までも捨てた真の羊飼いでした。以前は罪によって羊飼いの声を聞けなかったが、羊飼いの死と復活によって、私たちの霊的な聴力は回復されました。 イエス様の羊である私たちは、彼の声を恵みで知っています。私たちに吹きいれる彼の命の息、私たちの魂を動かす彼の声の響き、私たちを抱いてくださる時に感じられる彼の暖かさ、私たちと一緒に歩かれる彼の歩み。私たちは、これらすべてのことを恵みで感じ、信仰で真の羊飼いである彼についていけるのです。世界の過酷な声が私たちを脅かして、私たちを所有しようとしても、勇気と希望を失わないでください。私たちの羊飼いであるイエス様は、私たちといつもともにおられ、愛の声で、私たちの名前を呼んでくださるでしょう。

No.5「キリスト者の希望」   使徒4:1~4

 ペテロとヨハネは、イエス様の復活を宣べ伝えることにより人々を救いに導いていました。彼らの宣教は、実に力強いものだったのです。イエス様の御名によって目の前でいやされた者がいるのを目のあたりにした人々の心は罪の悔い改めに導かれていきました。その様子を見ていた当時の権力者たちの心情は穏やかではありません。なぜなら、当時の権力者であった祭司長や長老やサドカイ派に属する人々は死者の復活や奇蹟や天使の存在を認めようとしない人々だったからです。私たちも、救われる以前、復活を信じる人々を嘲り、復活を受け入れることを頑なに拒んできた者たちです。死んだ人間がよみがえるなんて信じられない。自分の目で奇蹟を見てみなければ聖書に書かれてあることを信じないと抵抗してきたことでしょう。しかし、聖書は復活が実際に起きたことを当然のことのように取り扱っています。何も特別なこととして復活を語っていなのです。なぜなら、すべてのものを無から創造された神様に不可能なことは一つもないことだからです。また、人間がどんなに天地創造を否定したとしても神様が造られた世界があることを誰も否定できません。同じように、復活の出来事を否定しても、復活されたイエス様と出会った人々が実際にいた以上、それを否定することはできません。弟子たちは、実際に見たことを見ていないと偽ることができなかったのです。また、復活が事実であるならば復活を否定する行為は、神様に逆らう行為となることも覚える必要があります。ペテロとヨハネを捕えたサドカイ派の人々は現実主義者でした。彼らは、自分たちの理性で受け入れられるものだけしか認めようとしません。私たちは、復活をどのように受け入れているでしょうか。私たちの生き方に力がないとしたらそれは復活を大胆に宣べ伝えていないことが考えられます。教会において力が向けられるのは、イースターよりもクリスマスであることがその事実を物語っているように思うのです。復活よりも誕生の方が語り易い。誕生は、救われていない人々も経験していることだからでしょう。でも、それでは福音において大切なことを十分に語っていないことになります。死んで終わりの宗教では魅力はありません。希望もありません。この世に希望がもてない状態となる時、まことの救いを求める人々も起されます。私たちの希望は復活です。私たちは、すでにイエス様と共に十字架に死に、イエス様が復活された時、イエス様と共に新しくされた者です。すでに新しくされた者としての自覚をもって日々、復活されたイエス様から力をいただいて主と共に歩む者になりたいと願います。「だれでも、キリストのうちにあるならば、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17

No.6「クリスチャンの一日」   マタイ6:25~34

 イエス様は、周辺でよく見られる鳥と野の花さえも、当たり前のように思われませんでした。イエス様の目に映った日常、いつもの風景には、私たちを愛し、いつも守られる神様の痕跡で、満ちていました。イエス様は一日一日を、新しい歌で神様を賛美する詩人の心で生きておられました。イエス様はこのように語られました。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、明日のための心配は無用です。明日のことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。」私達は将来について不安に思い、自分自身を守ろうとします。そして、より多くのものを所有しようとし、自分のそばに積み重ねて置こうとします。自分にすでに与えられたものに感謝するよりも、自分がまだ持っていないものに執着するのです。今私たちに与えられた“現在”に執着するよりも、将来の安全を考えていることに、より多くの力を注ぎます。しかし、イエス様は私たちが神の国の国民として、他の人生を生きることを願われました。なぜなら神様の恵みは、明日のために私たちが取って置けるようなものではないからです。恵みとは、私たちが神様を信頼する中で、私たちに毎瞬間与えられるものなのです。イエス様は私たちが神の国とその義を求め、それに加えて与えられる神様の恵みを、今日一日の中で体験することを望まれました。ですから、イエス様は私たちに「日用の糧を今日も与えたまえ」と祈るようにされたのです。明日という時間は神様の御手に任せ、今日という一日を神様に集中することに執着しましょう。心配せずに信仰の目を上げ、世界を見てみましょう。私たちの周りには、私たちを守られる神様の愛の証拠でいっぱいです。このことが神の国の国民として、一日一日を生きていく方法なのです。

No.7「真の故郷に向かって」   へブルへの手紙 11:13-16

 聖書は、私たち皆が外国人であり、また旅人だと言います。私たちは、王である神様の主権を拒否して、自分の人生の主人になろうとした結果、神様から追放されてしまいました。私たちは、真の故郷である神様のそばを離れ、永遠にこの荒野のような世界を渡り歩かなければいけない運命にさらされたのです。エデンの東に追放された私たち人間の話は、さらに悲惨な姿になっていくのです。創作者である神様がおられない世界は、絶望と混沌に満ちた場所であり、そこを流浪する私たちの運命は、まさに悲惨なものになるのです。しかし、神様はそんな私たちを見捨てず、再び故郷に連れて行ってくださると約束されます。私たちはその約束を信じ、 天の旅人として真の故郷に向かって歩むべきなのです。その代表的な例が、アブラハムの話です。アブラハムの人生は無限に続く旅のように疲れるものでしたが、彼はこの地に定着することを拒みました。なぜなら、彼は自分が住む故郷がこの地上にないことを知っていたからです。神様は、いつもアブラハムの旅の中で一緒におられました。彼がどこにいっても彼の側におられ、彼に必要なものをお与えになり、危険から彼を守られました。彼の人生にいつも存在される神さまが、これから住む家も用意してくださるということを、アブラハムは信じていました。真の故郷である神様のそばに連れて行ってくださることを信じていたのです。私たちは、今大変な世界の中を生きています。約束の地に向かって荒野を歩いたイスラエルのように、クリスチャンである私たちも新しいエルサレムに向かって、荒野のようなこの世界を生きています。世界はまだ罪のために苦しみ、その中で生きる私たちの人生は、辛いことでいっぱいです。時には疲れを覚え、つらい時があります。この困難な旅をやめて、この地に定着して住みたい誘惑を受けることもあります。しかし、希望を失わないでください。私たちのそばには、真の仲介者であるイエス様がいつも一緒におられるのです。すべての罪を背負って死なれ、復活されたイエス様は、すでに世界に打ち勝たれました。その勝利のイエス様が私たちを真の安息の場所へと導くことでしょう。忘れないでください。私たちは、この地上の住民ではなく、天に望みを置き、この地上を流浪する旅人です。

No.8「主イエスからのシャローム」   Ⅱコリント 5:17~19

 神様がこの世界を創造された時、この世にはシャローム(平安・平和)が存在していました。創造主なる神様は、私たち人間を他の創造物よりも深く愛されました。そして、私たち人間も創造主である神様を愛し、この方だけを礼拝しました。神様と私たちの間には平和がありました。神様の形に似せて造られた人間は、神様の代理人として被造物を管理するように任されました。私たち人間が、神様の御心の通りに被造物を支配した時、私たちと被造物の間には平和がありました。  この世界は、神様と私たち人間、そして私たち人間と他の被造物の間には、ハーモニーで満ちていました。神様はご自分が造られたシャロームの世界を見て、「良い」とおっしゃいました。しかし、私たちが罪をおかすと、そのシャロームはすぐに破壊されてしまいました。人間は創造主、神様の主権を認めず、自分自身が人生の主人になろうとします。聖なる主は、ご自分に逆らって罪を犯す人間を、これ以上ご自分の傍におくことができませんでした。神様と人間の間にあった平和は破壊された為、罪人となった人間は被造物と接する時に、神様を意識しなくなったのです。自分の利益のために利己的に被造物を治め始め、被造物も私たち人間に対して、敵対的になりました。私たち人間と被造物との間の平和も、破壊されたのです。神様が造られた世界のシャロームを壊した人間は、罪人として神様の敵になり、聖い義なる神様は、私たち人間を必ず審判しなければなりませんでした。しかし、今日の聖書の本文は、神様と私たちの敵対関係を和解させた方がいると教えています。 19節ではこう述べています。 「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」神様であるイエス様は、私たちのような人間になられました。そして、私たちの罪の代わりに死なれ、復活され、イエス様を信じる私たちは、罪と死から離れました。神様が私たちの中におられるイエス・キリストをご覧になることで、私たちを義とみなされるのです。私たちは、もはや神様の敵ではありません。私たちは、イエス・キリストを自分の救い主として信頼する時、私たちは神様の愛の子供となることができます。イエス・キリストは神様と私たちの離れた間をつなぐ橋となってくださったのです。世界は神様と人間、そして私たち人間と被造物のハーモニーで溢れています。なぜなら、イエス・キリストの和解によって、この世界のシャロームが回復され、これ以上敵意というものは、存在しないからです。イエス・キリストによって、憎しみは愛になり、敵は友となり、絶望は希望となるのです。闇は光になり、葛藤は平和になり、死は命になります。このことはまさに私たちが信じていること、またこの世界に伝えるべきイエス・キリストの福音なのです。

No.9「恵みの水」     ヨハネ 7:37~39

 この本文は、仮庵の祭りというイスラエルの祭りを背景にしています。この祭りは、イスラエル人が40年間荒野でさまよっていた時、神様が自分達を守って下さったことを記念するものです。神様はご自分を信頼しないイスラエル人を、ご自分の民として訓練させるために、約束の地に入る前に40年間荒野を歩かせました。過酷な荒野の生活の中で、イスラエル人は弱い姿を見せ続けました。彼らは空腹になると不平を言ったので、神様は彼らにマナを与えました。しかし、彼らはマナではなく肉をくれと言い、再び文句を言いました。彼らが水が必要な時に水を与えたにも関わらず、彼らは喉の渇きを感じるたびに神様を疑い、死んでしまうのではないかと心配しました。イスラエル人は同じ過ちを繰り返し神様の心を傷つけましたが、神様は40年間イスラエル人と共におられ、いつも彼らを守りました。この事実をいつも覚えさせるために、神様は彼らに毎年仮庵の祭りを守るようにしました。この祭りの期間中、大祭司はシロアムの池の水を黄金の器に入れ、人々と一緒に神殿に向かって行進しました。そして黄金の器に入れられたその水を神様の御前に注ぎ、荒野で彼らに水を与えて下さった神様に感謝の礼拝をささげました。この仮庵の祭りの最後の日に、イエス様はこう言われました。 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」荒野は、水がない乾いた土地です。 40年間、荒野で生き続けることができたのは、神様が彼らに水を与えて下さったからです。イエス様はご自分がまさに仮庵の祭りの達成であり、イスラエル人の真のメシアであることを教えられました。そして、ご自分を救い主として信じるすべての人々に、命の水をお与えになることを約束して下さいました。私たちは、今荒野のような世界を生きています。世界はまだ罪の影響にあり、その中で続く私たちの人生の旅も大変なものだからです。疲れを覚える時もあり、絶望する時もあり、涙を流す時もあります。私たちも同じように、自分の人生に不満を言います。なんらイスラエル人と変わらない様子で、同じ過ちを繰り返し神様の心を傷つけるのです。聖なる神様に近づく資格がない自分を見て、私たちは大きく失望したりします。キリストを信じて救われたが、救いの完成に至るまで私たちの生活は決して容易ではありません。しかし、39節でイエス様はこう言われました。 「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」イエス様は、地上での働きを終えて天に上られましたが、まだ私たちと一緒におられるのです。なぜなら、私たちに聖霊を送って下さったからです。イエス様は今この瞬間にもおられますが、同時に聖霊を通して、信仰を持つすべての人と共におられます。救われた私たちは、荒野のようなこの世界で旅を続けることができるよう、イエス様は私たちに命の水を与えて下さるのです。私たちは完璧ではありませんが、イエス様はそのような私たちを今もなお赦し、さらに強くして下さいます。その変わらない神様の愛が、まさに「恵み」と呼ばれるものです。私たちは、決して命の水を飲む資格はありませんが、その水は聖霊を通して私たちの中にご臨在されるキリストから絶えず流れ出ます。そのままの姿を受け入れてくださり、愛して下さる神様の恵みに感謝し、今週一週間を生きていきましょう。

No.10「イエス様の御声」      ヨハネ 11:1~44

 本文に登場するラザロは、病気にかかりすぐにでも死にそうな危機の中にいました。彼の二人の姉妹は、人をやってイエス様に助けを求めました。しかし、4節でイエス様はラザロの病気は死ではなく、このことにより、神と神の子であるご自分が栄光を受けるだろうとおっしゃいました。そして意図的に2日後に出発されました。イエス様が到着された時は、すでにラザロが死んで4日が経っていました。その当時、イスラエル人は、人が死ねばその魂は死体の周りに滞在し、その体にまた戻ろうとしますが、3日後には体が腐っていくのを見て、諦めて去ると信じられていました。ラザロが死んで4日が過ぎたということは、彼の魂はすでに肉体を去り、完全に死んだ事を意味していました。人々は、ラザロを戻すことができないと思っていました。イエス様は二人の姉妹と村人が集まって泣いているのをご覧になり、ラザロは墓に葬られた事を聞きました。すると、イエス様はとても感情的なお姿を見せ始めました。イエス様は、激しく涙を流され、また非常に怒りました。聖書の中でイエス様が最も感情的になられたところは、おそらくヨハネ11章と思われます。一体何が、イエス様をそのように悲しませたのでしょうか?何がそんなに怒らせたのでしょうか?それはまさに死です。死は、ラザロを拘束し、彼を墓の中に閉じ込めました。死は、イエス様が愛されるラザロの家族と知人達の心を痛めました。そしてラザロの死は、すぐにイエス様ご本人の死を、考えさせました。死は独り子なるイエス様を天の御父から引き離す、恐ろしい苦しみを経験させるものです。イエス様は、死がもたらした残酷な結果に怒りをおぼえられました。そして死の力に対抗し、戦うことに決めました。イエス様は父なる神様に祈りました。イエス様は死に奪われたご自分の愛する被造物を取り戻すために、天の御父がご自分をこの地に送られたという事実をよく知っておられました。イエス様は、ラザロを死から解放されるよう祈りました。そして、神様はご自分の祈りに答えてくださることを、この事を通して自分を 送られた神様の栄光が明らかになることを信頼しました。そして叫びました。 「ラザロよ。出て来なさい。」すると驚くべきことに、手と足は長い布で巻かれ、顔は布切れで包まれたラザロが墓から歩いて出てきたのです。ラザロの魂が彼の体に戻り、死んだ体が生き返ったのです。 「ラザロよ。出て来なさい。」というイエス様の声の前に、死は敗北することしかなかったのです。ラザロの魂と肉体、そしてすべては新しい命を得たのです。生き返ったラザロの話は、すぐに多くの人々に伝えられました。ラザロの復活は、死に勝利し、墓から出られたイエス・キリストの復活と、イエス様を信じるすべての人が経験できる復活を示していました。 イエス様の御声には、力があります。彼の声は死の強力な力でさえ屈服させ、私たちを新しい命へと導きます。罪人である私たちは、いつか必ず死にますが、死は決して私たちを神様の愛から引き離すことはできません。なぜなら、イエス様が墓にいたラザロを呼ばれたように、死んだ私たちにもまた呼んで下さるからです。真の牧者であるイエス様は、いつの日か、彼の羊たちを呼ばれるでしょう。ラザロの名前を呼び、「ラザロよ。出て来なさい。」と叫ばれたように、イエス・キリストはここにいる一人一人の名前を覚えて、その名前で呼んでくださいます。彼の声は、私たちを死から完全に解放させるものであり、私たちは真の牧者のふところに抱かれ、安息するのです。

 

No.11「ひとつ」     ピリピ 2:1~11

 ピリピの教会は色々な面で強い教会でした。ピリピという地域は、ローマに入る道に位置する為、多くの人々が出入りする多様な文化が共存する場所でした。世俗的で多宗教の誘惑が多い環境でしたが、ピリピの教会の人々は挫折せず、信仰生活を送っていました。彼らは、使徒パウロと過ごした時間は長くはありませんでしたが、彼らは遠くからも、彼の働きを助けました。経済的に難しい時も、迫害の時も、霊的・経済的にパウロを支援することを惜しみませんでした。ピリピの教会は、このように精神的・霊的にも強い教会だったのです。強い教会の特徴は、多くのビジョンと計画を持っている事です。それらを実現するために様々な働きをし、その過程で信徒たちの多様な意見を調整する必要があります。しかし、人々は他人の意見が自分と異なれば寛大でなくなる場合が多く、これは人間関係における葛藤を引き起こすのです。そしてこの葛藤は、教会が一つになることを妨げる大きな原因となります。聖書が言う「一つになる」という事は、多様性を無視し、皆が同じ考えを持つ事ではありません。 神様は、人間をそれぞれ異なるように造られたからです。また、聖霊は教会の一人一人に、それぞれ異なる賜物を与えられ、教会の中にはいつも多様性が存在するようにされました。聖書は、そのような中でいつも「一つになる」ことを求めています。多様性は、一つになることを妨げるものではなく、むしろその意味をより豊かにするのです。本文が強調するのは、キリストの愛で志が一つになることです。本文の2節ではこう述べています。 「私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。」ここで言う一致とは、個々の考えの一致ではなく、お互いへの接し方の意識による一致です。そして、その意識の例となるのが、5-11節に出てくるキリストです。キリストは私たちを愛される御父の心を知っておられ、御父のご栄光の為に神であるご自分を無とし、十字架で死なれた程にまでご自分を低くされました。このように、御父と御子は、ご自分を無とし低くなられ、お互いを愛され、一つになられました。使徒パウロは、ピリピの教会がこのような態度で一つになることを望みました。本文の3節と4節はこう述べています。「3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。」信仰の兄弟姉妹達のために自分を無にし、彼らが喜ぶ姿の中で、自分の喜びを見出し、彼らの幸せが自分の最大の幸せとなる時に、私たちは本当に一つになる事を体験するのです。そしてこのような私たちを通して、世界は三位一体の神の愛を見ることになるのです。キリストの十字架は、このようにいつも謙虚で低い者の人生の中で真の意味を表わし、明るく光り輝くのです。十字架の恵みにゆだね、お互いを愛し合う者の集まりが、まさに教会なのです。

No.12「私達をキリストの証人として造られる聖霊様」   使徒 1:1~11

 イエス様は復活された後、弟子たちによく現れ、神の国について教えられました。そして、神の国が聖霊の力によって、地上に拡張されることを約束されました。5節でこう言われます。 「ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」バプテスマ ヨハネの洗礼は、水でしましたが、聖霊の洗礼は、まさに霊の洗礼です。罪人となった後、私たちの霊は堕落し、神様に全く反応できなくなりました。私たちの霊的な目は、神様の光を見ることができなくなり、霊的な耳は、神様の声が聞こえなくなり、私たちの霊的な唇は、神様を賛美することができなくなりました。罪が、神様への私たちの霊的すべての感覚を麻痺させ、自分の欲望を敏感に反応するようにしました。しかし、聖霊は、堕落した私たちの霊を生き返らせました。私たちが罪人であるという事実を悟らせ、罪悪感を感じさせ、悔い改めさせました。そして、このような私たちを救われる方は、ただイエス・キリストしかないという事実を知るようにさせ、信じるようにされました。これらの聖霊の働きを通して、私たちは今、神の子として生きることができるのです。私たち皆は、キリストが下さった聖霊の洗礼を受けた人たちです。聖霊の洗礼を受けた者は、聖霊の不思議な力を体験します。聖霊がなさる最も主な働きは、まさに私たちの中にキリストが生きるようにさせることです。私たちは、人間となられたイエス様を直接会ったことはありません。彼は私たちより2000年も前に生まれ、私たちが住む日本ではなく、遠く離れた中東地域に住まわれました。さらに今、彼は私たちがいるこの地ではなく、天におられる御父のそばにおられます。しかし、私たちの常識を超えたことが起こります。世界が理解できないことが起こります。それは、まさにイエス様が今、私たちの中に住んでおられるということです。私たちは、実際に彼を感じ、会い、共にいるのです。これは、まさに聖霊の驚くべき力です。世界中何も、私たちを心から満足させるものはなく、本当に安息できるものもなく、真の喜びを与えるものはありません。しかし、聖霊を通して私たちの中に住まわれるキリストは、私たちを真に満足させ、真の安息、喜びを与えてくださるのです。キリストは、私たちの始まりであり終わりであり、私たちのすべてであるのです。そのキリストが聖霊を通して私たちの中におられるので、2000年前に起こった、イエス・キリストの死と復活を、私たちも実際に体験することができます。聖霊は、私たちがキリストの存在と彼のなされたすべてのものを目撃し、私たちがキリストの証人となるようにされるのです。

No.13「巡礼者の歌」    詩篇 121:1~8

 詩篇121篇は、エルサレムの神殿に 向かう巡礼者の歌です。エルサレムへの道はまるで、   私たちの人生のようでした。なぜなら、その道は美しいのですが、多くのリスクが存在していたからです。岩だらけの丘が多く、彼らの持ち物を奪おうとする強盗や、野生の猛獣が潜んでいました。詩篇の作者は、このような危険な旅の中で、自分自身に質問を投げます。 「私の助けは、どこから来るのだろうか。」誰が私たちを危険から守ってくださるのだろうか、私たちを救ってくださるだろうか?彼はエルサレムへの巡礼の道の上で、さらに根本的な人生の巡礼を考えるようになったのです。2節で、彼はこのような結論を出します。「私の助けは、天地を 造られた主から来る。」彼は悟りました。私たちの巡礼の道は、私たちを創造された神様から始まり、再びまたその神様に戻るという事実を悟りました。私たちの最初と最後であられる創造主、神様が人生という旅のすべてを主管しておられ、その旅が終わるまで、いつも一緒にいて守ってくださるということを悟りました。これらの詩篇121篇の意味をハイデルベルク信仰問答で、次のとおりに美しく表現しています。問26 「わたしは、神、父、全能者、天地の造り主を信じます。」というときには、あなたは何を信じているのですか。  答 わたしは次のことを信じているのです。1.わたしたちの主イエス・キリストの永遠の父が、その御子のゆえに、わたしの神様であり、わたしの父であるということを。2神様は、天と地と、その中にあるすべてのものを、何もないところから造られました。3そしてこれを、神様の永遠の御心と摂理によって、常に、保ち、支配しておられるのです。4その神様に、わたしは、よりたのみ、疑うことをしません。神様が、わたしに、からだと魂に必要な、すべてのものを備えてくださっているということを。5また、このなやみの多い世の中において、神様がわたしにお与えになる、どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さることを。6神様は、全能の神様ですから、これをなさることができますし、7信頼できるお父さまですから、喜んで、これをしてくださるのです。

No.14「虹の約束」     創世記9:9~17

 虹はノアの洪水の時に、神様がノアとノアから始まった新しい人類にご自分の約束を保証するための印とされたものです。再び水で人類を審判されないという神様の約束の証拠として、万人の目の前に置かれたのが虹です。ヘブライ語で虹は、戦争の武器である弓を指します。 人間と戦争をされる戦士であられる神様が戦争を終えて、弓を空中に掛けた。これは、もはや人間と戦争をされないという永遠の和解の現れです。また、戦争を終えて安息される神様の象徴でもあります。 虹は、まるで矢を引いた弓のようです。また、天体の中央に向かって矢を引いた形の弓です。このような姿の虹は、人間の反逆と裏切りにもかかわらず、神様はその責任を自ら背負われるということ、すなわち、自分の死をもっても、人間の罪を背負われる極限の恵みの表現です。虹は神様の自己呪いを指す恵みの表現なのです。そして、神様の自己呪い形態は、十字架の上で死なれたイエス・キリストの事件で絶頂に達します。 「空の虹を眺める時は、私の胸がときめきます。私の子供の頃にもそうだったし、私が大人になった今でも同じであり、私が老いてもそうであろう。そうでなければ、むしろ死んだほうが良いでしょう。子供は大人の父。私の望みは、私の人生が日々、自然についての感動で続いていくことです。」 William Wordsworth

No.15「聖餐と記憶」   Ⅰコリント 11:23~26

 聖餐式について、一緒に学んでみようと思います。神様は、ご自分の御心と目的をこの世に実現されるために、ご自分の人々を選ばれました。このような者たちの集まりを、教会と呼びます。そして、教会がご自分の意志と目的を実現できるように、神様は私たちに恵みをお与えになるのです。神様は私たちがその恵みを間接的ではなく具体的に、また直接的に体験できるように、特別な手段を通して恵みを下さるのです。このことを神学的用語で「恵みの手段」と呼びます。恵みの手段は、大きく二つに分けることができます。最初はみ言葉です。私たちは、メッセージを聞き、聖書を読む時、神様のみ言葉を体験します。そして、2つ目は聖典です。聖典は、私たちが神様の約束を覚えることができるように、その約束を示す神聖なサイン、表示を意味します。聖典は、人間ではなくイエス・キリストが直接つくられました。イエス・キリストがつくられた聖典には2つありますが、一つが洗礼でもう一つは、今日の本文に出てくる聖餐です。イエス様はご自分が亡くなられる前夜、聖餐をつくられました。その目的は、26節の通りに、私たちはパンを食べ杯を飲む度に、イエス様が私たちのために死なれたことを、私たちが記憶して宣言することができるようにするためです。パンは、イエス・キリストの肉体を表しています。私たちは、聖餐式でパンを食べるとき、私たちの罪のためにイエス様の肉体が引き裂かれ、犠牲になられたことを経験します。ぶどう酒は、イエス・キリストの血を表しています。私たちは、杯を飲む時に、私たちの罪のためにイエス様が血を流されたことを経験します。聖餐式を通して、私たちは、自分のために死なれたイエス・キリストの恵みを具体的に経験して記憶することができます。現代社会では記憶とは、情報を脳の中に入れ、それを出力する精神的な活動を意味します。しかし、聖書がいう記憶とは、もっと深い意味を持っています。記憶や記念という意味のギリシャ語は、「Anamnesis」ですが、「Anamnesis(アナムネシス)」は過去のできごとを現在に  経験するという意味を持っています。私たちが聖餐式で、キリストの死を記念した時に、彼の死は単に過去に起こったことだけを意味するのではないのです。聖餐式を行い、キリストがなさったことを信じて覚える時、キリストは実際にその場に私たちと一緒にいてくださいます。そして、私たちがパンを食べ杯を飲む時、私たちのために体が引き裂かれ、血を流してくださったキリストの死を体験するようにし、私たちの体と、心と、魂がさらに聖化され、キリストにより似て行くようにしてくださるのです。

No.16「永遠に変わらない神様の言葉」    イザヤ 40:1~8

 イザヤ書40章を 理解するためには、イスラエルの歴史について簡単に知る必要があります。イスラエル人は、ソロモン王の時代から偶像崇拝に陥り始め、南北に分かれてしまいました。南イスラエルの名前はユダ、北イスラエルの名前はイスラエルです。先週のメッセージでもお話しました北イスラエルは、バアル崇拝を していた ペイネキアとの同盟のために、ますます霊的にも道徳的にも堕落し始めました。結局、神様はB.C. 722年にアッシリアによって、イスラエルをさばかれました。 南イスラエルのユダも大きく変わりませんでした。彼らは、自分の兄弟国であるイスラエルがアッシリアによって審判を されるのを見ながら何も気づかず、イスラエルのように彼らもまた、偶像崇拝に陥りました。そして、神様はイザヤを 通して他国との同盟に反対しましたが、ユダは自分たちの生存にいつも不安を感じ、神様よりも強い国に頼ることを選びました。ユダは、神様の言葉が現実とはあまりにも矛盾しているように思い、神様の言葉よりも現実に対処する自分の知恵にもっと頼ったのでした。結局、神様は本文のすぐ 前、39章でユダも審判される ことを言われました。 そして、39章と 40章の間に長い 時間が流れました。その中でバビロンは、ますます強くなり、北イスラエルを征服していた アッシリアを滅ぼしました。そして、バビロンはB.C. 586年にユダを滅亡させ、ユダヤ人たちは捕虜としてバビロンに連れて行かれました。神様の言葉を無視して他国に頼った ユダは、ついに他国の捕虜となったのです。いつも目に見える現実だけを追求した ユダヤ人たちは、まるでエデンから 追放させられた アダムと イブのように自分の故郷を失い、他国で放浪したのです。いつも気まぐれで裏切りを 繰り返す 人間には、何の希望もないという 事実が歴史を 通して証明されました。しかし、人間とは異なり全く変わらない方がいます。イザヤ書40章はこのように始まります。 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」神様は、ご自分を裏切ったユダヤ人を赦し、彼らに再び故郷に戻ることができると言われました。実際にその言葉通り行われました。永遠に続くようだったバビロン帝国はその後ペルシャに征服され、神様はペルシャの王クロスの心を動かし、ユダヤ人たちが、故郷エルサレムに戻ることができるようにしました。人間はいつも変化しますが、人間に対する神様の愛の言葉は決して変わりません。人間は、草や花のように枯れますが、私たちの神様のことばは永遠に変わりません。現実的に難しく見えても神様の言葉に頼るなら、神様はいつも私たちに慰めと力を与えてくださいます。

No.17「嘆願の歌」    詩篇 22:1~3  

 Herman Gunkelという旧約学者によれば、詩篇は大きく6つに分類することができます。  まず、神様に喜んで賛美を捧げることを礼拝者たちに勧める賛歌です。二つ目は、神様に自分の悲惨な状況について、不満を表現し助けを嘆願する詩篇です。三つ目は、王が神様への賛美を捧げる王族による詩篇。四つ目は、自分を救ってくださった神様に感謝を捧げる感謝の詩篇。五つ目は、読者に知恵を教えようと書かれた知恵の詩篇。そして最後は、これら5つのジャンルが様々な形で混合された詩篇ですが、この中でどのジャンルに当てはまる詩篇が、一番多いでしょうか?驚くべきことに、神様に不満を表現し、嘆願する詩篇です。なんと詩篇の3分の1がこのジャンルに入るのです。神様に不満を言うことは、現代のクリスチャンにとって非常識に思えることです。「なぜいと高き神様に、私たちのような卑しい存在が、不満を言うことができるのか?神様に不満を言うことは、信仰が足りないことではないのか?」」と思う人が多いでしょう。しかし、驚くべき事実は、神様は懇願を冒涜ではなく、賛美として思われるのです。そして、詩篇22篇は最も代表的な嘆願の詩篇です。著者は、神様に文句を言います。  「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。イエス様も十字架の上で、詩篇22篇1節を引用され、天の御父にこう叫ばれました。 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」  「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」イエス様は、御父の前で  ご自分の傷ついた感情を、隠されませんでした。罪によって壊れたこの世界は、矛盾に満ちているように見えます。正しい人は失敗し、邪悪な人が成功することがあります。正しい人に不幸なことが起こり、悪い人に幸福がある時があります。神様の御前で、義の人生を生きることが常に私たちの基準ですが、それは成功と 幸福とはつながらないことを私たちは経験を通してよく知っています。このような矛盾の世界の中で、私たちの心は傷つくのです。正しい人を守らず、邪悪な人を処罰されない神様に、不満を持つこともあります。神様はこのような私たちの状況をよく知っておられます。そして、神様は決して私達が感情を隠すことを望んではおられません。また、私達が強いふりをすることも望んでおられません。私たちの弱い姿そのままを、傷ついた感情のままで、ご自分に近づいて来るのを望んでおられるのです。そして「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶことを望んでおられます。嘆願の詩篇は、不敬虔による不満の表現ではありません。自分の弱さをそのまま受け入れてくださる神様への信頼の祈りなのです。そのため、詩篇22編の作者は神様を「わが神」と呼び続けているのです。神様は私たちが喜び幸せになるだけでなく、悲しく辛い時も素直な感情で賛美できるようにされます。そして、その賛美を喜んで受けいれ、私たちの傷ついた感情を癒し、私たちを希望へと導いてくださるのです。

No.18「荒野とは」 

 荒野は、植物が何も育つことができない所で、どこを掘っても水が出ない場所です。この 荒野では、何を所有しているかどうかは、全く価値のないことなのです。何かを貯えようとしても必要以上のものは荷物になるだけで、また自分の力だけでは生き残ることができない場所であり、誰かの助けが必要な所なのです。傲慢な者が謙虚になる所であり、高くなろうとする者が低くなる所、そこはまさに荒野なのです。荒野では、人々は生命と死の境界線に立ちます。いつも死の危険の中にあり、何かを所有していても、いつも喪失する危険の中にいるのです。何かを達成しても、いつも失敗する  危険の中にあります。このように息を飲むような境界線の上に私たちを立たされ、自分の  無力さを悟るようにさせられ、そしてただ天だけを頼るようになる所、そこが荒野なのです。人々は自分の人生をコントロールするために徹底的に計画し、より多くの事を達成しようとしますが、荒野では自分達ではなく周囲の環境が、私たちを治め変化させるのです。一坪の土地も所有することができず、また人生を自分の思いのままに計画することができず、ただ天だけを見上げる所、その場所がまさに荒野なのです。神様はご自分の民を肥沃な土地ではなく、荒野へ連れて行かれました。世界の基準とは 正反対の所であり、人の目に役立たないように見える場所に彼らを導かれました。そして、 毎日彼らに日用のマナを与え、明日ではなく今日一日の神様の恵みに感謝して生きるようにされます。私たちの助けは自分ではなく、神様から来るという事実を悟るようにする荒野 こそ、神様の民が生まれ成長するゆりかごのような地なのです。このことは、世界が理解できない神様の知恵です。私たちは、人生の中で荒野を経験します。自分の力では何もすることができず、周りを見渡しても助けてくれる人が誰もいない時があります。ただ天だけを見つめ、祈るようにされる時があります。その時こそ、私たちは初めて天から降ってくるマナを頼りにするのです。ヨハネ6:51で、イエス様はご自身を天から下って来た生けるパンだと言われました。イエス・キリストこそ、荒野のような人生の中で私たちが毎日頼らなければならない真のマナなのです。人生という貴重な時間を、荒野での一日のように送りましょう。明日のために生きるのではなく、 今日一日、私たちに与えられた 主イエス・キリストの恵みに感謝して生きて行きましょう。キリストの恵みは、私たちが荒野のようなこの世界を通ってその約束の地に入るまで、毎日 不足なく降ってくるのです。その日ごとの恵みが、私たちを 不安から自由にさせ、神様の子供として、私たちが成長するようにされるのです。

No.19「体の復活」        Ⅰコリント15:35~53

 先週の日曜日は、創世記23章を中心にアブラハムの話をしました。アブラハムは、妻サラが亡くなったので彼女のための墓地が必要でしたが、一生涯旅人として生活していた彼には、一坪の土地もありませんでした。そこで、ヘテ人はアブラハムに無料で土地を与えようとしました。しかし、アブラハムは神様が自分の子孫にカナンの地を与えると約束された言葉を信じ、信仰によって400シェケルでその土地を買いました。そして、いつの日か妻サラが花のように再び咲き開き、復活する日を期待して、彼女をそこに「植え」ました。このように、コリント15章も信徒の死んだ肉体を指して「蒔く」と言っています。 35節を見れば、その当時ローマ帝国に住んでいた人々は、体の復活についてこのような疑問を持っていました。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのような体で復活するのか。」ローマ帝国は、ギリシャ文化を基礎に建てられた帝国でした。そして、当時のギリシャの文化では、世界を精神的なものと物質的なものとに区別して理解しようとする、二元論的な考え方が普遍的でした。精神的なものは物質的なものよりも優れており、人間は自分の魂が肉体から解放される時、真のユートピア(天国)を体験できると信じていました。ですから、人間の魂だけでなく肉体も復活するというキリスト教の教義は、当時の人々に違和感を感じさせました。死後、肉体は腐ってしまうのに、どのようにして復活できるのかわかりにくかったのです。しかし、36節でパウロは肉体の復活について懐疑的な人々に、こう言いました。 「愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。」地面に植えられた種はいつか実を結びように、土に埋められた信徒の肉体もいつか実を結ぶということです。キリストは私たちの罪の代わりに死なれ、死の力に打ち勝たれました。彼の魂だけでなく、彼の肉体も存在したのです。このことが意味するのは、キリストは私たちの魂だけでなく、私たちの肉体も救われるということです。ですから、私たちの体は死後腐りますが、キリストの再臨の日に復活し、再び魂と結合することになるのです。復活する時に私たちが得る肉体は、今の私たちの肉体とは異なります。パウロは52節でこう言います。 「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」罪は私たちの魂だけでなく、私たちの肉体にも影響を与えました。現在、私たちの体は病気にかかり、老化し、いつの日か 死に至るのです。しかし、私たちがキリストの復活に得ることができる新しい肉体は、これらの弱さから自由になるのです。それはどんな病気にもならず、月日が経っても朽ちず、永遠に続く栄光の肉体的なものなのです。創世記1章では、神様の創造を二元論的には描写していません。神様は光、空、地、海、 植物、動物などの物質的な存在を造られ、それらに対して「良い」と言われました。これらの創世記1章の証言は、物質的なものがレベルが低かったり、汚れているという考えに反対します。天国は絶対に肉体からの脱出を意味しているわけではありません。死後、私たちの霊はしばらく肉体から分離されますが、いつの日か私たちの霊は栄光の肉体と結び付くのです。私たちが最終的に生かされる天国は霊的であると同時に、物質的な世界なのです。  これはキリストの物理的な復活が意味するものであり、「からだのよみがえり、とこしえの命を 信ず」という使徒信条の告白が意味することなのです。

No.20「体の復活」       Ⅰコリント15:35~53 

 アブラハムは、妻サラが亡くなったので彼女のための墓地が必要でしたが、一生涯旅人として生活していた彼には、一坪の土地もありませんでした。そこで、ヘテ人はアブラハムに無料で土地を与えようとしました。しかし、アブラハムは神様が自分の子孫にカナンの地を与えると約束された言葉を信じ、信仰によって400シェケルでその土地を買いました。そして、いつの日か妻サラが花のように再び咲き開き、復活する日を期待して、彼女をそこに「植え」ました。このように、コリント15章も信徒の死んだ肉体を指して「蒔く」と言っています。 35節を見れば、その当時ローマ帝国に住んでいた人々は、体の復活についてこのような疑問を持っていました。「死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのような体で復活するのか。」ローマ帝国は、ギリシャ文化を基礎に建てられた帝国でした。そして、当時のギリシャの文化では、世界を精神的なものと物質的なものとに区別して理解しようとする、二元論的な考え方が普遍的でした。精神的なものは物質的なものよりも優れており、人間は自分の魂が肉体から解放される時、真のユートピア(天国)を体験できると信じていました。ですから、人間の魂だけでなく肉体も復活するというキリスト教の教義は、当時の人々に違和感を感じさせました。死後、肉体は腐ってしまうのに、どのようにして復活できるのかわかりにくかったのです。しかし、36節でパウロは肉体の復活について懐疑的な人々に、こう言いました。 「愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。」地面に植えられた種はいつか実を結びように、土に埋められた信徒の肉体もいつか実を結ぶということです。キリストは私たちの罪の代わりに死なれ、死の力に打ち勝たれました。彼の魂だけでなく、彼の肉体も存在したのです。このことが意味するのは、キリストは私たちの魂だけでなく、私たちの肉体も救われるということです。ですから、私たちの体は死後腐りますが、キリストの再臨の日に復活し、再び魂と結合することになるのです。復活する時に私たちが得る肉体は、今の私たちの肉体とは異なります。パウロは52節でこう言います。 「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」罪は私たちの魂だけでなく、私たちの肉体にも影響を与えました。現在、私たちの体は病気にかかり、老化し、いつの日か 死に至るのです。しかし、私たちがキリストの復活に得ることができる新しい肉体は、これらの弱さから自由になるのです。それはどんな病気にもならず、月日が経っても朽ちず、永遠に続く栄光の肉体的なものなのです。創世記1章では、神様の創造を二元論的には描写していません。神様は光、空、地、海、 植物、動物などの物質的な存在を造られ、それらに対して「良い」と言われました。これらの創世記1章の証言は、物質的なものがレベルが低かったり、汚れているという考えに反対します。天国は絶対に肉体からの脱出を意味しているわけではありません。死後、私たちの霊はしばらく肉体から分離されますが、いつの日か私たちの霊は栄光の肉体と結び付くのです。私たちが最終的に生かされる天国は霊的であると同時に、物質的な世界なのです。  これはキリストの物理的な復活が意味するものであり、「からだのよみがえり、とこしえの命を信ず」という使徒信条の告白が意味することなのです。

No.21「放蕩息子」

 弟と兄、彼らは二人とも失われた息子でした。弟は正しくないことをし、兄は正しいことをしましたが、彼らは父の財産がほしいと思い、父自身を望まなかったという点では同じなのです。弟と兄、ふたりとも彼らの心は、父から遠く離れていました。弟は悪い事をして父から遠ざかり、兄は忠実に仕えながら心は父から離れていました。父親は、この失われた二人の息子を取り戻すことを望みましたが、父は世界の常識から外れた人でした。自分が死ぬことを願う息子に自分の命をかける父、自分を裏切った息子に向かって滑稽な姿で人々の前で走っていく父、汚く汚れた息子を抱きしめ着物を着させる父、自分の財産を浪費した息子に村の人々を呼んで宴会を施される父、自分を侮辱する息子をなだめ、宴に招かれる父でした。イエス様はこの世の父とは全く別であることを、私達におっしゃられました。イエス様が私たちに教えてくださった祈りがあります。どのように始めるのでしょうか? 「天にまします我らの父よ」です。誰の父でしょうか?それはまさに、私たちの父です。イエス様は私たちに父と呼ぶようにされたのは、この話の中の父のように、常識から外れた父です。恥を恐れず、失った息子に向かって飛び込んでいった父のように、神様も私たちに向かって走ってこられ、ご自分の独り子を卑しい人間でもって造られ、この世のすべての苦難を経験され、あらゆる暴力と恥を受けられ、十字架の上で最も悲惨な姿で死ぬようにされた父です。その父が恥を恐れず、キリストを通して私たちに来られました。汚れた私達は、キリストの血によって洗いきよめられ、罪人の服をぬがせて義の服を着せてくださり、私たちのために、天のごちそうを準備してくださるのです。

No.22『また立ち直れる理由』    ルカ 22:31-34, 54-62

 この本文の著者であるルカは、使徒の働きの冒頭部分でペテロの活躍を意図的に詳しく語っています。ユダが自殺した後、12人目の弟子を選ぶ時、他の弟子 たちを励ましリードしていた人がまさにペテロであり、ペンテコステの日に弟子たちを代表して、キリストについて証言していたのもペテロであり、他の弟子たちを率いて福音を伝え、初代教会を建てるために先頭に立ったのも、ペテロでした。 イエス様を三回も否認した最も弱いペテロでしたが、他の人々を強くする存在として生まれ変わった理由は、ただ一つでした。キリストがペテロのために祈られた からです。そして、キリストは私たちにも同じ言葉を語ってくださいます。「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 私たちは、ペテロのようにキリストを何度も否定し、イエス様の心を痛めます。そしてその誤った記憶を通して、サタンは私達を攻撃するのです。しかし、私たちは、自分の弱さを認めてキリストの前にひざまずく時、初めて悟ります。私たちがイエス様に沿って歩くことができる理由は、私たちの信仰が強いからではなく、汚れた罪人である私達をキリストが赦してくださり、祈ってくださるからなのです。その恵みが私たちを再び立ち直させる唯一の希望なのです。私たちが強い時、私たちはキリストを否定することになるでしょう。しかし、私たちが弱い時、キリストは私たちの強さになってくださるのです。私たちの記憶や思い出がキリストの恵みによって覆われる時、私たちは過去の自分自身から離れ、弱い者を励ますキリストの新しい弟子として生まれ変わるのです。あなたの信仰が揺れる時、覚えてください。その時にそなえて、キリストがあなたのために祈られたのです。

No.23『知らない時のための準備』    マタイ25:1~13

  イエス様は、私達が予測していない時間に来られる方なので、私たちの生涯を捧げて準備して待つ、価値のある方です。そのため、いつ来られるかわからないイエス様を迎えるためには、常に目を覚ましていなければなりません。人生という長い旅が終わるまで、長い間従うものなのです。このことは、私たちは常に完璧でいなければならないということを、意味しているのではありません。花婿を待っているうちに疲れてしまい、うとうととしてしまった10人の娘たちのように、私たちもイエス様を待ち疲れて大変な時もあるでしょう。しかし重要なのは、余分に油を準備することです。いつ来るか分からない花婿を迎えるために、長く待つ準備をすることなのです。重要なのは速度ではなく、同じ方向に向かって長い時間をかけて歩くことです。「同じ方向への持続的な従順」という本でEugene Petersonは詩篇121篇をよく研究します。詩篇121篇は、巡礼の道を歩く巡礼者の歌です。この歌は、このようにはじまります。 「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。」 天地を造られ、私たちをいつも助けくださる神様に向かって目をあげ、その方向に向かって長い時間を歩くこと、それが再び来られるイエス様を迎えるために、余分な油を準備することです。真の巡礼者は、主イエス・キリストが必ず来られるその約束から、いつも希望を得るのです。全く予測できない荒野の中でも、いつも祈りと御言葉に頼って、  自分の助けが来るところに向かって感動と感謝の気持ちで歩くのです。私たちの主イエス・キリストは必ず来られ、そのような巡礼者たちと一緒に天の御国の祝宴に入って行くのです。

No.24「ハガー」とは        詩編1:1~6

  詩編1編は、「幸いなことよ」という文章で始まります。幸いな人は誰なのかが、この詩編の最も大事なテーマなのです。「幸い」は旧約聖書の原語であるヘブライ語で“アシェル”ですが、“アシェル”は、もともと「歩み」という意味の語源からつくられた言葉です。詩篇の著者は、幸いとはどんな道を歩くかによって決定されると言っているのです。「幸い」という目的地に行くためには、そこへ導く正しい標示が必要ですが、その標示について2節はこう言います。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」 「幸い」という目的地に行くために、私達は主のみおしえを標示として口ずさみながら、人生の道を歩む必要があるのです。「口ずさむ」という意味のヘブライ語の単語は「ハガー」ですが、「ハガー」は人間だけではなく、動物にも使われる言葉です。 例えば、犬は骨をくわえる時によく低い声で吠えますが、それは怒って吠えているのではなく、嬉しくて吠えているのです。 動物が喜びを表現して吠えることが、まさに、「ハガー」の真の意味なのです。ユージン・ピータソンという牧師は、「Eat This Book」という本で「ハガー」の 意味を犬の姿を通して説明しています。犬が骨を口でくわえて遊ぶ姿を見たことがありますね?前足で骨を握って噛むこともありますし、骨を投げたり、拾ったりしながら遊びます。残した骨は、土の中に埋めたり、自分だけの場所に隠したりして大切にします。そして少しするとまた探して噛んだり、遊んだりします。犬にとって骨は最高の喜びです。このような犬の姿が、私達が主のみおしえに対して持つべき態度なのです。主のみおしえをいつも自分の心の中心において、それをじっくりと考えたり、自分の人生に適応してみたり、感動と感謝を感じたりする人生のリズムを私達は持つべきです。朝も夜も今日も明日も、私達にとって一番の喜びは、主のみおしえでならなければなりません。主は、ご自分のみおしえを通して、私達を罪人の道から守ってくださり、必ず幸いへと歩ませてくださいます。周囲の状況によって揺れることなく、季節に沿って美しい実を結ぶ「水路のそばに植わった木」のようにさせてくださるのです。

No.25『悔い改めとは』

 先週は、正村先生よりルカ15書から失われた羊の譬えについてメッセージを語って下さいました。イエス様は、失われたご自分の子供達を探すことに執着され、彼らの悔い改めを何よりも喜ばれることを学びました。イエス様にとって私達の悔い改めは大切なことなのです。ルカ5書32節で、イエス様はこう語られました。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」悔い改めとは何でしょうか? 悔い改めとは、罪に対しての心からの悲しみ、罪の諦め、またキリストに従順することへの決意を意味します。真の悔い改めには3つの部分が関連しています。まず、私達は罪とは何か、なぜ悪いものなのかを知的に理解しなければなりません。罪は私達の行動、態度、また本性が神様に従うことに失敗すること(第Ⅰヨハネ3:4)を意味します。罪は、神様と私達の関係を断絶させ、神様が造られた全世界のシャロームを壊すのです。私達はこのような罪の本能が自分の中にあること、また自ら克服できないことを知るべきです。 2つ目は、私達は罪についての聖書のみ教えを感情的にも受け入れなければなりません。神様を攻撃し、神様の御心を痛めた自分の罪に対して悲しみと憎悪を感じるべきです。第Ⅱコリント7書10節はこう言います。「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」 世の悲しみは裁きへの恐れだけからの感情で、心からの罪の諦めはないです。しかし、神様のみこころに添った悲しみは罪を犯さないと決心する真の悔い改めへと導きます。 最後は、私達は罪を犯さないと決心することです。キリストへ戻って行こうとする個人の決断が必要です。ユダはイエス様をうらぎった後、罪悪感を感じましたが、イエス様に従おうとする心がなかったため、自殺してしまいました。しかし、ペテロは三回もイエス様を否認しましたが、ユダとは違いイエス様に戻って行こうと決心し、真の悔い改めをしたのでした。そしてキリストの忠実な弟子として生まれ変わったのです。 真の悔い改めは真の信仰へと導くのです。悔い改めと信仰はいつもともに起きます。 私達はみな失われた羊でしたが、聖霊の導きによって悔い改め、キリストの死と復活を通して、父なる神様のもとへ戻ることができました。恵みによって悔い改めることができた者はみな、他の人々に福音を伝え、悔い改めへと導かれるよう励まし、失われた一匹の羊を探しておられる神様の救いの働きに参加しなければなりません。

No.26「全ては神様の主権の中で」     エズラ記 5:1-6:12

 エステル記と同様、エズラ記にもペルシャ捕虜時代に神様がイスラエルを守られ、導かれた事が書かれています。神の民であったイスラエルは、自分の使命を忘れ堕落の道を歩きました。その結果、神様はバビロンを通して、イスラエルを裁かれました。その後、イスラエルはバビロンの捕虜として、またペルシャがバビロンを征服してからはペルシャの捕虜として生きました。もう一度自分たちが住んでいた土地に戻ることは、不可能に思えました。しかし、神様は王を動かし、ユダヤ人たちが自分たちの土地に戻るようにさせました。そして、ペルシャ王クロスの統治の最初の年に、クロス王はユダヤ人がエルサレムに戻り、当時破壊された神殿を再建築することを許可しました。聖書は、この事件を第2の出エジプトと言います。神殿の建築が重要な理由は、神殿は聖なる神様がこの地上に住まわれるご自分の家だからです。聖なる神様は汚れた所にはおられません。ですから、イエス・キリストが世の罪を洗い聖める前は、神様がこの地上に住まわれる神殿という神聖な場所が必要でした。ですから神様はエルサレムにご自分が住む神殿を再度建てられ、イスラエルが神の臨在を中心にして聖なる民として生まれ変わらせようとされました。しかし、神殿の再建に反対する勢力がありました。本文の5章3節と4節を見れば、総督タテナイと彼の友人は、誰が神殿の再建を許したのかと尋ねるよう、強く抗議しました。そして、彼らは当時のペルシャ王ダリヨスに、彼の先祖クロス王が本当に神殿の再建を許可した事を確認するよう要請しました。神様はこの事件に介入されました。ダリヨス王が書いた巻き物は発見され、その巻き物に彼の先祖クロス王が神殿の再建を命令した事実が書かれていました。このことを、ダリヨス王は神殿の再建をこれ以上反対しないようにユダヤ人を保護しました。それだけでなく、神殿の再建にかかる費用を十分に支援しました。これらによって、ついに神殿の再建が無事に終わりました。このように、最も強力な支配者たちでさえ、神様の意志によってご支配されました。神様はご自分の目的を成し遂げるために、エステルのような弱い者を高く立て、邪悪な者たちを利用され、権力者たちを動かされるのです。神様は歴史の中に起こるすべての出来事の状況と時期、またすべての人物たちの心理と行動などを完全に把握し、自分の計画通りに導かれます。神様は私たちが想像できない方法を通して、私たちを救われます。私たちは、神様の全能と変わらない愛を信頼する時、私たちの中に真の平安が与えられます。そしてどのような反対と抵抗も神の使命に沿って生きる者たちを止めることはできない真の勇気を得るのです。

No.27『神義論と神様の摂理』      ヨブ記 42:1~6

 神様は今どこにおられるのでしょうか?正義なる神様がこの世界をご支配されるのなら、なぜ正しい者も痛みを受けなければならないのでしょうか?この質問に軽く答えるには、あまりにも重いものです。決して簡単な答えは存在しません。世界に起こることは決して、白か黒かで理解することができず、単純な公式で一般化することはできません。人間の知恵では理解できないことが、世の中にはあまりにも多く存在します。3節でヨブはこう言いました。 「知識もなくて、摂理をおおい隠す者は、だれか。まことに、私は、自分で悟りえないことを告げました。自分でも知りえない不思議を。」神様がこの世界でなさる多くは、人間の知恵と理解を超えます。しかし私たち人間は、自分の知恵で理解できないものを何とか理解しようと、試してきました。神様を完全に把握することができない私たち人間は、ついには神様に自分は理解できないことを告白するのです。大いなる神様を人間の知恵と呼ばれる小さな枠に何とか合わせてみようと思うのです。ヨブは、神義論的な答えを得ることはありませんでしたが、自分に本当に必要なのは、神様の摂理に信頼することだと悟るようになりました。周辺で起こるすべての問題にもかかわらず、神様は最高の知恵と知識で、この世を完全に統治される事実をヨブは信じたのです。世界を創造された神様は、今でもご自分の永遠の御心と摂理によって常に保ち、支配しておられるのです。世界万物が完全に神様の御手の中にあるので、神様の御心なくてはどのようなことも起こりえません。世界を治める知恵は私たち人間ではなく、ただ創造主なる神様だけに属しています。私たちは知恵の源である神様だけを恐れて、彼の摂理を信頼することで、試練の中でも忍耐し、感謝することができます。神の御子キリストが私たちを救って下さったので、知恵の源である創造主は、私たちの御父になって下さいました。それによりどんな苦難と試練も、私達は私たちの主イエス・キリストにある神の愛から離すことができません。この真実が私達にすべての苦難に勝利させる大きな慰めとなるのです。

No.28

 主日礼拝では全く制限されない神様の栄光を見せてほしいと要求したモーセについて学びました。しかし神様はモーセに、そのような栄光を示されませんでした。被造物である私たちが見ることができる光は、唯一創造された光だけなのです。しかし、神様の栄光は創造された光ではありません。その光は、神様の存在自体から流れ出る光として世界が創造される前から、いつも神様のそばに存在していました。神様は被造物である私たち人間が絶対にアクセスすることができない光の中におられるのです。光がある所で闇は消えるように、神様の光はあまりにも神聖すぎてその光があるところに存在するすべての暗を完全に除去するのです。ですから、まだ罪の影響の中にいる私たちは、その光を見ると必ず死ぬのです。 たとえ神様の全体的な性質(God's total essence)が見えなくても、私たちは視覚的に見ることができる被造物などを通して、神様はご自分の一部を啓示されます。私たちは、旧約聖書の神の顕現を見ることができます。神の顕現とは、人間が一時的に見える形で出現されることを意味します。神様はソドムとゴモラに行かれる前にアブラハムに現れ、また神様の祝福を求めたヤコブと争った時に現れ、イスラエル人が荒野を歩いた時火の柱と雲の柱によって現れ、イスラエルの長老達にも現れ、イスラエルの士師サムソンの父親であったマノアと彼の妻に現れ、イザヤも現れました。 新約聖書では、旧約聖書よりもはるかに偉大な神の顕現を見ることができます。それはまさに受肉されたイエス・キリストの出現です。使徒ピリポがイエス様に御父を見せて下さいと言った時、イエス様はご自身についてこう答えられました。ヨハネ14:9「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください」と言うのですか。」そして、使徒パウロもイエス様を通じた神の顕現についてこう述べています。コロサイ1:15「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」またヘブルの著者も、イエス様を通した神様の神の顕現についてこう述べています。ヘブル1:3「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり...」旧約聖書の人々が見ることができなかった神の顕現はイエス・キリストの中で示されたものです。肉体を持ってこの世に来られたイエス様は神様の姿が最も具体的にまた明確に啓示された神の顕現です。今私たちは直接イエス様を見ることはできませんが、聖霊を通してイエス様の存在を体験し、福音の中でイエス・キリストを見て、イエス・キリストを通して神様を見るのです。 天国すなわち新しい天と新しい地で、私たちは神様を見ることができるでしょうか?私たちは、決して神様のすべてを見ることはできないでしょう。神様は創作者であられ、私たちは被造物であるからです。そして、私たちは神様を物理的に見ることはできないでしょう。神様は霊であられ、私たちは肉体を持った存在であるという事実は、新しい天と新しい地でも変わらないからです。しかし、私達は他の方法で神様をより明確に見ることになるでしょう。パウロは、コリント13:12でこう言います。 「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」今現在、私たちに許されている神様の自己啓示は部分的ですが、私たちを救いへまた、新しい天と新しい地へと導くには十分です。今、私たちに与えられた啓示の教えに基づいて忠実に生きると、私たちは新しい天と新しい地でまるで顔を合わせるように、神様についてのことはより鮮明になるはずです。そして、私たちは、神様の偉大な人格と御業に感謝の気持ちで賛美することになるでしょう。

No.29「信仰とリスク」     マタイ 25:14-30

 本文に出てくるイエス様のたとえ話は、まさに信仰とリスクについて教えています。シンプルですが奥深い内容の話です。昔、多くのしもべを持っていたある金持ちがいました。金持ちの主人はしもべに自分のお金をどのように管理するかについていかなる指示もしないまま、旅に出かけました。彼らが勝手に管理できるように自由にさせたのです。そして、彼らが予想していたよりもはるかに長い時間、主人は帰って来ませんでした。しもべ達は長い間、自分に任された主人のお金を最善尽くして管理しなければなりませんでした。 5タラントを受けた者と2タラントを受けた者は主人のお金で商売を始めました。しかし、1タラントを受けた者は、他の二人とは異なる態度で主人のお金を管理しました。彼はそのお金で何かをしようとする途中でお金を失うのではないかと心配になりました。 15年間働いて受けるほどの巨額のリスクが負担だったのです。そこで彼は地面を掘り、そのお金をそこに隠しておきました。 しもべに自分の財産を預けて旅に出かけた主人は、イエス様ご自身を象徴します。そして主人の財産を受けたしもべは、神様の子供たち、すなわち教会と教会に属す私たちを象徴しています。イエス様はこの地上でのご自分の残り時間が少なくなったことをご存じでした。イエス様はご自身がもうすぐ死んで復活し、この地上を離れて御父がおられる所に上られることをご存じでした。死を前にイエス様は、ご自分がこの地に戻って来るまで、私たちがどのような態度で自分を待って準備するかを教えられたかったのです。御父に従うために多くのリスクの中で生きられたイエス様は、ご自分に従う私たちも、数多くのリスクの中で生きることをご存じでした。そして、イエス様は1タラントを地の中に隠したそのしもべのように、私たちも自分自身を守るために、神様への責任、また私たちの隣人への責任を回避しようとする誘惑を感じることもご存じでした。  まだ罪の影響の中に生きる私たちも、主人のお金を地面に埋めたしもべのような面があります。私たちは、神様から与えられた使命に沿って生きていく時、必ずリスクが多いことを行い、リスクへの恐怖は私たちに神様への信仰を地面に埋めるよう誘惑します。このような無理な環境を造った神様に責任転嫁するように誘惑します。リスクは常に信仰の後ろに付きまとい、リスクの克服なしに真の信仰はありえないのです。イエス様を信じてついて来たいと思うなら、私たちは自分を捨て十字架というリスクを背負って、彼についていくのです。キリストが私たちに真に望んでおられるものは、私たちの人生です。人生を生きる私たちの態度です。心と思いと知力を尽くして神様への責任を尽くし、また隣人への責任を果たす忠実さです。このようなリスクにもかかわらず、自分を捨て自分の十字架を負い、そしてキリストについて行こうとする信仰なのです。このような信仰を通して、神様はこの地上にご自分の御国を現されるのです。私たちにとって一番危険なリスクとは、どんなリスクをも耐えようとしないことです。リスクに対して心が固くなり、何も投資したくないという態度です。そのような人たちを、キリストは悪いなまけ者のしもべと呼びます。しかし、私たちが自分自身の安全を越え、神様と私たちの隣人に責任を果たす時、キリストはそれを何よりも喜ばれることでしょう。いつか必ず戻って来られる私たちの主イエス・キリストは、天国のパーティーを開いて、しもべである私たちに、ともに彼の喜びに参加する特権を与えてくださるのです

No.30「汚れた者に近づくキリスト」    ルカ10:25-37

 私たちの姿は、祭司・レビ人・サマリア人、この三人のうち誰と最も似ているでしょうか?私たちが生きるこの世界では、サマリア人よりも祭司やレビ人の姿を自分自身また他人を通して多く見ます。職場では、それぞれの基準で互いに判断します。 「あの人は、利己的な人だ!失礼な人だ!怠惰な人だ!責任のない人だ!」教会も大きく変わりません。 「あの人は信仰が足りない!あの人は、あまりにも世俗的だ!あの人は、聖書を全然知らない!あの人は祈っていない!あの人は奉仕をしていない!あの人は思いやりがない!あの人は、とても律法的だ!」家庭でも、私たち人間は互いに判断します。 「私の夫は、無関心だ!私の妻は私を尊重しない!私の子供は、親に従わない!私の両親は、いつも権威だけ前面に出して!私の兄弟姉妹は利己的だよ!」私達は他人の視線をすごく恐れますが、同時に自分が恐れるその基準で他人を残酷に恐ろしく判断しているのです。自分が他人を傷つけたことよりも、他人から受けた自分の傷の方が大きく感じられ、他人が必要とするよりも自分が必要とすることがより先に見えて、人助けをしない自分のわがままよりも、自分を助けてくれない他人の無関心と冷静さがより悪く見えるのです。罪の影響の中に住んでいる私たちは、自分の汚れより自分の義がはるかに鮮明に見えて、相手の義がより汚れていると見えるのです。このような矛盾の中に、私たちはまるで祭司とレビ人のように、汚れていると見える他人に近づかないのです。いつもある程度の距離を置き、自分自身を不快にさせる状況を作ろうとしません。自分の助けが必要なその人の状況を知りながらも、リスクが怖く素通りしてしまいます。結局、私たちは互いに隣人となれず、互いに孤独で悲惨にさせてしまうのです。 しかし、私たちには希望があります。良きサマリア人のような方が、私たちのそばおられるからです。罪のために死んでいく私たちを通り過ぎず、汚れた私たちに近づいて来られ、私たちの傷を撫でて触れ、ご自分の命を捧げて私たちを救ってくださった方がいます。それはまさに私たちの主イエス・キリストです。神である彼は、私たちのような人間になってこの地に来られ、十字架上での残酷な死を経験され、ご自分の命によって私たちを生かしてくださいました。私たちの真の隣人になってくださったイエス・キリストへの信仰によって、私たちは永遠の命を受けます。唯一の私たちの真の隣人になってくださったキリストの恵みで、私たちは神様の前で義人となります。このことが、律法の専門家が投げた質問に対する答えなのです。 キリストが私たちの真の隣人になってくださったように、キリストの恵みを受けた人は、必ず真の隣人にならなければなりません。真の隣人は、自分が受けたように他人にします。自分に仕えられたように、人に仕えます。自分が助けを受けたように、人を助けます。真の隣人とは、愛される資格がある人ではなく、汚れた私たちの近くに来られたそのキリストの愛で、他人を愛する者を意味しています。真の隣人は、悲しみ、絶望し、苦しんでいる者を決して通り過ぎず、その人に近づきキリストの愛を伝える祝福の通路のような者であるのです。今この瞬間、イエス様は私たちに質問を投げかけておられます。 「この三人の中で誰が、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」私たちは答えるでしょう。「その人に近づき、憐れみをかけてやった人です。」イエス様は、私たちにこのように言われるでしょう。「あなたも行って同じようにしなさい。」

No.31『失われた者を見出されるキリスト』    ルカ19:1-10

 取税人であったザアカイは自分の同胞から高額の税金を収め、多くの利益を残しました。そして、取税人の頭として、他の取税人を雇ったザアカイは雇用者として自分の部下の取税人達からも利益を得た人でした。彼は多くの富を貯蓄し、ユダヤ人の誰も無視できないほどの力を持っていました。しかし、彼はすべての人にとって、ただの汚れた取税人の頭にしかすぎなかったのです。ユダヤ人社会では取税人は権力と富を得ようと、自分の民族を裏切る売国人であり罪人として扱われました。汚れた罪人とされる彼と友となるならば、すべての人を敵に回す程のリスクを覚悟しなければなりませんでした。そのような負担を抱えながらまで、彼と真の交わりを望む人はおそらくいなかったでしょう。ある意味では、彼はすべてのものを持っているようでしたが、実際には自分のすべてを失っている深い空虚の中で暮らしていたのです。 しかし、イエス様は彼に話かけられました。そして、イエス様の口から出てきた最初の一言は、彼の名前でした。 「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」想像もしていなかったことが現実になりました。イエス様は彼の名前を正確に知っておられたのです。またそれだけでなく、それまで人々から避けられていた汚れた取税人の彼に、イエス様は近づいてきて彼の家に滞在したいと言われたのでした。ザアカイにはイエス様の行動がどれだけ危険なのかよく知っていました。自分に近づいたために、どんな犠牲を果たす必要があるかを知っていました。エリコにいる多くの祭司たちの家を拒否し、取税人の家に滞在しようとするイエス様は、今までのザアカイに向けた人々の怒りをご自身に向けられたのです。今、イエス様はザアカイよりもはるかに大きな非難と攻撃を耐えなければなりませんでした。 ザアカイは初めて実現しました。彼はイエス様に出会えたのは、自分の意図や偶然によってではなく、ザアカイという失われたご自分の子供を見つけるためにイエス様ご自身から直接来てくださったという事実を信仰によって受け入れました。イエス様に会う前のザアカイは失われた存在でしたが、今では彼に近づいて来てくださったイエス様によって、彼は見出された存在として生まれ変わったのでした。 汚れた罪人に与えられたこの恵みは、ザアカイの人生を完全に変えましたが、その恩恵は多くの人々の心の中に立つことができない怒りを引き起こしました。 イエス様の福音はいつも資格のない者には恵みですが、自分の資格の義について自信のある者たちには非常識な矛盾として感じるのです。イエス様の御国には、世界の基準では到底ありえない者が存在し、ありえる者が存在しないのです。イエス様の恵みは、常に世界を驚かせるのです。人々は世界の基準で互いの価値と資格を判断します。しかし、神様の御前では私達皆は、失われたものであり、悪い罪人にすぎません。罪人という身分の私たちに誰がより素晴らしいか、より義人なのかを判断するのは意味がないのです。なぜなら、神様の恵みはいつも資格のない者に与えられるからです。神様の恵みは、自分で自分自身を救うことができると自慢する者を低くさせ、自分の無力さを認める者を高くさせます。神様の恵みはいつも私たちの常識をこえ、私達の予想外の者を見出し、救われます。私たちは見出された者として周辺の失われた者たちに、私たちがキリストから受けたその同じ愛を伝えなければなりません。相手の可能性と資格を判断せず、ただ私たちはその恵みを伝えるべきです。キリストが資格のないザアカイを見出し、彼の家に滞在されたように、キリストは私たちのすべての予想と推測を超えて福音を聞いた人々を見出され、彼らの心の中に滞在されるからです。このことがまさに私達が測定できない主イエス・キリストの驚くべき恵みなのです。

No.32

世界の最後についてのこの本文は、イエス様がご自分の3年間の教育の働き中で、一番最後に教えられたものです。イエス様は世の終わりにおいて大部分はたとえ話で語られましたが、ここでは比喩ではなく、直接的な話で真実を教えられました。イエス様は人々の心に、この説教を確実に刻み込まれたかったのです。この本文は、イエス様がオリーブ山におられた時、弟子たちの質問に対しての答えの説教です。「あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」これに対してイエス様は、ご自分が戻って来られるその日、すなわち世界の最後の日には必ず審判があると答えられました。 この世の中には、イエス様に属す人々とそうでない者が共存します。この二つのグループは、表から見るとまるで一つの種族のように似ていて、区別することは容易ではありません。しかし、世界の終わりに人の子は、羊飼いが羊とヤギを区別するように、彼らを分けるのです。そして、この二つは全く別の運命を迎えるのです。あるグループは、キリストと結婚し神の御国に入る祝福を享受しますが、他のグループは、キリストとすべての人々から永遠に隔離されます。そして彼らの運命を決定するのが、最も小さい者たちのひとりへの私たちの態度なのです。世界には大きな者が存在するのに対し、小さい者も存在します。本文の中で、イエス様は小さな者達を挙げられました。空腹であるが食物がない者、渇いているが飲水がない者、旅人で寝る所がない者、裸だが着物がない者、病気をするが治療を受けれない者、不当に牢に閉じ込められ誰も助けてくれない人々がいます。そして他にも、誰かの愛と支援が必要なすべての人々が小さな者であり、彼らはいつも私たちの周りにいます。イエス様は彼らへの小さな関心と愛が奇跡を作り出し、無関心と放置は破滅を呼ぶと教えられました。もちろん私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって救いを取得します。しかし、小さな人への関心と愛を欠如する者の信仰は、決して真の信仰ではないことを教えるのです。小さい者たちが直面する悲しい現実は、私たちにとってある程度容認また我慢できますが、神様にとっては自分自身への冒涜であり、ご自分が創造された世界の基礎を揺れ動かす行為と同じなのです。すべての人間は、神様の形に創造されたので、人間に行われるすべての行動は、まるで神様にすることと同じなのです。どんなに小さな者といえども、神様の形として創造された人間を虐待することは、神様を虐待する事と同じです。差別することは神様を差別することであり、無視することは神様を無視することなのです。小さい者たちの悲しい現実は、決して私たちと無関連にはしません。なぜなら、彼らが苦しむことは、まさに彼らの中におられる神様が苦しむことだからです。彼らの苦しむ困難に目を向けることは、神様へ目を向けるものであり、無関心は神様への無関心を現します。小さな者の無関心は、決して神様の前に正当化されることはありません。イエス様は本文の40節後半からこう言われました。 「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」イエス様は最も小さい者たち皆ではなく、ひとりと言われました。イエス様の御言葉通り、私たちは最も小さい者たちのひとりを知っていますか?私たちは、カテゴリを越えて人格的に彼らを知っていますか?顔や名前を知っていますか?家族は誰か、どのような趣味を持ち、何が好きかを知っていますか?逆に、私たちは彼らが自分を人格的に知るようにしていますか?私たちの顔や名前、性格を知っていますか?もし答えることができない場合は、私達は彼らの中におられるイエス様を見なかったことを明らかにし、彼らの中におられるイエス様を歓迎していなかったことを明らかにするのです。誰が大きな者か小さな者かに関係なく、すべての人間は神様の形に創造されたので、誰もが愛される権利があり、皆が愛する義務があるのです。他人を愛する人は、必ず相手と一緒におられるキリストを見るのです。ロシアの文学家トルストイが話したように、愛があるところにはいつもキリストがおられるからです。最も小さい者が私たちの周りにいる時、喜んで彼らに近づいて行きましょう。私達は彼らに与えるよりも、彼らの存在が私たちにもたらす神様の恵みと祝福がより大きいからです。いつのまにかクリスマスが近づいてきています。今から約2000年前、イエス様を妊娠していたマリアとヨセフは出産が迫ったにもかかわらず、滞在する場所がありませんでした。しかし、誰かが彼らに飼い葉桶を提供し、その小さな善行を通して赤ちゃんイエス様は私たちのもとへ来られました。最も小さい者たちのひとりにした小さな愛が世界を変えたのです。愛しましょう。その愛が私達の未来を変え、世界を変えます。私達が愛するそこに神様がおられ、私達の愛を通して、神様は偉大な御業を行われるのです。

No.33

 サムエルの話は、イスラエルが非常に小さく無能だった時期を背景にしています。エジプトを脱出したイスラエル人は、約束の地カナンに入ることができましたが、神様と偶像両方を仕える始め、周辺諸国の侵略に苦しむことになりました。イスラエル人を哀れに思われた神様は士師と呼ばれる軍事的リーダーを通してイスラエルを守られましたが、それにもかかわらず、偶像崇拝をやめないイスラエルはますます弱くなり小さくなりました。イスラエルは、ついには強力なペリシテ人の脅威の中、かろうじて生存する弱い国となりました。このことは、イスラエルだけの危機ではなく、イスラエルを通して福音を聞いて救われる全世界の危機でもありました。 これらの危機の瞬間に聖書が注目しているのは、イスラエルを救い出す者は、有能な英雄ではなく不妊の女性ハンナでした。一体ハンナという無能な女性の苦しみと、神様の救いの計画は何の関係があるのでしょうか?本文の5節と6節は、ハンナの不妊について繰り返しこう言います。 「主は彼女の胎を閉じておられた」ハンナの不妊の裏には、神様の驚く計画が隠れていたのです。ペニンナは子供を持つことができなかったハンナを苦しめましたが、神様はその試練を通して、ハンナは神様の幕屋でさらに熱心に祈るように導かれました。 試練の中で神様を心から求めた時、神様はハンナに子供を与えられ、その子はハンナの人生を救っただけでなく、イスラエルを救うダビデ王を立てました。第Ⅰサムエルでダビデ王の登場より、先にハンナに焦点を当てた理由は、神様の御国は人間の有能さの中で起こされるのではなく、無能な人間を愛された神様の恵みから始まり、無能な人間の本当の願いを通って拡張される事実を教えるためでした。ですからハンナは、自分の息子にサムエル、つまり「神様に求めた」という名前を付けました。神様の恵みによって、不妊の無能力な女性が、全世界を救いに導く小さな希望の種になったのです。 私達皆は人生の中で色々な試練を経験します。そして試練は、私たちにとって自分の限界と無能を悟らせます。世界は無能を希望の終わりと言いますが、神様の恵みの中で無能は希望の出発点となります。私たちが心から自分の無能さを認めて神様の恵みに訴えるとき、希望の種は、試練の中でも芽を出し、実を結ぶのです。私たちを愛しておられるイエス・キリストは、全能の神様にもかかわらず、自分自身を低くされ無能な人間になられました。そして、イエス様の弱さと無能さのために彼の人生には常に多くの苦難が続きました。しかし、彼はご自分の無能さの中で、神様に熱心に祈りました。 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」イエス様には十字架の死という最大の試練が訪れましたが、その試練の裏で神様の御国はこの地上に根付き始め、彼の復活によって、御国はこの地上に花を咲かせました。今、少しずつクリスマスが近づいています。無能さを希望に変えられ、苦難を幸せに変えられ、死を命に変えられたイエス・キリストを記念し、私たちが経験する試練の裏からすべてを治められるキリストの恵みを深く体験することができる時間になることを、主の御名で祝福します。

No.34『用いるか、失うか』   マタイ 25:24-30

 イエス様が語られたタラントのたとえ話は、イエス様のたとえ話の中でもわかりやすく、またよく読まれるたとえ話の一つです。 24ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。 1タラント預かった者の中にあった主人へのイメージはとても悪いもので、ひどい方と言う通りでした。けれど見方によっては、この1タラント預かった者は、主人にプラスをもたらさなければ、マイナスももたらしていません。「さあどうぞ、これがあなたの物です」と言い、預かった物をそのまま返しています。主人(神様)の評価は、とても厳しいものでした。26節では「悪いなまけ者のしもべだ」と言われ、28節では「そのタラントを取り上げ、10タラント持っている者にやりなさい」と言われています。 この1タラントを預かった者から、反面教師として学びたい。日本人は、自己卑下が得意な国民のゆえ、1タラントを預けた主人をひどいと思うより、5タラントや2タラントを預かった人と比べて、どうせ私は1タラントしかないのでそのタラントを用いても意味がないとか、私にはもったいない1タラントだから大事にとっておきましたなどと言い、このたとえと同様「さあ、どうぞこれがあなたの物です」とお返ししそうです。しかし神様は、どのような理由にしろ、預けられたタラントを何も活用せずにそのまま返せば、このたとえ話と同様に答えられるでしょう。「悪いなまけ者のしもべ」や「そのタラントを取り上げ、10タラント持っている者にやりなさい」と言われます。つまり神様から預けられたタラントは、用いるか用いないかではなく、用いるか失うか、用いるか取り上げられるかなのです。 私には少しの賜物しかない、私は小さな存在だから静かにしていよう小さくなっていようと考えていませんか?預けられているタラントは、たったの1タラントですが、そのタラントの価値は、6000日分の労賃、20年分の年収です。主人が、そのままにするのではなく銀行に預けておけば良いと言いたくなるのもわかります。しかし主人の本当の願いは、失敗しても良い、マイナスになっても構わない、預かったタラントを用いてほしい。活用してほしいというものなのです。もう一度神様から預かったタラントを確認し、埋めたままにしていないか確かめてみましょう。神様からのタラント・賜物・召命は、用いるか用いないかではなく、用いるか失うかなのです。神様から預かったタラント・賜物・召命を活用する者として歩んでいきましょう。

No35「闇から始まるアドベント」    イザヤ 64:1-9

 Adventは、もともと闇から始まるようにデザインされているのです。罪に染まったこの世界と私たち自身の闇を見なければ、私たちはなぜイエス・キリストがこの世に来られたのか、その理由を知ることができないからです。その闇を感じなければ、私たちは、世界の光として来られたイエス・キリストとクリスマスの本当の意味を理解することができません。そのため、Adventは、光ではなく、暗闇の中から始まるのです。 本文は、B.C. 6世紀半ばバビロニアの捕虜だったイスラエルの状況を背景にしています。正義を無視してまで自分達の利益を求めたイスラエル人は、自分たちよりも残酷で野蛮なバビロニアを通して正義を無視した恐ろしい代価を肌で経験するようになりました。バビロニアは、彼らが最も大事にしていたエルサレムを徹底的に破壊し、神殿を壊し、幼い子供たちを残酷に殺害し、すべての人々を抑圧しました。正義が踏みにじられた当時の世界は、まるでソドムとゴモラのように悪行で満ちていました。罪に染まった人間は、自分の中に存在する闇を認知せず、その暗闇の中から救い出してくださる、救い主である神様の必要性も感じていませんでした。 このような悲劇的な状況を見て号泣する者がいました。それは預言者イザヤでした。イザヤのAdventは今の私たちのAdventとは異なり、明るい所ではなく、暗い場所で始まりました。彼は罪に満ちた完全なこの世界の闇を見て、涙をもってクリスマスを待っていました。彼は、心から神さまが天を裂いて降りて来られることを祈りました。ソドムとゴモラのときのように、モーセのときのように、神様が直接降りて介入してくだされば、不義な者はもはや悪い行為ができず、この暗い世界は明るくなるだろうとイザヤは考えていました。しかし、どんなに待っても神様は降りて来られませんでした。過去に何度も降りて来られ、邪悪な者たちを裁き、ご自分の民族を救われた神様は、当時イザヤが生きていた世界では、御顔を隠されました。闇の中のAdventはますます長くなっていきました。 今、私たちが経験するAdventはイザヤの時とどのように違うでしょうか?理由はそれぞれ異なりますが、多くの人が好んで待っているAdventは、華やかで明るく活気があふれているものです。人々にとってのクリスマスシーズンは明るくあるべきで、幸せに見えるべきなのです。人々は、この世界と自分の中に存在する闇と悲しみの現実よりも、クリスマスシーズンのロマンチックな雰囲気に注目してしまいます。 まだ罪の影響の中にあるこの世界を見れば、神様はご自分の御顔を隠されたように思えます。しかし、神様はご自分を隠されるのは、私たち人間に対する神様の忍耐であり、愛なのです。キリストのために、この地で始まった神様の御国は、表面的には小さくみすぼらしく見えるかもしれませんが、その御国は、神様の摂理の中で、私たちが見ることができない姿に拡張され、いつの日か私たちの王であるキリストが再び来られる時に、完璧な姿でこの世に現れるでしょう。キリストのご支配の前に山々は揺れ動き、すべての罪の闇は消えてしまいます。 2016年は11月27日から4週間Adventとなります。しかし、実際には一年の中のこと4週間がAdventではなく、再び来られるキリストを待っている私たちのすべての人生がAdventなのです。注意してください。  Adventは闇から始まります。私たちに与えられた人生と時間の間に、私たちは罪の闇を直視し、自分自身と世界のために祈り、再び来られるキリストを待つ必要があります。いつかキリストが天を裂きまた降りて来られる時、神様の正義は悪に勝利し、神様の栄光は全世界を明るく照らすのです。

No.36「行きずらい道」      ルカ3:1-6

 本文で最も多く繰り返される言葉は、道です。本文の著者であるルカは、4節で2回、5節で1回、計3回道という言葉を使用しました。道は今日の本文を理解する上で、重要なものです。本文の1節と2節ではルカは、いつ、誰がどのような役職でどんな場所を支配したか、聖書のどの部分よりも詳細に歴史的な事実を記録しています。ルカは歴史という道は一体何なのか、その道は誰が作ったのか、そしてどこに向かっているのかに焦点を当てています。そしてルカは当時の最高権力者の名前の一覧を挙げて、書き始めました。  ルカが最初に語ったテベリオという人は、当時ローマ帝国の皇帝でした。ローマ帝国は、世界で最も強力な軍隊を持ち、それによってローマ帝国の領土は、世界中、他の国よりも最も広大になりました。今のアメリカよりもはるかに強力な影響力を行使していた国が、ローマ帝国でした。そのようなローマ帝国を治める皇帝テベリオは、世界で最も高い権力者であることには間違いありませんでした。彼は自分の一言で世界を動かすことができる力を持っていました。それはまるで皇帝テベリオこそ歴史という道の主人であるようでした。ヘロデ1世の子ヘロデ・アンティパスとピリポは父の領土と事業を継承を受け、それぞれの地域で力を持って繁栄していました。しかし、彼らの繁栄とは比較にならないほどの繁栄を達成した者がいました。それはローマ皇帝テベリオでした。地中海沿岸すべての国が皇帝テベリオのものでした。世界が最も注目する者は、このように繁栄した者でした。政治、経済、文化、社会など、人間のすべての領域を主導している彼らこそ、歴史という道の所有者とみなされました。 しかし、聖書は歴史という舞台の中で、絶対に世界の権力者たちに主演の役割を与えませんでした。ルカは権力者たちの名前を挙げた後、2節の後半でこのように述べています。「神のことばが、荒野でザカリヤの子ヨハネに下った。」神様のみ言葉は、繁栄の都市カイサリヤや壮大で華麗な神殿ではなく、誰も住んでいない、何の繁栄もない荒野に下りました。神様のみ言葉は、巨大な繁栄を遂げた天才建築家であったヘロデ家や広大な地域を治め、一言で世界を動かすことができる最高権力者であったローマ皇帝テベリオには降りませんでした。神様のみ言葉は、何の財産もなくらくだの毛の着物を着、いなごと野蜜を食べ、荒野に住んでいたヨハネに、何の権力もなく、ただ語ることがすべてだったヨハネに与えられました。そして、彼はヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、このように神様のみ言葉を伝えました。 「悔い改めなさい!罪人よ、悔い改めなさい!」「悔い改め」という言葉の意味は何ですか? 「悔い改め」という言葉は、聖書では「帰ること」を意味します。神様を離れて、自分の力で繁栄する罪の道から外れ、神様の御心に向かう道へ帰ることです。神様の御心への道は、自分の力では罪から逃れることができないことを認める道であり、唯一の救い主、神様だけを頼る道なのです。あまりにも狭く急峻に見える道、人々がよく選ばない道、その道がまさに悔い改めの道でした。 罪で溢れる自分の内面をのぞき見ることは、険しい道であり、人々が回避する道です。罪人である自分の無力さを受け入れ、神様だけを頼ることは困難な旅です。しかし、神様の御霊は行き辛い、その道に私たちを招待され、その道を歩いて行く力を与えてくださいます。その恵みに私たちのすべてを任せ、真の悔い改めの道を歩いて行く時、私たちの人生は、神様の御心に向かって方向を変え始めその道の先には、神様の救いが私たちを待っているのです。 Adventを迎えて、私たち自身の歩みをしばらく止めてみましょう。そして、神様の御心が今どの方向にあるか考えましょう。真の悔い改めによって神様に向かって私達の方向を変えるとき、再び来られるキリストの道は真っ直ぐで平坦なものになり、私たちは主の道を準備するキリストの僕として生まれ変わることになります。

No.37≪クリスマスイブ メッセージ≫   マタイ2:1~12

 本文で出てくる東方の博士たちは、Ph.Dの学位を持っているとか、知識が多くの人々ではなく、異邦の占星術師たちでした。古代の人々は、今まで見たことのない新しい星がどのような土地の上で光る、その国に新たな王が生まれる兆候と解釈してはいました。東方に住んでいた博士たちは、ユダヤ人の土地で新しい星が輝くのを見て、すぐにユダヤ人の王が生まれるだろうと思いました。そして、彼らは祭司長たちや律法学者たちから、ユダヤ人の王がベツレヘムで生まれること聖書の御言葉から聞きました。ですから博士たちは、聖書の記録に沿って、ベツレヘムという町に向かって行きました。ところが、突然、博士たちの前に、東方で見たその星が現れて、かれらをある場所に導きはじめたのです。。そして、その星は、ベツレヘムのある家のところで、その上で星はとまりました。博士は、本当に嬉しかったのでした。ユダヤ人の王が生まれたところが、まさにその家であるという事実を直感したからでした。家の中に入ってみると、赤ちゃんイエス様は、ご自分の親であるマリアとヨセフのそばで横になっていました。博士たちは、ユダヤ人の王である幼子イエス様の前にひれ伏し、彼を礼拝しました。そして、準備してきた貴重な贈り物をイエス様に差し上げました。イエス様の最初の誕生日、つまりクリスマスについての話は、このように終わります。結末が少し退屈でしょうか?私たちには何度もよく聞いたつまらない話かもしれません。しかし、マタイを初めて読んだ当時のユダヤ人の読者に、この本文は誰も予想できなかった、あまりにも衝撃的な話でした。なぜなら、ユダヤ人の王イエス様を礼拝した最初の礼拝者が、ユダヤ人ではなく、東方の博士たち、すなわち、異邦人つまり外国人だったという事実からです。そして博士たちがイエス様にささげた黄金、乳香、没薬は、当時唯一、王や神のような存在にのみ捧げる超高級な贈り物でした。博士の贈り物は、イエス様がユダヤ人の王だけでなく、自分たちのような異邦人 外国人の王でもあり、この世界のすべての民族の王であられることを告白するものでした。博士たちのプレゼントが信じられないほどの理由は、それらが高価なものだからではなく、その贈り物にこめられているイエス様への博士たちの信仰によるものでした。しかし、博士たちは、自分たちの贈り物とは比較できない、はるかに素晴らしい贈り物を受け取りました。その贈り物はまさに博士たちの前に横たわっている赤ちゃんイエス様でした。王であるイエス様は、裕福な都市エルサレムではなく、貧しい村ベツレヘムに生まれ、華やかで豪華な王座ではなく、汚い飼い葉おけの上に横におられ、威厳に満ちた王の姿ではなく、弱く、みすぼらしい、赤ちゃんの姿では地に来られました。この贈り物・プレゼントが驚くべき理由は、このような矛盾によってではなく、この矛盾の中に含まれている私たち人間への神様の限りない愛によってです。ユダヤ人だけでなく、その博士たちと一緒に異邦人である私たちみなを救うために、神様はご自分の独り子イエス・キリストを送られました。人間になられたイエス様は、ご自分の誕生の場所として汚い馬小屋を選ばれ、ご自分の最後の場所もやはり、世界で最も恥に満ちた残酷な十字架を選ばれました。彼の犠牲と謙虚ために、私たちは罪の許しを受け、私たちは新しい命を得ました。その恵みによって、私たちは、キリストの体になる、この場で礼拝をささげることができるのです。この偉大な愛のイエス・キリストこそ、誰も予測できない、私たちに向けた、神様からの素晴らしい贈り物・プレゼントなのです。

No.38

新約聖書の背景となるローマ帝国は、複数の社会階層に分かれていました。当時は身分に合った待遇を当然のように受け入れなければならず、身分とはまさに力でありローマ帝国は徹底的に力の原理で支配した世界でした。高い者はより多くのことを占めて低い者を支配し、低い者は奪われ操られながら疎外されました。しかし、このような世の中を多くの人々は平和だと判断しました。なぜなら、ローマ皇帝アウグストの絶対的な力の前に、世界は戦争や反乱がなく、静かだったからです。アウグストは、自分のライバルをすべて殺し皇帝の座に上がり、共和国であったローマを帝国に作った人でした。アウグストは単なる皇帝ではなく、宗教そのものでした。19世紀トルコで発見された古代文献には「アウグストは神であり、彼の誕生日は、全世界の良いニュースの始まり」とあり、英国博物館に保管されている文献にもアウグストが空と雷の神ゼウスを継承した神であり、世界中に平和をもたらし救ったと書かれています。当時ローマ帝国時代に生きていた人たちは、実際にアウグストが神であり、救い主だと信じていたのです。絶対権力者アウグストは、一時的に戦争をなくしましたが、彼が作った世界は決して真の正義と平和は存在しませんでした。彼は人々から税金を集めるため、例外もなく皆自分の先祖の村で住民登録をするように命令しました。臨月のマリアは、ナザレからベツレヘムまで145kmにもなる険しい歩かなければならず、救い主と呼ばれたアウグストは、自分の繁栄のために妊娠中の女性にも、一日に16kmずつ9日以上の残酷な旅を強要する矛盾的な姿を見せました。一方、ベツレヘムの近くに住んでいた羊飼いたちは、誰もいない疎外された場所でいつものように野原で羊を守っていると、突然彼らの前に神様の御使いが現れました。そして、彼らは言葉で表現できないほど恐ろしい恐怖を感じました。なぜなら、主の栄光が彼らの周りを照らしたからです。栄光とは神様の視覚的なご臨在を意味します。神様は羊飼い達と共におられ、それによってその周辺は、栄光で明るくなりました。神様の光が彼らを照らすと、罪という闇を持って生きる彼らは絶えられないほどの恐怖を感じました。しかし、天使たちはこう言いました。 「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」彼らの恐怖を喜びに変える知らせは、まさに真の王イエス・キリストについてでした。神様は汚れた罪人である私たちをお捨てにならず、私たちのそばに来られたイエス・キリストを通していつも共にいてくださると言われました。高い王座から人々に住民登録を命令したアウグストとは違い、イエス・キリストは高い所から低い所に来られ、派手な冠ではなく卑しい人間の体をまとわれました。彼は上流階級の都市エルサレムではなく、貧しくレベルの低いベツレヘムを選ばれ、立派な王座ではなく飼葉おけに横になられました。私たちのような罪人と一緒にいるために、限りなく低くなられた謙虚の王は、神様と人間との間にある罪をなくし、恐怖を喜びに変えて下さいました。これがまさに主の民皆が喜ぶべき福音でした。神様がこの知らせを最初に伝えた者たちは、世界で最も汚れた羊飼いたちでした。彼らはすべての人々から見捨てられ無視されましたが、神様はそのような彼らのそばに降りて来られ、ご自分の栄光で彼らを包まれました。そして、神様はご自分の息子の誕生日パーティーに王や祭司を招待せず、謙虚な羊飼いを招待されました。人々は絶対権力者アウグストを救い主と考え、ユダヤ人たちはアウグストを力で制圧する強力なメシヤを期待しましたが、キリストはこのような人間の知恵を超えて、あまりにも弱く、みすぼらしい低いお姿で私たちのそばに来られました。汚れた飼葉おけに横になって、謙虚な羊飼いを歓迎された幼子イエス様のクリスマスは罪人である私たちへの、神様の謙遜さと愛が最も最終的に表現された出来事だったのです。この驚くべきキリストの恵みが、アドベントの中で私たちが心に刻むべきメッセージなのです。世界が望む救い主は、暴力的また利己心で治めますが、イエス・キリストは仕える事、犠牲で私たちを治める方です。世界が望む救い主は弱い者の血で自分の繁栄をむさぼる者ですが、イエス・キリストはご自分の血で私たちの罪を洗い流し、私たちを本当に繁栄される方です。イエス・キリストだけが私たちの体と心と魂を救いわれ、私たちの恐怖を喜びに変えてくださる真の救い主です。天の王座を捨て、私たちのように低い者と一緒におられ、キリストを通していと高き所に栄光が神にあり、地の上には平和が御心にかなう人々にあるのです。

No.39『だんだんと大きくなられるイエス・キリスト』   ヨハネ 1:1-5

 思春期を迎えると、私たちの体は成長し思考も深くなります。そして今まで考えたことのなかった質問に真剣に考え始めます。それは「私は誰なのか?」という質問です。心理学者エリクソンによれば、人は思春期に自分のIdentityを確立する過程を必ず経験すると言っています。 「私はどんな存在であり、何のために生きていくのか?」を自分自身に投げるのです。そしてそれに対する答えを見つけながら、私たちは自然に自分の存在は何から始まったか、人生の先に何が待っており、死んだ後自分はどうなるのかを考えるようになります。しかし若い人たちには、この関心はそう長くは続きません。なぜなら、社会がこれについて深く考えさせないからです。私達はまず自分は何が上手にできるか、またどうやってこの社会で生き残るかを考え、人生の最初と最後については、答えを得れない無意味な質問だと教えるのです。人々は自分の人生がどこに向かうか分からないまま、一生懸命生きます。何かを達成するために努力し、社会からの評価を受け、自分の存在はますます大きくしようとするのです。しかし、自分の努力や能力に自信を持てる時間はそれほど長くありません。人生には私たちの力でできることよりも、できないことの方が多いからです。いくら努力しても望む結果が得られない時があり、また意図した通りに進みません。全く予想していなかった時に突然健康を失ったり、人間関係や経済的に問題が生じ、愛する人々に不幸が訪れたりします。また仕事で成功を収めた人たちもいつかは退職します。これまで、仕事一色で生きても、自分に達成感を与えた仕事がなくなれば、急激に弱くなる自分自身に混乱を感じることもあります。人は時間が経てばいつの日か、自分が無限の存在でないことを悟るようになり、人生という巨大な海の前で自分はあまりにも小さな存在であることを認めることになります。決して人間は自分が持っている能力だけで、自分自身を定義することができないのです。そしてついにこれまで回避してきたその質問に戻ります。 「自分はどのような存在なのか?どこからはじまり、どのような結末に至るか自分は何のために生きているのか?」 人間は決して人生の本質を無視して生きていけない存在なのです。 聖書は、すべてはイエス様から始まったと言い、まさにこの世界を造られた創造主と教えるのです。イエス様は世界を造られる前から時間を超越して存在された神様であり、生命の源であるので、彼によらずにできたものは一つもないと主張しています。私たちの存在が何から始まったのについて聖書が教える答えは、イエス・キリストであることです。しかし私たちは創造主イエス・キリストによって造られ命を得ましたが、私たち人間は生命の源であるイエス様から離れ、自分自身に向かって人生を踏み出しました。これは世界を闇へと陥らせる罪というもので、私たち人間は、決して自分の力で命の源である神様に戻れないということです。人間は決して自力で自分の罪の性質を克服することができません。しかし、この暗い世界の中に明るい光が照らしました。その光は、私たちのそばに来られたイエス・キリストでした。彼は生命の源として私たちを創造し、私たちが受けた命の光を罪と闇のために失わないように、この地上に来られました。彼は神様ですが、私たちのような人間となられ、罪人である私たちが受ける罰を代わりに受けられ、ご自分の命を犠牲にして私たちに新しい命を与えられた方なのです。私たちは、命の光であるイエス様によってのみ、自分の存在を定義することができます。彼は私たちの人生のはじまりであり、現在であり、また将来において最後である方だからです。ですから私たちが人生の本質に近づけば近づくほど、イエス様の存在はますます大切に感じられるでしょう。私たちは自分の弱さを認めれば認めるほど、彼の能力はますます強く感じられるでしょう。私たちは自分の内面に存在する闇に直面すれば直面するほど、彼の救いの光はますます明るく感じられるでしょう。私たちの創造主であり救い主であるイエス様の大きさは無限であり、その大きさは変わりません。しかし、神様の恵みは、私たちの魂を成長させるものであり、私たちが成長すればするほど、イエス様は以前よりさらに大きく見えるはずなのです。先週は、イエス様が私たちに来られたクリスマスでした。一年前よりも私たちにとって、イエス様の存在はますます大きく見えたことを期待します。そして、次のクリスマスにはイエス様の存在が、よりも大きく感じられる事を期待します。クリスマスに込められたイエス様の愛は、私たちの人生の中でますます貴重な意味になっていきます。

No.40「神様と人間の間で」 ルカ 2:41-52

 親にとって、自分の子供を失う程、衝撃的な事はないでしょう。一日かけてナザレに向かったヨセフとマリアは、再びエルサレムに帰るのに一日、エルサレムでイエス様を探すのに一日かかりました。このように3日間も息子が見つからなかったヨセフとマリアは、どれほど親として心が辛く痛かったでしょうか?彼らはエルサレムすべてをくまなく探し、幸いなことに4日目になってようやく神殿におられたイエス様を見つけました。12歳のイエス様は、律法の教師達と宗教的な話をされ、彼の知恵に教師皆は非常に感嘆しました。イエス様を見つけヨセフとマリアは胸を撫で下したでしょうが、同時に息子の衝動的な行動に傷を受けた気分でした。マリアがイエス様にこう言いました。「{子よ。}まあ、あなたはなぜ私たちにこんなことをしたのです。見なさい。父上も私も、心配してあなたを捜し回っていたのです。」ヨセフとマリアは、イエス様が突然このような行動をした理由と、自分達を心配させた事を謝らせたかったでしょう。しかし、イエス様は意外な答えをされました。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」彼らは、イエス様の言葉を理解できませんでした。「自分の父」は誰の事でしょうか?一体ヨセフ以外に、誰がイエス様の父でしょうか?本文の著者であるルカは、神殿を父の家と言ったイエス様の言葉を通して、イエス様は神の子と呼ばれる独自の真のIdentityを見つけたことを明確に示しています。ルカはルカの福音書全体で失われた事、見つけられた事についての話をよく語りました。幼いイエス様を失ったが見つけたヨセフとマリアの物語、失われたコインの話、失われた羊の話、失われた放蕩息子の話はただルカの福音書だけに記録され、ルカの福音書の中で非常に重要なテーマなのです。そしてルカはこの本文を読む私たちに質問します。この物語の中で、本当に失われ捨てられた者は誰ですか?本当に見つけられた者は誰ですか?本当に見つけた方はイエス様です。彼は自分がヨセフとマリアの息子であると同時に、神の子だというIdentityを見つけました。真に失われた者は、イエス様の両親でした。彼らは、イエス様が自分の息子である事実は知っていましたが、神の子であるという事実を忘れていたのです。失われた者はイエス様ではなく、まさにヨセフとマリアだったことルカは言いたかったのです。そして私たちが、もしイエス様が神の子であり人の子である事実を認識していなければ、私たちもヨセフとマリアのように失われた者です。私たちのIdentityは、イエス様のIdentityからはじまり、イエス様のIdentityによって完成されるからです。私たちは神の子イエス・キリストによって創造された存在です。私たちは神の子によって始まった存在なのです。しかしこの事実を忘れて罪を犯してしまった私たち人間は、死の運命を迎えることになりました。しかし私たちを愛しておられる神様は、イエス・キリストを人の子としてこの地にお遣わしになり、人間である彼が私たちの罪の代わりに死んで下さったので、私たちは新しい命を得ました。神様の子であり、人の子であるイエス様は、神様と人間の間を結ぶ橋になって下さったのです。したがって、イエス様のこのふたつのIdentityを知らない者は失われた者達であり、知って信じる者は見つけ出された者達なのです。神の子であるイエス様は、神の家である神殿で教師に教えられ、同時に人の子であるイエス様はナザレでご自分の親に従順に過ごされました。そして本文の最後の52節はこう結論出します。「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」「神と人とに愛された」神の子であり人の子であるイエス様は、神様にも人間にも従順で、皆から愛される存在となりました。イエス様はご自分の両方のIdentityに忠実になられました。そして神殿で教師たちに教えられた律法を教えただけでなく、ご自分の人生を通して教えられました。イエス様は、律法のすべての教えをこう要約しました。 「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、また「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」 ルカ10:27. イエス様は神様を愛し、人間を愛することが律法の最大の教えと言われました。そこで彼は、神の子として天の父に従順され、人間の子としてヨセフとマリアに従われたのです。私たちは、イエス・キリストが神の子であり、人の子であることを信じるならば、私たちはイエス様の道に沿って歩まなければなりません。私たちが心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛すると私たちは神の子イエス・キリストを真に知り、また私達の隣人を私達自身のように愛すると、私たちは人の子イエス・キリストを真に理解することになるでしょう。そしてその時に、私たちはイエス・キリストの形に作られ、その形を得て似ていく本当の自分自身を見つけるのです。 このことが新年だけでなく、私たちの人生全体の中で最も大切なテーマになることをイエス様の御名で祝福します。

No.41『互いに親切にもてなし合う教会』  Ⅰペテロ4:7~11

 2017年のテーマは、「互いに親切にもてなし合う教会」です。本文の著者であるペテロは8節でクリスチャンたちにこう言います。 「互いに熱心に愛し合いなさい」ペテロはお互いを愛するための具体的かつ実践的な案を提示しました。それがまさに9節の「互いに親切にもてなし合いなさい」ということです。「もてなし」に該当するギリシャ語Philoxenosは、文字通り直訳すると「見知らぬ人への愛」という意味です。見知らぬ人を暖かく、身近に親切に心から歓迎するのです。イエス様はゲストを招待して、もてなす主人でした。イエス様は神の御国について教える時、いつもご自身をごちそうを用意しゲストを招待する主人にたとえられ、私たちはその披露宴に招待されたゲストにたとえられました。またイエス様は五千人の人々が来た時、彼らを可哀想に思われ、パン五つと魚二匹で彼らをお腹いっぱいにされました。また飢えた四千人を哀れに思われ、彼らをお腹いっぱいにされました。そしてイエス様は主人であると同時にもてなしを受けるゲストにもなられました。イエス様は当時、人々を身分で判断した社会の基準を壊し、税人や売春婦のような罪人たちの家にゲストとして招待を受けて、彼らと一緒に食べたり飲んだりました。イエス様は、「もてなし」すなわち見知らぬ人への愛を通して、私たちを神の御国に招待され歓迎してくださる神様の愛を表現されました。イエス様は福音を言葉だけで伝えたのではなく、もてなすことを通して、またもてなされることを通して伝えました。そしてキリストの教会は、もてなしを通して始まり、もてなしを用いて今日まで続いています。イエス様はご自分の弟子たちを伝道旅行に送られる時に、「旅のために何も持って行かないようにしなさい。(略)どんな家に入っても、そこにとどまり、そこから次の旅に出かけなさい。」ルカ 9:3-4とおっしゃいました。この時からイエス様の弟子たちは、福音を伝えるためにいくつかの村を通り、人々は見知らぬ彼らをもてなすことを通して、自分の信仰を告白しました。そして、イエス様の昇天後も、使徒や宣教師は伝道の旅を続け、教会は見知らぬ彼らを温かくもてなしました。そして福音はますます広く、世界に広がっていき始めました。彼らのもてなしは、教会のリーダーに限られたものではありませんでした。教会の聖徒たちは、お互いを喜び歓迎し、教会に来る人は孤児でも、未亡人でも、身体の不自由な人で、誰でも喜ばれました。彼らはお互いを心から歓迎することを通して、教会はキリストの一つとなった体と呼ばれる信仰を表現しました。本文でペテロは祈ること、互いに愛し合う事、互いにもてなし合うこと、また奉仕することを教えますが、その理由は、7節の最初に記載されています。「万物の終わりが近づきました。ですから」万物の終わりは何を意味するのでしょうか?それは、天国の披露宴の主人であるイエス・キリストが再び来られる日です。その主人がこの地に神の御国の披露宴を開き、その披露宴に入る人と入らない人を区別する時が来るのです。イエス様はその披露宴に見知らぬ私たちを招待し、もてなすためにご自分の命を犠牲にしました。ご自分の体と血によって罪人である私たちを食べさせてくださいました。私たちが聖餐式を行うのは、まさに救いの食卓をそなえ、私たちをもてなしてくださるキリストの愛を私たちが体験するためであり、この世に伝えるためです。キリストがご自分の命で私達をもてなしてくださったように、私たちもキリストの体なる教会として、互いに親切にもてなし合いましょう。神様はそのような私たちの姿を、世界のどこにも存在しないひとつの美しい福音の絵とされ、その絵を通して、この地域の人々をキリストの懐に導いてくださるのです。

No.42「永遠の喜び」    ヨハネ 2:1-12 

 今日と同じように当時のユダヤ人にとっても、結婚は人生で最も大きな喜びのイベントでした。ユダヤ人の結婚式は、主に夜に開かれ、結婚式後、人々はたいまつを持って新婚夫婦の家までトーチパレードを行いました。人々は彼らをすぐに家へ連れて行くのではなく、町中を回りました。そして村の人々はそれを見て、その新婚夫婦の祝福を祈りました。一週間続く結婚の祭りの間は、人々は新郎と新婦をまるで王と王妃のように接しました。ユダヤ人にとって、結婚は喜びの象徴だったのです。しかし結婚式の喜びを保ち続けるためには新郎新婦の家族は、ゲストへのもてなしに気を使わなければなりませんでした。もてなしの失敗は新郎新婦の家族に大きな恥を与え、彼らを祝福するために来たゲストを敵にまで回すからです。またもてなしに失望するならば、彼らを訴える場合もありました。それほどユダヤ人社会では、ゲストへのもてなしを重視しました。イエス様が参加されたその結婚式も、多くの喜びと祝福の中で行われていましたが、すぐにその結婚式は最大の危機に陥りました。なぜならぶどう酒がなくなったからでした。ユダヤ人社会でぶどう酒はもてなしに不可欠なものであり、結婚式のような祭りでは必ず十分に準備しなければならない重要な飲み物でした。もてなしが損なわれ、喜びは絶望と恥に、祝福は怒りと非難に変わることが運命付けられてしまいました。私たちは、喜びを見つけるために様々な試みをします。しかしその喜びは、私たちを満足させず、まるで本文の結婚式のようにいつか終わってしまうものです。誰もぶどう酒の不足を予測できなかったように、人生には私達が予想できないことと、私たちの力では解決できない状況が起こります。その時私たちが求めていた多くの喜びはもはや続かず、達成感と満足感はなく、絶望と空虚が私たちの心を占めるようになるでしょう。しかし、イエス様は水をぶどう酒に変えた事を通して永遠の喜びについて教えてくださいました。水が意味することは何でしょうか?当時のユダヤ人たちは、自分の罪を洗いきよめるために、水を使って宗教的儀式を行いました。水が意味するのは、ユダヤ人の伝統的宗教の儀式でした。水を通した宗教儀式は、罪の赦しの一時的な方法だけで、根本的な解決策ではありませんでした。しかしイエス様は水をぶどう酒に再創造されました。これはイエス様が当時のユダヤ人の古い儀式を終わらせ、十字架上で流されるご自分の血で、私たちを新たに再創造してくださることを示すためでした。イエス様は水をぶどう酒に作られ、危機に瀕していたその結婚式の喜びを守って下さいました。このようにキリストの十字架は罪によって危機に瀕している私たちを救い、絶対になくならない永遠の救いの喜びを私たちに与えてくださいます。これがイエス様が行れた最初のしるしが教えるものでした。水がぶどう酒に変わったように、イエス様は十字架の死と復活で罪人である私たちを神の子として再創造して下さいました。今、私たちの昔の姿は過ぎ去り、新しくなりました。喜びましょう。世界が理解できない喜びが私たちの中にあります。喜びましょう。世界が奪うことができない喜びが私たちの中にあります。天国の喜びが、この地上に生きている私たちに与えられたのです。人間になられたイエス様が水をぶどう酒に変え、天国の秘密をこの地上に表わされたように、みなさんに与えられた天国の喜びを、ご自身の人生を通して現してください。みなさんの明るい笑顔で、心からの親切なもてなしと愛で、ご自身が持っている喜びを表現してください。みなさんが信じる福音を受肉してください。教会は喜びの本質であるキリストのご栄光をこの世に照らす真理の鏡となるべきです。

No.43「共同体的な人生」   ヨハネ17:20-23

 私たち人間は、一人で生きるのではなく共同体の中で生きていく存在です。しかし人々は共同体の中にいても、本音は共同体となるべく距離を置きたいのが一般的です。共同体での働きに義務的に参加しても、そこでの時間は自分にとって強さや慰めになるより、負担や重荷になる場合が多いからです。教会の中でもこのような事が起こります。私たちは社会の中で出会う人々より、教会の人々にもっと心を開き近い関係を持ちます。しかし兄弟姉妹たちとの葛藤を経験する時、心を開き関係が近かったほど、その傷は深く痛みます。それを克服しながらより成熟するのですが、その傷が癒えず体や心に深く残り、私たちが教会に対して深く関与する事を恐れ、人々との交わりに心を閉ざすようになります。教会は毎日少しずつキリストに似て聖められていく人たちの集まりです。しかし別の言葉で表現すれば、まだ罪の影響の中にいる者たちの集まりでもあります。そして罪人たちが集まったこの場所でも葛藤の可能性は、私たちの中に常に存在します。  教会が他の共同体と区別されるのは、教会の中に恵みが存在することです。恵みは聖なる完璧な人に与えられるものではありません。恵みは愛される資格がない罪人に与えられるものです。神様の恵みは罪を前提とします。神の恵みが何か、最も明らかに表わされたのは、まさに人間となられたイエス・キリストでした。ボンヘッファーという神学者はこう言いました。「イエス・キリストは、ご自分の敵の中に住まわれました。彼は結局ご自分の弟子たちに見捨てられ、十字架上で邪悪な者たちに囲まれ嘲笑を受けました。イエスが罪人にところに来られた目的は、神の敵に平和を与えようとされたのでした。したがって、クリスチャンも一人で隠遁生活をするのではなく、イエスのように敵の中生きるべきです。そこに私たちの使命と働きがあります。」罪人である私たち人間は神様の敵となりましたが、イエス様は敵である私達のそばに来られました。そして人々から多くの非難を受けながらも、税人や娼婦のような罪人と一緒に食事され、彼らの家に泊まられ福音を伝えました。イエス様は資格のない私たちと共におられ、ご自分に従う私たちが共に人生を分かち合い、愛し合う共同体に生まれ変わることを望まれました。ですから私たちはキリストに似ていく事を望むなら、人間関係に伴う混乱と葛藤を覚悟し、教会という共同体の中で兄弟姉妹と共に生きて行くのです。教会は罪人たちが集まった所であるため、葛藤は起こります。しかしそのような中でも、自分に与えられたキリストの恵みを覚えて、その恵みで互いに接し、共同体的生活を維持していくところがまさに教会なのです。  イエス様は私たちが共に生きる姿を通して世界が福音を信じるようになることを祈られました。私たちが神様の共同体として、キリストの恵みを受肉し一つになれば。それは教会がこの世に宣言できる最高の証しであり説教となります。そして教会の次世代を準備する、最も効果的な信仰の教育になります。私たちは共同体の中で共に生きる姿が、ご自分の敵を愛された父なる神とその敵に平和を与えられた御子イエス・キリストの恵みを表わす明確な福音の証拠になることを、主の御名によって祝福します。

No.44「いつもすべてのことについて感謝」    エペソ5:20

 私たちが恵みを受肉するために必ず必要なのが、感謝です。恵みは資格のない者に与えられる神様の憐れみです。そして何の資格もない私たちがその恵みを神様にささげる唯一の反応は、感謝だけです。ですから恵みと感謝はいつも一緒にあります。資格のない私たちに与えられた神様の恵みに感謝する時にだけ、私たちは神様に心からの礼拝をささげることができ、私たちの兄弟姉妹にも自分を傷つけた敵にも心から無条件に憐れむのです。ですから感謝は、単純な感情や行動を超えて教会という共同体の本質的なアイデンティティーになるのです。しかし私達が感謝を喪失する時があります。自分が資格を持っている人だと思う瞬間、私たちの心の中の感謝は消えます。私たちに与えられたすべては、神様の恵みによるものです。そしてその恵みは、資格のない者に与えられるのです。私たちに与えられた小さなこと一つでも、それを当前に思う瞬間 真の感謝は消えるのです。自分の献身と達成、人格や知識、自分の権威にうぬぼれた瞬間、本当の感謝は消えるのです。自分に資格があることを認めた瞬間、私たちの心の中で恵みの真の価値は失われるからです。感謝は、私たちに一つの不快な真実を教えます。それは私たちは依存的な存在だという事です。私たちは神様に依存してのみ生きる事ができます。そして私たちは、他人と他人の賜物、そして私たちへの他人の寛大さに依存してのみ生きることができます。感謝は、自分が神様と他人に依存する存在であることを心から認める時生まれます。独立性を重視するこの社会は依存性を嫌悪し誰かに頼る事を不快に思いますが、私たちは根本的に誰かに頼って生きていく存在であることを認めない限り、私たちは感謝を知らずに生きていく者となるのです。神様への感謝の失敗は、最終的に罪の根となります。私たちは感謝しなければ罪を犯すようになり、その罪は教会の中で共同体を壊す要素になります。感謝に失敗する時、共同体の中で頻繁に起こる代表的な罪の形が二つあります。まず嫉妬です。嫉妬とは、他人の良さについて悲しみです。嫉妬は他人が自分にないものを持っている事に怒り、他人を破壊したいのです。他人の祝福について怒るだけでなく、祝福した人にも怒るのです。感謝に失敗した時に共同体でよく起こる第二の罪の形は、不平です。習慣的に不平を言う人はどんな良い環境にあっても不平を言います。不平が習慣になると、不満の心が自分自身を支配し、無差別に不平を言います。結局不平はその人が生きていく人生の方式になり、その人の中に存在する神様の形は失われ、残るのはただ不平だけになります。私たちの教会が恵みを受肉しこれらから自由になるためには、私たちは必ず感謝しなければならないのです。私たちの周りには、資格のない私たちに与えられた神様の恵みと美しさと善良さに満ちています。私たちが体験するものは、実は神様からの贈り物である事を心から悟る時、私たちには感謝する事があまりにも多く生じるのです。感謝は私たちがいつもすべてに感じ行なう私たちの日常になるべきです。そして感謝は、一人でするのではなく共にするものです。私たちが日常で発見する神様の恵みを互いに話し一緒に喜び一緒に記念する事が多くなると、私たちの共同体には感謝があふれるのです。そして私たち兄弟姉妹一人一人の存在が自分にどれほど大きな祝福であることをよく注目し、互いに感謝を表現することが増えると、私たちの関係はさらに深まって強くなります。感謝の証を分かち合うことによって、また互いに感謝を表現することを通して、神様の恵みの痕跡を発見する私たちの霊的な視力が日々向上します。私たちの共同体に恵みと感謝が包み合い、いつも溢れることを神様の御名によって祝福します。

No.45「約束の共同体」       Ⅱコリント 1:20

 約束は、神ご自身の重要な部分です。父、御子、聖霊は互いに仕え愛することを約束する三位一体という約束の共同体として存在されます。このような意味で三位一体の神様は約束という方法で存在されます。そして三位一体の神様はすべてのことを父、御子、聖霊の約束の中で行なわれます。創造から救いの完成まですべての歴史は、この三位一体の約束の中でご計画されたものです。そして神様は人間との約束を通して、ご自分の計画を行われました。神様との約束を破ったアダムによる罪の問題を解決するために、神様はノア・アブラハム・モーセ・ダビデと約束され、またイスラエルに「私はあなたがたの神であり、あなたがたはわたしの民である」と言われました。そして神様はいつもその約束に忠実であられ、イスラエルが神様との約束を覚えて、約束に忠実な神様を信頼して生きるようにされました。神様は、イスラエルが約束の人々になることを期待したのです。旧約におけるすべての約束は真のメシアとしてこの地に来られたイエス・キリストを指し、その約束はイエス・キリストの受肉と死と復活の中で、すべて達成されました。昔の全ての約束を成就されたイエス様は、私たちに新しい約束を下さいました。イエス様は宗教指導者達に渡されるその日、聖餐式でこのようにおっしゃいました。Ⅰコリント11:20「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」イエス様はご自分の死によって完成される神の御国に、イエス様を信じる私たちが必ず参加できることを約束されました。これが新しい約束です。イエス・キリストの中で昔の約束はすべて成就され、まだ完成していない新しい約束も神様の定められた時に必ず成就することが保証されました。イスラエルが昔の約束の民であったように、教会は新しい約束の共同体です。ですから私たちはキリストが立てられた新しい約束を覚え、その約束に忠実に生きなければならない使命があるのです。人間は本来約束の存在です。三位一体と約束の共同体として存在される神様が、ご自分の形に私たちを創造されたからです。ですから私たちは神様との関係を結ぶ時だけでなく、他人と関係を結ぶ時も約束という媒体を使用します。私たちは口で「約束します」と言わなくても関係の中には無言の約束があり、私たちが結ぶすべての関係には常に約束が存在し、その約束に沿った役割と態度を相手から期待されます。教会でのすべての関係にも約束があります。受洗する時、誰かの受洗式に参加する時、礼拝に参加する時、聖餐式に参加する時、私たちは互いに約束をします。何の資格もない私たちにキリストの恵みが与えられたように、その恵みで互いを接すると約束するのです。すべての約束は、キリストが立てられた新しい約束の上に基づいているのです。その新しい約束は、キリストの血で立てられました。私たちが批難し復讐しようとする誰かは私たちにとって敵かもしれませんが、キリストはその人のためにご自分の肉と血と命を犠牲にされました。私たちが憎むその人は、キリストがご自身の死で買い取られた貴重な魂です。キリストの血で立てられたその新しい約束を覚える時、私たちは他人を憎む権利はなく他人を愛する義務があることを悟ります。弱い私たちは自分を傷つけた誰かを恵みで接することは不可能に感じるかもしれませんが、キリストによって私たちはその約束を守ることができます。なぜなら神様の約束はことごとく、キリストにおいて「しかり」となるからです。すべての約束の成就であられるキリストに委ね、私たちの兄弟姉妹を忍耐し愛しましょう。すべての約束の成就であるキリストに委ね、教会の必要性に関心を持って心から仕えましょう。このような約束の共同体になる時、私たちはキリストによって「アーメン」と言い、神に栄光を帰するのです

No.46「真実の共同体」     エペソ4:25

 私達は明確に偽りだと判断できる事を嘘だと思う為、自分は偽りの行動をしていないと信じる傾向があります。しかし偽りの問題は、誰もが偽りだと簡単に判断でき大規模な形で起こる事もありますが、通常は私たちの内面、また日常の中で小さく微妙な姿で現れます。最も一般的なのは、自分自身を欺くことです。私たちは、自分自身を正しく良い人だと認識したがる本能があり、自負心、つまり自尊心を守ろうとする本能を持っています。宗教的な人ほど義人になりたい欲求が弱く思えますが、実際にはより強い場合が多いのです。私たちは特に教会において、人格的に良い人だと認識されたい欲求を強く感じます。よって自分の偽りと矛盾を認める事は、信じられないほど大きな苦痛を伴うことがあります。自分を良い人だと認識したいながらも、同時に利己的な本能に基づいて行動したい時、自己欺瞞(自分自身を欺く)が起こります。私たちは自分の偽りの部分を否定するために、自分の記憶を歪曲させます。自分の偽りを指す証拠には非常に批判的で、できるだけ早く忘れようとします。しかし自分に有利な証拠はすべて受け入れます。そして自分の行動はその時の状況で最良の選択であり、避けられない事だと自分自身を納得させます。自己欺瞞は他人を批判し、自分の責任を回避する時に起こり、共同体が一つになることに悪影響を及ぼします。また私たちの劣等感も偽りの行動に現れます。いつも他人との比較の中で喪失感を感じ、その喪失感によって自分自身と他人に対して正直になれません。私たちは、自分の現実的な姿を否定し、自分が持っている以上の姿に変えようと隠し、誇張し装います。自分が嫉妬している相手の現実を否定し、相手を自分が卑下したい滑稽な姿に変えたいと思います。結局、現実から隠そうとする私たちの偽りは、教会が一つになることを妨げる要素になるのです。聖書は、このような私たちの偽りの姿をとても生き生きと表現します。アダムとエバは裸の自分を神様から隠しました。そしてアダムとエバは、自分の責任を回避し、自分自身から本当の自分の姿を隠し、また互いを誹謗し、他人から自分を隠しました。人間の罪の性質は、神様から自分の現実を隠そうと誘惑し、自分自身と他人からも自分の現実を隠させます。実際は怖れていますが表面上は堂々としたふりをし、現実を隠し、自分自身を守ろうとします。しかしイエス様はこのような私たちを救うために、私たちとは正反対の姿になられました。私たちは自分自身を隠しますが、イエス様はむしろ人間の肉体を着て、私たちに見える姿でご自身を明らかにされました。私たちは真実の前で恐れますが、イエス様は真実の前で堂々とされました。私たちは自分の現実を否定するために強いふりをしますが、イエス様は現実を否定する私たちを救うために降りて来られ、弱くなられることを自ら望まれました。私たちは真実の人になるためには、まず神様の前に弱くならなければなりません。強さと有能さという偽りの服を脱ぎ、弱くみすぼらしい自分の現実を、神様の前に見せなければなりません。そして真実そのものである神様の前で、悔い改めが必要です。私たちは真実の存在になるために、共同体に真実を語るように求めて下さい。私達が真実の共同体となるために、必ず守らなければならない約束が一つあります。それは愛をもって真実を語ることです。頭なるキリストに達するために、互いを立てるために愛をもって真実を語りましょう。真実を愛する者は、相手を破壊するために真実を語るのではなく、相手を立てるために真実を語ります。愛を持って真実を語るには、その人のために祈り、真実を受けとめれる適切なタイミングと状況を分別し、忍耐し待ってから語るべきなのです。私たちは愛を持って真実を語り、愛で真実を聞く共同体になると、ここには真の罪の告白と、互いへの励ましと恵みの分かち合いと、真の交わりが溢れるようになります。神様と、自分自身と、他人に真実を持って生きる共同体になること、これが聖書的なもてなしを実践するための不可欠な基礎なのです。

No.47「もてなしの共同体」      マルコ 10:13-16

 聖書的なもてなしについて、2つの重要なポイントを簡単にお伝え致します。まず聖書的なもてなしは、私たちの間に存在する不当な区別を破壊するものです。本文では、人々は子供たちをイエス様のもとへ連れて来て、子供達に触って頂こうとしましたが、イエス様のそばには弟子たちがいました。弟子たちは自分たちを通さず、誰もイエス様に近づくことを許しませんでした。弟子としての誇りが非常に強かった彼らは、イエス様に近づこうとするその子供の資格を審査しようとしたのでした。弟子たちは子供たちに腹を立て、イエス様に近づかないように防ぎました。イエス様に近づくには、資格が足りないと思ったからです。今日とは異なりイエス様が生きておられた時代では、子供たちは社会的に誰よりも最も無視される存在でした。ユダヤ人たちは神様が選ばれた民族にもかかわらず、力の序列に応じて人々を差別しました。その中で最も深刻なのは、年齢と性別による差別でした。上から順に成人男性、高齢者、女性、そして最後に子供たちでした。ユダヤ人たちは力の序列に応じて、自分よりも強い者には頭を下げ、弱い者を利用し無視して生きました。このような暴力的社会の構造の中で、力のない子供たちは最も無視される被害者だったのです。イエス様は、力の原理で人を区分するユダヤ人社会の基準を無視されました。そして子供を抱かれ、手を置いて祝福し、彼らをもてなしました。イエス様はこのような行動を通して、神の御国は弱い人々がもてなしを受ける場所であることを示されたのでした。ユダヤ人社会で力とは、社会的身分と影響力を意味しますが、神の御国の国語辞典には力という言葉は違って定義されます。その国で力とは、神様の御前で自分が罪人であることを知り、神様の恵みだけを頼りにすることです。神の御国には、社会的身分の区分はありません。神様の御前で私たちみなは、ただの罪人だからです。資格がない者に与えられる神様の恵みは、人を区分するこの世界の基準を無意味にします。教会も同じである必要があります。なぜなら教会の頭であるイエス様は、私たちが持つ条件で私たちの価値を判断されず、また子供たちにまで愛を持ってもてなされたように、私たちもすべての人々を親切に愛を持ってもてなす必要があるのです。誰が来ても、その人には他の人と一緒に交わる事ができる空間が与えられなければなりません。子供達を抱いて祝福されたイエス・キリストのもてなしを受肉すると、世界は教会が他の共同体と確実に区別される場所であることを認識することになるでしょう。最後にお伝えする聖書的なもてなしの重要なポイントは、もてなしとは食べ物や飲み物などの提供が全てではないことです。食べ物や飲み物よりもはるかに重要なのは、相手への関心と、相手に注目して交わる時間です。多くのクリスチャンが誰かをもてなす時、その人に何かを提供することだけに集中しそれで自分の義務は終わったと考えます。もちろん、食べ物や飲み物は重要なものですが、教会に来る人々が本当に欲しいのは、自分に関心を持ち、自分と人格的な交わりを自ら望む兄弟姉妹なのです。もてなしとは、教会に初めて訪問する人だけにすることではなく、また一度や二度で終わるものではありません。もてなしは、教会の中のすべての兄弟姉妹に一生の間、継続的にすることです。いつも教会の中で会うすべての兄弟姉妹に相手への関心を表現し、相手との交わりに時間を割き、もてなしてをしてください。もてなしは単に伝道のための戦略ではなく、教会がどのような共同体なのかを示す教会の本質的なアイデンティティです。私たちにいつも関心を持ち、私たちといつも一緒に交わられるキリストのもてなしを私たちが受肉すると、私達はこの世に神様の御国がどのような所なのかを証明する美しいキリストの共同体として生まれ変わることになります。

No.48「新しく生まれる」      ヨハネ 3:1-17

 3節でイエス様はこう答えられました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」決して失礼な答えではありませんが、イエス様のみ言葉はニコデモを困惑させました。ニコデモを含む当時のユダヤ教信者にとって、新しく生まれるという概念は非常に不慣れなものでした。彼らは自分がイスラエルの血統に生まれ割礼を受けたので、すでに神の子供だと思いました。また律法を遵守し神聖な生活を送る事が、神の子供として求めるべき最高の目標と信じていました。彼らにとって神の御国に入れる資格は、人間の血統と律法遵守への人間の努力で得るものでした。しかしイエス様は、神の御国を見るためには、新しく生まれなければならないと言われました。神の御国は、血統のような人間の条件で見る事ができる場所ではなく、また律法を遵守し自分を少しずつ改善することで見ることができる場所でもないことを意味しました。新しく生まれるとは、過去を直すことではなく、全くの新しい始まりを意味します。より良くなった自分を意味するのではなく、全く別の自分になることを意味します。つまり新しく生まれるとは、人間の力では完全に不可能であることを意味しているのです。私たちは、神様が私たちの内面と人生の中でなさることに対して、条件的に求めてはいけません。 「神様、私のこれだけまたそれだけに関与しなければ、私はあなたに従います」と条件付ける瞬間、私たちはニコデモのようなクリスチャンになります。神様が私たちの中でなさることを制限する権利は、私たちにはありません。神様は私たちが自分自身で定めた常識を越えて、全く別の方法で見て理解して行動することを望んでおられます。神様は私たちが新しく生まれる事を望んでおられるのです。多くの人々が神の御国は、個人的な領域に限定された国、人の内面に限られた国だと理解しています。しかし聖書が教える神の御国は、そのような狭い場所ではありません。神の御国は、人の内面だけでなく、人間の文化・社会・政治・芸術・自然・動物などこの世界に存在するすべての領域における神様のご支配を意味します。12、13節でイエス様はこう言われました。「12あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。13だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」ただイエス・キリストだけが、天からこの地に来られた方です。天で行われた御父のご計画と真実を、この地上に実現されるために来られた方です。天からこの地に来られたイエス・キリストを信じない限り、息子をこの地に送られた天の父なる神も信じられないでしょう。イエス様は、天と地をつなぐ唯一の方です。イエス様は天だけに可能な現実を、この地上でも実現に至らせる方です。イエス様は神の御国をこの地上のすべての領域に拡張される方です。ただキリストの中で、天と地が合い、一つとなるのです。どのようにイエス様はこのことを達成されたでしょうか?それはキリストの十字架の死と復活によってです。神であるキリストが人間となられ、人間の罪のために死なれ、再びよみがえること、このことが世界を愛された父なる神を信じる者に、永遠の命を得るためにされた驚くべきご計画でした。十字架は、ローマ帝国に反抗する者たちに対して、最も悲惨な方法で殺すために作られたものでした。十字架での死は、完全な敗北と恥というのが当時の常識でした。しかしキリストは、人間の常識を覆し、十字架で死に再びよみがえられました。人間の領域において、非常識な行動と恥は、キリストの中できらびやかな栄光と完璧な勝利で新たに生まれたのです。これらのキリストの働きについて、私たちは真の信仰を持つとき、私たちは新たに生まれる経験をするでしょう。レントを迎えて、キリストの働きを私たちの常識で評価し制限していた私たちの罪を悔い改めましょう。そして私たちを通して、驚くべきことをされる神様の御心と知恵の前に、私たちの人間的な基準を降ろしましょう。人間の想像を超える、神様の恵みがキリストを信じる信仰の中で、私たちに驚くべき姿で受肉され、私たちの人生のすべての領域で美しい実が豊かに結ばれるでしょう。

No.49「命の鏡」     民数記21:4-9;ヨハネ 3:14-15

 イスラエル人は何も植えず、何も収穫しなかったにも関わらず、厳しい荒野で何十年も生き残ることができました。自分達の生活自体が奇跡であり、驚くべき神様の恵みでした。しかし彼らはまだ神様を信頼しませんでした。不信という毒が彼らの魂に広がり始めると、彼らの心には希望と感謝より、絶望と不満でいっぱいになりました。自分達を守られ世話された神様より、あまりにも些細で私的な不便さが、彼らの目にははるかに大きく見えました。彼らは文句を言いました。 5節「民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」」このことは初めてではなく、聖書に記録されたものだけ数えても、すでに7回も繰り返えされた不平でした。神様はもはや我慢されませんでした。神様は燃える蛇を送って、彼らをかませました。燃える蛇とは、実際に火に燃えているヘビを意味するのではなく、かまれた人にまるで火で燃えるような痛みを与えるヘビを意味するのでした。その蛇にかまれ、多くのイスラエル人は全身燃えるような苦痛の中で死んでいきました。結局彼らを悲惨な死へと導いたのは、不信と呼ばれる毒でした。Tim Keller牧師によると、神様への信頼は、常に私たちの魂の中心部に位置しなければならないのです。この信頼が魂の中心から離れると、代わりに自分自身への執着がその場所を占めるからです。神様への信頼が私たちの魂の中心から離れる時、何をしても満たせない無限の不安と不満と不平によって、私たちは燃えるような痛みを感じるようになるのです。神様はモーセに燃えるヘビを作るよう命じられ、モーセがその蛇を持ち上げると、それを見る人は生き残ると言われました。なぜ神様は、わざわざヘビを作るよう言ったのでしょうか?ヘビにかまれた人たちを、蛇によって治癒することは皮肉であり、矛盾ではないでしょうか?旧約学者Gordon Wenhamによると、その理由は旧約時代のイスラエルの儀式と深い関係があります。旧約の律法によると、汚す物が再び聖めるために使われました (例:血、死んだ雌牛の灰)。旧約の儀式法に従って考えてみると、罪のために死ぬ私たちが癒されるために使われるべきものは、私達の罪でした。Ⅱコリント5:21はイエス様の救いの働きについてこう語ります。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」汚す物が再び聖めるために使われる旧約の儀式は、私たちの罪を赦し、私たちを死から救うために私たちの罪となられ、私たちの代わりに死なれたイエス様の働きを示すためでした。ヘビにかまれた人が旗ざおの上につけられたヘビを見て癒さように、罪人になった私たちは、私たちの罪となり、十字架にかかられたキリストを信仰の目で見て救われるのです。神様への不信と不満が原因でヘビにかまれた人は、癒されるためモーセが持ち上げた蛇を見なければなりませんでした。モーセが持ち上げたヘビは、彼らが犯した罪そのものであり、醜い自分の姿を映す鏡でした。神様は青銅の蛇を通して、イスラエルの人々が不信の罪を犯した自分の姿を直視することを願われました。イエス・キリストも同様です。十字架にかかって死なれたイエス様は、私たちが犯した罪そのものであり、醜い私たち自身の姿を映す鏡なのです。神様は十字架で死なれたイエス様を通して不信の罪を犯した自分の姿を、私たちが直面することを望んでおられるのです。私達は神様の恵みという鏡なしでは絶対に自分の罪を見つめることはできません。なぜなら赦しのないところでの罪の直視は、耐えることができない恥と絶望だけを呼び起こすからです。真の罪の直視は、ただ十字架につけられたイエス様を眺める時に可能になります。なぜなら、キリストの十字架には恵みが存在するからです。イエス・キリストは私たちを罪から癒すために、私たちの罪となられました。私たちのそむきの罪のために刺し通されました。私たちの咎のために砕かれました。神様への不信で犯した私たちのすべての罪となられたため、彼は十字架という最も恥深い場所で燃える痛みの中で死なれました。私たちは、イエス・キリストの悲惨な死を見つめなければなりません。その死の中で、自分の汚く醜い姿を見つめなければなりません。その時になって、私達は彼の死が自分への愛と恵みであった事実を悟るのです。主イエス・キリストだけが私たちの救い主であり、唯一の希望であるという事実を実現する。キリストは命の鏡なのです。キリストを信仰で眺める者はみな真の救いを受けるのです。私たちの罪となられたキリストの死と復活の中で、私たちは永遠の安息を味わうのです。

No.50『違う基準で見られる神様』    Ⅰサムエル記16:1~13

 イスラエルの預言者として神様の御前で義なる人生を生きてきたサムエルでしたが、彼さえも人間の基準で人を判断しました。優れた外見とは裏腹の姿で生きていたサウル王をすでに経験したにもかかわらず、サムエルはエリアブを外見だけで判断しようとしました。しかしエリアブは、神様が選ばれた王ではありませんでした。神様はサムエルにこう言われました。「人はうわべを見るが、主は心を見る」外見的な姿は神様には無意味であり、神様は心を見られます。古代イスラエルの文化では、心は感情だけを意味するのではなく、人格、性格、異性、思考、知恵、計画などの内面すべてを指す言葉でした。つまり神様は私たちという存在のすべてを見抜いておられるのです。有限の存在である人間が絶対に見ることができない領域を、神様はご覧になられるのです。 人の目にはダビデは末っ子であり、とても若く経験も少なく卑しい仕事をする、存在感のない子供に過ぎませんでしたが、神様はダビデという存在の中心を見て、彼を王として選ばれました。王として全く相応しくなかったダビデが王になった事は、人間の目に最も弱い姿で私たちの王となられたイエス・キリストを表します。イザヤ書53:2節後半から3節は、イエス様のうわべについてこう言います。「2彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。3彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」イエス・キリストのみずぼらしい外見は弱い者を強くし、低い者を高く立て、世界の基準を覆される神様の知恵なのです。私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもないイエス様はいつも無視されました。最も卑しい村ナザレで生まれ、大工の息子で成長されたイエス様は、ご自分の故郷でも他の地でも、ユダヤ人にもローマ人にも、いつも蔑視されました。そして十字架という最も残酷な拷問器具の上で、最も恥ある姿で死なれました。彼からは、王に相応しい姿を全く見ることはできませんでした。しかしイエス・キリストの強さは、彼の弱さの中にありました。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらしました。彼の打ち傷によって、私たちはいやされました。彼の弱さが、私たちを死から命の道へと導きました。私たち人間の目に最もみずぼらしかった彼は、天と地の万物をご支配される真の王だったのです。みずぼらしいダビデを王に選ばれた神様がご自分の霊を下さったように、キリストの子供として選ばれた私たちに、神様は聖霊を授けました。神様の霊を受けたダビデが王になるまで数多くの苦難を経験したように、バプテスマのヨハネから洗礼を受けたイエス様が聖霊に導かれて荒野で四十日間断食し訓練を受けられたように、私たちの中におられる聖霊は、私たちを人間が理解できない狭く険しい道へと導かれるのです。その多くの危険の中で、聖霊は私たちが肉の目ではなく、信仰によって生きて行くように訓練させ、また祝福して下さいます。自分自身と他人の可能性を、絶対に目で見て判断しないで下さい。人を選び用いられる聖霊の働きは、いつも私たち人間の基準で理解できないものだからです。私たちとはいつも異なってご覧になられ、別の方法で行動される神様の働きについて驚異と尊敬を持ち、その驚くべき知恵に私たちのすべてをお委ねしましょう。

No.51「復活:死に勝利」     Ⅰコリント15:50~58

 死は、どの時代にあっても人間にとって、関心と恐れの対象でした。誰もが経験しますが、それが一体何なのか具体的に知ることができないのが、死でした。死が恐ろしいのは、肉体が死んでいく時に起こる痛みがつらい理由もありますが、より根本的な理由は、死後自分に何が起こるか分からないからです。科学技術の発展を遂げている現代社会でも、死は未知の世界とされ、まだ恐怖の対象なのです。しかし変化したことがあります。それは、死に対する人々の態度です。自分が知ることができず、見ることができないものに対して徹底的に心を閉じ、自分が理解し見ることができる領域に集中するのです。これにより、現在を生きる私達は過去のどの時代よりも宗教的信仰を軽視しています。Tim Keller牧師は、このような現代人の世俗世界観を指し、「まるで窓のない車を運転するのと同じだ」と言いました。私たちは運転時に窓の外を見て、自分が見た窓の外の世界を、自分の運転に反映します。停止すべきか、走るべきか、どの方向に行くか、どのくらいの速度で走るべきか窓の外の世界を見て判断します。しかし窓の外に何があるかを見ていない時、運転主は自分が進むべき方向を失い、危険な物にぶつかってしまうのです。死と死後について心を閉ざす時、私たちはまるで窓のない車を運転する人のように、方向を失ったまま現在の世界を生きているのです。罪人であった私たちは死ぬ運命にあった時、私たちはまるで窓のない車を運転する者のようでした。死は元々人間に属したものではなく、罪によって私たち人間の人生の一部となり、人間だけでなく、神様が創造されたすべての被造物を破壊してしまいました。死は、神様の敵となりました。しかしイエス・キリストの復活は、窓の外に希望の未来が私たちを待っていることを教えてくれます。51節、52節はこう言います。「51聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです.52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」私たちが現在着ている肉体はいつか死に腐敗します。しかし救い主イエス・キリストに信仰を持つ私たちの体は、死に復活されたイエス様の御体のように、再び続くのです。生き返るだけではなく、朽ちない新しい肉体に変化するのです。復活されたイエス・キリストの前に、死は敗北しました。私たちは、窓の外の世界を知っているのです。死は終わりではなくその後には永遠があること、腐敗ではなく命があること、絶望ではなく希望があることを、私たちはイエス様の復活への信仰で見ることができるのです。多くの人々は、いつかこの地は過ぎ去るかのように、またこの肉体を永遠に捨てるかのように、死後の世界を全く考えず、ただ目の前の利益だけに集中して、現在を利己的に生きています。しかし私達がこの地で現在の肉体を持ってどう生きるかは、単に過ぎ去って忘れられるものではなく、死後の世界につながります。なぜなら私たちはこの地と、この肉体を捨てるのではなく、復活によって永遠に所有するからです。この地とこの肉体は無くならず、永遠に続くからです。ですから使徒パウロは、58節で自分たちの労苦が、主にあってむだでないと言ったのです。私たちが神様を愛し、私たちの隣り人に仕えようとする時、私たちはこの世の多くの世俗的な利点を放棄し、多くの損害とリスクの中で生きるようになります。多くの人々は私達の人生の方向を理解せず、非難し攻撃することでしょう。しかし私達はどのような状況の中でも、堅く立って動かされることなく、いつも主のわざに励むことができます。なぜなら私たちは、窓の外に何があるかを知っているからです。イエス・キリストの復活の中で、私たちは死に勝利したため、私たち自身の労苦が主にあってむだでなく、新しい地で新しい肉体で生きるその未来につながり、美しい実を結ぶのです。死に勝利したキリストの復活の中で、神様に属するすべてのものが失われず、驚くべき新しい創造として麗しい実を結ぶのです。

No.52「復活の恵みと所有」    使徒の働き 4:32~35

 復活されたイエス様は、約40日間多くの人々の前に現れ、神の御国について教えました。そしてイエス様が昇天された後、聖霊は信じる者の内にご臨在され、初めて教会というキリストの共同体が始まりました。この共同体が初代教会でした。使徒の働きの著者であるルカは、イエス様の復活を直接目撃した者が多かったこの教会は、どのような姿で生きていたかを生き生きと描写しています。その中でルカが注目した初代教会の特徴は、まさに信徒達が一つにされた事でした。32節前半「信じた者の群れは、心と思いを一つに」つまり救い主イエス・キリストへの一つの信仰、キリストの共同体という一つのアイデンティティ、そして福音の証言という一つの目的の下に、信者達は一つになったのでした。これは、キリストの復活と聖霊のご降臨によって変えられたクリスチャン達の姿でした。しかし変わったのは、彼らの内面だけではありませんでした。その内面が一つになると、彼らは外面的にも一つになりました。32節後半はこう言います。「だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。」古代ローマ帝国では、多くの哲学者達が友情・愛・連合などの重要性を強調しました。しかし彼らが強調した価値も、必ず身分という範囲内で追及されるべきで、身分を超えた付き合いは、ローマ帝国で容認されませんでした。なぜなら身分とは、ローマ帝国の中で力の秩序を維持し、広い領土を効果的に支配するための不可欠な要素だからです。身分はすべての価値の中で、必ず前提になるものでした。しかしこのような社会的常識に反する行動をする集団がいました。それがまさに初代教会でした。初代教会の中には、様々な人がいました。経済的に裕福な人がいる一方で、貧困層の人がいて、神殿の仕事をするレビ人のようにユダヤ人社会の中で身分の高い人がいる一方で、社会的に無視される低身分の人がいて、学問高い人がいる一方で、全く教育を受けていない人もいました。しかし信徒達は、この社会が定めたすべての常識的な区分を超え、自分の身分や所有物とは関係なく、全ての人々と交わりました。彼らは自分の信仰の共有だけでなく、自分たちの所有物も他人の為に差し出しました。彼らが求めたのは、共産主義ではありませんでした。彼らは、それぞれ自分の財産を個人で所有することができましたし、寄付への脅迫や強要も全くありませんでした。しかし彼らは自発的に、他人に自分が持っているものを与えました。なぜなら彼らは身分・知識・富など、自分が所有している全てのものが、実際には自分のものではないと考えたからでした。初代教会の姿は、私たちが今どのように生きるべきかを教えます。イエス様は何の資格のない私たちを罪から救われ、私達は新しい命を得ました。これは今私たちが持っているものは、もはや私たち自身のものではないことを意味します。私たちはもはや所有権を主張することはできません。なぜなら、全てが神様の恵みで与えられたからです。神様の恵みは、ただで与えられたものですが、その恵みは決して安いものではありません。その恵みは、私たちの為にご自分を犠牲にされたイエス・キリストの命が込められた高価な恵みだからです。その恵みによって生きている私たちは、神様に属するのです。私たちが自分ではなく神様の所有権を認めると、私たちは神様と隣人を愛するのに、自分に与えられたものを喜んで捧げる事ができるのです。ルカ12:33「持ち物を売って、施しをしなさい。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げなさい。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。」復活を信じる者は、何が腐り何が永遠に朽ちないかを知っている人です。この世で朽ちるものではなく、復活によって永遠に続くもののために、私たちは自分の時間とエネルギーと物質を用いる必要があります。復活されたイエス・キリストによって、神様と隣人の為の全ての労苦と捧げる全てのものは無駄にならないのです。復活の恵みは、所有への私たちの考えや態度を変えます。受動的で消極的ではなく、いつも能動的に、自発的に私たちの兄弟姉妹に関心と愛を持ち、彼らの助けが必要な時に自分に与えられたものを喜んで捧げるのです。そうすると、一つとなった私たちの姿は、拒否できない復活の証言となり、世界は私たちが復活の恵みを受肉したキリストの共同体であることを悟るようになります。

No.53「許しと復活」    ヨハネ21:1-17

  本文の中で、イエス様を3回否認したペテロの心の中に、イエス様を裏切った自分の過去が、解決されず受け入れられないまま傷として残っていました。まだイエス様から自分の裏切り行為に対して、どんな言葉も聞いていなかったからでした。このような状況の中で、イエス様との静かな朝食は、ペテロにとってひどく不快な時であったことでしょう。イエス様から赦されるかどうかを確認できなかったペテロは、自分自身への深い絶望感と、いつかまたイエス様を再び失望させるのではないかという恐れに苦しんでいたかもしれません。このペテロの姿は、赦しがない所での失敗が、私たち人間にどんなに辛く恐ろしいかを示しています。赦しへの希望を欠いた罪悪感は、私たちが神様の道に進まないように妨害します。しかし、赦しがある所での罪悪感は、落ち込んだ私たちを再び立ち上がらせます。静かだった朝食が終わり、イエス様は罪悪感に苦しんでいたペテロにこう言われました。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」イエス様の質問に、ペテロはこう答えました。 「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」ペテロの答えにイエス様が反応する順番でした。短いですが非常に暖かい一言がペテロに与えられました。「わたしの小羊を飼いなさい。」とイエス様とペテロとの間にもう一回同じような会話がありました。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」「わたしの羊を牧しなさい。」イエス様とペテロとの間に三回同じような会話がされました。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」「わたしの羊を牧しなさい。」私たちは、このようなイエス様とペテロの会話を聞き、二人の間で必ず終えなければならない何かがある思いがするでしょう。それはイエス様を裏切ったペテロの過去についてです。イエス様は彼の罪の過去を問われませんでした。イエス様はペテロの過去ではなく、現在の心について尋ねられました。 それはこれからペテロを定義するのは、ペテロ自身の過去ではなく、彼の罪を赦すために死んでよみがえられたイエス様の過去だからでした。イエス様を真に愛する者には、イエス様の過去が彼らの過去となり、赦しが与えられるのです。人間のすべての知恵を超えるイエス様のこの言葉は、ペテロを罪悪感から自由にし、彼を成長させました。他の弟子たちよりも強い信仰を持っていると自負したペテロは、もはやこれ以上、自分自身ではなく人の心を見抜く全能のイエス様を信頼し、こう答えました。「あなたがご存じです」イエス様の驚くべき恵みの前で、人は決して自慢できず、謙虚になるだけなのです。罪悪感と絶望の中で苦悩していたペテロは死に、イエス様への希望と信頼の中で忠実に使命の道を歩く使徒として、ペテロは再び復活されたのでした。歪んだ罪悪感から聞こえるすべての音を静かにさせ、私達の救い主イエス様に耳を傾けて下さい。イエス様がおられる所にはいつも赦しがあります。イエス様がおられる所にはいつも恵みがあります。イエス様は愛の声で、今この瞬間私達に語っておられます。「あなたはわたしを愛しますか。」「あなたはわたしを愛しますか。」「これ以上苦しまなくてよい。あなたは赦された。私の過去があなたの過去となったので、あなたはわたしの愛する子として復活したのだ。」神学者Howard Thurmanはこう言いました。「あなたの人生に起こったいかなる事も、あなたを牢屋に閉じ込めることはできません。これが復活が私たちに教える希望のニュースです。」今この瞬間、復活のイエス様に近づき、イエス様を愛すると告白しましょう。イエス様の復活が、私たちを罪の過去から自由にし、私達に使命の道を歩む力と勇気を与えて下さるのです。

No.54羊飼いの存在       詩編23:1-6

 初代教会の時代では、十字架ではなく羊飼いのイメージを通して、キリスト教の信仰を表現しました。そして詩篇23編の良い羊飼いの詩的な比喩とイメージは、旧約時代と新約時代、そして4世紀までの信者にとって神様を理解し感じる重要なレンズであり、シンボルでした。したがって、詩篇23編の良い羊飼いと羊のイメージを、彼らの視点、すなわち古代中東の文化から理解する事は、聖書に描かれている神様を理解する上で、非常に大きな助けになります。詩篇23篇3節ではこう言います。「3主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。」「生き返らせ」という言葉は、ヘブライ語でShuvといい、直訳すると「Return 帰って来る」という意味です。つまり、自分は元のあるべき場所から離脱した者、羊飼いのそばを離れ、道を失った羊という事が前提とされています。羊は、簡単に恐怖心で圧倒されてしまう動物です。羊は群れから離れて道に迷うと、岩の後ろに隠れます。そして恐怖のために体が動かず、その場でずっと泣いてばかりいるのです。ですから羊は、誰かが助けてくれなければそこで飢え死にするか、獣に食べられてしまうのです。結局、失われた羊にとっての唯一の希望は、自分自身を救うために来た羊飼いだけなのです。羊飼いは、失われた羊の鳴き声を聞いて助けに行きます。羊飼いは、岩の後ろに隠れて恐怖で震えている羊に、近づいていきます。そして重い羊を持ち上げて、自分の肩に乗せ、家に戻ります。なぜなら、失われた羊は恐怖心で体が硬直してしまい、羊飼いに従って歩めないからです。初代クリスチャンは、羊を背負って歩く羊飼いの姿の中に、イエス・キリストの姿を見ました。罪の穴に落ちて、自分の力で抜け出せない私たちをご自分の肩にのせて、父なる神様のもとへ連れて行かれる救い主イエス様の姿を見ました。ですから初代クリスチャンは、400年という長い時間、良い羊飼いのイメージを通して、私たちを救いの道に導かれたイエス様を覚え、その驚くべき恵みを賛美したのでした。羊飼いが失われた羊を救った理由は、その羊に貴重な価値があるからではありません。 3節後半に「御名のために」と語るように、彼は良い羊飼いという自分の聖なる名に固執するために、その羊を求めたのです。同様にヨハネ10:11で、イエス様は羊飼いであるご自身についてこう言われました。 「11わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」罪人である私たちが救われたのは、私たちに資格があるからではなく、ただ愛が多く、約束に忠実であられる神様ご自身の高い御名によるためでした。神の御子イエス・キリストは、良い牧者という、ご自分の高貴なアイデンティティにより、私たちを求められました。そして、その対価として数々の苦しみに耐えられ、ご自分の命を犠牲にされました。それにより、私たちは義の子供として生まれ変わり、父なる神様のもとに帰るようになりました。イエス様はご自分が真の良い牧者であることを、この世に明らかにされました。詩篇23篇は、巡礼者の歌です。人生という長い巡礼の道を歩いて、私たちが体験して告白する信仰の歌です。その旅の中で死の陰の谷を歩く時があり、たとえ私達を見下す敵の妨害があっても、私達が恐れず堂々と歩くことができる理由は、私達の良い牧者がいつも一緒におられるからです。その良い牧者が私達にこう約束されました。 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。マタイ28:20b」私たちの目に見える、この世界の現実は、私たちの信仰を否定するようにしますが、イエス様は目に見えない真の現実の中で私たちといつも一緒におられ、ご自分のむちで私たちを敵から守り、ご自分の杖で私たちの道を導びかれます。いつか私たちが人生という旅の最後に至る時、私たちは自分が過ぎた道を振り返り、「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来た」と告白することになるのです。良い牧者である主イエス・キリストの存在は、私たちのすべてであるため、私たちは乏しいことがありません。

No.55「イエス様にととまる」     ヨハネ15:1-8

 この本文が非常に重要である理由は、イエス様が亡くなられる前の弟子達に最後に伝えた別れのメッセージの確信部分だからです。ヨハネ13章から17章までは、イエス様との別れの話ですが、その中でぶどうの木のたとえは最も重要であるため、著者であるヨハネは、意図的に13章から17章の真ん中である第15章:1-17に配置しました。イエス様が去った後、すぐに世界から多くの迫害を受けることになる弟子たちに、イエス様が最も伝えたかったメッセージは、「枝がぶどうの木にとどまるように、あなたがたは、私にとどまっていなさい」でした。私たちがイエス様にどれ程深く親密にとどまるかは、荒野のようなこの世でイエス様の弟子として生きようとする私たちクリスチャンにとって、最も重要な問題だからです。よって、私たちの結ぶ実の豊かさが異なります。イエス様にとどまるとは、決してすべての苦痛と試練からの自由を意味するのではありません。むしろ私たちがより深く、より親密にイエス様とつながるほど、さらに危険になることがあります。しかし、本文の2節後半はこう言います。 「実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。」2000年前の中東の農家では、ブドウの木の枝に刈り込みをしました。そうすればその木が持つ多くの栄養を、実に送ることができるからです。イエス様にとどまれば、必ず刈り込みが伴うのです。そして自分の一部が切り取られる時に、大きな痛みが伴います。しかし私たちは、復活されたイエス・キリストの中で、試練と苦しみが、もはや絶望と終わりを意味するのではなく、私達がよりイエス・キリストに似て、より多くの実を結ぶための神様の刈り込みであることがわかるのです。すでに救いは始まりましたが、まだ完成していないため、私たちは神の国の民であると同時に、まだ罪の影響の中で生きていきます。私たちは、イエス様にとどまっていますが、イエス様とより深く一つとなり、より豊かに実を結ぶためには、神様からの刈り込みが必要です。神様が刈り込むナイフで私たちの罪の鱗をはがし取ると、私たちは今までに感じたことのない極度な苦痛を感じます。今まで大切にしてきた価値を失い、熱心に達成してきたものがみすぼらしくなり、自信があったことが不可能に見えるようになるのです。自分自身を否定しつつ、まるで自分の体がはがれるような痛みを感じるようになります。しかし、私達は耐えます。その痛みをはるかに超える喜びがあるからです。その犠牲をはるかに超える実があるからです。キリストを愛し、より信頼し、イエス様に似ていき、彼の恵みをさらに深く体験することになるのです。枝として、私達に実を結ばせるキリストを信頼しましょう。実を結ぶのは私たちではなく、木であるキリストであり、刈り込みをされる農夫である神様です。 7節はこう言います。 「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」愛がほしいでしょうか?イエス様の中で祈ってください。愛を得るのです。柔和がほしいでしょうか?イエス様の中で祈ってください。柔和を得るのです。平安がほしいでしょうか?イエス様の中で祈ってください。平安を得るのです。イエス様に留まって何でも欲しい実のために祈ってください。キリストの驚くべき恵みは、あなたの人生に実を結ぶようにされるのです。実を結ぶまで試練と苦しみがありますが、勇気を持ってください。それを克服する力と実を結ぶ喜びが、与えられるのです。高価な恵みを追及しましょう。キリストの弟子として実を結ぶ私たちに、永遠の命と安息が与えられるのです。

No.56「全てを変える全能者の約束」     創世記 17:1-8

 この本文を通して、神様の約束は、私たちにとって全てであり、また私たちのアイデンティティと人生の方向を完全に変えることをお伝えしたいです。神様とアブラムの話は、神様の約束が信じる者全てを変えることを示しますが、これが可能な1番目の理由は、神様は必ず約束を達成できる全能者だからです。創世記17章で、神様とアブラムの約束は、神様がご自分の名前をおっしゃることから始まります。 1節の後半で、神様はご自分の名前はヘブライ語でEl Shaddaiすなわち "全能の神"と言われました。神様は全能さが契約者としてのご自身を説明するための最も重要な要素であり、そしてこの契約が実現可能で、妥当なものであることを証明するための、最も説得力のある理由だと言われたのです。神様はアブラムに4節でこう約束しました。「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。」アブラムは多くの国民の父になるためには、何が必要でしょうか?子供が必要です。 1節によれば、当時のアブラハムの年齢は99歳でした。そして彼の妻サラは89歳で、神様はアブラムに子供が産まれることを約束されました。世界の常識を超えるとんでもないことを約束されたのでした。そして、神さまはEl Shaddai、すなわち全能の神というご自身の名前を、この約束に掲げました。 神様はこの約束が必ず成就するというしるしとして、アブラムに新しい名前を与えられます。 神様がアブラムに与えられた新しい名前は、アブラハムでした。彼の昔の名前「アブラム」は、「父が高められる」という意味でしたが、彼の新しい名前「アブラハム」は「多数の者の父」という意味でした。しかし「アブラハム」つまり「多数の者の父」と呼ばれる新しい名前は、アブラムには安心感がなく、大きな恥となるかもしれないものでした。なぜならアブラムは99歳の高齢にもかかわらず、多数のものの父はおろか一人の父親もなれていない状態だったからでした。しかし、神様は彼がアブラハムという新しい名前を持って生きるようにされました。古代の中東の人々にとって、名前とは単純な身元確認の手段ではなく、その人の本質と人格に深く繋がるものでした。よって、神様が新しい名前を与えられたのは、アブラムのアイデンティティと運命が新しく変わった事を意味します。神様は親が子の名前をつけるように、彼にアブラハムという名前の新しいアイデンティティと新しい運命を与え、彼の存在によって所有権がご自身にあることを宣言されたのです。多数の者の父の名前は、世界で最も非常識なこと、最も実現の可能性が低いこと、絶対見ることができないことを表すものでした。しかし、それがアブラハムの新しいアイデンティティになりました。最も非常識なことを常識だと思い、最も実現の可能性が低いことを可能だと判断し、絶対に見ることができないことを見ること、すなわち、信仰と呼ばれるものがアブラハムという存在の本質になったのです。神様の約束が信じ者のすべてを変える第二の理由は、神様の全能さは、私たちを救おうとされる神様の愛に基づいているからです。神様には罪人となった人間に関与する理由は全くありません。しかし愛に満ちた神様は、アブラハムを通して人間に先に近づかれ、また神様はアブラハムの信仰が成長するまで長く待たれました。アブラムがアブラハムになるまで全能の神様は、人間の救いへの偉大な愛で忍耐し、彼の人生を導かれました。そして彼の信仰の上に、神様はイサクという約束の子を授け、その子孫はイスラエルという神の民となりました。そして1000年後(6節後半)ダビデ王朝を通して多くの王が生まれました。また1000年後、イスラエルの真の王であるイエス・キリストが生まれました。そして彼は私たち人間の罪の代わりに死なれ、復活されました。アブラハムの子孫を通じて地上の全ての人を祝福しようとされた神様の約束は、人間の救いのためにご自分の命さえ犠牲にされたキリストを通して達成されたものでした。よってキリストを信じるすべての人がアブラハムの子孫になり、救いの祝福を受けるようになったのです。全能の神様は、死なれる程人間を愛されたキリストの中で福音の約束を信じ、私たちをアブラハムの子孫と呼び、義であると認めてくださいます。アブラムにアブラハムという新しい名前を与えられたように、私たちを罪人という昔のアイデンティティから解放し、神の子どもと呼ばれる新しいアイデンティティを下さったのです。そして、私たちが福音の約束を信頼し、神様に向かって信仰の旅を歩いて行くことができるよう、私たちの人生の方向を完全に変えるのです。

No.57「聖霊を通して共におられるキリスト」     ヨハネ14:15-21

 ヨハネ13章から17章は、イエス様が捕られ殺される前、弟子達に最後に伝えた別れのメッセージです。そしてヨハネ14章もその一部です。ある日、イエス様は弟子達に衝撃的なニュースを語りました。イエス様はすぐに彼らから裏切られ、離れている間、彼らに大きな苦難と試練があると言われました。弟子達は、能力のあるイエス様にこのようなことが起きるなど、自分達がイエス様を裏切ることなど想像できませんでした。また何よりも、イエス様なしで一人残される自分自身を考えたくありませんでした。しかし彼らの予想とは異なり、実際に彼らはイエス様を裏切り兵士に捕まえられ、十字架で死なれたイエス様は彼らとしばらく離れました。イエス様が自分達のそばを去られると、弟子達は恐怖感に駆られました。自分達に向けられた世界の鋭い視線と迫害によって非常に辛く、孤独で恐れた彼らは、ドアを閉めて隠れてしまいました。イエス様のいない彼らは、孤児のように何の保護がない場所で一人捨てられたような寂しさと恐怖を感じました。しかし、イエス様は弟子達を捨て去ったわけではありませんでした。逆にイエス様は彼らと永遠に共にいるために、彼らのそばを離れたのでした。神の主権を拒否し、自分自身が人生の主体として生きようとした人間は罪を犯し、罪人となった人間は、聖なる神様のそばに留まることができなくなりました。そして死という罪の結果から自分を救うことができない人間は、もはや神様の元へ帰ることができなくなりました。しかしイエス様はご自分の死と復活により、無罪を弁護されました。ですから父なる神様の御前で、私たちは正しいと判決を受け、神の子どもとなり、再び神様のそばに戻るようになりました。イエス様は、私たちの真の助け主となられました。イエス様は、再び弟子達のそばを離れました。天に上り、父なる神様のそばに戻られたのです。以前の弟子達は、イエス様が去られた時、大きな恐怖に圧倒されましたが、今回彼らはもはや恐れることはありませんでした。むしろ堂々と世界へ進み、イエス・キリストの福音を伝えました。なぜなら、イエス様は彼らのそばを離れましたが、イエス様は続けて彼らと共におられたからでした。イエス様は、自分は去るが父なる神様が、弟子達にイエス様の代わりにもうひとりの助け主を送ると言われました。助け主とは何でしょうか?助け主はギリシャ語でParacleteで「そばに」という意味のParaと「招待される呼ばれる」という意味のkletosが合わさった言葉です。直訳すると「そばに招待された方」という意味です。Paracleteは助け主、励ます方、友達、カウンセラー、弁護者等に訳されます。つまり、Paracleteは私たちのそばにいて助けて下さり、励まし、友となり、アドバイスされ、弁護される存在を意味します。弟子達にとって、イエス様は真のParakleteすなわち真の助け主でした。しかしイエス様が去った後、父なる神様は彼らにもうひとりの助け主を送られますが、その方は、聖霊様でした。イエス様は聖霊様について、こう述べました。「17その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。」聖霊様は真理の御霊、すなわち真理であるイエス様の御霊です。聖霊様はたとえ目に見えなくても、信仰を持つすべての人の中におられ、いつも彼らにイエス・キリストの真理を教えられます。私たちと共におられ、イエス様の存在を私たちに感じさせ体験させてくださいます。そしてイエス様は、父なる神様のそばにおられますが、聖霊様の中で私たちと永遠に共におられます。イエス様はこう言われました。 「15もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」聖霊様が私たちの中におられるというのは、私たちを苦難から自由にされるのではなく、苦難の中でも父なる神様に死なれた程従順であったイエス・キリストを愛し、彼にしたがって歩むようにされることを意味します。私たちと共におられる聖霊様は、私たちが罪の道に向かう時は戒め、大変な時は励し、さまようときはアドバイスし、私たちにイエス・キリストの真理を愛するようにされます。この世界の闇は、「あなたの神を愛し、隣人を愛しなさい」というイエス・キリストの真理に対抗し、私たちを迫害します。しかし聖霊様は、イエス様に従う私たちの正当性を弁護され、キリストへの私たちの愛が従順という美しい実を結ぶことができるように助けてくださいます。

No.58「人への神様の愛」    詩編8:1~9

 ダビデは、創造主である神様の偉大さに圧倒され、大いなる神様に比べ人間である自分は、どれほど小さくみすぼらしい存在なのかを悟りました。しかしそれは、決してダビデにとって絶望や悲しみではありませんでした。逆に彼にとって、あまりにも大きな感動と喜びになりました。なぜなら偉大な神様が、卑しい人間をご自分の形に創造され、彼らに大きな祝福を与え、とても大切にしてくださったからです。ダビデは5節6節でこう言います。「5あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。6あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」この部分は、創世記の前部分と似ています。創世記1:26「神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」」ダビデは、創世記1:26を引用し、神様が人間をご自分の形に造られたことを強調したのです。 神様に似た人間だけが、神様の人格を反映する存在として創造されたのです。ただ神様に似た人間だけが、神様と人格的な交わりをすることを許可されたのです。そして神様に似た私たち人間を、地上の被造物の最も高い場所に置かれ、神様の代わりに動物や植物などの他の被造物を治めるようにされました。これは、人間は勝手に神様の被造物を悪用して良いということではありません。神様の存在を示すイメージである私たち人間は、神様の被造物を自分ではなく、神様の御心に従って治めるべきで、神様を代弁する管理者なのです。しかし人間は、自分が神様に似ているという事実を歪め始めました。私たち人間は、自分が神様に似た被造物ではなく、創造主のようになることを望んで、唯一の王である神様の主権を拒否したのです。偉大なる神様は、卑しい人間に親密に近づいて来られましたが、私たち人間は、罪の問題によってもはや神様のそばに留まることができなくなりました。そして私たちは、創造主である神様の御心を無視して、自分だけの利益のために利己的に他の被造物を治め始めました。その結果、神様が造られたこの美しい自然が多く破壊され、私達は今その見返りを経験しています。さらに私たち人間は、自然だけでなく、神様の形を持った人間互いを利己的に利用し虐待しました。これらの罪の現実を指し、ローマ8:22では、「私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」と言っています。しかし、ダビデはこのような絶望的な状況の中でも、決して希望を捨てませんでした。創造主である神様の御名を賛美することをやめませんでした。なぜなら神様は、決してご自分の民を見捨てない方だからです。彼らとの約束に忠実で、永遠に共におられるのです。ダビデは偉大な神様が、こんなにも汚れた罪人を遠ざけず、親密に近づこうとされる神様の愛に感動しました。そこで彼は、4節でこう告白しました。「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは」人が一体何者だというので、神様はこのように私たち人間を大切に愛されるのでしょうか。人への神様の愛は、その高さと幅と深さを測ることができないミステリーです。そして人へのミステリーの愛は、父なる神様から遣わされた御子イエス・キリストの中で最も究極の姿で、表現されます。神様であるイエス様は、罪人である私たちに近づいて来られ、私たちのような卑しい人間となられました。神様と似た存在ではなく、神様ご本人が私たちに来られたのです。そしてイエス様は、私たちの罪を許すために世界で最も低い所十字架で、最も弱く悲惨な姿でご自分の命を犠牲にされました。しかし彼は最も卑しい、弱い姿で死の力に勝利され、私たちに復活の新しい命を与えて下さいました。到底理解できないこの驚くべき恵みにより、私たちは神様の子どもになり神様を礼拝するのです。今、私たちの魂の中にある歪んだ神様の形は、回復が可能になりました。毎日イエス様の道に沿って歩き、彼に似て行くことができる特権が私たちに与えられたのです。今、私たちは神様の形に創造された存在として、私たちのすべて魂と心と体を尽くして神様を愛し、私たちの隣人を愛し、私たちに与えられたすべての被造物を、神様の御心に沿って大切に守らなければなりません。罪によって壊れたこの世界の中で、神様のイメージとして王である神様を代弁し、その栄光を表わさなければなりません。

No.59「主を恐れる」   イザヤ 8:11-15

  本文は、今から2800年前のユダの状況を扱っています。イスラエルが北イスラエルと南ユダに分断された約200年後アッシリアが中東で最強国となりました。アッシリアは強い軍事力を前面に出し、瞬く間に領土拡張し、敵を非常に野蛮で残忍な方法で殺害ことで有名でした。またアッシリアは耐えがたいほどの多くの税金を必要とするなど、征服した国を非常に苦しめました。このような状況の中で、弱小国だったアラム、イスラエル、ユダは壊滅的な恐怖を感じていました。そしてそれぞれの国の王は、アッシリアに対して何か対策を立てなければなりませんでした。恐怖の中で彼らが最初に選択した方法は、外交を通じた解決でした。アラムの王とイスラエルの王は、ユダの王アハズにアッシリアを一緒に攻撃しようと提案しました。三国が同盟して同時にアッシリアを攻撃すれば勝算があると予想したからでした。ユダの王アハズは、この提案を受け入れるかどうか、大きな悩みに陥りました。しかし神様はアハズにアラムとイスラエルの同盟に絶対に参加せず、ただ神様だけを頼るように命じました。そしてアハズは神様の御言葉に従って、彼らの提案を拒否しました。そして神様の御言葉通りに行動すると、すぐに別の問題が起きました。アラムとイスラエルが、同盟に参加しないユダに対し非常に怒り、一緒にユダを攻撃し始めたのです。アラムとイスラエルは、ユダの首都エルサレムを激しく攻撃し、これによりアハズは非常に恐れました。神様は、預言者イザヤを通して再びアハズに言われた。 (イザヤ8:12~13)神様は様々な仮説と陰謀論の中でユダの民は恐れるが、アハズはそのようなものを恐れず、神様を恐れなさいと言われました。ただ万軍の主、神様だけが聖なる方でおられ、神様だけが恐れるべき対象であることを強調したのです。アハズは、自分とユダヤ人全体の命がかかった状況の中で、自分が何を最も恐れる必要があるかを決定しなければなりませんでした。アラムとイスラエルの同盟軍を恐れるべきか、強く残酷で野蛮なアッシリアを恐れるべきか、または神様を恐れるべきかを選択しなければなりませんでした。アハズの人生は、激しい暴風の中で激しく揺れました。このような状況の中で、彼は自分の目に最も強力に見えるアッシリアを最も恐れ、アッシリアを自分の仲間にしました。政治外交的観点から、また一般的な常識的な観点からアハズは指導者として最も賢明な決定をしました。実際にアハズの外交政策は、短期的にユダの安全を守る大きな役割をしました。しかし最終的にはアハズの選択は、より大きな問題を引き起こしたのです。ユダの兄弟国家だったイスラエルはアッシリアに滅ぼされてしまい、またアッシリアはユダを守った見返りに巨額のお金を要求し、彼らを悩まし始めました。アハズはアッシリアとの外交を通してしばらくは安全でしたが、むしろ彼はより大きな恐怖に捕われてしまいました。その後も、神様は引き続きアハズに神様だけを信頼するように言われましたが、彼は恐怖に圧倒されて死ぬまでアッシリアから自由になることはありませんでした。このようなアハズ王の姿は、私達の人生の中で、激しい波風が押し寄せて来る時、真正面から大きな危機を迎える時、大きな人生の選択肢の前に置かれている時、私たちが神様への信頼ではなく、自分が最も恐れていることから安全になれる道を選択するように誘惑されるということを示しています。自分の恐れから回避できる所へ向けるように、私たちの罪の本性から、周りの人から、数々の誘惑の声が聞こえてくるのです。短期的に見れば、安心感を感じるでしょう。問題が解決されて、自分が安全であるように感じられるでしょう。しかし最終的にそれらは最も恐れるものから自由にすることができないのです。それらは、続けて私たちを閉じ込め、回避し、前に進めないようにするのです。恐れは、その恐怖の対象から自分自身を遠ざけるのではなく、むしろより近づけるということなのです。私たちが航海している人生という海は、静かで穏やかな時もありますが、荒波と強い風が私たちを鋭く脅威こともあります。揺れる船の上で、私たちは自分自身を脅かす対象だけに集中し、それに対する恐怖で縮こまるように誘惑を受けます。しかし信仰は、私たちが目を上げ、揺れる船の外に果てしなく続くその広い海を創造された神様の偉大さを、見るように励まします。神様の恵みは、荒波と強い風の後ろからすべてを治め、自分と一緒におられる神様の摂理を見るようにします。このような聖なる神様から感じられる驚異と感謝は、私たちの恐れを圧倒します。そして私たちが従順の人生で、神様を礼拝するようにします。イエス・キリストを自分の主と信じ、彼が歩まれた道に沿って歩むことを望む私たちは、神様を恐れなければなりません。神様を恐れることは、自分の運命を決定する要素は他のものではなく、ただ神様だけであることを信頼することです。自分を恐れの対象から安全に守る方法を見つけることに没頭するのではなく、聖なる神様から与えられた自分の人生を神様の御心に沿って聖く歩むことを望むことです。私たちが本当に神様を恐れると、私たちは神様以外のものを恐れる必要はなくなるのです。神様を恐れることが、自分を本当に安全に守る最善の方法であり、聖なる人生を生きるためのすべての知恵と知識の始まりなのです。

No.60「自分の日を数える知恵の心」     詩篇 90:1-12

 この詩篇の作者であるモーセが言うように、永遠を生きる神様と、瞬間を生きる私たち人間の日はあまりにも対照的です。私たちの神様である主は、私たちの過去の先祖の避け所であられ、現在を生きる私たちの避け所であられ、またこれから生まれてくるすべての子孫の避け所であられます。地・山・野などの世界が造られる前から神様は存在され、これからも神様の存在は永遠なのです。1000年という長い時間も、神様にはまるですぐ過ぎ去った昨日と同じようで、夜回りのひとときのようです。神様には、時間の流れが無意味なのです。詩人であるモーセは、神様の永遠を見て驚異を感じました。時間を超越される神様の荘厳さを見て感心したのです。しかしこのような神様と比べて、私たち人間の人生はあまりにもみすぼらしいのです。70年、長ければ、80年で終わってしまう私たちの一生は、まるで一晩の眠りのようです。朝に芽が出て夕方になると枯れてしまう草のようです。燃える薪の中から立ち上がり、空に消えてしまう煙のようです。私たちの体をすり抜ける風のようです。日が沈むとなくなる影のようです。私たちに与えられた日々がこのように短く、このようにあっという間に過ぎ去ってしまうのです。なぜなら私たち皆は、死ぬからです。私たちが犯した罪によって神様の怒りが私たちに向けられました。このことが私たちのすべてに迫った最大の悲劇で、最も悲惨な運命なのです。今、私たちはもはや神様の怒りを避けることができません。私たちは、神様の怒りの力と恐怖を死によって経験されたのです。罪人である私たちは、永遠ではなくあまりにも短い瞬間を生きて死んでしまう存在となったのです。人々は、自分に近づいた神様の怒りに対応しなければなりません。来るべき死という現実に対して、人生の態度を変えなければなりません。しかし人々は、神様の怒りがどのように恐ろしいのかを真剣に考えません。死がどのように悲惨であり、自分に与えられた日がどのように短いかを考えません。人々は、自分の安全と繁栄のためにより多くのことを達成し、より多くのことを積むことに集中します。まるでこの世界で生きていく自分の日が永遠のように生きるのです。しかし詩篇90編の著者であるモーセは、このような生き方に強く反対します。モーセが反対するのは、自分の日を数える彼らの計算方法です。彼らは、自分の安全と繁栄のために、自分が努力してきた日々を加えました。一日、二日、三日、四日、自分が何かを達成し築いてきた日数を加えました。結局彼らの計算には、0という答えが出ないのです。すなわち、死という人間の避けられない運命が無視された計算なのです。決して時間を超越することができない人間の限界、永遠という聖域に足を踏み出すことができない、人間の限界を意識していない計算なのです。モーセは自分の日を数えることにおいて、加算という計算方法を拒否しました。彼は神様から与えられた自分の日々から、自分がこれまで生きてきた日々を引いていきました。10年、9年、8年、7年、自分が生きてきた日々を引いていきました。そしていつかは自分の計算が0という答えに達するということを意識しました。つまり死という自分の運命を認めて生きたのです。彼は、自分が有限な存在であることをよく知っていました。自分がどれだけ無能かをよく知っていました。自分の日がどれだけ短く、どれほど速くすぎるかをよく知っていました。たとえあまりに短く、あまりにも早く過ぎ去っても、彼が生きた一日一日は、当たり前のことではなく、神様から与えられた贈り物であることを知っていたからです。そこで彼は、悲しみと不満ではなく、喜びと感謝の気持ちで毎瞬間を過ごしたのでした。彼は引き算こそ、自分の日を数える正しい方法であり、この世界を生きていく最も重要な知恵だと信じていました。全能の神様であるイエス・キリストは、弱い私たち人間の姿で来られました。そして自分の有限さを認めず、自分の日を足し算的に数えて生きる私たちの罪の代わりに、死なれました。しかし彼は死の力に屈せず、復活され、朝靄のような短い人生の私たちを、永遠の命へと導びかれました。これらのキリストの恵みの中で私たちに与えられた一日一日は短いですが、大切な神様の贈り物なのです。私たちの短い人生は、永遠に向かう偉大な信仰の巡礼なのです。ただ自分の有限さを認めて、永遠の神様にすべてを出してゆだねる場合にだけ、私達は自分の日を正しく数え、知恵の心で生きていくことができるのです。

No.61「互いの息の音に耳を傾けましょう」    エペソ5:21-33

 パウロは、妻に夫を愛することを教える時にも、また夫に妻を愛することを教える時にも、常にキリストと教会について話しました。なぜパウロは結婚そのものを説明せず、常にキリストと教会の関係を説明したのでしょうか?一体この二つはどのような関係にあるのでしょうか?これは、パウロが32節であるように、結婚は大きな"ミステリー、奥義"と言う理由からです。結婚は、神ご自身が直接造られたものです。結婚は、神様がある意図を持って造られた神聖なものです。結婚は、どのような意図で造られましたか?神様は男と女とに造られ、最初の人間を結婚させた時、聖書はこう述べています。創世記2章24節「 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。 」つまり、人が 父母を離れ、妻と一つになる結婚の姿が、将来行われるいくつかの将来のことを事前に示しているのです。そして31節は、エペソ5章でもう一度引用されます。 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」ここで親を離れた人は、キリストを指します。キリストは私たちを救うために、ご自分の父である神様から離れられました。そして、私たちのような人間になられた後、私達の罪の代わりとなられました。彼の死によって、私たちは新しい命を得て、キリストの体である教会となりました。つまり、キリストと教会は結婚して、一つの体となるのです。ですから夫と妻の結婚は、まさにキリストと教会の結婚を表わす鏡なのです。夫と妻が結婚して愛し合う姿は、ご自分の体である教会のために犠牲となられたキリストの愛を反映しています。結婚はキリストを映す福音の鏡なのです。ですから結婚は福音のように非常に痛みを 伴いますが、同時に 本当に幸せなものです。福音を受け入れるとき、私たちはまず激しい痛みを感じるのです。「自分はこのように醜く、ひどい罪人だったなんて、キリストを十字架につけた罪人が自分だったなんて!」福音は、私たちに罪人としてのアイデンティティを悟らせ、そのような自分を捨てるようにさせます。 キリストに従う時、痛みを伴います。自分自身には希望がないことを認めて、自分を放棄しなければならないからです。しかし、キリストのために、私たち自身が死ぬ時にこそ、私たちは本当に生きるようになるのです。キリストのために私たち自身を差出した時こそ、私たちは本当の自分の姿を知り、キリストを知る真の幸福を得ることができるのです。結婚も同じです。夫と妻は、真に一つとなるために、自分自身を捨てないといけません。配偶者のために 自分のことを完全に置いて、配偶者の益のためには、自分の利益をも捨てなければならないのです。相手のために自分を失うことなしには、絶対に一つになれない、これが夫と妻の関係なのです。ですから結婚には痛みが伴うのです。しかし、私たちは配偶者のために自分自身を失う時、私たちは真の姿を知るのです。相手のために自分を下に置くとき、私たちは配偶者の笑顔で真の幸せを味わいます。自分自身を明け渡す時、私たちは相手の幸せの中に、私たちを愛しておられるキリストを発見するのです。ですから結婚は苦痛を伴いますが、それに比べることができないほど幸せなことなのです。私たちの配偶者が出すその息は、十字架につけられたキリストが教会のために渡された神の尊い命です。夫と妻は、お互いの息の音に、耳を傾けるべきです。その息に 込められたキリストの愛を感じ、お互いに従う必要があります。キリストが最後の息を私たち教会のために明け渡されたように、私たちも自分を無にすることで、相手を愛しなければ いけません。

No.62「謙遜の恵み」    第Ⅱ列王記 5:1-17

 アラムという国のナアマン将軍は、強力な力を持っていました。彼の指揮する戦争にアラムは大きく勝利し、人々は彼の勇猛さを非常に称賛しました。そんな彼を、アラムの王はとても信頼していました。ナアマンはまるで世界のすべてを持つようで、彼の場所は世界で最も高いように見えましたが、そんな彼を正反対の状況に追い込む不幸が彼に見舞われました。ツァラアト(らい病)のような、非常に深刻な皮膚病にかかっていたのです。このような絶望的な状況の中で、ナアマンに一つの希望の知らせを持って現れた存在がいました。それはナアマンの妻に仕える奴隷の身分の少女でした。彼女はアラムの軍隊がイスラエルを攻撃した時、そこに連れて来られたイスラエルの捕虜の一人でした。最高権力者であるナアマンとは対照的に、彼女は最低層の存在でした。現代社会では、女性差別を禁止し、子供の人権を尊重しますが、古代社会で女性と子供は最も無視される卑しい存在でした。さらに彼女は外国人であり、奴隷であり、孤児でした。ナアマンは偉大な強者になるためのすべての良い条件を持っていましたが、逆に彼女は、社会的弱者になるすべての悪条件を持っていました。しかし、彼女は本文で最も重要な役割をすることになります。たとえ社会的に最も卑しい存在であっても、他の人が持っていない、非常に特別な知識と信仰を持っていました。そして彼女はその知識をナアマンの妻に伝えました。 3節で彼女はこう言います。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのらい病を直してくださるでしょうに。」彼女の言葉によれば、 イスラエルのサマリヤという都市にある預言者が住んでいました。その預言者とは、エリヤの後継者であったエリシャでした。エリシャならナアマンの皮膚病を直すことができると、彼女は確信していました。なぜなら、彼女はエリシャとおられる神様を心から信頼していたからです。ですから彼女はナアマンの病気が治らなかった場合に起こる事柄を全く恐れず、自分が持っている知識と信仰を堂々と伝えたのでした。ナアマンは大将軍らしく、馬と戦車を率いてエリシャの家の前に華やかに登場しました。おそらく普通の人であれば、ナアマンの威厳ある姿に圧倒されて、最善を尽くして彼を喜ばせたでしょう。しかしエリシャは家の外で迎えもせず、また彼を家の中に入るようにとも言いませんでした。さらにエリシャが提案した治療方法は、あまりにも不合理なものでした。彼は自分の代わりに人をやって、ナアマンにヨルダン川で7回体を洗いなさい、そうすればその病気が治ると言いました。アラムの川に比べて小さく、みすぼらしいヨルダン川で洗うことになるとは、ナアマン自身が思っていた治療方法とはあまりにも違いました。プライドに傷を負ったナアマンは、とてもエリシャのアドバイスに従うことができませんでした。私たちは、ナアマンと大きく変わりません。私たちは、神様が自分の人生に関与される方式よりも、自分が期待する方法をもっと求めます。神様が働かれる前に、すでに自分に「そうしていただきたい...あのようにしていただきたい... 」と期待するのです。そしてそのような期待は、私たち自身の利己によって大きな影響を受けます。ナアマンが、数多く戦争で勝利の成果を築き、将軍の権威を築き、王の信頼を築いてきたように、私たちもそれぞれ培ってきたものがあります。良い人間関係、能力、職場での達成と成果、財産、名誉と地位など、私たち人間は、何かを周りに積み上げていきます。そして、私たちが蓄積したものは、いつの間にか自分が最も信頼する安全装置になっていきます。神様がいらっしゃるべき私たちの心の中心を、代わりに占めようとします。そして私たちは、その安全装置の周辺に境界線を引き、神様がそのラインを侵犯しない範囲で、自分の人生に関与下さることを期待します。恵みは、資格のない者に条件なしの信仰によって、与えられる贈り物です。無条件というのは、罪人である私たちにとって非常に破壊的です。神様は私たちが積み上げた条件と関係なく、働かれるということです。私たちが積み上げた地位と、名誉、業績や能力、どのようなものも、神様の恵みを制限することができません。この社会が立てたどのような価値と常識も、神様の恵みを閉じ込めることはできません。自分が培ってきた安全装置の周辺の境界線をなくし、私たちの人生の中で神様のご計画が神様の御心に沿って構成されて行くことを望みましょう。偉大なナアマンが、神様の道の前で自分を卑しい若い娘のように低くし、ヨルダン川で7回体を洗うと、ナアマンの皮膚はその若い娘(妻の女奴隷)のようにされ、ナアマンの知識と信仰もその若い娘のようになりました。 異邦人の彼は15節で「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。」と告白し、イスラエル人さえ持たなかった信仰を持つようになりました。彼が高くなったとき、彼はすべてのものを所有しているようでしたが、実際にはすべてを喪失した人でした。しかし、彼が低く弱くなると、彼はすべてを失ったようですが、実際にはすべてを所有している者となりました。このことが私たちを謙虚にされる恵みの福音なのです。神様の道が、私たちの道よりも高いことを認める時、私たちは若い娘のようになったナアマンのように、私たちは生き、または死んでも私たちの唯一の希望は、神様であることを悟るようになるのです。

No.63「豊かな恵みへの信頼」     ヨハネ6:1-15、32-35

 ヨハネは、他の福音書と区別された特性を持ってこの事を記録します。その特性によって重要な手がかりが4節に出てきます。「6:4さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。」過越の祭とは、神様がエジプトの奴隷だったイスラエル人を救い出し、荒野で約束の地へと導かれた時を覚えさせる、ユダヤ人の最も重要な祭りです。本文の著者であるヨハネは、この事が過越が近づく頃に起こった情報を与え、私達は出エジプトの時を思い出しながら、この事を理解されることを意図しています。それだけではなく、ヨハネはこの本文のすぐ前、5章の最後で、モーセが書いたイエス様に対する記録を述べています。 6章16-24節でも水の上を歩まれたイエス様の話をし、イスラエルが紅海を渡った時のことを回想させようとします。また25-59節でも、イスラエルが荒野で過ごした時に、神様が彼らに天から降らせた「マナ」について述べ、荒野時代を回想させようとします。ですから、私たちは著者であるヨハネの意図通り、モーセの時を思い出しながら、この本文を調べる必要があるのです。イスラエル人は、約束の地に入るまで、荒野で40年間過ごしました。当時のイスラエル人は、今のような真水の技術がなく、明日の安全のために、保持できるものは何もありませんでした。また何を植えてもその土地では育たず、彼らに許されたたったひとつの事は、唯一天を眺めることだけでした。神様は天からマナという食べ物を降らせて下さり、それによって彼らは荒廃した砂漠でも、いつも豊かに食べることができ、約束の地に向かって旅を続けることができました。荒野での一日一日が、彼らにとって奇跡そのものでした。しかし、そのような奇跡から慰めと希望を感じるどころか、彼らの心は毎瞬間心配や不満で満ちていました。毎日豊富にマナを降らせる神様の存在より、将来の安全が、自分の力では何も積み上げられない荒野の荒れ果てた状況が、彼らには大きく見えたからでした。これにより、荒野で過ごした間、彼らは豊かであると考えるより、いつも何かが不足していると考えにとらわれていました。ヨハネは、私たちにこのようなイスラエル人の不信仰な過去を回想させ、本体の出来事へと導きます。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」ピリポは自分に質問をされたイエス様を見ました。いつも弟子たちと共におられ、彼らを豊かにされたイエス様がピリポの目の前に立っておられました。しかし、ピリポの視線は目の前に立っておられるイエス様ではなく、イエス様の後ろに見える光景へと向かいました。信じられないほど多くの人波が、イエス様の後ろに来ていました。それを見てピリポはこう答えました。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」ピリポは自分のそばにいるイエス様よりも、自分たちが与えなければならない人々の群れが、はるかに大きく見えたのでした。ピリポは目に見えるその現実に、圧倒されました。どんな方法で計算してみても、イエス様のご計画を実行するには、不可能に見えました。アンドレの答えも、ピリポと同様でした。イエス様は、ご自分の弟子たちから信仰を見る事を望まれましたが、ピリポもアンドレも、「不足」に執着してしまい、多くの人々を養うせようとされるイエス様のご計画に反対しました。荒野でいつも文句を言ったイスラエル人とイエス様のご計画に反対した弟子達の姿は、私たちがこの世界をどのように生きているかを示します。自分が所有する限られた資源を、どのようにすれば最も効率的にできるかと関心を持ったり、また慎重であることは悪いことではなく、むしろ私たちに必要なものです。しかし、問題は私達の心が、自分が所有する資源が限られていることにも執着するということです。私たちは、自分の状況が豊かだという認識ではなく、不足への認識に基づいているということです。不足への認識でよく起こる問題は、リスクへの恐怖と、それによってぼやける価値判断です。私たちクリスチャンは、神様から受けた使命と目に見える現実のギャップの中で葛藤して生きていきます。成功と安全が保障されていない自分の状況があまりにも危険に見えるのです。自分に与えられた使命の本質的な価値はますます小さく見え、失敗した場合のリスクがますます大きく見えます。結局、多くの人が合理的な言い訳を作り、始める前に放棄します。また、不足への認識に基づいて生きれば、他人に対する態度に問題が生じます。他人と何かを一緒に分かちあうには、自分が持っているものが、非常に不足して見えます。他人の困難を見て助けるには、自分の状況があまりにも緊迫して見えます。イエス様は、不足の考え方に陥った弟子達とは違い、他の方法で現実を認識されました。イエス様は一人の少年が持ってきたパン五つと魚二匹を持って、感謝の祈りをささげました。そして人々に好きなだけ分けました。そして驚くべきことが起こりました。多くの人々が持っていっても、全く不足しなかったのです。また35節でイエス様は、自分自身を指し、命のパンと言われました。自分の命を犠牲にして私達の罪を赦し、私たちに永遠の命を与えられたイエス様は、荒野で降ったマナと5000人に与えられたパンと魚が指そうとした約束の成就でした。物質的なパンは、私たちには重要です。しかし、物質的なパンは、一時的に私たちの空腹を満たすだけで、私たちはすぐに空腹を感じます。しかし、命のパンなるイエス様に来る者は、決して空腹になったり渇くことはありません。イエス様の恵みには不足がなく、いつも豊かなのです。今、私たちはイエス・キリストの永遠の命のパンを食べた者として、不足の観点ではなく、豊かさの観点から、私たちの状況を認識する必要があります。いつも豊かに与えて下さるイエス様が共におられる私たちは、将来の心配から自由であり、自分に与えられた使命のために、今私たちがささげることを感謝するのです。私たちが使えば、それ以上に再び与えられるので、私達は資源の不足を心配せずに、他人に愛を施すことができるのです。

No.64「幻の視野」     イザヤ22:15~25

 22節の"幻の谷"は、どこを指す言葉でしょうか。それは、エルサレムです。幻の谷はありふれた表現ではなく、とても独特な表現です。幻というのは、天上を治めている神様の視野で、この世を見下ろすことです。時間と空間の制約を受けている私たち人間の視野を飛び越えて、神様がすべてを見下ろすように、私たちを見られ、また視野が遮られることなく広大な宇宙で起きる本当の姿を見る、それが幻です。しかし、谷は幻と反対の概念です。谷は、視野の制限がない幻とは違い、前後左右が自分より高い何かに遮られて視界に制限がある場所、それが谷です。幻と谷はふさわしい単語の組合せではないにもかかわらず、エルサレムは幻の谷と呼ばれるのです。本文には、シェブナが登場しますが、彼はエルサレムの霊性がどうだったかを表す人物でした。彼は谷の視野、つまり霊的に近視的な人生を生きる人でした。彼は高度な現実感覚と政治感覚を持った人で、当時、猛烈な競争を勝ち抜き、権力序列で王の第2の地位まで上りつめた人でした。彼はユダの国内政治だけでなく、安保と外交まで担当していた最高権力者でした。シェブナは自分の権力を乱用し、墓を作ることに最上の条件を持った土地を買い取りました。そして自分が将来に入るとても豪華な墓を工事していました。悔い改める時に彼は贅沢な計画を実行し、神殿で祈りを捧げなければならない時に、彼は墓で虚像を追っていました。シェブナは当時のユダの歪んだ霊性を代表する人物でした。イザヤはおそらく以前から、シェブナを個人的によく知っていたはずです。イザヤは、もともと幼い時から王宮を出入りしていた貴族出身で、王族とも関連していました。このような環境の中で成長したイザヤは、権力とは何かを余りにもよく知っていました。権力を持った者の心に傷を負わせると、何が起きるかよくわかっていました。イザヤは王宮を出入りし、シェブナの地位がどれほど高いか、彼が持った権力がどれほど恐ろしいものかを直接見ていたのです。しかし、神様からの使命を受けたイザヤは、対象が誰で場所がどこであれ関係なく、相手の顔を見ながら、正確に神様の御言葉を伝えました。こんな危険な状況でも、彼が神様を代弁する使命に忠実でいれた理由は、彼は幻の視野で人生の旅を歩く人だったからです。彼は、目に見える現実に対応する自分の知恵に、依存しませんでした。自分の危機管理能力に、信頼しませんでした。彼は過去イザヤ自身が幻の中で会った、天上の王座に座っていた神様だけが、自分が従うべき唯一の権力者であることを知りました。神様だけが自分の要塞であり盾であることが、彼が見るべき本当の現実であることを知りました。ですから彼は、ひたすら神様の御心だけを人生の中心とし、神様が見るように見て、神様が感じれるように感じながら、神様がおっしゃるとおりに行動しました。いかなる権力・理念・人脈・伝統・慣習も、彼を谷の中に閉じ込めることはできませんでした。神様を信頼する彼には、幻の視野があったからです。これがイザヤが神様の代弁者として、最高権力者であるシェブナの前で宣言できた理由です。神様は、谷の視野で世俗的な人生を生きてきたシェブナを審判し、代わりに幻の視野を持っているエルヤキムをユダの指導者に立てました。そしてエルヤキムにこうおっしゃいました。『わたしはまた、ダビデの家のかぎを彼の肩に置く。彼が開くと、閉じる者はなく、彼が閉じると、開く者はない。』神様は忠実なしもべエルヤキムの権威を指して、"ダビデの家のかぎ"と呼びました。幻の視野で生きたエルヤキムの権威は、将来来るキリストの権威を指すものでした。黙示録3:7後半は今読んだ22節を引用してキリストの権威についてこう言います。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。』キリストは神様の御国の扉を開く鍵を持っていて、またその門そのものなのです。ただキリストだけが神様の御国に私たちを導かれる方です。キリストがこの地におられた時、世は現実の壁を最大限に高くして、彼の霊的な視野を隠そうとしましたが、キリストはただ神様の御心を中心にし、神様の御言葉を宣言し、神様の御心に従って死ぬまで従順されました。キリストは幻の視野で罪人の私たちを眺め、私たちを自ら抜け出すことのできない罪の谷から救ってくださいました。私たちが救い主キリストを心から信頼する時、私たちは目に見える現実の谷を超えて、真にこの世界を治められる王の王がキリストである真実を見るようになり、その真実を世界の中心で宣言する神様の代弁者として生まれ変わるのです。

No.65「食べ物の神学」  創世記 2:7-17

神様は人間にエデンの園を耕させ、そこを守らせました。これは、人間に祭司としての使命が与えられたということを意味します。神様は人間を祭司として、彼らがエデンの園のあらゆる実を食べるようにされました。神様は、人間を食べる存在として創造されたのです。人間は食べ物を食べことによって、自分の空腹を解消し肉体的な命を守ることができました。しかし、人間が感じる乾きは、肉体的な空腹感ばかりではないのです。霊的な空腹、つまり神様への空腹も一緒に感じるのです。祭司にとって食べるという事は、肉体的空腹を解消するためだけの行動ではありませんでした。祭司は、食べ物を通してそれを与えて下さった神様を覚えて祝い、礼拝しました。祭司の使命が与えられた私たち人間は、食べ物を通して、神様を記念して礼拝し、その食べ物を下さった神様に向けた霊的な空腹を解決するように創造されたのです。食べるという事は、決して神様と分離できません。食べるというのは肉体的な行動だけでなく、神様を覚えて祝い、礼拝する霊的な行為だからです。これが聖書本文が教える食べるということの最初の意味です。二つ目の意味は、7節から知ることができます。。"神である中心は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。"人はちりで造られた存在と表現されています。この意味は何でしょうか?人とちりは日本語で全く違う音ですが、ヘブライ語では非常に似た音です。ヘブライ語で人は「アダム」で、ちりは「アダマ」です。つまり私たちは、「アダマ」で造られた「アダム」なのです。これは似た音の二つの単語を通して、人とちりが絶対に分離できない相互的関係であるという事を強調する文学的表現なのです。人は神様の形に創造された特別な被造物として、他の被造物を治め管理する存在ですが、同時にちりに依存しなくては生きられない限界を持った存在だということです。人はちりで、私たちは野菜や木の実、また肉類を食べて生きます。私たち人間が食べる食べ物は、自然から出ます。またそれだけでなく、農作物を栽培する農民と、それを流通する人々と、また私たちのために料理してくれる人たちによって、私たちの命は維持されています。自らの力だけで食べれる人は存在しません。私たちは神様が「アダマ」で造られた「アダム」だからです。有限な存在である私たち人間にとって、食べるということは、私たちが自然と他の人からの愛と助けに頼って生きていく存在だということを示します。食べ物また食べるという事は、命の根源である神様の愛を他人と自然と分かち合う行為なのです。一緒に食べ物を食べるというのは、肉体的行為であると同時に互いに愛を分かち合う霊的な行為なのです。これが二つ目の意味です。食べる事は、私たちが最も頻繁に繰り返す事で、最もなじみある日常です。ですので、私たちは食べる事の大切さを忘れて生きています。私たちは今日何を食べようかと考えますが、私たちが食べるその食べ物に込められたミステリーについては、何の期待もしません。こんなに鈍感になった私たちの霊的な味覚が、聖書が教えるこの食べ物の神学によって回復すればと思います。神様は私たちを、空腹を感じ、その飢えを解消するために何かを食べなければならない存在として創造されました。そして神様が、アダムとイブに園のあらゆる実を食べさせたように、この世界は、私たち人間が食べる食べ物で溢れています。私たちが生きているこの世界は神様が私たちに施した愛の食卓なのです。私たちに与えられる食べ物は当然のことではなく、私たちを食べる存在として創造された神様が施した奇跡なのです。私たちの日常は驚くべき奇跡に満ちているのです。このような意味で食べることは、私たち人間にとって最も重要な行為であり、最も偉大な行為の一つです。私たちは食べることを通して、神様の愛を最も直接的に体験しながら味わうことができるからです。私たちは食べることを通して、私たちは愛されるため生まれた存在だということを肌で感じれるからです。私たちが食べながら感じるこの日常の驚異と感謝が、私たちの一生の信仰生活に多大な影響を与えます。また、私たちは信仰の共同体として共に食べることについて新たに考えなければなりません。イエス・キリストは、私たちが信仰の兄弟姉妹達と、パンとぶどう酒を一緒に食べて飲むことを通して、ご自分の肉と血を命のパンで私たちに施されたキリストの愛を記念し、またその愛を他の人と分けるようにとおっしゃいました。私たちが礼拝で参加する聖餐式が、月に一度繰り返される形式的な行事ではなく、本当の感謝の礼拝となるためには、食べ物の神学が私たちの日常とならなければなりません。兄弟姉妹達と一緒に食べ物を分け、交わることに力を注がなければなりません。なぜならそれらは、聖餐の実践であり、聖餐の延長であり、聖餐を教えられたキリストの愛を受肉する行為だからです。どのようなことも、私たちが一緒に食べることを通して神様を愛し、隣人を愛するようにされた神様の目的から、私たちを遠ざかるように許るしてはいけません。いつか私たちが参加するようになるキリストの婚宴の喜びと楽しさが、共に食べ愛し合う私たちの姿を通して、この世界に明るく映されることを心から願います。

No.66『親密に近づくイエス・キリスト』   ヨハネ13:1~11

神様はイスラエルの人々が過ぎ越しの祭りを守りながら、彼らをエジプトから救い出した神様の御業を記憶して、殺される小羊であるイエス様を待ち望むようにされました。イスラエルの人々は、あれから約1400年間過ぎ越しの祭りを守りました。そしてついに、その過ぎ越しの祭りの約束が成就される日が近づいて来たのでした。イエス様は地上でのご自分の時間があまり残っていないことをよくご存知でした。ご自分の最後の過ぎ越しの祭りを控えておられたイエス様は、御父に帰る前のその最後の瞬間まで、ご自分の子供達を全力で愛いそうとされました。著者であるヨハネは、弟子たちの足を洗われるイエス様の行為がすぐに犠牲になる小羊、イエス様に関する過ぎ越しの祭りのメッセージと深い関係があるということを、私たちに知らせているのです。当時のユダヤ人は、家に帰ると顔や手と一緒に必ず足も洗いました。お客が来れば、家の主人はもてなしの表現として、足を洗う水を提供しました。しかし主人が直接お客の足を洗う事は、ほとんどなかったのです。なぜなら靴を脱がせたり、他人の足を洗うことは、当時の文化では非常に下品なことであり、奴隷がしなければならないことだと思ったからでした。それで主人は、お客が自ら拭うか、もっと丁寧にもてなしたい場合には、自分の奴隷がお客の足を洗うようにしました。イエス様はまるで奴隷のように、たらいに水を入れて、床に寄りかかった弟子達の足を1人1人順番に、心を込めて洗われました。そして腰に巻いたタオルで水気を拭いてあげました。弟子達は先生が自分の足を洗ってくれたことについて、もちろん感謝しましたが、同時に常識を越える破格的なイエス様の行動に、言葉で説明できない程の衝撃を受けたのです。当時のユダヤ人社会には、身分や社会階層が存在しました。どのような血統の家庭で生まれたのか、どの町の出身か、男性か女性かによって各自の社会的地位と役割が決まりました。自分の階層に適合した人生を生きるのが、当時のユダヤ人たちの常識であり、その階層を乗り越える試みは、社会的に認められなかったのです。もちろん先生と弟子は、特別で親しい間柄でした。しかし、先生というポジションには必ず守られるべき権威があり、その権威は先生が弟子達よりも高いところに立って弟子達から使われ、適切な距離を維持することによって守られました。しかしイエス様はその適切な距離を無視され、弟子達ともっと親密になるために、ご自分のあるべき位置から降りて来られたのでした。弟子達と同等の位置に立つことだけで十分に破格的なことでしたが、イエス様は弟子達よりもはるかに低い所に立つことを、自ら望まれたのです。イエス・キリストが追求する親密さは、今日も多くの人たちの常識を破って、私たちを困惑させます。他の国に比べて特に日本でキリスト教が大きくならない理由の一つが、まさにその親密さだと思います。他の宗教は、教理的に人々が安らぎを感じれる適切な距離を許します。しかし、イエス・キリストは人間の常識が定義する、その適切な距離を、絶対に許しません。キリストは、私たちではなくキリストご自身が私たちの人生の主体となられ、キリストの御心が私たちの心となることを望んでおられるのです。キリストは私たちが余裕がある時、また必要を感じる時だけ会うのではなく、いつも私たちと一緒にいることを望んでおられます。そしてキリストは嫉妬される方です。キリストは、絶対にご自分以外の他の神を許さないのです。私たちの考えと心が、ご自分以外の他のことに向かうことを嫌われ怒られます。キリストは、私たちの愛を独り占めすることを望んでおられます。キリストは、私たちが願う時だけに、私たちが適切だと思っている時だけに仕えることを許されません。私たちの心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、ご自分を愛することを望んでおられます。人間の罪は、神様と私達の間に距離を作りました。尊い神様と汚れた罪人の間には、絶対に縮まらない溝ができました。神様は、その距離を絶対に許すことはできませんでした。それで神様はご自分の独り子イエス・キリストを私達に送られました。私たちと親密になるためには、汚い足を洗う奴隷の席だけでなく、どんな低い所でもイエス・キリストは下ろうとされました。そして結局、世界の中で最も低く恥ずべき所、十字架で私たちの罪の身代わりとなる子羊となられ、血潮を流されました。その恵みによって、罪によって起きたその溝はすでになくなりました。私たちはもうこれ以上罪人ではなく、キリストの体となりました。私たちはキリストと結婚した新婦となりました。私たちは、キリストの教会であるのです。もう私たちは、神様と適切な距離をおくわけにはいきません。神様に、適当に仕えることはできません。私たちの体も心も、魂も、私達のものではなく、すべてキリストの所有であるため、全力でキリストに仕えなければならないのです。子羊であるキリストの血は私達とキリストの溝だけでなく、キリストを信じる私達互いの溝も回復されました。そのキリストの血で繋がっているため、私たちはお互いを兄弟姉妹と呼び、信仰の家族と呼ぶのです。ですので、私達は私達を家族として結ばれたキリストの恵みに頼って、お互いに仕えなければならない関係なのです。社会が定義する親密さではなく、キリストが定義する親密さが私たちの共同体の中で受肉されると、世界は互いに仕え合う私達の姿を通して、キリストが誰なのかを知るのです。

No.67「洗礼の恵み」    ローマ6:1-14

 聖書本文で、パウロは洗礼を通して、キリストと私達との関係について話しています。まず、パウロは私たちに一つの質問をしています。「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。」(ローマ6:1)。神は、罪人である私たちを救われました。神の恵みが私たちの罪を通して明らかになったので、その恵みを明らかにするために、私たちはずっと罪を犯し続けるのでしょうか?パウロは、絶対にそんなことはできないと言っています。その理由は、キリストを通して受けた私たちの新しいアイデンティティと、深い関連があるからです。パウロは、このアイデンティティについて洗礼を通して説明しています。パウロは 3節でこの述べています。「それとも、あなたがたは 知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのでは ありませんか。」洗礼とは、キリストが私たちの罪の代わりに死なれた時、私たちも彼と一緒に死んだことを表します。キリストが私たちと一緒に死なれたことを通して、すべての罪は赦されました。私たちは、罪に対して死んだ存在になったのです。それで、パウロは2節で「絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」と言います。私たちが罪の奴隷として生きていた時、私たちはアダムに属する人でした。神は人間の代表であったアダムを愛され、彼に全てのものを与えられました。しかし、ただ一つ神が禁止されたことがありました。善悪の知識の木です。善悪を知る木は、人間が扱いきれない程の知識を与える木だったので、神はその木の実を食れば、死ぬと警告されました。神はアダムが創造主であるご自分の意に従って、生きることを願われたのです。しかし、アダムは最終的に神の御言葉に背き、その実を食べてしまいました。知恵とは、知識と従順を含むものですが、人間の最初の罪は。まさに知識と従順を分離させたことです。アダムが善悪の知識の実を食べた時、彼は知識を得ましたが、神に従うことはできませんでした。ですから、アダムによって、私たちは罪人となったのです。そしてアダムのように、私たちも知識を追及しますが、従順には拒否する本能を持っているのです。クリスチャンたちも、これらの罪の性質を、人生の中でよく経験します。クリスチャンは、罪人である私たちを赦して下さった神の恵みをよく知ってはいますが、神様に対しての不従順の罪の誘惑も、しばしば経験するのです。私達は行動する前に、そのことが正しいか正しくないかを判断します。しかし、神が望まれることを知っている時でさえも、それに従うことは簡単ではありません。罪は私たちを続けて誘惑しますが、今私達は、罪に対して拒否することができます。6節で言うように、罪の奴隷であった私たちの古い人は、キリストと共に十字架にかかって死にました。そして、私たちはキリストの復活により新しい命を得たのです。今、私たちはもはや罪人であったアダムに属してはいません。キリストと共に死んで復活し、キリストに属しているのです。洗礼は、キリストの死と復活を通して、私たちがキリストと連合、結び合わされたことを示します。アダムによって全ての人が罪人となりましたが、キリストのすべての信者は、義をプレゼントされました。私たちが、まだアダムの中にいた時は、善悪を知る木の実を食べたアダムと同じ人生を生きていました。知識は求めますが、神に従うことは、できません。しかし、私たちがキリストの中にある時は、神に従う人生を生きることができます。キリストは私たちを救われたいという、天の父なる神の御心を知っておられ、ご自分の命を捧げて従われました。アダムによって知識と従順は、分離されましたが、キリストの中で知識と従順は再び合わせられたのです。ですから、キリストと結び合された者は、神の恵みを知るだけでなく、神に従順する人生を生きることができます。罪が私たちを誘惑する時は、洗礼を思い浮かべる必要があります。洗礼は、神が私たちの中に刻まれた証印なのです。その証印は、私たちがキリストに属する人だという証拠です。罪の力は、決してその証印を無効にすることはできません。なぜなら、罪の力はすでにキリストに負けたからです。キリストは、彼に属する人々に罪を倒す力を与えてくださいます。キリストは、私たちを義人の生活へと導くことでしょう。

No.68『神殿:一緒におられる神様』   黙示録21:1~4・16・22

 神様はアダムに「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」(創世記1:28)と言われましたが、結局アダムは神様のご臨在をこの世に拡張することに失敗しました。またアダムの罪によって、私達は皆死ぬ運命になりました。しかし、第二のアダムとして来られたイエス様は、私達の罪を赦し、新しい命を与えて下さいました。復活されたイエス様は、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」(ヨハネ2:19)と言われた通りに真の神殿となられ、私達の中に住まわれる神の家となって下さいました。現在、神様のご臨在は、幕屋や神殿のような小さな場所に制限されていません。イエス様の死と復活を信じる全ての人と共に、イエス様が神殿となられ、彼らと一緒におられます。しかしイエス様は、第二のアダムになられ、ご自分の御体である教会にこう言われました。「 あなたがたは行って、あらゆる国の人々を/弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいた全てのことを守るように、彼らを教えなさい。」神様のご臨在を体に背負っている私達は、エデンの園の管理者であったアダムのように、全世界に福音を 伝え、世界の全ての場所が神様を礼拝する場所となるようにしなければなりません。ですから聖書の最後は、聖書の最初のように、神様がご臨在される場所、すなわち神殿に関する話で終わります。黙示録21章でヨハネは、神様から新しい天と新しい地について啓示を受けます。聖なる都、新しいエルサレムが天からこの地に降りてくるのです。詳しくその都市の様子を見ると、このようです。 黙示録21:16「都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンであった。長さも幅も高さも同じである。」ヨハネが見た聖なる都、新しいエルサレムは、長さと幅と高さが同じ、立方体でした。神殿の中で立方体の空間はどこでしょうか?まさに神様がご臨在される至聖所でした。ヨハネが見たその立方体の都は、まさに至聖所だったのです。天国はある部分だけではなく、全体がエデンであり、至聖所だという事です。黙示録21:3-4『そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、また彼らの神となり、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」』この地にあらわれる天国の全ての場所に、私達を愛される神様のご臨在が溢れるのです。その中のどこにに行っても神様と会い、神様といつも共にいて交わりすることができる所、それがまさにこの地に完成される神様の御国です。そこには、もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからです。イエス様は、ご自分の御体である教会を通して、必ずこのような世界が来ることを私達に啓示してくださいました。ですから、私達クリスチャンは、どのような困難があっても、希望を持って生きることができるのです。

No.69『喜びの共同体』     ピリピ 4:1~9

 私たち人間は、状況に非常に敏感な存在です。自分が希望する条件が満たされた環境の中では明るく笑えても、自分の意図と異なる状況を迎えると、すぐに不安になりイライラします。私たち人間が定義する喜びとは、状況に応じて変動する不完全な感情です。しかしパウロが教える喜びは、環境に依存する感情ではありません。パウロが言う喜びは、私たちの現実を正しく認識するよう訓練します。私たちの状況は全く予測できずに、頻繁に変化し、私たちの意図に反対し、私たちの心を不安にしようとします。しかし喜びはそれにもかかわらず、変わらない一つの事実に注目することです。その事実とは、私達の愛するイエス・キリストが、不安な状況の中でも私達のそばを離れずに、いつも一緒におられるということです。イエス様は人々に捕まえられる前、弟子達にもうすぐご自分が殺されることを教え、こう言われました。ヨハネ16:22「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」人間の罪のために死ぬことになるイエス・キリストは弟子達のそばをしばらく離れますが、キリストは復活され、弟子達のそばに戻ってくることでした。イエス・キリストは弟子達と一緒におられるご自分の存在が彼らの喜びとなり、誰もその喜びを奪うことができないと言われました。なぜなら死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできないからです。どのような環境でも、私たちと一緒におられるイエス・キリストのご臨在を消し去ることはできません。イエス・キリストは、私たちの中の聖霊を通して、今から永遠までいつも私たちと一緒におられるからです。喜びとは、イエス・キリストがいつも一緒におられる私たちの真の現実を見る訓練です。喜びとは、止まらない笑いではありません。喜びとは、困難な状況からの逃避でもありません。真の喜びと私たちの存在を脅かす状況の中でも、いつも共におられるイエス・キリストのご臨在に満足することです。私たちの中のイエス・キリストは、状況に応じて心が変わる方ではありません。状況に応じて成功されたり失敗されたりする方ではありません。またすべての状況を主管され、ご自分の立てられた救いのご計画を必ず完成される方なのです。したがって私たちに本当に必要なのは、すべての条件が満たされた環境ではなく、私たちのすべてを救われるイエスキリストなのです。キリストは、私たちのすべてです。私たちは、キリストだけで満足することができるのです。キリストだけで喜ぶことができます。ですから喜びとは、一緒におられるイエス・キリストの真の価値を調べる認識の訓練なのです。私たちは、主イエスの中で確かに喜ぶとき、私たちは自分に反対する状況から自由にされます。周辺の現実が、自分の意のままに動かない時、私たちは自分がしたいことが欠けていたその状況に執着します。自分に与えられていないように見えるので、自分がすでに持っているものの大切さを認識しません。パウロはこれらを私たちに喜びなさいと言います。クリスチャンにとって喜ぶのは選択ではなく、神様から与えられた命令です。理想と現実のギャップからしばらく目を離して、私たちと一緒におられるキリストに目を向けると、キリストのご臨在が私たちに溢れる平安になります。その平安が、私たちの心と思いを守って、私たちの状況は危険ではなく安全であり、私たちには不平を言うことよりも感謝することの方が、はるかに多いことを認識することになるでしょう。

No.70『カイザルのものはカイザルに、神のものは神に』   マタイ22:15~22

 「それで、どう思われるのか言ってください。税金をカイザルに納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」はい、もしくはいいえのどちらかで解決できる問題ではないことをよく知っているので、パリサイ人とヘロデ党員はイエス様にそのような質問を投げかけました。しかしイエス様は、彼らの邪悪な意図を把握し、こう言われました。「偽善者たち。なぜ、わたしをためすのか。納め金にするお金をわたしに見せなさい。」イエス様は硬貨を指して、こう質問しました。 「これは、だれの肖像ですか。だれの銘ですか。」当時ローマ帝国で使用された硬貨の表側には、ローマ皇帝の顔が刻まれ、このような言葉が書かれていました。 「ティベリウス・カイザル・アウグスト、神聖なアウグストの子、大祭司。」カイザル皇帝は神であるローマ帝国の初代皇帝アウグストの子であるため、彼自身も神であり、また彼は大祭司として宗教的にも最高の権威を持っていることを意味していました。硬貨に刻まれたその文章が、ローマ帝国にとって自分たちの権力を維持するために不可欠な信念であり、ユダヤ人には絶対に受け入れられない偶像崇拝的な発言でした。このジレンマの中で、イエス様はこう言われました。「それなら、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」パリサイ人とヘロデ党員は、イエス様の答えに驚きました。彼らの巧妙な罠は、決してイエス様の知恵を閉じ込めることはできませんでした。カイザルのものはカイザルにと言われたイエス様は、カイザルの権威を否定されませんでした。国家権力とは、統治者が自らが所有できるものではなく、神様から与えられるものだからです。神様から与えられた権威で国を治めるのです。ユダヤ人はローマ帝国に住んでいる住民として、神様から与えられたローマの国の権威に従うべきだったのです。ローマ帝国は住民に水と衛生の道路と建築物と法と秩序、治安維持などを提供していました。それに対する対価を税金で納付する義務がローマ帝国の住民にあることでした。今の時代でも教育、住居、医療、治安など私達の生活の多くのことが国によって守られています。ですので私達は納税、法順守など国民としての義務に忠実にならなければいけません。しかし、国家権力への私達の従順は無条件ではなく、いくつかの境界によって制限されています。イエス様はその境界線についてこう言われました。「神のものは神に」。イエス様はカイザル皇帝の顔が刻まれた硬貨をカイザルに返しなさいと言われました。次に、神様のものは何でしょうか?私達は、神様に何を返すべきでしょうか?その答えは、私達自身の中にあります。その答えは、私達の存在に刻まれています。何が刻まれているでしょうか?ローマ帝国の硬貨カイザルの顔が刻まれているように、私達の存在には、神様の姿が刻まれているのです。私達は、神様のかたちに創造された人間だからです。従って、私達のすべてが神様のものです。私達は、創造主神様の所有物である、私達の体と心、また私達の命までも捧げなければならないのです。「神のものは神に」という優先順位が満たされた後、私達は、カイザルのものをカイザルに返すことができるのです。イエス様は、ご自分をローマ帝国の反逆者として殺そうとする者の罠を乗り越えられました。しかし最終的にはご自分の時が来ると、ローマの総督であったポンテオピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死なれました。イエス様は私達の罪のためにご自分を犠牲にし、神様のものであった私達を神様に返されました。このようなイエス様の道を、私達も十字架を負って従うべきです。カイザルのものも、結局は彼に力を与えられた神様のものだからです。私達は、神様の救いが完成されるまで人生の中で、この地の国と神の御国の緊張状態を経験します。そして私達は絶対に、はい・いいえのような単純な答えを見つけることは、できないでしょう。決して私達人間の知恵では克服することはできないでしょう。イエス様の答えは、私達クリスチャンにとっての根本的な原則となるだけで、二つの国の関係について、すべての質問を答えられません。私達はいつも答えが不明な状況の中で、信仰を守らなければなりません。しかしイエス様は、私達が属する両国が対立する時に、このように祈るように教えられました。御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。私達が祈る時、神様は二つの国の緊張状況を乗りこえる知恵を下さいます。私達をご自分のかたちで創造され、ご自分の命で救われ、ご自分の神なるかたちに似ていくようにされるキリストを見るようにされます。この地上に神様の御国を必ず完成される、王の王キリストにすべてを捧げることができる信仰を与えて下さいます。

No.71『働くことと安息のリズム』   創世記1:26~2:3

 創世記1:26はこのように言います。 「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神様は、世界を創造する働きをなさった働き者でした。神様の形に創造された人間は、働き手である神様のように、被造物を治めて管理する働き手として召されました。 また28節「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」という神様の文化命令に従い、神様のために地を統治し、神様の栄光を現すために文化を発展させる働き手が、人間なのです。働くことは神様が私達に下さった神聖なものであり、私達は働く存在です。 働くことは決して私達から分離できない、私達のアイデンティティの核心的な部分なのです。また、聖書は私達が働く存在であると同時に、休まなければならない存在だと教えます。神様が6日間の創造の働きを終えて何をなさったかについて創世記2:2-3はこう言います。 「神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。」神様は6日間世界を造られ、7日目に休まれました。 神様は人間のように疲労を覚えて休まれたのではなく、また休息が必要とされることは一度もありません。神様が6日間の創造を終えた場面について1:31はこう言います。 「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。」神様はご自分の意図通り創造されたすべての被造物を見て「非常に良かった」とおっしゃって喜ばれました。神様はご自分が造られた世界に対するその喜びを満喫されるために創造の働きを止めました。「休む、安息する」という意味のヘブライ語単語shabbatは、もともと「止める、止む」という意味です。 神様の形に創造された私達人間は、神様のように働くことを止めて、私達を含める被造物への神様の喜びに参加しなければならないのです。 働くことを止め、私達被造物を愛しておられる神様との交流の中で喜ぶこと、これが神様が私達人間と自然に意図された真の休むことなのです。 それで働くことだけでなく、休むことも私達が持っているアイデンティティの核心的な部分です。人間は創造者である神様の主権から離れ、自分勝手に生きたいのです。それで神様が禁止された善悪を知る木の実を食べ、自分自身が神のようになり、人生の主人になろうとしました。しかし、その結果は凄惨でした。神様がアダムにおっしゃいました 3:17、18「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、の野党の草を食べなければならない。」私達の不順従は、私達自身への呪いとなりました。働くこと、そのものが呪いではありませんでした。働くことは本来の姿から歪曲されましたが、まだ私達に喜びとやりがいを与えます。問題は私達が行う働きの実を結ぶ地でした。呪われた地は私達が努力する通り、また望む通りの結果を出すのではなく、私達に困難さや苦痛、挫折を与えるようになりました。 罪の影響によって、働くことは疲労と負担、挫折へと続くことが多くなり、休むことは神様と関係なく、働くことからの疲れを減らす解毒剤のような役割だけをするようになりました。働くことと休むことの平和な共存は、崩れてしまったのです。罪が世に入ったため、人間は自分の力だけで生存するために、必死に働き始めました。仕事は成果と喜びを与えましたが、また同時に失敗と挫折ももたらしました。人間は未来に対する不安から、休まずに継続して働きました。休めば自分の何かを生産する時間と機会が、減るためです。休みを取れば、人との競争から取り残されそうな不安を感じるからです。努力と誠実さは、誰にとってもどこにおいても重要な価値とされますが、休んだりペース調節することは、怠けたり不誠実であると認識されてしまいます こうした普遍的な認識の中で、人々は自分自身も他人も絶えず続けて働くのです。私達は必要なことを供給し守って下さる神様を信頼できず、神様が望まれる働くことと休むことのリズムを無視して生きていくのです。世界を愛される神様は、安息の喪失の中で罪の奴隷として生きる私達を救われるために、安息の主人であるイエス様をこの世へ送られました。イエス様は不安と不信の中に苦しむ私達にこうおっしゃいました。マタイ11:28-30「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」私達のすべての罪を背負われ、死んで復活されたイエスキリストの中で、私達はすでに自由を得ました。 私達が過去に背負っていた重荷も、今背負っている重荷も、今後担うであろう重荷も私達の救い主イエス・キリストが代わりに背負ってくださるのです。私達のすべての必要を知っておられるキリストが、私達に毎日その日に必要な恵みのマナを降らして下さいます。それゆえ、私達はキリストの中で、明日も安全で、来年も安全であり、永遠に安全なのです。人生という荒野の旅の中で目に映る現実が、私達を休まないように誘惑する時、キリストが降らせてくださる恵みのマナを信頼し、休んで下さい。 安息して下さい。

No.72『神の御言葉』      詩編119:89~105

 詩篇119編は、すべての詩編の中で、また全ての旧約聖書の中で最も長い章です。詩篇119編を理解するためには、この詩がどのような文学的特性を持っているかを知る必要があります。 この詩は、176節で構成されています。 そしてこの176節は、22個の連(行のかたまり)に分かれています。 各連は、それぞれ22個のヘブライ語のアルファベット子音で始まります。 日本語には50音があるように、ヘブライ語にはアルファベット子音が22個存在します。 この22個のアルファベットが順に詩篇119編の各連の最初に書かれています。アルファベット順に書かれた詩篇119編は、次のようなメッセージを伝えようとします。「神様の法(おきて)の最初から最後まで、その法(おきて)のAからZまで、すなわちヘブライ語のアルファベットの初めの文字であるアレブから最後の文字であるタブまで、すべての神様の法(おきて)があなたの人生を導くようにしなさい。 そうすれば人生の道を迷わないであろう。」一節で「みおしえ」と翻訳されたヘブライ語の単語はTorahです。 Torahは基本的に法を意味しますが、新改訳の翻訳のようにみおしえやおきて、戒めという包括的な意味も持っています。 Torahはこの世の中で生き残るために必ず選ばなければならない人生の方式を意味します。 またTorahは、長い人生の旅を導く、羅針盤と同じです。 Torahつまり神様の戒めを遵守しながら道を歩く人は、本当に幸せな人なのです。 ヨハネの福音書14章15節でイエス様はこうおっしゃいました。 「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」イエス様の戒めを守らなければならない唯一の条件があるとすれば、それは、イエス様を愛することです。 愛せずには戒めを守れません。 刑罰を恐れたり、義務感によって、戒めを守るのではありません。なぜなら愛してるからです。神様がイエス様によって私たちのために行ってくださった御業のために、私達は神様を愛するのです。 そうしてこの愛のために、神様の戒めに従順にするのです。しかし、一般的に「法」(律法)という用語は否定的なニュアンスが強いのです。 法は、私達に禁止するように指すからです。 私たちの自由は法によって制限されます。 しかし、詩篇119編の「法」という単語は自由の制限ではなく、逆に'自由の創造'を意味するのです。 神様の法は一般的な法とは違い、真の自由を作り、その法に遵守すれば人生の新しいスタイルが創造されるからです。イエス様は神様の法と自由との関係を、このように教えられました。 ヨハネ福音書8:31-32『そこでイエスは、その信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあなたがたが、わたしのことば(法)にとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」』また詩編119:44、45節 「こうして私は、あなたのみおしえをいつも、とこしえまでも、守りましょう。そうして私は広やかに歩いて行くでしょう。それは私が、あなたの戒めを求めているからです。」 著者は神様のみおしえの中で広やかに歩いて行くと言いますが、ここでという広やかを直訳すれば、「自由に」という意味です。 神様の法は、私たちを罪にはめようとする誘惑の海を防ぐ堤防であり、私達がその中で御体となった神様の御言葉であるイエスキリストがくださる真の自由を享受するようにするためなのです。

No.73『善をもって悪に打ち勝つこと』    ローマ12:14・17~21

 本文には、四つの厳格な命令文があります。 第一に、呪ってはいけないこと(14節)。第二に、悪を持って悪を返さないこと(17節)。第三に、敵に仕返しをしないこと(19節)、第四に悪に負けないことです(21節)。四つの異なった文章で表現されていますが、結局は一つのメッセージを強調しています。 それは何でしょうか? "復讐するな"ということです。このようにパウロが復讐を厳重に禁止する理由は、復讐とは、私達人間が持っている罪の本性のひとつであるからです。復讐はすべて不幸に終わります。19節でパウロは、その理由をこのように説明します。「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」悪人や敵の処罰は私達の領域ではなく、神様の権限だと言います。私達は、彼らへの審判を神様に預けなければなりません。 しかし、私達が神様の権限を侵して、自分が相手を直接処罰しようとする時、私達は17節の警告のように、悪に悪を報いる罪を犯してしまいます。相手に対する復讐心のために、自分が直接審判しようとする時、私達の心は悪の領域に入ってしまうのです。 善をもって悪に打つ勝つことは、、単に復讐の誘惑を退けることだけを意味するものではありません。20節でパウロはこう言います。「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」復讐の反対は、敵の面倒を見ることです。多くの人々は、敵が力を失い弱くなった時に、復讐しようとします。しかし、パウロは敵が弱くなった時に、逆に積極的に助けなさいと言います。相手に対する愛の行動を通して、自らその人を赦したという事を、積極的に表現しなさいということです。20節でパウロは、私達が敵を赦して助ける時、敵の頭に燃える炭火を積むことになると言いました。頭に燃える炭火を積むことは、イスラエルの敵だったエジプト人が、自分の罪を公的に悔い改める際に行われる伝統的な儀式のことです。敵への私達の親切によって、敵が自分の罪を恥ずかしく思い、罪から転じられるように助けなさいとパウロは教えているのです。 敵に向けられた親切が、必ず悔い改めすることにつながるかはわかりませんが、私達の行動を通じて、敵は神様の善を味わい知る、大切な機会となるのです。 自分をとても苦しめ、涙を流させた敵を赦すことは、私達人間にとって不可能に思えます。 しかし、赦しは傷を忘れたり傷を与えた人の過ちを免除することではありません。赦しは、私達の心に積もった恨みと怒りを置き、代わりにその空いた場所を、かつては神様の敵であった私達を赦して下さった神様の恵みで満たすことなのです。 私達も、もともとは神様の敵だったという事実を忘れないで下さい。 私達人間が罪を犯した時、私達は自分を創って下さった神様に逆らい、神様が創造されたこの世界の美しさを汚し、神様のご計画をひどく破壊しました。 その後も反省せず、続けて神様の心を痛め、神様を泣かせました。 私達は、神様の敵でした。しかし、神様は私達に復讐されなかったのです。ご自分の愛する御子イエス・キリストを私達に送られ、その御子は私達の前でまるでほふり場に連れていかれる小羊のようでした。私達は、キリストを残忍に殺害しましたが、キリストは復讐でなく愛で私達を扱われ、私達の代わりに死なれ、私達を救いへと導かれました。私達は神様の敵でしたが、イエスキリストの助けによって神様の子供として養子縁組されました。敵を赦す愛は、私達自身が経験した神様の善に対する証であり、善をもって悪に打つち勝つ最善の方法なのです。敵に対する愛の目的は、神様の敵だった私達に与えられたその驚くべき恵みを共有するためのものです。 敵のために、御子を差し出された神様の善が私達の人生に反映される時、復讐の文化に浸るこの世界は、ついには敗北するものであり、悪に勝った神様のご栄光だけがいっぱいになるのです。

No.74『歴史についての認識』   マルコ13:24~37

  アドベントとは、どんな意味を持つのでしょうか。アドベントはラテン語で‘到来’または‘到着’を意味します。多くのクリスチャン達はアドベントを神様が人間の体を着られ、この世に来られたクリスマスを待ち望む期間だと理解します。 もちろんそうです。しかし、より正確に定義するなら、アドベントはイエス様が2000年前にこの世に来られたことを覚えながら、また来られるイエス様を待つ期間なのです。アドベントはクリスマスを通してイエス様の再臨を期待する期間なのです。26、27節はイエス様の再臨の場面についてこう言います。「26 そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。27 そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」26節でイエス様が乗って来られる雲は、キリストの臨在を示します。人間の本来の故郷はエデン、つまり神様の臨在であり、神様の臨在は人間の歴史が始まったところでした。神様は人間をエデンを管理する祭司として、またこうおっしゃいました。 創世記1:28「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。」神様の形に創造された人間はエデンを管理するだけでなく、地の果てにまでエデンを拡張する使命を受けました。つまり、世界中が神様の臨在に満ちる使命が与えられたのです。これが、神様が意図された歴史の方向でした。しかし人間は罪を犯して、もう聖なる神様の臨在の中に入ることはできなくなりました。そのため人間はエデンから追放されました。その後、歴史は神様の意図とは全く違う方向で展開され始めました。人間によって、神様の臨在の代わりに邪悪な罪がこの世界にいっぱいになり始めました。 しかし、ご自分が創造された被造物を愛される神様は、この世をお見捨てにはならず、救いの計画を立てられました。神様はイスラエルをご自分の民として選ばれ、エデンの代わりに住まわれるご自分の家を彼らに建てるようにされました。それが幕屋です。そして人間を離れた神様は、再び幕屋を通してイスラエル人の中に臨在されました。その時、雲の柱の中で神様の栄光が輝きました。神様の臨在を示すこの栄光の雲の柱が、まさにShekhinah栄光なのです。したがって、27節で地の果てから、天の果てまで、四方からその選びの民を集めるとは、世界中にいる神様の子供が、キリストの臨在の中に戻ってくるということです。エデンから始まった歴史が、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」とおっしゃった神様の意図通りに完成されるのです。王の王キリストの臨在の中で、すべての不正と貧困、病いは消え去るのです。すべての悪と罪が、臨在されるキリストによって征服されるのです。そして罪によって壊れたこの世界は回復し、さらに美しい姿となるのです。28節から37節は、キリストの再臨とともに救いの歴史が完成されるその日に備えなさいと言います。必ず来るが、それがいつなのかわからないその日を待ち望みながら、いつも霊的に目を覚まし注意していなさいと言います。その時期は、天の父なる神様にしかわかりません。イエス様ご自身も神様でありますが、自発的にその時期を知ることができるご自分の能力を制限されました。神様は意図的に、その時期を私達に知らされないのです。もし私達がその時期を知れば、恐らく私達はずっと自分勝手に生き、その日が近づくと準備しだすでしょう。まだ罪の影響の中で生きる私達人間は、霊的に怠慢な存在だからです。しかし、私達がその時期を知らないならば、私達はいつも霊的な緊張感の中で生きなければならないです。神様は私達が霊的な不眠症を持っていつも目覚め、その日を準備することを望まれるのです。私達がいつも霊的に目覚めているためには、再臨という真理によって私達の歴史的認識が変わらなければなりません。イエス様は必ずまた来られ、そのイエス様の臨在は、罪のすべての影響をなくし、救いの歴史を完成されるのです。イエス様の再臨に基づく一直線的な歴史認識を持った時、私たちは霊的に目を覚まし、いつ来るか分からないその日を準備することができるのです。今、私たちが生きる日々はイエス様の再臨に向けての歴史の大切な一部であるという認識が、私たちの心と魂に必ず刻まれなければなりません。私達に必要なのは、イエス様がいつ来るかどうかを知っている知識ではありません。私達に必要なのは、再臨の歴史的意味を理解し、神様がいらっしゃるその一日一日を切実に待ち望む中、私達に与えられた現在を神様の御心によって生きる事です。このような霊的不眠症を持つ者たちに、いつかキリストの再臨は言葉で説明できない究極の喜びと希望を届けてくれるでしょう。王であられるイエス様の再臨から、私たちの日々の大切さを発見するアドベントになることを主の名前で祝福します。

No.75『疑いと無力感の中に入って来られるキリスト』  マタイ11:1~6

 この本文では、バプテスマのヨハネは自分が経験したイエス様と、予想していたメシアと非常に異なっていたことで、彼の困惑した様子を見ることができます。彼は、どんなメシアを待っていたのでしょうか?マタイ3:2-12の中でバプテスマのヨハネが強調しているのは、悔い改めなさいということです。なぜなら天の御国を治める王、つまりメシアがすべての人を審判するからです。彼にとって、メシアは罪を絶対に見逃さず、厳格に処罰する正義の審判者でした。ヨハネが伝えた福音は、正しいのです。なぜなら、福音は救いだけではなく、審判との両方を含むからです。悔い改めなさいという彼のメッセージは、当時のユダヤ人社会で、自分を義人と考える宗教指導者と政治権力者達によって堕落していた為、非常に適切でした。そこでバプテスマのヨハネは、ユダヤ人達に自分の罪を悔い改めなさいと宣言し、水で洗礼をさずけました。これが主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにするための彼の働きでした。当時、ユダヤ人社会はヘロデ大王の息子の問題がありました。彼は、アラビアの王女と結婚しましたが離婚し、自分の弟の妻と再婚したのです。そこでバプテスマのヨハネは彼の罪を叱責しました。しかし、ヘロデ大王の息子は悔い改めず、逆に怒ってヨハネを牢屋に入れました。狭くて暗い牢屋に閉じ込められたヨハネは何もできず、ただ長い間試練に耐えなければならなかったです。ヨハネは、イエス様の活動を直接見ることはできず、自分の弟子たちを通して神様がなさっている働きについて聞くことができました。イエス様は優れていて知恵の言葉と福音を教え、病気で苦しんでいる者たちを癒されました。また、悪霊を追い出して、暴風を静めるなど驚くべき奇跡を行われました。これはイエス様をメシアと認めるに十分な証拠に思えます。しかし、ヨハネが疑ったのは、神様が行われた事ではなく行わなかった事でした。イエス様の数多くの教えと奇跡にもかかわらず、世界はまだ何も変化していませんでした。依然として権力者は弱者を苛酷に搾取し、弱者は何の保護も得られず、厳しい生活を送っていました。イエス様が来られたにもかかわらず、義人達は苦痛を受け、悪人が繁栄する世界が続いていました。このような矛盾の最も確かな証拠が神様の働きをし、牢屋に閉じ込められたヨハネ自身でした。"なぜイエス樣は早くこの世界を審判されないのか? なぜこんなに長い間、罪人達の悪事に沈黙されているのか。審判がなければ、私が宣言してきた悔い改めの福音は、一体どういう意味になるのか?"自分の期待とは異なるイエス様の姿に、彼は辛かったのです。また、数ヵ月間の投獄生活によって肉体的精神的に疲弊していました。悲惨な状況の中でヨハネは何もできず、預言者でありながら神様のご計画が何かを全く理解できなかったのです。イエス様に対する疑念と空虚な無力感で我慢ならなかったヨハネは弟子たちを送り、イエス様に直接聞きました。 「あなたが私が待っていたメシアですか? それとも私は他の方を待たなければなりませんか? どうか教えてください。」私達はどうでしょうか?イエス様がすべての状況を治められ、すべての苦境から私達を救われる方という信仰を持っています。 しかし、イエス様はいつも私たちが理解し納得できる方向へと導くことはないのです。しかし、すべての状況を治められる方であり、私達の救い主であるキリストは、私達の望みとは異なって導くことが非常に多いです。しかし、このような弱い私達に希望があります。イエス様は私たちが疑うことを許可されるというのです。イエス様はヨハネの質問に直接的な答えをされませんでしたが、決定的なヒントを与えヨハネの判断に任せたのです。イエス様が引用された奇跡は全部イザヤ書(29:18-20;35:5-6;61:1-2)に記録され、すべて審判を言及する部分なのです。イエス様はメシアの審判を言及するイザヤ書の本文を引用されながら、ご自身がヨハネが待ち望んで来たその方だということを教えられました。イエス様は審判を後回しにされただけで、忘れてはいないのです。一人の魂でさえも、もっと救おうとされるイエス様の愛と慈しみによって、審判は延期されただけで、キャンセルされたのではありませんでした。イエス様は聖書の御言葉を通して、メシアとしてご自分がなさる事を私達に教えて下さいます。 しかしそれはいつ、どのように成就されるかは、私たちには分かりません。私たちには理解できず、イエス様の導きの中で、すべての約束が成就される再臨の日を待たなければならないのです。神様の御国を完成されるイエス様の働きは、いつも私たちの判断基準と予測を超える形で展開されていくのです。イエス様の働きが私たちに理解できない時、私たちはイエス様を疑います。そして自分が何も分からず、何もできないという事に無力感を感じます。しかし、その瞬間挫折しないで覚えて下さい。イエス様はあなたの疑いを許可されるという事です。疑いは、信仰の反対ではありません。信仰の反対は疑いではなく、恐れです。疑いは、恵みの中でさらに成熟した信仰を持つきっかけになるからです。私たちの疑いが不信ではなく、イエス様を理解できない自分自身への無力感につながる時、信仰は成長します。ハレスビ牧師は無力感についてこう言いました。「イエス様はあなたが自分の無力さを悟って告白する瞬間、開かれたあなたの心の扉からすでにあなたの人生の中に入っています。彼はすでにあなたの心と魂の中に住まわれ、あなたの中で善良な歴史をおこなっておられるのです。」私たちは自分の意図通りイエス様が応えない時、無力感を感じながらイエス様が自分を離れたと悲しみますが、実際はその反対なのです。イエス様は私達の無力感を通して私達の中に入り、私達の中で驚くべきことを行なっておられるのです。イエス様は疑うヨハネを、聖なる無力感に導かれるためにこうおっしゃいました。6節「だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」メシアであるイエス様は私たちの理解を超える存在です。このようなイエス様につまずくのではなく、理解できないイエス様をそのまま受け入れ、聖なる無力感の中にすべてを委ねる時、私達の心の門が開き、イエス様は私達の中に入って恵みと憐みで私達を助けられます。 私達が無力な時こそ、イエス様と最も近くにいるのです。 疑いと無力感の中に来られるイエス様を待ち望むアドベントになることをお祈りいたします。

No.76『降りて来られた光』    イザヤ9:1~2・5~7

 私達人間にとって死ほど現実的な話題があるでしょうか。私達はいつか必ず死を迎えるからです。そして愛する家族や友人も同じ運命を迎えます。このように死は人が持つ共通点であり、人生の最も現実的な部分です。以前は死の意味や死後の自分の運命について、人々は多くの関心を持って話しました。 しかし、今日では死について言うなという公的なルールではありませんが、現代人は自分自身や近い人の死について考えたり、話をするのを避けます。現代の自然科学的唯物論の観点から、死の意味と重さは以前よりはるかに軽くなりました。死は単に生物的機能が終わりを意味し、腐敗して小さな粒子に分解され、結局なくなるだけです。魂とは作りごとであり、人間の精神的活動は物質的化学的反応とします。よって、肉体も精神もなくなるだけで、死後の世界は存在しません。死はただの無であるため意味的にさらに軽くなりました。しかし、逆に現代人は死という現実を直面することを避けます。死はいつのまにか沈黙しなければならないタブーになりました。現代文化は死の意味から道徳の領域を除去しましたが死は軽くならず、依然として人々の心の中にみじめで残酷な現実として残っています。現代文化の観点とは異なり、聖書は死の現実を非常に暗く見ます。聖書では死とは、私達の肉体的生命の終わりだけでなく、私達の魂が神様から断絶されること、すなわち生命の源である神様から離れることだと教えます。聖書によると、すべてのものは神様から始まったと言います。神様がこの世界を造られた創造主だと教えます。創造主である神様によって造られた私達は生命を得ましたが、人間は生命の根源である神様から次第に遠ざかり自分自身に向かって人生の足を踏み出し始めました。このことが世界を闇に陥るようにする罪なのです。 人々は罪という言葉を聞くと、犯罪を思い浮かべると思いますが、聖書が言う罪は、不法な行為を意味するのではなく、神様ではなく自分自身が人生の主体とする利己的な属性を意味します。もちろん人間が完全に悪いという話ではありません。人間はある程度の善良さを持ち、優しい心を持って、善良な行動をします。しかし、聖書がはっきり教えるのは、私達人間は決して自ら自分の罪の本性を克服することはできないということです。決して自分の力で生命の根源である神様のもとへと帰ることはできないということが、クリスマスの核心的なメッセージの一つです。神様を離れた私達自身の闇がどれほど暗いかを認める時、2節が言う光として来られたイエス様が私達にどれほど明るい存在なのかを理解できるのです。6節 "ひとりのみどりごが、私達のために生まれる。"生命の光である神様は、罪深い人間を捨てずに私達のような人間となられて、私達の暗い状況に入ってきて来られたことが、クリスマスの最も核心的なメッセージなのです。罪の本性に閉じ込められた私達を救うため、神様であるイエス様が私達のような人間となられ私たちの悲惨な状況の中に入ってこられたことです。 そして私たちが経験するすべての痛みと苦痛をイエス様は経験されました。最も貧しい村の下級の身分として貧しさを経験され、不合理な差別を受け侮辱的な無視を経験されました。いつも嫉妬と敵対心に忍耐され、人々の親切の多くはご自分を殺すための計画でした。 最も信頼し愛する人々から裏切られ、結局皆から捨てられました。あらゆる暴行と拷問で肉体的な苦痛を経験され、当時最も恥ずべき場所、十字架で最も残忍に殺されました。 彼には罪がありませんでしたが、私たちのすべての罪を背負って死なれました。そしてご自分の子供達を生命の根源である神様のもとへと引き寄せたのです。6節ではイエス様の名前を不思議な助言者と言います。なぜイエス樣は不思議な方なのでしょうか?誰も一緒にいようとしない私たちの悲惨な状況の中に、自発的に入って来られたからです。私達のために生まれたひとりのみどりごが、私達と一緒に死の陰の地を通られました。 その自発的な愛は、私達の常識では理解できない不思議なものです。そしてイエス様は私達の助言者です。皆さんはどんな助言者を最も信頼しますか? 自分が経験する困難をすでに経験した人、そしてそれを克服した人だと思います。 そのような人こそ私達の困難を本当に理解し最も適切な助言をするのです。自発的に私達のそばに来られたイエス様は、私達と同じ人間として世の中のすべての困難さと苦痛を経験されました。私達が苦難の中にいる時、イエス様は私達の痛みを最も深く共感され、最善の道へと導いて下さいます。 ですので、イエス様は私達にとって真の助言者なのです。このようなイエス様の恵みがクリスマスに私たちに贈り物として渡されたのです。

No.77『不確実さの中での信仰』     マルコ9:14~29

 自分の息子が悪霊につかれて話すことができず、てんかんの症状で苦しむのを見て、その父親はまるで自分自身が裂けてしまうような苦痛を感じたのです。愛する息子を救うために少しの希望でもあれば、どこへでも誰でも送り、助けを求めたのです。 これが苦しむ子を持つ親の姿です。息子を治癒するために長い歳月を苦しんできましたが、いつも挫折の連続でした。 そして結局、彼は息子と共にイエス様に助けを求めに来ました。 しかし、彼らが到着すると、イエス様は祈られるため山に登られた後だったので、その父親は代わりにイエス様の弟子達に助けを求めました。弟子達は息子を苦しめる悪霊を追い払うために最善を尽くしました。 しかし、弟子達の努力にもかかわらず、その息子の症状は変化しませんでした。混乱の中で祈りに行かれていたイエス様が帰ってこられました。父親は小さな希望の破片でも掴むために、イエス様にお願いしました。 "ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。" 息子を救う事が不可能であり、イエス様が拒絶される可能性を心配しながら、父親はイエス様に慎重にお願いしたのです。 しかしイエス様の反応は、彼の予想とは全く異なりました。イエス様がおっしゃいました。"できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。"イエス様は、息子を救えるかできないかに関心を置くのではなく、父親がご自分への信仰をご覧になられたのです。 そして、彼の心に存在する疑いを感じられました。彼は自分の経験と理性に基づいて、イエス様が自分の息子を救う事を疑いました。"もし、おできになるものなら"という彼の言葉には、決して放棄できない救いに対する希望と、人の常識を超えることへの疑いが共存していました。イエス様が"できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。"と言われると、父親はこう答えました。"信じます。不信仰な私をお助けください。"信じていると言いながら、自分を指して"不信仰な私"と、矛盾な言葉で表現しました。信じてはいるが、疑う私を助けてほしいという中途半端なところに父親は立っていました。彼は果たして信仰を持っていると言えるのでしょうか。意外にもイエス様は彼の話を聴き、息子を支配していたその悪霊を追い出されました。それは信じてはいるが、疑う自分を助けてほしいという彼の告白を信じることで認めたからです。この本文が言う疑いは、ヤコブ1:6-8が指すイエス様に対する心が分かれたり、気まぐれの疑いではありません。父親は、イエス様を信じることを拒否しませんでした。"できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。"というイエス様の御言葉が真実であることを信じていましたが、自分の信仰には、疑いが存在することを知っていました。それで"信じます。不信仰な私をお助けください。"と告白し、素直にイエス様にありのままの自分を見せました。そして自分の疑いを不信仰と言いました。父親は自分の疑いを不信仰としましたが、実際には信仰はそこに存在したのです。これは信仰がなければ不可能な考えです。真実な信仰を持っている時にだけ、私達は自分の信仰を厳格に判断することができるからです。彼は疑いの中でも、真実な信仰を持っていたのです。実際に彼の疑いが不信仰だったとすれば、イエス様は息子を癒してほしいという彼の願いに応えられなかったでしょう。しかし、不確実な状況に対する疑いの中でも、父親の信仰はイエス様に向いていました。疑う自分の苦境をありのままイエス様に委ねるのは、疑いの中で信仰が成長する第一歩なのです。これが、教会が持つべき態度なのです。教会は私達の人生の中で起きるすべての苦境と質問に対して答えを持っていません。不確実な事が多いため、教会の中には疑う人達が必ず存在します。しかし、教会の中でこのような人を退いたりせず、むしろ歓迎されなければなりません。答えが分からなくても、疑っても、このような自分をありのまま受け入れて下さるイエス様を信頼する時、信仰は疑いの中でも成長するからです。このような意味でJohn Buchanan牧師は、信仰をこう定義しました。"信仰は不確実さの中の行動です。信仰は私達の疑いにもかかわらず、神様を信頼することです。" イエス様が、この地でのすべての働きを終えて天に上がる前におっしゃった大宣教命令を受けた人々は誰だったでしょうか? マタイ28:17によると、イエス様の弟子達の中には確信に満ちた人達もいましたが、疑う人もいました。 しかし、イエス様は疑う彼らをありのままに受け入れて彼らにも使命を与え、偉大な使徒とされました。私達は常にすべてのことが不確実な状況の中で生き、常に疑いますが、私達は救いへの偉大な信仰の人生を生きることができるのです。ですから告白しましょう。"信じます。不信仰な私をお助けください。"私達をありのままに愛して下さる神様が、私達の告白を信じることで認めて下さり、私達の理解を超える祝福の答えとして私達を歓迎してくださるのです。

No.78『委ねる祈りの中で与えられる平安』    ヨハネ2:1~11

  オー・ハルレスビー牧師の「祈りの世界」という本の内容に基づいて、この聖書本文が教える祈りの法則を共に眺めようと思います。カナという村で、ある新郎新婦の婚礼が開かれました。当時、ぶどう酒は結婚式のようなお祝いでは必ず十分に準備しなければならない重要な飲み物でした。しかし、ぶどう酒がなくなったのです。イエス様の母マリアがこの状況を知りました。そして彼女は危機に陥った新郎新婦とその家族のために何かしたかったのでした。彼女は新郎新婦とその家族がどのような状況にあるかを、イエス様に伝えました。マリアは苦境に陥った彼らのためにとりなしをしたのです。イエス様は 私達の予想とはまったく異なる、非常に意外な態度で答えられました。4節"あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。"イエス様の意図は、母マリアに反抗するものでなく、彼女をより良い方向へと導くためでした。第一に、イエス様はマリアがご自分のことを息子としてではなく、神様の御子として認識することを望んでおられました。そしてイエス様が母マリアにこのような反応を見せた二番目の理由があります。イエス様はマリアに彼女の時とイエス様の時が異なることを教えるためでした。これが今日の説教で注目したいポイントです。マリアは、ぶどう酒の不足によって危機に陥ったこの結婚式が助かることを願っていました。 しかし、イエス様はマリアに"わたしの時はまだ来ていません。"と答えました。 "わたしの時"が意味したのは、十字架の時と復活されたイエス様が天におられる父なる神様のもとへと帰る栄光の時だったのです。マリアは人間の小さな苦境が解決される時を願っていましたが、イエス様は罪によって死ぬことになる人間の悲惨な運命が、根本的に解決される時を見ておられました。イエス様はマリアの頼みを断ったのではなく、マリアよりイエス様ははるかに大きな絵を見ておられ、マリアの計画とイエス様の計画が異なることを教えられたのでした。一度、私達の祈りの生活について振り返ってみましょう。短気で我慢できない私達人間は、特に祈る時に忍耐心を失う場合が多いのです。私達は神様に叫びます。"神様、どうか私の祈りを聞いて下さい。状況が緊迫しているので早く答えてください。急いでください!"応えの時を私達自らが定めて、その時を神様に強要するのです。私達が強制するのは回答のタイミングだけではありません。私達は神様に"このようにしてください。あのようにしてください。"といい、応えの方法までも私達自身が計画するのです。そしてその計画に神様がついてきて下さることを祈ります。祈りが私達が望む方法通りに行われる場合にだけ、応えを受けたと考えます。祈りについての、私達のこうした心の底にある考えは何でしょうか? 私達は自分の祈りが、いつ、どのように応えられるべきか、神様よりもっとよく知っているという錯覚です。神様より、現在のこの状況を直面している自分の方が現実の深刻性をもっとよく知り、自分が祈っているその人を神様よりもっと愛しているという錯覚を持つのです。このような錯覚に陥ると、祈りの生活は苦しくなります。自分が神様よりも、もっとよく知っていると無意識的に考えるので、いつのまにか自分も知らない間に、私達の祈りは神様に教えて説得するものに変質してしまいます。自分が願っている状況に流れなければ、まだ神様が自分の考えを納得されなかったとか、自分の切実さが不足しているために、神様が動かれなかったと判断するのです。そして自分の計画をずっと神様に強要します。それによって祈りの生活の中に喜びと平安はなくなり、不安と疲労が心に積もっていきます。神様と力比べをする祈りの生活ほど、苦しいものはありません。もし、私達が思わず祈りについてこのような考えをしているなら、私達はマリアの行動から祈りの法則を学ばなければなりません "わたしの時はまだ来ていません"というイエス様の返事を、マリアは謙虚に受け入れました。彼女は、イエス様に何も強要しませんでした。ただ彼女は手伝いの人たちに、こう話しました。5節後半"あの方が言われることを、何でもしてあげてください。"マリアは、ただイエス様が何か行動される時まで準備して待つだけでした。彼女はイエス様の時がいつも自分の時よりも適切で合理的であるという確信を持っていたのでした。また、マリアは自分の方法をイエス様に強要しませんでした。彼女は、イエス様がどのように応えられるか、全く知りませんでした。イエス様が水をぶどう酒に変えられることは聖書本文を読んだ私達だけが知っているだけで、マリアにはイエス様の行動を推測できるどんな情報も与えられませんでした。 しかし、彼女は"あの方が言われることを、何でもしてあげてください。"と言いました。イエス様の方法が自分が望んでいないことだとしても、何でも神様が言うことをへりくだって受け入れ、従順しますという告白でした。自分の祈りを聞いて下さったイエス様が、いずれの方法であれ、この苦しい状況を最も適切に解決されることを確信していたのでした。私達人間が考える時と方法は、結婚式の危機を回避しようとする小さな解決策に過ぎません。しかし、私達人間が理解できないために拒否し無視するイエス様の時、すなわち父なる神様がお定めになった時と方法は、罪によるすべての苦境から世界を救ったのです。したがって、私達がよく覚えなければならない祈りの法則は、私達の祈りに答えられる神様の時と方法に、決して介入してはならないということです。 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いのです。(Ⅰコリント1:25)私達がいくら自分自身を愛しても、神様ほど私達を愛することはできません。私達が祈るその人を私達がどんなに愛しても、その人への神様の愛を越えることはできません。神様は私達の祈りの対象者に最も良いものを下さり、一番良い道に導くことを願う方なのです。

No.79『善良な創造』    創世記1:1~2:4a

 創世記1、2章のメッセージを理解するために、私達はこの本文の背景である歴史的状況を知らなければなりません。当時古代中東では、自然と人間社会を、宗教と神話を通して理解していた為、ほとんどの宗教は多神的でした。このような文化の中において、聖書はとても衝撃的な発言をします。創世記1:1「初めに、神が天と地を創造した。」世界の創造主は、イスラエルの神様だけであり、創造主神様以外のすべては、被造物に過ぎないという宣言でした。創世記1章が教える聖書的世界観の最初のポイントは、神様は唯一であること、御言葉で世界を創造された唯一の絶対的主権者ということです。そして創世記1章が教える聖書的世界観の二番目のポイントは、神様は人間を大切にされるということです。古代近東の神話では、人間は神にとって、みずぼらしい存在であり、人間の創造はプランAではなく、プランBだったのです。しかし、聖書本文で人間の創造はプランBではなく、創造のクライマックスでした。27、28節『神は教わるをご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。"生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。"』神様は人間をご自分の形に造られ、人間を祝福され、また人間に神様に代わって被造物を治める代理統治者の使命をくださいました。人間は、どのような被造物よりも神様の関心と愛の対象なのです。最後に聖書本文が教える世界観の三番目のポイントは神様はご自分が造られた被造物を愛されるということです。世界は古代近東の人々にとって、絶対に創造主の愛の対象になるはずがなく、美しい場所でもなく、抑圧と嫉妬、戦争のある残酷な現実でした。しかし、聖書本文では神様は被造物をご覧になって、五日目までに六回も良いとおっしゃいました。そして六日目にすべての創造を終えてこうおっしゃいました。31節前半"神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。""非常に良かった"という言葉には、被造物への創造主の愛情が込められています。敵の遺体で世界を作ったという神話とは異なり、神様は全能の創造主であるだけでなく、愛の創造主であるということです。このような全能と愛の創造主によって、世界は元々は良い所であり、人生は美しいものでした。創世記1、2章は多神教的信仰に陥って多くの神を崇めるため、世界はもともと暗くて残酷な所だと考えていた人々へ、膨大な革新的世界観を宣言したのでした。世界は唯一の神様によって創造され、その創造主が被造物を愛されたゆえに世界と私達の人生はもともと非常に良かったという創世記1、2章の教えを、私達は肝に銘じなければなりません。善良な創造主によって、元々の世界は非常に良かったという世界観を持っていれば、私達は創世記3章から始まる罪の問題がいかに惨めであるかを理解することができるのです。元々の世界は非常に良かったという世界観があってこそ、罪によって壊れた世界を回復されるイエス・キリストの救いが、どれほど価値のあることかを悟ることができるのです。元々の世界は非常に良かったという世界観があるこそ、私達はキリストが導かれる私達の真の故郷について、切実な郷愁を感じるのです。神様の善良な創造は、私達人間の罪によって深刻に損なわれましたが、まだこの世界には人間に、ある程度の美しさと善良さが残っています。人間の罪がいくら邪悪だとしても、被造物に盛り込まれた神様の大きな愛をすべて絞り取ってしまうことはできないからです。長い冬が過ぎた後、あちこちで一つずつ花が咲く春の美しさを見ながら、笑みを浮かべてみたことがありますか? 赤く染まっていく夕焼けを見ながら胸がいっぱいに感動したことがありますか? 自分を抱きしめる親の暖かい、穏やかな胸を覚えていますか。悲しみ疲労している時に、友達からの温かい言葉の一言から大きな慰めと力を得たことがありますか? このすべては、神様の恵みで残された善良な創造の痕跡です。神様の御言葉である聖書から、またまだ残っている創造の美しさから、私達は被造物への善良な創造主の愛と、その創造主が意図されたこの世界の本来の美しさを感じられるのです。私達がこの美しさを知って"非常に良かった"という神様の喜びに共感する時、いつか回復されるその美しい故郷を、私達は本当に想うことができるのです。 これは根拠のない希望ではありません。現実性のないロマンでもありません。どんな状況の中においても、善良な創造主であるイエス・キリストが私達と共にいながら、私達を完成された神様の御国に連れて行かれるからです。そして、私達はその御国の美しさを満喫しながら、こう告白するのです。 「これはわが主イエスキリストの犠牲が造った話です。                これは私達に与えられたイエス様のプレゼントです。」 そして、私達は非常に良かったという善良な創造主のもとで、安らぎを受けることができるのです

No.80『イエス様の宣教方法ー食事の交わり』   ルカ7:31~35

  気の合う友人や連れ合いのことを英語では、'Companion'と言い、ラテン語から由来した言葉です。'共に'という意味のラテン語'Cum'と、パンという意味のラテン語'Panis'が合わさった言葉です。西洋において、連れ合い・同僚とは'Cum Panis'、つまり一緒にパンを食べる存在と認識されていたのです。一緒にパンを食べる人がラテン語で、'Cum Panis.'。人生の旅を一緒に歩く連れ合いとは、一緒にパンを分けている存在なのです。英単語'companion'以外にも友情や同僚愛を意味する'companionship、'会社を意味する'company'もすべて'Cum Panis'一緒にパンを分かち合うという語源で生じた言葉です。西洋東洋を問わず、食べ物と飲み物を共に分かち合うことは、関係をつなぐ特別な力を持つことがはっきりしています。食事の交わりが持つ聖書的な意味についての説教を、数週間続けたいと思います。チム・チェスターというイギリス人牧師が、食事の交わりと関連するルカの福音書を研究し「イエス様との食事」という素晴らしい本を書きました。共に飲食することは、すでに私達の教会生活の中で大きな部分を占めています。愛餐会や礼拝後のデザートタイム、祈祷会や聖書を学ぶ会でのティータイムなど、私達は食べ物や飲み物を一緒に分かち合います。このシリーズテーマの説教を通して、共に食べて飲む行為が以前には感じなかった新たな意味で近づき、また私達が新しい気持ちで教会の中外でCum Panisの交わりを行うことをお祈りします。このシリーズ説教の中で、食事の交わりに関して最も良い模範となる聖書の人物を選ぶなら、その最高のモデルは、まさにイエス様です。イエス様は人を食べる存在とされ、人に食べ物を提供する創造者であり、また人間となられた後も、食べ物の聖書的意味を一番よく理解され、活用された方だったからです。聖書はよくイエス様を人の子と呼び、イエス様がなされた宣教の方法をこのように表現します。ルカ7:34「人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。」 当時のユダヤ人は、人の子は絶対的な権勢と能力の中でこの地に来られ、神様の敵を打ち破って、神の民の正しさを証明することを期待しました。しかし、最後の御言葉によると、イエス様は華麗で荘厳な姿ではなく、平凡な姿で世界に来られ、他の人間と大差なく食べて飲みました。ユダヤ人達は人の子が罪人を審判することを期待していましたが、罪人達を探し救われるとは思えませんでした。イエス様はよく罪人達と一緒に食べて飲みました。イエス様を指し人々が食いしんぼうや大酒飲みと非難するほど、イエス様は食べて飲むことを本当に好まれました。人々はイエス様の牧会方法を理解できませんでした。ルカ5:33彼らはイエス様に言った。「ヨハネの弟子たちは、よく断食をしており、祈りもしています。また、パリサイ人の弟子たちも同じなのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています。」ヨハネの弟子達やパリサイ人達は、たびたび断食しながら祈りました。しかし、当時イエス様の共同体は他の群れとははっきり異なっていました。イエス様の牧会は遅くまで続く長い食事でした。焼き魚とパン、ぶどう酒で食卓を囲み、一緒に食べ物を分け合い、ご自分の弟子達を育てました。イエス様は'Cum Panis'的な交わり、'Cum Panis'的な共同体を追求するのに多くの時間を使われたのです。福音書には食事と関連するイエス様の姿がよく出ます。その中でもルカの福音書には人々と一緒に食べ物を分けられるイエス様の話で溢れています。このように、イエス様の宣教において食べたり飲んだりすることは重要なことでした。このようなルカの福音書のイエス様を指して、神学者Robert Karrisはこう言いました。「ルカの福音書では、イエス様は食事しに行かれたり、食事中か、食事を終えて出て行かれるところでした。」 イエス様はあちこち行きながら、福音を聞かなければならない罪人達と一緒に食べ物を分け、ご自分が直接彼らに祝宴を催すこともされました。神様の御国を祝宴に喩え、食べ物を救いと審判を表す言葉として使用され、十字架で死ぬご自分の御体と血をパンとぶどう酒に比喩するなど、食べ物に関する話で福音を伝えました。イエス様の働きにおいて、食事は単なる比喩や象徴ではありません。食卓は、神様の恵みが実際に明らかになるところです。食卓は、私達の共同体のアイデンティティが何のフィルターもなく、具体的に見えるところです。食卓は、福音が受肉する私達の宣教の現場なのです。私達は一緒にパンを分け合いながら、人生の旅を一緒に歩く'Cum Panis'の共同体になるべきです。罪人達と一緒に食べて飲んで福音を教えられたイエス・キリストの驚くべき愛が、2000年が過ぎた今でも、私達の食事の交わりの中で溢れていくことを主の御名で祝福します。

No.81『あなたの周りには誰が座っていますか?』      ルカ14:1~24

 ルカ14章の中で、他人より自分達の社会的特権を重視する宗教指導者達の利己的な態度は、食事の時に明らかに現れました。祝宴を主催するそのパリサイ人の家には、多くの食事の席が設けられていました。当時の文化では、低いテーブルを真ん中に置き、その食卓を中心にUの字の形に椅子を置きました。客達は、右腕のひじを斜めにして椅子に座り、一人一人の社会的地位によって座席が決まりました。Uの字の中央にある席が、一番地位のある人が座る上座でした。その上座に近く座るほど地位が高い人で、遠くなるほど地位が低い人でした。あるお客が上座に座り、自分よりもっと高い人が到着すれば、その人はもっと低い場所に移るように要求されました。結局、弱い人達は端に押し出され、疎外を受けました。イエス様は人々のこのような姿をご覧になり、2つの比喩を話されました。最初の比喩は8~14節、食事の席を選ぶ時、自分を過大評価して上座に座れば、自分よりもさらに高い人が来て、その席を外してほしいと要求されるのです。結局、高い席に座ろうとする人は恥を受け、さらに低い位置に移動することになることです。しかし謙遜に最も低い地位に座っていれば、その家の主人が上座近くに座って下さいと言うかもしれません。それで、恥ではなく光栄の中で高い地位に移動することになることなのです。自ら低い地位に座った者を高い地位に招待する、その主人はまさに神様を意味します。そしてイエス様は誰かを食事に招待する時は、ご自分の親族や富裕な隣人よりも、貧しい人々や身体的に不自由な人々を招待するようにとおっしゃいました。つまり自分にとって慣れた内部の人や自分に何か利益をくれる人ではなく、自分と異なる外部の人々や、自分の利益と関係しない人達を招待しなさいということです。死んで復活され、ご自分の子供に義の服を着させて下さるイエス・キリストが自ら、自分にもっと価値のあるもので返して下さるからです。 これと似た内容が、2番目の比喩でも繰り返されます。16~24節イエス様は神の御国の祝宴について話されました。ある人が祝宴を開き、多くの人達を招待しました。しかし、人々は言い訳を言い、祝宴への参加を断りました。ここで主人の招待を拒否した者達は、パリサイ人達のような宗教指導者達を意味します。高い席に座ろうとして、内部の者達と自分に利益になる人の傍だけに座ろうとする彼らは、神様の御国の祝宴に入ることができないのです。 しかし彼らが冷たくした、低く弱い人々が彼らの代わりにその祝宴に招待されるという内容です。当時はユダヤ人だけでなく、ローマ帝国全体においても、食事は社会的に敏感なものでした。人々を身分に見合う席に配置すること、身分によって誰を招待するかしないかを決めることに関しては、絶対に間違えられない敏感なことでした。 しかしイエス様は2つの比喩を通して、食事の席を変更し、食事の招待者リストを交替することをおっしゃいました。従来の習慣を覆し、社会的現実を崩す食事文化を提案されたのでした。イエス様は食事についての比喩によって、何を伝えようとされたのでしょうか? 神様の御国の祝宴は、恵みが溢れる食事の交わりなのです。恵みは世の中の価値と常識を覆します。高い者が低くなり、低い者が高くなり、内部の人々が外部に退き、外部の人々が内部に招待されるテーブル、これがイエス様が施される恵みの食卓なのです。 この恵みの食卓が、私達に教えることは何でしょうか? 「あなたは神の子供である、あなたが座ろうとする楽な場所を離れて、低い所に座りなさい。あなたが私の招待に応じているのなら、あなたが慣れている内部の人ではなく、あなたにとって外部の人々のそばに一緒に座りなさい。あなたが低い人々と外部の人々のそばで一緒に食事をする時、あなたは初めて私、イエスキリストが施す恵みの食卓を味わうことになるだろう!」というメッセージなのです。これが神様が意図された元々の食事です。このような食事の交わりが神様の本来のデザインだったのです。私達はキリストの御体の教会として、イエス様が教えられる食事の交わりの本質を共に追求していかなければなりません。決してルカ14章の食事の話は、私達とは全く関係のない話だと思ってはいけません。私達は、まだ罪の影響を受けながら生きる弱い人間です。私達が聖書の教えに戻ることに忠実でいなければ、この話が私達の現実となるのです。私達の教会はまだ信徒の数がそんなに多くないため、食事の交わりの本質的な使命から隠れる場所は多くありません。しかし人数が増え、人々の後ろに隠れるを空間が多くなると、高い所に座ること望み、また慣れた内部に滞在したいという私達の中の罪の性質が必ず、私達の食卓を揺さぶろうとするでしょう。食卓は、必ず神様の恵みが明るみに現れなければならないクリスチャン共同体の中心地であり、宣教地なのです。私達はどこに座っていますか?高いところですか?低いところですか?私達の隣には誰か座っていますか?私達の隣の人は、自分に慣れた内部の人ですか?そうでなければ、自分とは異なる外部の人ですか? この食卓に座る外部の来客者に、暖かく留まる関係の空間を私達は提供していますか?ここで外部の人とは、経済的な水準が異なる人だけではなく、私達と関係の面で距離がある人、人格、性格、考え方が異なる人、交わりをしても何の益にもならなさそうな人、自分が慣れにくい人も意味します。このような外部の人は、教会の外にだけではなく、教会の中にも存在するのです。私達が慣れているその楽な場を離れ、私達の関心と愛が必要なその魂のそばに座りましょう。心が負担で不安また怖いですが、イエス様は私達の弱さを理解しています。このような弱さの中でも、信頼で踏み出す信仰の一歩を神様は大事に用いられ、人間の愛では不可能な恵みの食卓が、私達の教会にプレゼントとして与えられるでしょう。

No.82『架上七言①:赦し』     ルカ23:34

 今年のレントは、架上七言についてお話し致します。架上七言とは、イエス様が十字架にかかられた時、最後に話された7つの御言葉を意味します。今回はその一つ目、ルカ23:34「赦し」についてです。私達は架上七言を理解するために、まず十字架が当時、どのような存在だったかを知る必要があります。ローマ帝国が十字架刑を廃止するまで約500年間、十字架は恥の象徴でした。十字架刑は必ず一番多くの人々が行き来する、最もよく見える場所で公開的に行われました。十字架にかかり皆が見ている前で、最も苦痛で惨めな姿で死んでいくのは、人間が経験する恥の中で、最も最悪の恥でした。"あのような罪を犯したら、おまえもあんな恥さらしな死にかたをする"という非常に強い警告が、十字架刑でした。ローマ帝国の人々は十字架にかかった人を指し、"獣の死を宣告された者"と呼びました。人間として生きる価値が全くないため、人間ではなく獣としての扱いを受け、死ななければならない存在だということです。十字架刑はある意味で、動物の死よりもはるかに残酷な死でした。キリスト教は当初から十字架の呪いを受けた者、獣より恥のある死を受けた者を神として仕える、「狂人の宗教」として認識されていたのです。このような理由で初代クリスチャン達は、約400年間十字架を避け、魚や羊飼いをシンボルとして使っていました。イエス様が実際に受けられた十字架刑は、とても残忍なものでした。体に生じた数多くの傷によって出血が続き、手足に打ち込まれた釘に体重がのせられ、言葉では表現できない痛みの中にイエス様はうめいたことでしょう。当時の人々は、自分の人格や心・名誉は、自分の体と連結していると考えていました。人々がイエス様に架けた十字架刑は、単純な肉体的拷問ではなく、イエス様の全人格と尊厳を直接汚し、侮辱する行為だったのです。イエス様が受けられた恥に注目すると、人々のこの非人間的な姿から、人間の罪が持つ汚れが見えてきます。無惨に踏みにじられたイエス様の肉体と人格の中で、本来罪人である人間が受けるべきその悲惨な運命が見えるのです。しかし何よりも不快な現実は、イエス様を十字架にかけ、大きな恥辱を与えたあの野蛮的な人々が、まさに私達自身と同じという事実です。福音書は私達をイエス・キリストの十字架に導き、その十字架を鏡として私達自身の姿を見るようにと言います。十字架の鏡に映った私達の内面には、罪という闇の現実が存在します。私達のすべての罪と悪行をイエス様は十字架のすべての恥を受け、身代わりとなられました。他の言葉で表現すると、イエス様を十字架に釘で刺したのは、私達自身ということです。 私達は、イエス様の敵だったのです。イエス様はご自分の敵である私達のために、こう祈られました。"父よ。彼らを赦してください。"ここでの彼らは誰でしょうか。一次的には、イエス様を受け入れずあざけったユダヤの宗教指導者とローマ兵士です。そして二次的には、イエス様を十字架に架けた私達人間全員です。イエス様はご自分の敵である私達を赦して下さいと、御父に祈られました。私達は必ず赦しが必要であり、必ず赦しを求めなければならない存在だということです。しかしイエス様の次の御言葉は、私達の悲惨な現実を赤裸々に示します。"彼らは何をしているのか自分でわかりません。"私達は、自分の行為が何を意味するのか自らもわからないのです。私達の罪が誰を傷つけ、何を破壊したのか知らず、自分が赦しが必要な存在だという事実を、自分では知らない存在だということです。福音を受け入れるのに最も難しいことのひとつは、自分が赦しが必要な存在であることを認めることです。赦しに対するアレルギーは、人間ならみな普遍的に持つ問題です。人間の中に存在する罪の属性は、私達に赦しに対する恐れを与えます。罪が教える赦しは、恵みが欠如された赦しです。自分に被害をもたらした者に、徹底的に計算的また条件的で、利己的で必ず責任をあたえ復讐し、相手の人格に恥を加えたりします。罪は私達から赦しに対する希望を奪い、恐れで私達の霊的な目を隠し、イエス様の御言葉のように何をしているのか自分では分からないようにさせます。誰も神様の恵みなく、自らを救う事ができないのです。しかし、私達がイエス・キリストの十字架を鏡として自分を眺める時、私達は初めて自分が犯したことの意味を知ることができるのです。なぜならキリストの十字架には恵みが存在するからです。イエス様はご自分を十字架に釘付けた敵の前で利益や損失を計算されず、条件を求めず、復讐されなかったのです。イエス様は赦される資格がない敵を愛し、ご自分の敵のために御父に赦しを求めました。イエス様の十字架には、驚くべき恵みが存在するのです。世界が教える赦しとは異なり、敵を愛されたキリストの恵みの中での悔い改めは、自分の価値を喪失するのではなく、反対に自分の本当の価値を求める行為なのです。悔い改めは自分を恥の監獄に閉じ込めるのではなく、逆に罪が与える恥から自由になることです。レントという期間の中で、私達はイエス様の十字架を眺めながら、罪人としての私達自身を直視しなければなりません。 キリストが受けられた十字架の恥の中で、イエス様を釘付け軽蔑した私達の罪がどれ程汚く、破壊的だったのかを見なければなりません。私達は決して罪人である自分が何をおかしたのか完全に理解することはできませんが、イエス・キリストの罪の贖いによって与えられる神様の赦しは、私達がまだ認識していない罪のすべての領域を回復し、私達を本当の喜びと安息へと導びかれるのです。

No.83『架上七言②: キリストの主権と救い』     ルカ23:32~43

イエス様の両側で、犯罪人二人も十字架にかかっていました。人生の最後の瞬間が迫っていたのでした。彼らの両手と両足はふさがれ、彼らができる唯一の事は、口を開いて誰かに助けを求めることでした。しかし十字架にかかった彼らを皆が動物扱いをしていた為に、彼らの言葉を聞く人は誰もいませんでした。彼らが唯一話せる対象、彼らの言葉に耳を傾けてくれる唯一の人は、そばにいるイエス様しかいませんでした。彼らは一体、イエス様にどんな話をしたのでしょうか。彼らのうち1人がイエス様にこう叫びました。39節「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」驚くことに、この犯罪人はイエス様に救えと叫んでいます。しかし彼が望む救いは、私たちが考えるその救いとはっきり異なります。それは自分の罪からの救い、永遠を渇望する根本的な救いではなく、十字架にかかっている今この瞬間からの救い、単発的で臨時的な救いなのです。これが意味するのは何でしょうか?十字架にかかった今、この危機を避けるよう助けてくれれば、後は自力で解決できるということです。自分の人生を計画して、調整し、支配する主権はイエス様ではなく、自分自身だということです。人生の主権を握って離さない彼にとって、イエス様は自分が追求する根本的な目的ではなく、自分の利益のため利用する手段に過ぎなかったのです。彼にとって真の救い主は、イエス様ではなく自分自身でした。大半が共有するこの社会の常識は"人間が主権を持つ"ことだからです。人に迷惑をかけないよう、他人から社会の構成員として認められるように、自分が責任を持って自ら人生を計画し、進め、調整する主体的な存在になりなさいというメッセージ。多数が認める価値観と思考の方式の枠組みの中で生きていけというメッセージを受けながら、私たちは生きていきます。主権者は自分自身であり、また多数の他人です。主権者は人間であって、神ではありません。人間は罪人ではなく、法と常識の枠組みの中で生きる道徳性を備えた存在であり、人間は神に依存する無能な存在ではなく、自分の人生を主体的に導き、苦境を解決できる能力ある存在だというのが、多数が共有する常識なのです。キリストが目的ではなく手段となる時、私たちは霊的に近視眼になります。今この瞬間の危機から逃れる救いを追求します。今自分が走っているこの十字架だけを免れると、その次は自分の力で解決できると思うのです。瞬間に執着し永遠を見ることができないため、根本的な救い、永遠の救いではなく単発的で臨時的な救いだけを求めるようになるのです。しかしイエス様とともに十字架にかかった犯罪人の残りの人は、40~42節『ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」』その犯罪人は、今まで人生の主権を自分の手で握り締め、自分の誤った意志と、愚かな知恵で数多くの罪を犯してきました。しかし人生の最後の瞬間に達し、彼は十字架での死が当然なだけに、自分が汚い罪人であることを悟りました。初めて人生の主権を握っていた手を開き始めたのです。するといつも瞬間的な利得だけを見つめていた彼の霊的な目にイエス様が入りました。罪はないですが、罪人の自分のように十字架にかかられた苦痛の中の救い主イエス・キリストが見えたのです。そして彼は、イエス様に言います。イエス様。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。彼はイエス様が死を越えて、ご自分の治められる神の御国に帰られることがわかりました。彼の霊的な目は瞬間を越えて永遠を見たのでした。そして彼は自分を覚えていてくださいと言いました。聖書では神様が記憶されるということは、単なる過去を回想することではなく、ご自分の民を救おうとされる神様の積極的かつ具体的な働きです。自分で自らを救えない無能な罪人であることを悟ったその犯罪人は、とうとう人生の主権をイエス様に渡したのです。彼にとってイエス様は手段ではなく、究極的な目的となりました。彼が意識したかどうかわかりませんが、彼がイエス様の中で渇望している救いは、瞬間的かつ臨時的なものではなく、根本的で永遠の救いだったのです。このような彼の告白にイエス様はこのように答えられました。 43節後半「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」福音は天国に入ることが最終的な目的ではなく、そこでイエス様と一緒に永遠の安息を営むことだと教えます。イエス様と一緒にいること、これが福音が教える究極の目的です。私たちにイエス様と共にいること、イエス様の臨在ほど素晴らしいものはありません。多数の常識は、私たちに人生の主権をつかみなさいと強要します。私たちは無能な罪人ではなく、能力のある主権者だと教えます。しかし私たちの中に自我が溢れると、イエス様が留まる場所が少なくなります。罪という私達の現実を無視するほど、キリストの十字架は私たちの中で次第に意義を失っていきます。しかし群衆の中で一人で、イエス様をほめたたえたその犯罪人のように、人生の主権をイエス様に渡して下さい。イエス様が私たちの人生を支配する時、イエス様の臨在は人生の究極的な目的となって、世界が持つことができない平安と喜びが私たちに与えられるのです

No.84『架上七言③:息子から救い主となられたキリスト』    ヨハネ19:26~27

 神様のみ守りがあるにもかかわらず、マリアが母親として不安を感じ始めた事がありました。モーセの律法によって、息子を産んだ母親は、40日後に息子にきよめの儀式を受けさせるからです。それでマリアは赤ちゃんイエス様を連れ、エルサレムに行きました。その時ちょうど、エルサレムにシメオンという敬虔な人がいました。シメオンは一生涯、イスラエルの救いを待ち望んで来た人でした。彼は聖霊によって、赤ちゃんイエス様が自分が待ち続けたその救い主であることを知りました。彼はイエス様を抱き、救い主を送られた神様を賛美しました。それからシメオンは、母マリアに理解しにくい言葉を残しました。ルカ2:34-35『また、シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言った。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」』 シメオンは、イスラエル人が息子イエス様に反対し、母マリアは剣が貫くような心の痛みを感じるだろうと言いました。息子の将来について具体的には聞いていなかったマリアは、剣が心を突き通す事が何かを理解できないまま、その言葉を胸の中で留めていました。そしてついに、十字架の時が来ました。ずいぶん前にシメオンがマリアに言ったように、イエス様はイスラエル人の激しい反対によって、十字架にかかられました。マリアは残忍な拷問の中で、苦痛の中で死んでいく息子の姿を近くで見ました。鞭によって体が引き裂かれ、両手両足には大きな釘が刺さり、息子は誰か分からないほど血まみれになりました。息子の試練を見ながらも何も助けることができず、ただ見ることしかできなかったマリアは、剣が心を突き通すというシメオンの言葉をその時初めて悟ったことでしょう。続く出血の中で命を失っていくイエス様の目には、母マリアと愛する弟子ヨハネが見えました。悲しみに満ちた目で息子を見つめる母マリアに、弟子のヨハネを指しながらイエス様はおっしゃいました。"女の方。そこに、あなたの息子がいます"そして今度はヨハネにマリアを指して、おっしゃいました。"そこに、あなたの親がいます"イエス様は、長男がいない中で生きていく母を見守ってほしいと、弟子ヨハネにお願いされました。激しい苦痛の中の、人生の最後の瞬間でもイエス様は母マリヤを心から愛されました。イエス様の御言葉は、マリアにこのような福音のメッセージを伝えます。"女の方よ。この地で過ごした33年の間、あなたは私の愛する母であり、私はあなたにとって大切な子でした。しかし、私はもうすぐあなたのそばを離れます。私の死があなたにとって、どれほど大きな悲しみかよく知っています。息子を失った喪失感を理解します。しかし、私は死ななければなりません。私の死だけが、あなたを生かすからです。私の死だけが、あなたの罪を赦すことができるからです。あなたはもうすぐ息子を失います。しかし、あなたは決して私を失いません。なぜなら死んで復活する私は、もうあなたの息子ではないが、あなたの救い主として永遠にあなたと一緒にいるからです。あなたは、これからは私の母ではないが、あなたは私が施す救いの中で、神様の子供となり、何にも比べられない大きな喜びを受けることになるのです。これは、今を生きる私達にとって何を意味するのでしょうか?私達は、家族を失っていきます。愛する人々を失っていきます。この地で私達が経験するその喪失感は、とても辛いことです。しかし、希望があります。私達は何かを喪失しますが、他の何かが私達に与えられるのです。息子を失いましたが、救い主を得たマリアのように、私達が失ったものと比較できないほどの大きな喜びを、私達は得るのです。私達の罪の代わりに死んで復活された救い主イエス・キリストが、私達といつも一緒にいるからです。救い主イエス様への信仰の中で、死は決して永遠の別れを意味しません。イエス様が下さる救いの中で、私達はみな神様の子供となるからです。救い主イエス様の中で苦痛と死が起こしたすべての喪失の傷は回復され、私達は神の子供として再会します。今、ここに集まった教会の兄弟姉妹は、救い主イエス・キリストが結ばれた神の家族です。家族とは、すべての悲しみと喜びを一緒に送る共同体です。この地で経験する愛する人々との別れは、辛いものです。しかしヨハネが息子を失ったマリアのそばにいつも一緒にいたように、私達が神様の家族としていつも互いのそばに一緒にいることで、私達は福音の希望の中で、全ての困難を克服していくことができます。互いに家族となってください。愛する人を失う女の方よ。あなたの息子、娘がここにいます。愛する人を失う男の方よ。あなたの息子、娘がここにいます。私達は家族なのです。

No.85『架上七言④:捨てられた御子による福音』   マタイ27:46

 イエス様が喪失される父なる神様との関係は、世界が存在する前から、つまり永遠から続けられてきた完璧な親密さでした。御父と御子は時間と空間を超越し、いつでもどこでも共に存在され、互いを完璧に理解され合い、愛し協力されました。その永遠の交わりが失われる事がイエス様にどれだけ苦しいことか、私達人間は想像さえできないのです。十字架は、イエス様を極度の恐怖に押し込める断絶の場所でした。御父は御子から視線をはずされ背を向けられ、徹底的に御子を無視されました。御子は御父に必死に叫びました。 "エリ、エリ、レマ、サバクタニ" これは"わが神、わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか"という意味のアラム語です。ユダヤ人は紀元前8世紀のバビロニア侵略によって国を失い、捕虜として連れて行かれ、アラム語を使うバビロニアの諸地域に散在して生きてきました。そのためヘブライ語を使うユダヤ人はますます減り、教育を受けたユダヤ人が主に使用する言語になりました。多くの聖書学者はイエス様は普段アラム語で話され、ユダヤ人にアラム語で牧会されたと推定します。マタイの福音書は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と、父なる神様に叫ぶイエス様の切実な思いをそのまま伝えたかったのです。自分から遠ざかって行かれる父を捜す息子イエス様のその息を直接感じさせたかったのです。父を失った息子の苦痛に満ちた心を、何のフィルターも通さずに、そのままを表現したかったです。それでマタイの福音書は、イエス様が現場で実際に叫ばれたアラム語の言葉、そのままを記録しアラム語を知らない読者に向けてその意味をギリシャ語で訳したのです。しかし、御子がいくら御父に叫んでも御父は沈黙されました。悲しく辛い数多くの状況の中で、私達は神様に祈ります。神様に切なく叫び、どうかこの状況から助けてくださいと切実に懇願します。しかし、私達の祈りはいつもすぐには解決されません。神様が沈黙される時があります。時間が経っても全く変化しない状況を見て、私達の祈りがむなしく思え、散らばってしまう空虚な意味のない音のように感じられる時があり、私達は当惑します。神様が自分のそばにいないようで、神様と断絶されたようで私達は絶望します。神様と遠く離れているようなその瞬間、神様の臨在が感じられないその瞬間こそ、軟弱な私達には苦痛と恐怖そのものなのです。このような状況の中で私達に慰めのメッセージとなる美しい信仰告白があります。ハイデルベルク信仰問答第一問です。Q: 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。A: わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、 悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。 また、天にいますわたしの父の御旨でなければ 髪の毛一本も落ちることができないほどに、 わたしを守っていてくださいます。 実に万事がわたしの救いのために働くのです。 そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、 今から後この方のために生きることを心から喜び またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。私達は生きるにも死ぬにも、主イエスキリストに属した者です。私達のすべての罪を背負われたイエス様が、御父に徹底的に捨てられたからです。御子イエス様が捨てられたことが、私達にとって悲しみですが、同時に喜びになる理由は、イエス様が捨てられたことにより、私達は捨てられないからです。イエス様が捨てられたことによって、私達は神様の子供となり、どのようなものも私達を神様から引き離すことができないのです。ローマ8章死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私達の主キリスト・イエスにある神の愛から、私達を引き離すことはできません。私達のために御子を捨てられた御父の愛と、私達のためにご自分を捨てようされる御父に従順された御子イエスの愛は、私達をしっかりつかんで絶対に離さないです。その愛に基づいて御父の御旨でなければ私達の髪の毛一本でさえも、落ちないのです。どんな苦難や試練でも、決してひとりではありません。私達の隣には、いつも神様がおられます。私達は永遠に神様に属した者なのです。これがすべての状況の中で、私達が希望を持って生きれる唯一の理由なのです。私達はイースターを喜びで記念できる理由は、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた御子イエス様の祈りに、御父がこたえられ御子を生かせたからです。恐ろしい死の力も御子イエス様と父なる神様の愛を引き離すことはできなかったのです。捨てられましたが、復活された救い主イエス・キリストの中で、私達に断絶ということはありません。全ての巡礼の旅の中で、心から神様の御名を呼んでください。ご自分を呼ばれた御子を生き返された神様が、「おまえは私のものだ」と私達の耳元にささやいて下さるのです。

No.86『復活の平安』     ヨハネ20:19~23

 イエス様はご自分の死後、3日目によみがえる事をおっしゃいましたが、恐怖に包まれた弟子達はその話を信じませんでした。恐れた弟子達は、イエス様が自分達のそばに再び戻られることを想像すらできなかった為に、戸を閉めたのです。閉められた戸は、イエス様への信仰から弟子達を離そうとしました。またその戸は弟子達と他人の仲を裂くようにしました。イエス様は弟子達に、他人に仕え福音を伝えるよう教えられましたが、周りからの非難と攻撃を恐れた弟子達は、誰も近づかないように戸を閉めたのです。安全への心配、自分の使命、また使命を実践する対象から自ら隔離したのです。弟子達にとってその戸は何の象徴でしょうか? 戸を閉めた理由は恐れからです。閉ざされたその戸は弟子達の恐怖の象徴だと言えます。そしてその恐れの戸は、弟子達をイエス様からまた他人から切り離すようにしました。聖書が警告する恐れは、弟子達が閉めた戸のように自分を神様と他人から切り離すという恐怖です。そしてこの恐れは、私達が非常によく経験する現実です。神様を愛し隣人を愛するというイエス様の御言葉は、すべての律法と預言書が教える核心です。しかし恐れはその使命に近づかないように自分自身を閉じこめようとします。恐怖が教会の中に広がるようになると、教会は次第に神様が教えられた牧会の本質から離れます。いつも安定的なことに追求し低迷し形式的となり、本当の交わりが消え、宣教をなおざりにするようになります。このような意味で、恐れは信仰の対義語であり、人間の罪が生んだ最も破壊的な実なのです。私達の人生においてイエス様がおらず、イエス様の霊である聖霊が充満ではなく空虚な時、必ず恐れの種はそこに根づき育ち始めます。そして恐怖はついに空いているその空間をいっぱいにするのです。それでは、私達はどのようにして恐怖から自由になれるでしょうか。私達の人生がどのように恐れの代わりに、イエス・キリストによって占められることができるでしょうか? 『19その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子達がいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」』弟子達は、イエス様を愛し従いましたが、彼らの信仰は弱く、心は恐怖で満ちていました。その恐ろしさは、弟子達がイエス様や他人に向けて戸を閉めました。しかし、イースターにイエス様は彼らの中に入って来られました。戸は閉められていましたが、イエス様は一体どのようにして入って来られたでしょうか? 閉まった戸を通過されたのです。恐れていた彼らは戸を閉めましたが、イエス様はその恐ろしさの戸を突破されたのです。そして彼らの中に入ったイエス様は何を宣言されたでしょうか? 恐怖ではなく「平安があなたがたにあるように。」と宣言されました。これがイースターが教える驚くべきメッセージです。私達も弟子達のように、イエス様を愛し従いますが、人生の荒波にもまれる時、私達の信仰は揺れ恐れます。そして戸を閉めて神様と他人から隠れようとします。しかし復活されたイエス様は、その恐ろしさの戸を突破し私達の中に入って来られます。どんな試練や絶望的な状況でも、イエス様はご自分と私達の間を妨げる全ての障壁を乗り越え、私達の中に入って来て下さいます。そして私達に恐れないで、平安があるようにとおっしゃいました。その平安の根拠は何でしょうか?。「20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子達は、主を見て喜んだ。」イエス様は十字架に釘づけられたご自分の両手と、槍で刺され穴が空いた脇腹を弟子達に見せられ、復活を証明されました。その時に弟子達はキリストの復活を信じるようになり、彼らの心は恐怖の代わりに喜びで溢れました。キリストの復活が意味するのが何でしょうか?イエス様が死の力に勝利されたということです。死さえも、「私達の主キリスト・イエスにある神の愛から、私達を引き離すことはできない」のです。これがイエス様の復活が私達に与えた平安なのです。脅威を感じているすべての状況の中で、イエスキリストの復活を覚えて下さい。死も高さも深さも、いかなることも、私達の人生に臨在されるイエスキリストをふせぐことはできません。復活されたイエス様はどのような恐れの戸でも通過して入って下さいます。そして、傷ついた手とわき腹を見せご自分の復活を証明し、私達が復活の信仰から新しい希望を得るように助けて下さるのです。私達が復活を抽象的で理想的な概念ではなく、私達の人生のすべての領域を支配される実際的な現実として受け入れる時に、私達の心から恐れは消え、イエスキリストは私達の体と魂が休める究極的な避難所になるのです。

No.87『火の燃える炉に飛び込まれた主』     ダニエル3:14~29

 ヨブ記とともに、ダニエル書3章は、不幸と試練が悪人と義人を問わず、不公平に見舞われる私達の人生について重要なメッセージを教えます。ネブカデネザル王は、バビロン州にあるドラの平野に金の偶像を立て、自分が立てた金の像の奉献式に参加するようにしました。そして奉献式に集まった人々に、ひれ伏して拝むようにとしました。各地方の官僚らは、いずれも奉献式に参加し金の像を崇拝しましたが、ダニエルの三人の友人、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、崇拝しませんでした。これを知った王は、非常に怒りました。王が信じる神を拝まないのは、王の権力に逆らうことだからです。王は、彼らが自分の命令に従わないと火の燃える炉の中に投げ込むと言いました。今日のクリスチャン達がこのような状況にいれば、恐らく殆どの人々は妥協するでしょう。しかしダニエルの三人の友人は、まるで童話の中に生きる人のように王の命令を堂々と拒否しました。彼らはまるで現実感覚が全くない子供のように思えますが、私達は彼らをきちんと理解する必要があります。18節の前半"もしそうでなくても"。この本文の内容を全部知る私達は、彼らが死なないことを知っています。自分が傷つかないことを知っていれば、どのような脅迫にも屈しません。しかしダニエルの三人の友人は、自分の未来を全く知りませんでした。彼らが安全かどうか、どんな保障もありませんでした。そしてこの世界には神様に忠実に生きても、悲惨な運命を迎えする数多くの人々が存在することを彼らはよく知り、自分が死ぬ可能性があることを知っていました。彼らは現実を知らない愚かな者ではありませんでした。奇跡的な神様の介入がなく残酷な死を受けることがあるというのが分かりました。しかし、彼らは"もしそうでなくても"と言い、自分の信仰を守りました。彼らは、真の義人でした。不幸は、義人である彼らを避けて通れず、やはりネブカデネザル王は彼らの反応に激怒しました。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、全身が縛られたまま火の燃える炉に投げ込まれました。あまりの熱さに、彼らを引っ張っていた人々も火炎で死ぬほどでした。この話は現実性がない童話ではなく、実際の歴史だったのです。これは、紀元前600年前の話ではなく、2018年今この瞬間の話でもあります。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴだけのことではなく、まさに私達皆の話でもあります。不幸と試練は義人を区別しないことは、今この瞬間、私達皆が経験する現実です。神様が全てのことを主管されるのであれば、神様が愛であれば、なぜ神様は悪を防ぐことをされないのでしょうか? なぜ神様は、愛する人々に苦難を許されるのでしょうか? これが私達が現実の中で直面する神義論的質問です。私達人間の罪で神様が創造されたこの世界が壊れ、この壊れた世界には不幸と試練があります。そして不幸と試練は、私達が犯したある特定の罪によって起きるのではありません。私達がどんな人生を生き、どんな人格を持つかに関係なく起きます。神様が太陽の光を義人だけではなく悪人にも照らされるように、不幸と試練は悪人だけでなく、義人にも起こるのです。悪と苦難は、悪人と義人を区別せずに、非常に不公平に苦痛を私達人間に配分されるのです。これによって、私達は試練の中で神様に"なぜ?"と質問し、神様を疑うようになるのです。神様は、どうしてこの矛盾する現実を許されるかについて、私達には教えられていません。残念ながら聖書は私達の神義論的質問に答えません。ヨブ記は、世界を治められる神様の摂理とその理由を理解する能力は、私達人間にはないと教えます。しかし、このような状況の中でも、私達が希望を失わない理由があります。それは、神様が私達の苦痛を遠くから超越したかのような態度で傍観されるのではなく、苦痛の中で私達と一緒におられるということです。再び聖書本文に戻りますが、ダニエル書3章でネブカデネザル王の命令に背いたシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは正しい行動をしたにもかかわらず、体が縛られたまま火の燃える炉の中に投げ込まれました。しかし驚くべきことが起きました。燃える火の炉の中に入った人は、何人だったでしょうか?シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人です。確かに三人が投げ込まれましたが、ネブカデネザル王の目には、さらに1人いるのが見えました。この第四の者は誰でしょうか? ある学者たちはこの人は天使と解釈したり、メシアだと主張したりします。この人が天使であれメシアであれ関係なく、明確な一つの事は、この第四の者は機能的に受肉された救い主イエス・キリストの役割を表すということです。神様の御子イエス・キリストが、私達が生きるこの壊れた世界に身を投げ込まれました。火の燃える炉の中に身を投げ込んだその第四の者のように、神様であるイエス様は人間となられ、私達が経験するすべての苦痛を経験され、十字架上で私達の罪の代わりに死なれました。消滅しなければならない運命だった私達は、イエス様の死と復活によって死から生命に移っていくことになったのです。私達の救い主イエス・キリストは、私達が経験する試練の外ではなく試練の中で私達と一緒におられます。この壊れた世界に身を投げ込まれ、私達のために十字架にかかられたイエス様は、私達の苦痛を私達自身よりもっとよく理解され、私達と共に悲しみ、私達をなぐさめて下さいます。イエス様は、決して私達を試練の中で一人で残されません。この壊れた世界は、どんな神も私達を救えないと嘲笑しますが、私達は神様の救いの物語が完成される時に、この話が童話ではなく実際の歴史だという事を悟るようになるのです。火の燃える炉の中に身を投げ込まれたキリストが、私達を何の傷もなく回復させるからです。試練の中で喜んで下さい。キリストが私達のために身を投げ込まれました。キリストが私達と一緒にいます。

No.88『聖書的な選択①:愛のために行く従順の旅』    創世記11:31~12:9

 人生の中で、私達は重大な選択の瞬間に直面します。進学、就職、配偶者を選択すること以外にも、信仰生活と人生の方向性、また他人との関係に大きな影響を及ぼす数多くの選択の瞬間が、小さな日常に存在します。私自身このようなことを経験しながら、選択について聖書はどう教えるかについて多くの関心を持ってきました。その中で、個人的に感銘を受けた本、ジョン・オートバーグAll The Places To Go(自分が行く全ての所)を基盤として、聖書的な選択についてお話し致します。神様がアブラムに「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と言われましたが、古代社会において故郷を離れることは、命がけのことでした。どこで水を手に入れ、どこで寝るかなどの情報がなく、危険な獣と強盗からの攻撃があり、また各地域には、すでに住んでいる土着民らがアブラムらを拒否し、威圧する可能性がありました。彼を取り巻く全ての環境は、拒絶という選択を指していましたが、彼は自分が住んでいたハランを離れ、長い旅路の冒険を始めました。彼は、自分の選択からどんな利得を得たでしょうか? アブラムには多くの財産がありましたが、最終的には一坪の土地も所有できずに、旅人として一生、どこにも定着できずに、砂漠のようなカナンの地域をさまよいました。彼の人生は、危険や失敗、苦難で、非常に不安定に見えました。住み慣れた安全な場所を離れるという冒険をしたアブラムの選択は、自分自身に危険と失敗、苦難をもたらしたのです。しかし、彼と全く異なる選択をした人物が、本文に登場します。父のテラです。テラも、アブラムのように自分が住んでいたウルを離れ、カナンの地に行きました。彼が、なぜ故郷のウルを離れたか聖書は教えません。しかし、確かなのは、テラの旅は信仰の理由で始まったものではありませんでした。テラは、カナンに向かう途中、ハランという所に止まりました。そしてハランに住みつきました。冒険を続けるより、一ヶ所に定着する方がもっと良いというのが、テラの最終的な選択でした。聖書の著者はテラを指し、意図的に住みついたという表現を使い、テラとアブラムの選択を対比させています。テラは、一生を渡り歩いた息子アブラムとは異なり、安全で住み慣れた場所に定着しました。テラの選択は、どのような結果を生んだでしょうか? 彼にもそれなりの困難があったでしょうが、アブラムのように、命を失うような危機には直面せず、アブラムのように多くの失敗をすることはなかったのです。アブラムのように見知らぬ場所にかかる負担から自由だったのです。いつも慣れていて自分が予想できる場所に留まり、リスクを避けて、何の変化もなく、今までの自分の姿そのままで、気楽に過ごすことができました。古代の中東社会においてテラの選択は、アブラムの無謀な選択とは異なり、非常に合理的かつ賢明に見えました。そして4000年が過ぎた今日においても、人々は相変わらず、アブラムよりも、テラの選択を好みます。神様は、ご自分の道具として用いられる機会を私達に開いて下さいます。しかし、その門が開かれているにもかかわらず、私達はその中に入ることを躊躇します。なぜなら、その門には成功と安全の保障がないためです。失敗する可能性と、それによって受ける危険がありすぎるように見えるからです。その門は信仰のほかには何の安全装置がない冒険のようだと思うのです。人々は危険に見える開かれた門を避け、安全で見える閉まった門へ行こうとしますが、そこには神様がおられません。一時的には安全かもしれませんが、実際には最も危険な選択なのです。自分の安全が最優先になると、私達はテラのような愚かな選択をするようになるのです。それなら、アブラムは一体何を最優先に選択しましたか?神様は、アブラムの名が祝福になるとおっしゃいましたが、誰の祝福となるのでしょうか?アブラムはこの世を生きている間には、私達が一般的に考える種類の祝福は、ほとんど受けることはできませんでした。しかし、アブラムは自分が選択したその旅をやめませんでした。なぜなら自分の旅が、神様のご計画が成就するための一つの通路となり、すべての民族に神様の祝福が流れるものと信じたからです。アブラムの選択には、神様と他人への愛が存在したのです。マルコ12:29-31が教えるように、これが私達の人生への最も明確な神様の御旨であり、私達の魂が最も切望する欲求なのです。自己愛ではなく、神様の御旨への従順、自分の隣人に祝福を伝えようとする愛、これが私達の選択を決定付ける最も重要な判断基準になるべきです。私達の選択には、神様と私達の隣り人が存在していますか? あるいは、自分だけが存在していますか? 私達は祝福を受けてばかりいるのではなく、神様と私達の隣人を愛するために、祝福の通路になるべきなのです。誰かを本当に愛するための選択には、必ず数多くの失敗が伴います。誰よりも自分自身を愛する私達の内面の汚れた利己心を直面しながら、相手を十分に理解し、愛するために、多くの試行錯誤を経験しなければなりません。このような失敗の繰り返しの中で、私達の昔の姿は、これ以上守ることはできなくなります。失敗や苦難を通して、今まで自分の中に固まっていた自我を一つずつ脱ぎ、新しい自分へと変化するようになります。神様が私達に最も関心を傾けられるのは、DoingではなくBeingです。私達が何を達成するかではなく、私達が神様の御前にどんな存在になるかです。私達が神様と隣人を愛するという、ご自分の御旨に従順な存在になることを望まれているのです。そのような存在になるための信仰の旅は、多くの失敗を要求します。失敗は痛いですが、失敗を経験しなくては絶対に得られない聖化の実が、私達の魂の中に美しく結ばれるのです。神様はその旅を通して、私達の内面をご自分の聖なる形にして下さるのです。

No.89『聖書的選択②:どのように行くか』    マタイ10:16~23

 罪人である私達人間は、自分の安全と繁栄を目的に選ぶために、何を選択するか、またどんな結果になるかを最も重視します。しかし神様は、私達が何をどれだけ達成するよりも、私達が神様の御前でどんな存在になるかに関心を傾けられます。それで神様は、私達が何を選択するか、どのような結果を作るかではなく、どのように選択するか、そして選択した道をどう行くかを重視されます。神様は私達の代わりに決められるのではなく、私達に選択する自由を下さり、私達自身が直接選択することを望んでおられるのです。オートバーグ牧師の表現を借りれば、"神様は命令通りするロボットのような存在ではなく、自分で決定できる人を育ててられるのです。"神様は、私達が神様に知恵を求めて一つ一つ決定する選択の過程を通して、私達の内面が変化していくことを望まれるのです。イエス様が弟子達を世界に送られた時、どこに行くかは、弟子達自身が選択しなければならないことでした。イエス様が弟子達に教えられたのは、どこへ行くかより、どのようにして行くかについてでした。「16 いいですか。わたしが、あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです。ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。」 弟子達に門が開かれている中、イエス様は彼らにどのようにその門の中に入っていくべきか、3種類の動物、羊と蛇と鳩についておっしゃいました。まずイエス様は羊を指して、「あなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです」とおっしゃいました。天におられる御父は、御子イエス様をまるで狼の中に入いる羊と同じ姿で、この世に送られました。罪によって壊れたこの世界は、あらゆる悪に満ちていますが、御父は御子イエス様を強くて有能な姿ではなく、私達のような弱い人間として送られたのです。そして、イエス様は獰猛な狼たちの攻撃に反撃なされず、十字架で死ぬまで御父に従われました。イエス様は意図的に弱く低くなられ、このような方法で世界に勝利されました。私達もイエス様に従って、この世に入る時は弱くなるしかないのです。イエス様の弟子達に、世俗的な方法は許されないからです。私達は狼の中に入った羊のように狼の攻撃にさらされて、試練を経験します。しかしその非常に逆説的な事実は、最終的な勝利は狼ではなく羊に与えられるということです。神様の目的のために、神様の道具として使われ用いられることができる門は、狼ではなくただ羊にだけに開かれるのです。愛して仕えるために弱く低くなる羊の姿、これが神様が開いて下さる門に入る方法なのです。イエス様は、二番目に蛇のようにさとくなるようにとおっしゃいました。イエス様は、私達が理想だけ高く、現実を全く知らない純真な夢想家でなく、世の中をきちんと把握し、それに見合う効果的な方法で働く賢明な弟子になることを望んでおられます。イエス様は、私達が教会の中だけにとどまるのではなく、世界の果てにまでご自分の証人になるとおっしゃいました。私達がイエス様のみ旨通りに生きるためには、創造主神様の啓示である聖書とその啓示を反映しているこの世、また自分自身と自分が影響を及ぼそうとする対象、つまり世界のいずれも理解し、賢明な選択をしなければならないです。これが蛇のように賢明に選択する方法です。最後に、イエス様は鳩のようにすなおでありなさいとおっしゃいました。私達は蛇のように聡明でいながら、その聡明さは必ず鳩のような純潔さで、バランスを取らなければなりません。私達が賢く行動しても、私達の心が純潔でないと、その賢さはずる賢く変化し悪用されるのです。オートバーグ牧師は"正しくない心で、正しい門に入るより、正しい心で間違った門に入る方がむしろましだ"と表現します。イエス様は弟子達の外的な行動が賢くなるだけでなく、内面も美しく成長することを望まれたのです。狼の中の羊のように、神様の目的のために弱まって低くなる謙遜さ、蛇のように聖書と世の中、自分自身と世の中を知る賢さ、鳩のような素直な内面。これがイエス様が私達に教えてくださった選択の方法です。私達の心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、神様が開いて下さった門の中に入る方法なのです。選択の瞬間に、神様はなぜ曖昧にされるのか? どうしてもう少し明確に教えてくれないのか?と悩まないでください。神様が見せられる曖昧さは、私達が選択の過程を通して成長することを望まれる、神様の善良な意図です。神様は、ただ一つの門だけを開いておき、私達にそれを探して入りなさいとは言われません。神様は、私達が何を選択するかより、どのように選択するかに関心を置かれます。私達の体と心と魂を尽くして入る門が、まさに神様の門なのです。謙遜で、賢くで純潔に開かれている門に入りましょう。私達のすべての選択と、歩む道の中で、神様の祝福がいっしょにあるのです。

No.90『聖書的選択③: 誰と一緒に行くか』      黙示録3:7~8

 聖書は私達人間の歴史を、閉じられた門から始まり、開かれた門へと行く旅として描写します。神様は、罪をおかした人間をご自分が住まわれていたエデンから追い出し、再びご自分の臨在の中に戻ることができないようにしました。また罪人である私達が、命の木に近づかないようにされました。命の木は、私達の命が生命の根源である神様との関係によって、維持されていることを表しました。しかし神様は命の木に行く道を、ケルビムという存在が守るようにしました。神様と共に行く全ての門が閉ざされた人間は、死という現実から避けられないようになりました。聖書は、このように閉ざされた門についての話で始まるのです。そしてこの閉ざされた門の現実は、神様が選ばれた民、イスラエルが神様に捧げた贖罪儀式の内容でした。至聖所は、神様が臨在されたエデンを指す最も神聖な場所でした。ここには誰も入ることができず、ただ大祭司だけが1年に1回、贖罪儀式のために入ることができました。至聖所の入口は、幕で隔たれていました。至聖所の入り口を塞いでいるこの幕は、神様のもとへ行く全ての門が、罪人である私達に閉ざされているということでした。神様は贖罪儀式を通して、神様の臨在に入ることができない私達の悲惨的な現実を表し、私達の唯一の希望は、閉じられた門を開いて下さる救い主しかいないことを教えたのです。イエス・キリストは、私達に閉じられた門を開いて下さるために、この地に来られました。イエス様が私達の罪のために死なれると、閉ざされた門を意味した神殿の幕が破れたのでした。私達の罪を償うため、イエス様の肉体が引き裂かれ、彼の死を通して私達が神様に近づかないようにしていた幕は、もはや必要ではなくなりました。私達が生命の樹に近づかないように守っていたケルビムは、これ以上必要なくなったのでした。私達の罪によって、神様とともに向かう門が閉じられていましたが、私達のために死なれたイエス様によって、その門は開かれたのです。神様を信じる神の子供には、生命の根源である神様のもとへ行く全ての門が開かれたのです。救いの現実は未来のことだけでなく、今私達が経験する小さな日常においても、すでに起きているということです。自分の人生に永遠の意味を加えることができる機会、神様の目的のために道具として用いられる機会が、キリストによって私達にすでに開かれているのです。私達はこの事実を信じて、神様と協力する機会、すなわち神様の門を探して、その中に入ろうとする人生を続けて生きなければならないのです。今日の説教本文は、神様の門を探す人々に与えられた御言葉です。この本文を受け取ったフィラデルフィア教会の人々は、みんなから尊敬さる英雄のような存在ではありませんでした。フィラデルフィア教会の人々が持っていたものは、少しばかりの力が全てで。彼らが入ろうとする門ごとに、出会う人々からいつも反対され踏みつけられました。彼らが神様に向かって足を踏み出すたびに、彼らを取り巻く全ての状況は、まるで門が一つもなく、壁にぶつかったように見えたのでした。しかしフィラデルフィア教会の人々は少しばかりの力を持ってでも、イエス様の御言葉を最優先し、イエス様の御名を否定しませんでした。あきらめず、続けて神様の門を探しました。どの門が正解かを先に悩むと、正しい門に入るのに不足した自分自身がまず見えてしまいます。しかし、誰が私達と一緒にいるかを先に集中すれば、私達は少しばかりの力を持っても、大胆に正しい門を探して入ることができるのです。門の開閉の守り主は、不足した自分自身ではなく、また厳しいこの世界の現実ではなく、私達の罪によって閉ざされた門を開いて下さる救い主イエス・キリストであることを悟るようになるからです。黙示録3:7は、こう言います。「また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。」門を開閉する鍵は、私達にはありません。この世のどんな力ある者にもありません。ただその鍵は、聖なる方、真実な方、ダビデの子孫、救い主イエス・キリストにだけあるのです。ただキリストだけが、真の門の守り主であるのです。門の守り主である神様が私達と一緒におられ、私達が神様に向かうすべての門を開いて下さるのです。イエス・キリストは、私達が神様や隣人を愛する人生を生きるように、たくさんの門を開けて下さっています。その門を探す中で、私達は冷たい現実の壁が自分を妨げることを感じます。どこに門があるか、全く見えない闇が私達を取り囲みます。しかしその恐怖の瞬間、今自分は誰と一緒にいるかを考えて下さい。私達は絶対に、一人ではありません。イエス・キリストがいつも私達と一緒におられます。イエス様は私達に少しばかりの力しかない事をよく知っています。しかし、門を開閉される権威が不足した自分自身ではなく、イエス様にあることを認めて真に頼る時、イエス様の栄光は私達の前を照らすのです。まるで車がヘッドライトが照らす5m先に従って目的地へ行くように、キリストは今日歩く分の十分な光を照らして下さいます。明日は明日歩く分の十分な光が与えられるのです。いつも曖昧で危険なようですが、その光を追っていく中で、私達は神様を本当に愛して仕える機会、誰かの涙をぬぐってあげる機会、誰かに暖かい言葉をかける機会、倒れている誰かを起こす機会など、数多くの神様の門を通るようになるのです。そして最後に到着する最終の門の中で、神様の完全な臨在は私達を暖かく抱きしめ、私達は永遠の安息を享受することになるのです

No.91『否定を肯定に覆されたキリスト』   マタイ7:7~12

 イエス様は、マタイ7章12節でこう言われました。「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」これは最も有名なイエス様の御言葉の一つであり、一般的にGolden Rule、"黄金律"と呼ばれてきました。実はこの黄金律は、イエス様が初めておっしゃったものではありませんでした。全世界的にイエス様よりはるか前の時代の多くの人々が、このような黄金律を教えました。代表的なものでは、紀元前2世紀に生まれたヒルレルという有名なラビはこう言いました。"何でも君が他の人の手によってやられることが君を逆上したら、その仕事を他人にするな。これが全体の律法である。"また東洋でも黄金律を教えた人がいます。紀元前6世紀に生まれてきた中国の孔子です。孔子はこう言いました。"自分が望んでいないことは、他人にするな。"以外にも全世界の多くの古代文書には、黄金律が書かれています。黄金律は、古代の宗教、道徳、哲学分野で広く知られた倫理原則であったのです。イエス様が教えられた黄金律と、他の人々が言った黄金律を比較すれば似ているようですが、形式の面で、はっきりとした違いがあります。その違いは何でしょうか? イエス様の黄金律は"~しなさい"という肯定型である反面、他の人々の黄金律は"~をするな"という否定形です。まるで法の禁止条項のように、他人に害を与えないようにするために、~してはならないという最小限のものだけを言及しています。非常に消極的な形の黄金律なのです。イエス様の時代には、多くの人々がこのような態度で神様の律法を扱っていました。律法の目的である神様と隣人を愛することに集中するより、律法に違反しないことによって儀式法的に自分が汚れないこと、自分が恥を受けないこと、また他人から疎外されないことに集中したのです。特に、宗教指導者たちは律法を通して、自分の社会的特権を守ることに集中しました。それで神様の律法を、自分たちが守りやすくして、有利になるように勝手に修正したのでした。律法が要求するものに対して、本来よりももっと狭く制限し、律法が許容するものをもっと広く拡大しました。結局、宗教指導者から一般人に至るまで、律法を扱うユダヤ人の心には、神様と隣人への真の愛が欠けてしまい、これによって彼らは常に消極的な態度で、律法を守るようにしました。結局、律法の意図とは正反対に、彼らは律法で自分の利己心を満たし、自分より弱い人々を抑圧する手段として律法を歪曲させてしまいました。律法の本当の目的よりも、形式に執着していたユダヤ人たちのように、今日の人々が持っている他人の人々の親切と思いやりには、相手を愛する心より、円満な関係を作って、他人との対立を避け、周囲から自分を守ろうとする考えがもっと大きいでしょう。したがって、深くない関係では、親切と配慮をしますが、誰かが試練の中で涙を流す時、予期せぬ不幸に苦しむ時、人生の重要な決定を控え迷って恐れる時、大切な誰かを送り、喪失感と孤独に落ち込む時、その人の人生の中に、足を踏み出すことを躊躇するのです。誰かが自分の話を聞いてほしい時、誰かの温かい言葉が必要な時、誰かが自分のそばにいてほしいとき、その人のそばに先に近づくことをためらってしまいます。"無駄な関心で相手の心を不便にしないように、無駄な慰めにその人が自分に負担な期待感を持たないようになど、"~しないように"という否定形の黄金律が、人の心を支配するためです。否定形の黄金律は、私達自身にとって愛のために担うリスクと犠牲を恐れるようにして、他人との関係で消極的に、また受動的にようにするのです。結局、神様と隣人への本当の愛から遠ざかるようになるのです。しかし、イエス様が教えられた黄金律は否定型ではなく、肯定型です。"しないように"ではなく、"しなさい"です。"あなた自身に起きることを望まないことを、周りの人にするな"という否定形の黄金律を、イエス様は肯定型にくつがえしました。"何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。"これは、何を意味しますか? イエス様が私達に望まれる愛は、単に道徳的に誤ったことをしないことよりも、もっとはるかに高く広く、また深いことなのです。イエス様の黄金律は、私達が何をおかさなかったかより、私達がどのように神様と隣人を愛したかに注目するのです。私達がどのような態度で愛したかに、イエス様の関心があるのです。イエス様から出てくる愛は消極的なものではなく、積極的であり、受動的ではなく、いつも能動的です。イエス様は、数多くのリスクがあるにもかかわらず、私達が積極的に、能動的に隣人に近づき、彼らを慰め抱いて涙をぬぐいながら、仕えて、助け、愛することを望んでおられるのです。否定形の黄金律は愛の範囲を制限しますが、神様が教えられる愛は、限界を設定しません。いつも周りの人たちの人生と、彼らが何を求めているのかに関心を持ち、"もし私がそのような状況になれば、他の人々から自分にどのようにしてほしいか?"という聖なる想像をしながら、その人をどうやって仕えるか、創造的に考え出して、その人に、先に近づき行動で実践すること、これがイエス様の黄金律が教える他人への愛なのです。このような愛こそが他人に、神様がどのような方なのかを感じさせ、その人の心を動かし、その人を神様のもとへと案内するのです。イエス様の黄金律は、私達に限界のない愛を教えるため、どんな法よりも従いにくいのです。罪人である私達の力では、絶対に実践できないのが、この黄金律です。しかし、神様の子供にはこの黄金律の人生を生きることができる力が与えられました。 既に私達は、積極的で能動的な愛を、神様の恵みによって受けたからです。神様は、人間となられたイエスキリストの中で、罪人である私達に先に近づかれました。そして私達の罪の代わり、死なれ復活されたキリストの中で、積極的にまた能動的に、私達を愛してくださいました。その愛によって、私達は救われました。その愛によって、私達は神様の子供となりました。すでに神様から与えられたその愛で、周りの人々を愛してください。ご自分の子どもにいつも良いものだけを下さる神様の恵みが、石の板ではなく、私達の心の板に刻まれました。自分の心に刻まれたその恵みを信頼し、世界が教える否定の黄金律から出て、肯定的な黄金律へと一歩一歩進んでください。先に近づき、聖なる想像をし、創造的に仕える私達を通して、律法と預言者であるこのキリストの黄金律の福音が、世界中に届くことを神様の御名で祝福します。

No.92『教会のメンバー①キリストのからだ、各器官』  Ⅰコリント12:12~13:13

 数週間に渡って"教会のメンバー"というテーマで、アメリカ人牧師トム・S・レイナーが書いた「私は教会のメンバーです」という本をもとにシリーズ説教を致します。説教本文のⅠコリント12・13章は、コリントという地域の教会に属しているクリスチャン達に、パウロが教えた内容です。当時のコリントの教会は、私達よりもはるかに多様な背景を持った人々によって、構成されていました。シナゴクで厳格な律法の伝統で生活したユダヤ人たちがいたり、またこれとは全く異なる背景の異邦人達がいました。異邦人クリスチャン達は、キリストを信じる前は、あらゆる神々に同時に仕える、多神教的な背景で、非常に自由な宗教生活を送っていた人々でした。そしてコリントの教会には、身分が奴隷である人々がいて、自由人もいて、経済的に豊かな人も、貧しい人もいました。コリントの教会の人々は同じイエス様を信じていましたが、考え方や文化的価値観があまりにも異なったお互いを見て、否定的に思いました。他の人が持っている賜物と役割を、自分自身のものと比較しながら、非難や嫉妬したり、また劣等感あるいは優越感を感じていました。自分とは異なる他人の存在を認めない人々が、コリント教会内に多く存在していたのです。このような人々に、パウロは教会を人間の体に例えて説明しました。教会に属する人々は、聖霊によってキリストという一つの体になりました。しかし、私達自身の体を見ると、体は手、足、耳、鼻、口、腕や足など、様々な器官で構成されています。体に属する各器官には、各自の役割があり、一つの体を実現するために必ず必要な部分なのです。教会のメンバー、つまり教会の構成員とは、個人が全体に必ず必要な部分であることを意味します。体の各器官は、存在する理由が必ずあります。私たちの体に属している器官の中に、理由なく存在するものは、一つもありません。教会において、自分自身または、他の兄弟姉妹たちが必ず必要な部分であることを認めなければ、私たちを、キリストの体にさせられる聖霊様を、冒涜することになります。私たちが、神戸めぐみチャペルに属するようになったことは、決して偶然ではないのです。聖霊が、私達がキリストを信じるように助けて下さり、私達をここへと導かれたからです。聖霊は私達の人生にとって、必ず必要な教会へ導いて下さったのであり、必ず必要な兄弟姉妹たちに会わせて、自分も教会にとって、また他の兄弟姉妹たちにとって、必ず必要な存在として立たせて下さったのです。これが私達が神戸恵みチャペルのメンバーという事実の、最初の意味です。聖霊様は、私達一人一人に、それぞれ異なった賜物を与えられました。神戸恵みチャペルで、皆さんご自身の代わりとなる人は、誰もいません。ただ自分にだけできることがあります。したがって、自分までわざわざ教会の活動に参加する必要がないという考えは、聖書的ではありません。体から離れると、聖霊様が自分に下さった賜物と存在の価値が、聖霊様の意図通り用いられることができないのです。体から離れて、自分一人で霊的に生存することはできないのです。私達が体に属して、自分の使命に忠実になる時に、私達の本来の価値が輝くのです。他人に対しても、同じです。自分がいくら有能でも、他の兄弟姉妹の賜物と存在の代わりになることは、できません。私達は、必ず自分とは異なる兄弟姉妹たちに依存してのみ、生きていくことができます。したがって、他人と比較して嫉妬したり、また自分の影響力と存在感に執着するのは、意味がないのです。教会の中においては、比較対象ということがなく、一人一人が唯一の存在だということです。教会のメンバー、つまり教会の構成員というのは、私達はそれぞれ異なり、互いに協力する存在であることを意味します。これが、私達が神戸恵みチャペルのメンバーという事実の、二番目の意味です。最後の三つ目、教会のメンバーというのは、自分のすべての言葉と行動を、聖書的な愛を基盤としなければならないということです。Ⅰコリント13章は"愛の章"と呼ばれる有名な本文です。この本文はもともと、パウロがコリントの教会という地域教会の人々を対象に、お互いをどのようにするべきかについて教えた御言葉です。私達は弱い人間ですから、教会のすべての兄弟姉妹が愛らしいものとは限りません。しかし私たちは愛する理由があって、愛するというレベルを越えて、愛らしくない行動をしたり、性格を持つ兄弟姉妹まで、愛するべきです。愛の無い教会奉仕は、意味がありません。教会の全てにおいて優先順位は、働きの効率ではなく、お互いへの愛なのです。したがって、教会のメンバーは、教会の何が間違っているか、教会の誰が問題なのかを指摘し、不平を言い分裂させるより、教会にとって、兄弟姉妹達にとって、何が最善なのかを探しながら、全員で協力するようにします。教会のメンバーシップは、無条件的な愛と奉仕を基盤することです。これが神戸恵みチャペルのメンバーという事実、最後の三番目の意味です。教会のメンバーシップは、部分的ではなく、みなが自分の役割を遂行するメンバーシップです。私達全員は、キリストの一つの体に属する器官として、聖霊様から頂いた賜物と能力を持っています。私達は"どうすれば、教会に最もよく仕えることができるだろうか"と、自分と神様に質問しなければなりません。私達は"どうすれば、私達全員の賜物が、教会のために最も美しく用いられるか"について、一緒に祈り追求しなければなりません。覚えてください。私たちは、キリストの体であり、各器官なのです。

No.93『教会のメンバー②:連合する信徒』   エペソ4:1~3

 イエス様は亡くなられる前日、ご自分の弟子達のために、このように祈られました。ヨハネ17:21「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。」イエス様は、私達が一つになることを祈られました。私達が、まるで一つの体に属した各器官のように、互いに異なりますが一つになった姿を見て、人々が教会が世界のいかなる集団とも違うということを悟り、イエス・キリストを信じるようと祈られました。つまり、イエス様はここに集まった私達一人ひとりを、教会の連合に貢献する信徒として呼ばれたということです。教会の連合は、私達が選ぶことができる多くのオプションの一つではありません。教会のメンバーは、犠牲を覚悟してまで、教会の連合を守っていく責任を持つ存在なのです。それでは、私達は教会の連合をどのようにして追求できるでしょうか。教会の人々を、一にするものは何でしょうか。使徒パウロは、この質問にこのように答えます。コロサイ3:14「14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。」教会の中で何よりも重要なことは、愛だとパウロは、はっきり言います。どのような大切な賜物も、愛がなくは、その意味を失うことになります。教会の人々は、互いに異なった背景を持って違う経験を持ち、異なる性格を持っていますが、愛はこのすべての違いを、完全な調和の中で一つにまとめあげる帯だということです。教会の連合において最も重要なカギ、それはまさに愛です。この説教本文は、パウロがAD60-61年、監獄に閉じ込められていた時に、エペソ教会の信徒達に書いた手紙でした。パウロは、暗い刑務所で苦しい日々を送っていました。しかし、エペソ教会についての話を聞くたびに、パウロは大きな喜びと慰めを感じました。なぜならエペソの教会は、愛があふれる共同体として、その地域に広く知られていたからでした。エペソ1:15~16「こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。」ここでパウロが、神様に感謝している理由は何でしょうか? それはエペソ教会の信徒達が持っていた主イエスに対する信仰、そしてすべての信徒に対する愛です。エペソ教会の信徒達は、イエス様に対する信仰が、教会の兄弟姉妹たちへの愛となっていました。キリストの愛の福音が、頭だけに留まるのではなく、彼らの人生に深く入り込んでいました。そしてこうしたエペソ教会の姿が、説教本文のエペソ4章の背景になります。「3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」あなたがたが、今のように平和の中で、互いを愛し一つとなることができたのは、聖霊様が与えられた恵みです。現在、あなたがたが持っているこの愛の連合を大切にし、今後も続けて守って下さい。"とパウロは励ましました。すべての信徒に対する愛は、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、金持ちであれ、貧しい人であれ、人を区分するすべての境界を崩し、みなを一つにまとめる聖霊の実でした。連合したエペソ教会は、福音の受肉そのものになったのです。しかし、教会生活の中では、 分裂と葛藤が起きたりします。分裂と葛藤の要素は、本当に様々ですが、このシリーズ説教の参考図書である"私は教会のメンバーです"の著者レイナー牧師は、数多くの分裂の要素のうち、一つに注目しました。それは、悪口と否定的な言葉です。これは聖書が注目する分裂の要素でもあります。ローマ1:29~31は、人が作る数々の罪を、あげています。この罪のリストのうち、注目すべきことは29節の終わりと、30節の最初に書かれている「陰口を言う者、そしる者」です。私達が陰口を言う時やそしる時、私達はその人のために祈りません。その人にとっての最善が何かと考えるのではなく、その人の短所や、間違いばかりを集中して考えるのです。そしてその人に近づくことではなく、距離を置き、自分の周りの人々にその人に対する批判をし、否定的なことを言います。陰口を言うこと、そしることは、どの集団においても、人々を分裂させる最も大きな要素として作用します。陰口を言うこと、またそしることは、信仰継承に最も大きな障害となり、子供を教会から引き裂く最も危険な行動の一つです。私達の唇と舌が、人の魂に多大な影響を及ぼすのです。レイナー牧師はこう言います。「陰口の根源とならないでください。誰かがあなたと一緒に陰口を言おうとしたら、丁重に断ってください。このようなメンバーたちが教会に数人もっといれば、いい影響が広がり始め、教会は喜びと連合の場所になるのです。」それでは、私達は連合の根源となるため、他の兄弟姉妹をどのように具体的に愛さなければならないでしょうか?聖書本文の2節に、その答えがあります。「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、」ここで注目するのは、最後の言葉、"愛をもって互いに忍び合い"です。つまり互いに赦し合いなさいということです。使徒パウロはここだけでなく、コロサイでも同じ言葉を繰り返します。コロサイ3:13「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」すべての教会は、不完全な教師と不完全な信徒で構成されています。私達全員は不完全であるため、罪をおかし、間違え、矛盾的なのです。しかし私達は、このような互いを忍耐し、赦すことができます。教会は赦された経験を持っている者達だけが、集まるからです。イエス・キリストが不完全な私達のために、死なれ赦されたからです。したがって、赦された私達は、他の人々を赦さなければなりません。赦しは、福音そのものであり、教会は赦しの共同体にならなければなりません。他の人への赦しが、私達一人ひとりの心に深く根ざす時、人々は世界の共同体とは異なる私達の連合を見て、私達が信じているキリストを見るようになります。

No.94『教会のメンバー③:イエス様のように自分を空しくし仕える』  ピリピ2:1~11

 このシリーズ説教は、レイナー牧師の"私は教会のメンバーです"という本に基づいています。この本の3章のタイトルは「自分の好みや願望を、教会に押しつけない」です。この章が基礎とする聖書の節は 6-8節「6 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、8 自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」これらの節は、ピリピの中で最も有名な本文の一つとして、クリスチャンが模範とすべきキリストの謙遜と従順を強調する時に、主に引用されます。しかし、これに対して聖書本文の著者であるパウロが、一体なぜ、このようなキリストの御心を見習うべきとしたのか、その理由と目的は、あまり注目されていないのです。パウロは、ピリピ教会の人々に、何のためにキリストの御心を見習うべきだと、励ましたのでしょうか。答えは2節にあります。「あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。」パウロがピリピ教会の人々に、キリストの謙遜を見習いなさいと言った理由は、一つになること、つまり教会の連合のためだったのです。教会が一致するためには、すべての兄弟姉妹達が、キリストと同じ心で互いに仕えるべきだということなのです。教会の人々の多様性が尊重されながらも、愛の中で一致すること、このような教会の連合が、イエス様の御心です。これと共にパウロがピリピ教会に、特別に教会の連合を強調した環境的な理由がありました。ピリピ教会の信徒達は、互いに背景が異なる中、自分の好みや願望を教会に押しつけることが、時々起きたためでした。信徒達は互いに民族と血統が異なり、経済的水準や価値観、考え方も異なりました。このような多様な人々が集まって、教会の事について合意をなすのは、決して容易ではありませんでした。ピリピ4章を見ると、ユウオデヤとスントケという女性の信徒リーダー2人が争う事件が出てきます。このように互いに考えの違いがある場合、互いに深い傷を残して教会を分裂させる争いに、つながることもありました。パウロは多様さの中で一つになるためには、皆がキリストのような心で、互いに仕えるべきだということを強調したのです。レイナー牧師が代表として所属されている教会研究チームは、牧会が教会の外の人々よりも、主に教会の中の人々に集中する教会を調査した中、これらの教会には、信徒達が自分の好みや願望を教会に押しつける傾向が強いということを発見しました。そして、このような信者達の10種類の行動パターンを見つけました。第一に、礼拝のことで争うということです。自分が好きな礼拝の形や音楽に執着し、礼拝の変化があると怒ります。第二に、些細な集まりで非常に多くの時間を使います。教会の本質的な部分や、宣教についての集まりよりも、本質以外のことで、あまりにも多くの集まりを持ち、過度に時間を浪費します。第三に、施設への執着です。教会の施設が、偶像となるのです。第四に、プログラムに執着します。プログラムを牧会の手段ではなく、目的そのものにしようとすることです。第五に、内部志向的に教会の予算を使おうとすることです。地域社会に仕えたり、教会外の伝道の対象に近寄って福音を伝えることよりも、信徒達の欲求を満足させることに、過度に多くの予算を支出しようとすることです。第六に、牧師や役員など、教会のリーダー達からのケアを過度に要求します。第七に、権利を主張する態度を示します。自分が特別な待遇を受ける資格があると考え、それを人々に要求するのです。第八に、福音より変化にさらに敏感になることです。変化を防ぐことには熱情を傾けますが、誰かの人生に大きな影響を及ぼす福音の働きには、情熱がありません。第九に、怒りと敵対心です。教会のリーダー達や他の信徒達に、よく敵対心を表現します。最後十番目、福音伝道に関心がありません。自分の信仰を他の人々と分かち合ったことが、ほとんどありません。自分が属している地域社会と、この世界に何が必要なのかには関心がなく、自分の欲求にだけ集中します。レイナー牧師は、今まで挙げたこのような行動を見せる信徒たちは、主に自分自身だけを重視する傾向を示すと話します。しかし、使徒パウロによると、教会のメンバーシップは自分に仕えるためのものではなく、ほかの人に仕えることだと強調します。パウロはピリピ教会の信徒に、互いに異なるが一つになりなさいと励まし、このような教会の連合のために、イエス様のように仕えなさいと教えました。イエス様は罪人である私たちに、どのように仕えられたでしょうか?キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えませんでした。ご自分を空しくして、しもべの姿をとりました。自らを低くされました。死にまで、それも十字架の死にまで従われました。教会は、キリストの御体です。教会は、キリストの御心を反映する場所にならなければならないのです。人より自分を低くして、自分をむなしくし、自分を低め、兄弟姉妹たちに仕えること、これがまさに教会のメンバーシップです。教会のメンバーシップは、自分の権利という基準で定義されるのではなく、キリストの御心という基準によって、定義されるのです。私たちが、自分の好みや願望を教会に押しつけると、教会は私達自身にとって愛と感謝の対象ではなく、常に自分が与えたほど受けることができない、いつも自分自身を十分に満足させない怒りと不満の場所に、変貌するのです。しかし私たちがキリストの御心に沿って、自分を空しくし教会に仕える時、福音はもはや曖昧なものではなく、かなり具体的で鮮明な形として、自分の人生の中で体験されるのです。教会は、感謝と喜びの対象になるのです。イエス様が教えられた福音は、初めの者が後なり、後の者が初めの者となる現実を話します。高い者が低くなり、低い者が高くなる現実について話します。このような福音の現実が、私たちの中で受肉される時、教会は謙遜に私たちに仕えられたキリストの中で、どのような世界の波風にも揺れない、堅固な連合の共同体となるのです。 私たちは、教会のメンバーとして、このような尊い仕える使命へと招かれているのです。

No.95『教会のメンバー④:教会のリーダーのために祈る』    ローマ15:30~33

 当時、パウロは多くのユダヤ人の敵になっていました。イエス様は、ユダヤ人社会で神性冒涜者や宗教の異端と見なされ、憎しみの対象でした。そんなイエス様をパリサイ人であったパウロが熱烈に追従し、イエス様を救い主だと主張しました。またそれだけでなく、パウロはユダヤ人ではなく、異邦人を対象に宣教活動をしたため、ユダヤ民族の裏切り者とされ、ユダヤ人クリスチャンの中においても、彼を嫌う人が多かったのです。ユダヤ人の敵となったパウロは、安全上絶対にユダヤ人達が多い場所に行ってはならなかったのです。その中でも、エルサレムは最も危険な場所でした。なぜなら神殿があるエルサレムは、ユダヤ人たちの心臓部と同等の場所だからでした。当時エルサレムは飢饉のため、財政的に深刻な困難を経験していました。パウロはエルサレム教会のユダヤ人クリスチャンたちを助けるために、マケドニアとアカイア地域の異邦人クリスチャンたちに援助をお願いしました。すべての教会は、神様の家族として苦しい時に助けることが当然であるためでした、またエルサレムのユダヤ人クリスチャン達が、マケドニアとアカイアから愛の援助を受けたことによって、異邦人クリスチャンたちへの彼らの敵対心が解かれることを願っていました。それでパウロは支援献金を渡すために、危険を冒してまで、エルサレムに行くことを決めました。パウロは、31節前半でローマの信徒達に、このようなお祈りをお願いします。31 私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、すぐにエルサレムへ行くことになるパウロは、自分のことを憎しむユダヤ人非信者達から、安全に守られるようにお祈りをお願いしました。これが、教会のリーダーのために祈らなければならない私達の最初の祈りの課題です。私たちは教会のメンバーとして、教会のリーダー達が守られるように祈らなければなりません。なぜなら、教会のリーダーたちが行うことには、様々な危険要素が伴うためです。そしてパウロはローマの信徒達に、このように祈りをお願いしました。31節後半と32節。31b エルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるように、32 また、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところに行き、あなたがたとともに、憩いを得ることができるように、祈ってください。パウロは、エルサレム教会が異邦人クリスチャン達の支援献金を拒否せずに、喜んで受けられるよう、そして自分の働きが神様の御心によって導かれるようにお祈りをお願いしました。これが教会のリーダーのために祈らなければならない私達の二番目の祈りの内容です。私たちは教会のメンバーとして教会のリーダーたちの働きが神様の御心によって導かれるよう、実を結ぶように祈らなければなりません。パウロは第一テモテ 3:1でこう言いました。 「もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである。」パウロはリーダーの職分に就きたいと思うことが、立派なことだと教えました。教会のリーダー達のために祈り、励まし、彼らの家族を配慮する文化が教会の中に定着すると、教会のリーダーシップへの肯定的なイメージが、私達の心の中に形成されます。パウロの励ましのように、たとえ自分が足りなくても神様に委ねながら、職分を通して教会に仕えたいという希望が生じます。このような霊的な雰囲気の中で、教会に仕えることがどれだけ嬉しく、感謝なことかを肌で感じるようになるのです。教会のリーダーのためにお祈りすること、これが神戸恵みチャペルがするすべての牧会の原動力になることを神様の御名で祝福します。

No.96『教会のメンバー⑤: 家族を教会に導く』  エペソ 5:21~6:4

 家族という共同体は、夫と妻の結婚で生まれます。夫と妻の結婚は、家族の基礎なのです。そして結婚は、ただ夫と妻が法的に婚姻関係を結ぶことだけを意味するのではなく、将来完成されるキリストと教会の結婚を示す標識です。この福音を指して、パウロはこう言います。32節「この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。」夫と妻が一つになって成す家族は、キリストと教会が一つになって完成される未来の家庭を映す鏡なのです。キリストと教会が家庭の中に反映されること、これが家庭への神様のデザインなのです。家庭の中のすべての関係、つまり夫と妻、両親と子供の関係の中に、キリストとキリストの体なる教会が、中心となるべきだとパウロは教えているのです。それなら、キリストと教会を中心に私達の家庭を建てるためには、何が必要でしょうか。パウロは、夫と妻の関係についてこう言います33「それはそれとして、 あなたがたもそれぞれ、自分の妻を自分と同じように愛しなさい。妻もまた、自分の夫を敬いなさい。」また、パウロは両親と子供の関係についてこう言います。6:1 「子供たちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。」4 「父たちよ。自分の子供たちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい」パウロは、教会へのキリストの愛を家族に適用すべきだと教えます。イエス様が教会を無条件的に愛されたように、私達も家庭の中で無条件的に互いに仕えて愛すること、これがキリストが中心となる家族なのです。キリストが中心となる家族になるためには、互いに対する無条件的な愛と一緒に、もう一つ私達が忠実すべき使命があります。それは家族が教会に忠実になるよう励ますことです。私達が家族をさらに深く愛そうと、努力しなければならないように、家族が教会をもっと深く愛するように、家族を励まさなければなりません。キリストの体の教会が家族の中心となってこそ、キリストが中心となる家族が立てられるからです。キリストと教会は絶対に分離されることはなく、いつも共に存在するからです。レイナー牧師は家族が教会をもっと深く愛するよう、導くいくつかの霊的な活動を提案します。1つ目は、家族と一緒に教会のためにお祈りすることです。食事をする前、寝る前、いつでもいいのです。家族が共に集まって、教会のためにお祈りする時間が必要だということです。先週の説教のように、教会のリーダー達一人ひとりのために、具体的に祈ることが必要です。彼らと彼らの家族が様々な危険要素から守られるように、働きが神様の導きを受けて、実が結べるように祈りましょう。また困難な中にある教会の兄弟姉妹のために、また求道者たちのために祈りましょう。教会の全体的な働きが、神様の栄光のために用いられるようにお祈りしましょう。教会のために具体的に祈る中で、家族は教会の肯定的な面だけでなく、問題点も深く考えるようになるのです。しかし、私達が真に祈る中で、神様は祈りの対象へのご自分の無条件的な愛を、私達に分けて下さいます。それによって、私達は自分自身を含めて教会のすべての兄弟姉妹たちが、弱い存在であることを理解し、彼らを赦し、抱きしめる成熟な愛を学ぶようになります。家族が教会のために一緒にお祈りするとき、教会への私達の愛は、ますます深く広くなっていくのです。最後に2つ目は、家族と共に礼拝することです。私達は家族の構成員として、教会で一緒に礼拝をささげるよう、導く使命があります。家族を礼拝に導くためには、何よりもまず自分自身が礼拝を慕わなければなりません。日曜日に神様に礼拝するその時間を、何よりも渇望して期待する切実さ、神様と交わる礼拝時間を、何にも変えられない自分の一番大切な優先順位にする切実さが周りに伝わってこそ、私達の誘いは説得力を持つようになるのです。教会への自分の愛を家族が見ることができれば、私達の誘いは影響力が起こるのです。礼拝を慕う切実さと、教会への熱い愛をもって、私達は配偶者をまた、子供達を教会に導かなければならないです。クリスチャンが人口の0.5%に過ぎない日本の教会では、家族がクリスチャンである場合より、自分だけまたは家族の一部がクリスチャンである場合が多いのです。パウロは神様をまだ信じていない配偶者を持つクリスチャンたちに、このように教えます。Ⅰコリント7:14「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖なるものとされており、また、信者でない妻も信者である夫によって聖なるものとされているからです。そうでなかったら、あなたがたの子供は汚れていることになりますが、実際には聖なるものです。」16「妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。」信じていない配偶者や子供や、兄弟や親を持つ全ての教会のメンバーは、彼らにキリストを証する使命があります。信じていない家族の中で、自分だけ神様を信じるようになって教会に通うのは、それは決して偶然ではないのです。それは永遠の前から神様が立てられた計画であり、選択でした。自分に与えられた信仰は決して一人だけのものではなく、家族と共に共有するためのものです。神様は、信仰を持った私達に、家族を宣教の対象として頂いたのです。未信者の家庭で、信仰者として信仰生活をすることは決して易しくはないことです。時には、自分の信仰を理解できない家族の視線の中で、圧迫感を感じる時もあったり、家族を家に残して一人で礼拝しながら、寂しさを感じることもあるのです。長い年月が経っても、変わらない家族の態度を見ながら、時には疲れて絶望感を感じる時もあるでしょう。しかし、希望を失わないで下さい。絶対に、あきらめないで下さい。なぜなら自分の信じていない家族を一番愛している方は自分ではなく、神様なのです。神様は誰よりも、私の配偶者と子供と、兄弟と親を愛され、彼らの救いを望んでおられます。私達が礼拝を心から慕い、教会を深く愛し、私達の家庭を世の中の愛とは異なる、神様の無条件の愛に仕え、教会生活を誘う時、神様は私達を祝福の通路として用いて下さいます。神様は私達を通して、私達の家族を教会へ導いて下さるのです。

No.97『闇と自我』      ヨハネ12:20~26

 イエス様に近づいた人々は、ギリシア人達でした。異邦人である彼らには、ユダヤ人達の宗教を信じる理由が全くありませんでした。しかし、彼らは真理を探すため、自分の人生のすべてをかけて、ユダヤ教に改宗した人でした。さらに、彼らはユダヤ人たちの祭りを清く守るために、毎回エルサレムまで遠い巡礼道をいとわない敬虔の信徒でした。自分の信仰と自分の人生について、誰よりも真摯で献身的な人々が、まさに彼らでした。そんな彼らに、イエス様との出会いが、大変大きな意味を置いていたことは、はっきりしています。イエス様という聖なる存在を通して、自分の人生がさらに豊かになることを望んでいたのです。自分の人生がもっとたくさんの実を結ぶことを望んでいたのです。自分の人生がもっと幸せになることを望んでいたのです。イエス様によって自分の未来がもっと明るくなってほしいと期待感で、彼らの心は膨らんでいたのです。しかし、イエス様はこのような期待を、徹底的に壊しました。イエス様はこうおっしゃいました。23すると、イエスは彼らに答えられた。「人の子が栄光を受ける時が来ました。24まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。イエス様は実を沢山結ぶため、何が必要だと教えられましたか? "死ななければならない。実を結ぶため、あなたは必ず死ななければならない。"再び、イエス様はおっしゃいました。25節です。25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。イエス様は生き残るために、永遠のいのちに至るために何が必要だと教えましたか? "自分の命を憎みなさい。"つまり、"あなたは生きるためには、必ず死ななければならない。"ということです。このように私達人間の常識に逆説的で矛盾なのが、キリスト教の主要出来事であるイエス・キリストの復活なのです。復活とは、再び蘇ることを意味します。再び蘇るために、イエス様は先に死なれました。墓の外に出るために、イエス様はまず墓の中に入られました。喜ぶために、イエス様は先に試練を経験されました。復活するために、まず死ななければならないというのは、私達クリスチャンには慣れた教理です。少なくともその事実を、イエス様に適用する時は、平凡な常識のように感じられます。しかし、イエス様ではなく、自分自身に適用してみる時はどうですか? 先に死ななければならないという事は、非常識になります。何故ならば、私達は死ぬことに対して恐怖と抵抗感を感じるからです。もちろん、聖書本文で、イエス様がギリシアの人々に要求されたのは、肉体的な死ではなく、自我の死です。聖書で自我とは、自分に対する過度な愛着と、それによる自分の誤ったアイデンティティのことです。自分を創られた、創造者神様を排除したまま、持つようになった自分自身に対する考えです。自分の能力と人格についての自信、あるいは自分自身に対する侮蔑感、また自分が持っている哲学や知識、常識も自我の一部となります。肉体的に死ぬことだけでなく、自我が死ぬことに関しても、私達は大きな恐怖と抵抗感を感じます。なぜなら自分の自我の一部でも失うなら、私達は言葉で説明できないほどの大きな苦痛を感じるからです。私達の自我が揺れるのは、人生の明るい時ではなく、闇の時です。肉体的、精神的に疲れて苦しい時、悲しくて絶望する時、人生が無意味で空しく感じられる時、健康を失い、未来への心配で何もできない時、周囲の状況が自分を圧迫する時、愛する人の苦痛を解決してあげることができず、無気力になる時、自分への不満と否定的な考えに陥って、自己嫌悪を感じる時に、自我が揺れます。このような闇の時間を迎える時、私達は初めて自分自身について、真実だと信じてきた考えの一つひとつを疑うようになります。そして自我に対する葛藤の中で、私達は自分の存在自体が裂けるような、心の苦痛を感じるようになるのです。しかし、人生の闇の中で死の力に勝利された救い主イエス・キリストを信頼し、自分自身に対する信頼を失うと、得るものがあります。霊的な視線を回すと、以前には見えなかったことが見え始めます。 私達は闇の中でご自身を失いましたが、新しい自分を発見します。私達は、暗やみを通して、忠実なクリスチャンとして生まれ変わります。イエス様は私達の罪の代わりに、死なれました。墓の中の深い闇の中で、辛い時を過ごしました。しかし、イエス様は、結局、死に勝利され、墓の外に出られました。復活されました。イエス・キリストの復活があるので、闇は闇で終わりません。復活があるので、墓の中の闇は、いつか減少していき、必ず光へとつながります。復活があるので、闇は喪失の場所に終わるのではなく、新たなアイデンティティを持って、生まれ変わる新しい生命の子宮になります。闇は私達に必ずやって来ます。そして闇は、自我の喪失へと、私達を招きます。恐れが、私達を誘惑するのです。恐れが私達を脅迫するのです。しかし、避けないでください。復活への信頼の中で、人生の本質的な問題を直面する時、イエス様は、私達といつも一緒におられるのです。毎日、イエス様と共に死に、イエス様と共に蘇る時、私達は多くのことを失いますが、それとは比較できない、貴重な復活のまことの福音を、毎日の日常の中で、深く体験することになります。

No.98『神様への分かれない心』   申命記6:4~9

 この聖書本文は、数千年にわたって敬虔なユダヤ人の親が、子供に反復して聞かせた神様の御言葉です。ユダヤ人達は、この本文を「シェマー」と呼びます。"シェマー"はヘブライ語で、"聞け"という意味です。この本文が"聞け"という言葉で始まるので、"シェマー"という名前を付けたのです。親は子供達が言葉を話すようになると、シェマーの御言葉にメロディをのせた歌を歌います。シェマーは歴史的に数千年間、ユダヤ人にとって心の歌でした。ユダヤ人だったイエス様も、父ヨセフと母マリアからシェマーを学んだのでした。しかし、イエス様は単に親からよく聞いたり、またご自分がユダヤ人なので、シェマーを好きになられたのではありませんでした。イエス様はシェマーの外部的な要素ではなく、神様の御言葉のシェマー、それ自体を愛しておられました。マルコ12:28-31でイエス様はシェマーとレビ記の御言葉を引用して、律法の本質を教えられました。イエス様は神様を愛すること、そして隣人を愛すること、これが律法の核心だと言われたのです。しかし、イエス様は29節、つまりシェマーの始めの部分である『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。』も引用されました。この文章まで引用された理由は、何でしょうか?この文章をじっくり検討してみると、シェマーの意味は私たちが考えるよりも、はるかに豊かであることを感じるようになるのです。第一に、"聞け"という言葉の意味を見てみましょう。私たちにとって"聞く"という意味は、主に"音を聴覚的に認識すること"を意味します。しかしヘブライ語のシェマーは、耳を通して伝達する音波を、頭の中で処理する精神的な活動だけでなく、行動で反応する物理的な意味まで含んでいます。Lois Tverbergという作家によれば、現代社会では、西洋文化の影響で精神的な活動と、物理的な活動を区分する傾向があります。しかし古代中東社会では、精神的な活動と物理的な活動は、密接に結びついていると考えていました。"聞け"ということは、音が持っている情報を精神的に処理することだけを意味するのではなく、それを信じ信頼し、従順の行動を見せるまでを意味しました。イエス様はシェマーを"聞け"という御言葉まで引用され、その次に続く御言葉を聞いて、信じて信頼して順従することを強調されたのです。シェマーは『聞け、イスラエルよ。』として始まった後、『主は私たちの神。主は唯一である。』という言葉へとつながります。シェマーが含まれた申命記は、イスラエルが約束の地に入る前にモーセが説教した内容です。イスラエルが入る約束の地は、どこでしょうか? カナンです。カナンは、偶像崇拝の文化が強い所でした。旧約学者Christopher Wrightによると、神々に仕えるカナン人達は、決して神を指して、一つという言葉は使いませんでした。彼らの心の方向は、一つの神ではなく、複数の神々に向かって分かれていたからです。このような状況の中で、モーセは私達の神様、主は唯一だと宣言しました。ただ神様だけが主であるため、イスラエルの心が神様以外のものに向かず、ただ神様だけに向けなければならないと教えたのです。これを聖書は、Undivided Heartつまり分かれない心と呼びます (詩編86:11) 。神様は、このような愛をご自分が先に見せられました。神様は、エジプトの奴隷であったイスラエルを救い出され、その後40年という荒野の旅の中で、いつも彼らと共にいて守られました。神様のお心は常にイスラエルに向けられていました。その方向が数か所へと分かれることなく、ただ愛の対象に向かって一貫されていること、これが神様が私たちに見せて下さった愛であり、シェマーが教える、私たちが神様に向かって持つべき愛なのです。分かれない心を持つ者は、神様のために自分の存在と、自分自身すべてを捧げます。神様を自分の最優先として、それ以外のことを放棄する覚悟をします。神様は自分の主、自分は神様の子供であるというアイデンティティにいつも従順します。これが『主は私たちの神。主は唯一である。』という御言葉が私たちに教える、分かれない心なのです。この御言葉を引用して教えられたイエス様は口だけでなく、ご自分の人生を通して分かれない心で父なる神様を愛されました。イエス様は、神様がご自分の御父であり、ご自身は神の御子というアイデンティティにいつも従順されました。世界を愛される、ご自分を送られた神様の御心を何より優先されました。そして、神様の救いの計画を成就するために、ご自分の存在とご自身が持っているものを、十字架の上で犠牲にされました。イエス様の御心はいつも相変わらず、御父である神様に向いていました。そして、イエス様は分かれない心で罪人である私たちを愛され、今もその心は変わりません。今回は、イエス様に従う私達の順番が来ました。イエス様は毎瞬間、私たちの魂にこの歌を聞かせて下さいます。『聞け、主は私たちの神。主は唯一である。』このシェマーの御言葉が私達の信仰の告白となり、私達が人生の従順を通して歌う魂の歌となることを、主の御名で祝福します。

No.99『信頼を学ぶ闇の土地』  民数記 11:4~23

エジプトの奴隷だったイスラエル人達は、奇跡のような神様の助けによって、紅海を渡りました。海の向こうで彼らを待つその土地は、幸せと繁栄で覆われているものと考えていましたが、現実は彼らの予想とは全く異なりました。約束の地に入る前、彼らが必ず通らなければならない所がありました。そこは、荒野でした。荒野は、試練に満ちた闇の土地でした。彼らが何を植えても、育って実を結ぶ保障がない場所、自分の力で未来の安全を確保できない場所、予測できないあらゆる危険が潜む場所、自分の能力だけでは生き残ることができない場所、それが荒野という闇の土地でした。しかし驚くべきことに、このような絶望的な状況の中でも、彼らが生き残る道が開かれたということです。夜になって露が降ると、空から白い種のようなマナも一緒に降りました。神様は、皆が満腹になるほど、マナを豊かに降らせて下さいました。そして一度ではなく、彼らが1日に必要な量を、毎日降らせて下さいました。それによって、彼らは何もない荒野で生存できたわけなのです。 恵みの食べ物だったマナは、イスラエルの人々にとって驚異の対象でした。しかし、毎日マナを食べるイスラエル人の心には、いつしか不満でいっぱいになりました。砂漠の真ん中で自分たちを食べさせて下さる神様の恵みは、これ以上にない感謝なことでした。彼らは、肉が食べたくなりました。いつのまにか彼らは、もっとも必要なものが、自分を救い守って下さる神様ではなく、肉だと思うようになりました。以前は奴隷でしたが、肉が食べれるエジプトの方が、むしろもっと良かったと彼らは不平を言いました。救いを受ける前の罪人であった自分の人生が、よりよかったと彼らは不平を言いました。結局、根本的な問題は、彼らの環境というよりも、満足と感謝を知らない彼らの心だったのです。ここで私達が学ぶ教訓は、試練は、不満の誘惑に肥沃な土地であるということです。試練の中で、私達はどのような反応をしますか?私達を大変にする誰か、または不足した自分の健康、能力、達成、お金、このすべての状況に対して不満が生じます。このような状況の中でも、自分が続けて生存できるように守って下さる神様よりも、不満足な条件がより大きく見えるのです。私達の心は、不満が感謝を圧倒し、私達の口は文句が、賞賛を圧倒します。試練という闇の土地の上で、私達は満足を知らない根本的な自分の心の問題に、直面することになるのです。このような状況の中で、リーダーであったモーセは、どのように対処したのでしょうか。モーセは、切実に祈りました。しかし聖なる人モーセの祈りの内容は、要約するとこのようです。「神様、たまらないほど辛いのです。私を殺してください。」モーセは助けてほしいという祈りではなく、自分達を殺してほしいという極端な祈りをささげたのでした。ここで私達が学ぶ教訓は、試練は自己執着の誘惑に肥沃な土地であることです。モーセがこのような極端な祈りをした、最も大きな原因は何でしょうか?自己執着でした。11節から15節までのモーセの祈りを、ざっと見てみましょう。ここで最も多く使われた単語は何でしょうか? 「私」です。試練の中で、モーセが最も注目したのは、自分を守って下さる神様ではなく、足りない自分でした。表向きには謙遜という名で包装しているようですが、実際には謙遜ではなく、自分の自我を掴んで、手放そうとしなかったのです。私達の自我は、自分が直面しているその状況が、神様ではなく自分自身によって牛耳られていると錯覚するようにします。神様がお入りになって、介入される心の空間を、神様の代わりに自分自身で埋めようとします。私達が自我を放棄せず、その中に閉じ込められる時、私達はエジプトに帰りたいイスラエル人たちのように、また自分を殺してほしいと願ったモーセのように、自分自身を神様の御心と反対の方向へと導こうとします。この状況を主管する者が誰であり、自分に本当に必要なものが何であるか、霊的に判断ができなくなります。自分自身の考え方や判断にとらわれて、誤った祈りをささげるのです。試練という闇の土地の上で、私達は自分の心に寄生している自我の問題に直面することになるのです。イスラエル人も、リーダーであるモーセも、試練の中では多くの誘惑と攻撃によって、失敗を重ねました。しかし、神様の恵みは、彼らのすべての弱さよりも、大きかったのです。イスラエルのリーダー70人を立てて、モーセに与えられたご自分の霊を、彼らにも分けて下さることを約束されました。しかし、このような神様の約束にもかかわらず、依然としてモーセは落胆していました。モーセは、頑固で気まぐれなイスラエル人たちを、続けて導いていく自信がありませんでした。与えられた使命を放棄しようとするモーセに、神様はこうおっしゃいました。23節です。「この主の手が短いというのか。わたしのことばが実現するかどうかは、今に分かる。」「主の手」は、何を意味しますか? 神様の御手は、イスラエル人をエジプトから救い出した、神様の力を象徴します。神様が初めてモーセを呼ばれ、エジプトからイスラエル人を救われると聞いた時も、モーセは自分に与えられた使命を拒否しようとしました。しかし、その時も神様はこうおっしゃいました。出エジプト記3:20「わたしはこの手を伸ばし、エジプトのただ中であらゆる不思議を行い、エジプトを打つ。」神様の御手は、超大国であるエジプトを降伏させて、イスラエルを救い出された全能の御手です。その御手は依然として全能で、ご自分の民が約束の地に至るまで、すべての試練の土地の上で、いつも彼らを守ると、神様はモーセを励まして下さったのです。そしてご自分の御言葉が、実現したかどうかを、すぐ見るようになるだろうとおっしゃいました。ここで、私達が教えられる最後の教訓は、試練は信頼を学ぶ土地であるということです。試練の中で経験する最も大きな誘惑は、自分を助けて下さる神様の力を蔑むのです。この難しい状況を克服するには、自分と一緒におられる神様も足りないだろうと勘違いするということです。荒野の中で、マナが降ったように、イエス・キリストが永遠のマナとして、私達のそばに来られ、私達が救いの完成に至るまで、すべての試練の中で、私達を食べさせ、守ってくださることを信頼しましょう。モーセが立てた70人のリーダーの上に、神様の霊が降ったように、私達に降らせて聖霊を通して、神様はいつも私達と一緒におられます。私達のすべての必要を知っておられ、いつも豊かに満たしてくださるキリストの大きい御手の下で、私達が常に平安の中で生き、あらゆる状況の中で、感謝と希望を失わないことを主の御名で祝福します。

No.100『聖書的に見る働きとは』  創世記1:26~31

この説教は、Timothy Keller牧師の"この世界で働くということ"という本に基づいて準備しました。 聖書で働きとは、職業だけを意味しません。私達が行うすべての動きが、働きの領域に属すると言います。主婦の家事も、学生の学業も、私達の飲食も、働きなのです。働きは職業だけでなく、私達の人生全体のようなものです。ですから私達が働きをどう理解し、どのような心と姿勢で働くかは、私達の人生に多大な影響を及ぼすのです。創世記1章と2章は、神様を働かれる創造主として描写します。世界の枠組みを造られ、その枠組みの中に、様々な生命体を満たされました。また、男を造りエデンの園を造られ、園の中に実を結ぶ各種の木は育ち、水が流れるようにされ、女を造られるなど、神様は創造の労働をされました。そして造られた全ての世界を指し"それは非常に良かった!"と言われた神様は、創造というご自分の働きを愛されました。また、神様はご自分が造られた世界をそのまま放っておかれたのではなく、全ての被造物を食べさせ守られるなど、今も働かれています。神様の御子、イエス・キリストも同様に働らかれる神様です。イエス様は人間となられ、直接この世界に来られ、熱心に働かれました。イエス様の職業は、大工でした。イエス様は大工だったヨセフの息子として生まれ、父ヨセフを助け懸命に働かれました。イエス様は働かれるご自身を指して、このようにおっしゃいました。ヨハネ5:17「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」神様にあって、働きは低級なことではなく聖なるものであり、呪いではなく祝福なのです。働きは神様が持たれる、アイデンティティの非常に重要な部分なのです。神様は、働かれる神様なのです。それでは、私達人間にとっては、どんな存在でしょうか? 神様は人間を造られる時にこうおっしゃいました。創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。」神様は、働かれるご自分の形に沿って人間を造られました。働かれる神様ご自身の姿のように、人間を働く存在として造られたのです。そして、人間に命じました。28節『神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」』神様は、人間を祝福されました。その祝福は、何でしょうか?働きです。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。」この世界を、神様の御心に沿って治めなさいと、人間に命じられたのです。働きは人間にとって呪いではなく、神様の大きな祝福なのです。神様は、人間をご自分のように働く存在として造られ、ご自分のパートナー、協力者とされました。神様は、私達人間が行う働きを通して、ご自分の御心を成就されるのです。私達の働きは、神様の御心が成就される重要な手段であり、通路なのです。多くのクリスチャンは働きを、神様の働きと世の中の働き、二つに分けて理解しています。しかし、神様の働きと世の中の働き、聖なる働きと世俗的な働きが別々に存在するのではなく、私達が行うすべての働きが神様の働きであり、聖なる働きなのです。私達の働きは、神様から与えられたものです。私達自身が行う働きを通して、神様は世界を守られ、ご自分の栄光を示されます。これを私達の心に刻む時、働きは単にお金を稼ぐための手段という意味を超えて、神様への私達の礼拝となる事実を悟るようになるのです今まで、働きについての神様の元々のデザインについて学びました。しかし、私達はそのデザインが崩れたという事実も、理解しなければなりません。それはなぜでしょうか?私達の罪のためです。罪の本質の一つは、私達が神様の観点を失ったことです。私達が、神様と意見を異なるようになったということです。人間の目線と神様の見方が衝突すること、これが罪の本質です。罪は、私達の働きにも影響を及ぼします。私達人間は、神様の視点ではなく、自分の利己的な観点で働いているケースが多いのです。それによって、私達が働く場所では、構造的な問題、関係的な難しさ、腐敗した姿が現われたりします。働きの場所は、単に働く所だけではなく、人間の堕落による問題を直面するところです。それによって、働きは困難になりました。バベルの塔を思い出して頂きたいのですが、 バベルの塔は、人々が働くために集まった場所です。人々が、自分の名前と名誉のために塔を作ることを決めたという話です。つまり人々は、彼ら自身のために働いたのです。彼ら自身の地位と権力のために、高い塔を作ろうとしました。私達は自分のために働くことで、また自分の誠実さと有能さを証明することで、様々な事を成就することによって、自分が生きて行く意味を感じたいと思います。結局自分の塔を積み上げ、神様ではなく自分の名前だけを現わそうとしているのかも知りません。もし私達が自分の名前のために、自分の出世のためだけに働けば、そしてこれが私達の働きの究極的な目的であれば、私達は他の人々を犠牲にすることになります。人々がこのような心で働きを行えば、その結果は分裂です。必ず他人を犠牲にするのです。また自分自身を酷使して、自分自身の魂を深い疲労と空虚感に落とします。我が主イエスキリストは、働きが何であり、何のためなのかをご自分の人生を通して、見せて下さいました。イエス様がなされる働きの中で、多くの誘惑がありました。人々は、イエス様がご自分の御名のために、ご自分の名誉や権威のために働くことを、またその働きを通して、ご自分の権威と能力を証明することを願いました。しかし、イエス様はご自分の御名のために、高い塔を築くことを拒絶されました。逆に罪人を救いたいと、神様の御心に沿って、低い所へ行かれました。そして最もみじめで恥深い十字架の上で、ご自分の働きを完遂されました。私達の罪の代わりに、死なれました。結局、イエス様の救いの働きを通して、神様の御心が成就しました。イエス様の働きを通して、他の人々が命を得ました。世界が変化しました。イエス様の働きは、他人のためのものであり、神様への究極の礼拝となりました。私達も働きをする中で、誘惑を経験します。私達の罪の性質は、自分自身の塔を準備するように、誘惑します。しかし、私達を働く存在として祝福しながら、刻んで下さった神様の形は、イエス・キリストの働きを通して回復されているのです。私達を変化させるこの恵みを、私達の心と人生に適用するように祈りましょう。それで、私達の人生の中で、働きと信仰が調和し、私達の日常が、神様の御心を成就する美しい道具になることを、神様の御名で祝福します。

No.101『恵みの包含性』     Ⅰヨハネ4:1~10

 これから数週間にわたって、世界から攻撃を受けるキリスト教のいくつかの特性について、シリーズ説教を致します。成熟したキリスト教弁証家であり、牧師でもあるTim Keller師は、2008年に"Reason for God(神様についての理性)"という本を書き、ニューヨークタイムズのベストセラーに選ばれた名作です。私の説教は、この本の内容を簡単に紹介する程度に過ぎませんが、神様が私達皆の魂の成長のために、有益に使って下さることを祈ります。今日は、キリスト教の排他性について、取り上げます。この世と信仰が最も衝突する理由の一つは、私達が三位一体の神様だけを信じているためです。私達はイエスキリストだけが、私達の救い主だと信じます。これは、キリスト教の最も核心的なアイデンティティであり、これを失えば、キリスト教はこれ以上キリスト教ではなくなるのです。 しかし、キリスト教だけでなく、宗教はたいてい、自分の宗教が唯一の真理、あるいは優越した真理を抱いていると、信者に教える場合が多いのです。またその真理を熱心に追求すれば、救われると話します。これによって、宗教集団は固定観念に陥ったり、他の信仰を持つ人々を低く見ようとする誘惑に陥りかねないのです。宗教的、また道徳的な優越感が極端になると、自分の宗教集団以外の人々に、強力な攻撃性を見せたりもします。全世界的に宗教、特に排他性の強い宗教は、社会の平和や安全の邪魔となるという認識が広まっています。人々の考えを狭くし、排他的にさせ、争いや分裂、葛藤の原因となるということです。世界が、宗教の排他性に対して警戒し、宗教を制御しようとする方法は、全ての宗教は、同じ神へ向かうための、それぞれ同等な道であることに同意させることです。そのために、私達は自分の宗教が優れていると話したり、または他人を自分の宗教に改宗させようとしてはならないと言います。これは日本の多神教的文化において、非常に魅力的に聞こえます。全ての宗教の信者が集まり、それぞれ自分達が信じている点について、話をすると仮定してみましょう。決して互いに調和できない、全く異なる教理を言うでしょう。しかしこのような人々に「結局、私達皆、同じ神を信じているので、それぞれの教理はあまり重要ではない。」と話すことは、矛盾しているのです。教理が重要ではないという言葉自体が、事実上また別の一つの教理ということになるのです。結局自分自身も、他の人々の教理を否定する、自分だけの教理を語っているのです。表向きには謙遜に、全ての宗教を包容しているように見えますが、実際はそれぞれ異なる教理を信じるすべての人に、排他的になっているのです。私達皆が、互いに異なる教理を持っていることは、否定できない事実なのです。そのため、誰も完全に包括的となることは、不可能なのです。このような意味で、私達皆は、排他的なのです。本当に重要なことは、すべての宗教が同じ神を信じていると認めることではなく、自分と異なった信仰を持つ人々に対して、私達はどのような心で、またどのような態度で接するかなのです。 それでは、宗教が平和に邪魔にならないようにする方法は何でしょうか? それは、キリスト教の福音が何が特徴であり、他の宗教と何が違うかに注目することです。そこに真の平和の糸口があるからです。キリスト教の福音が他の宗教と異なる点は、恵みです。他の全ての宗教にとって救いは、自分の努力で獲得することです。しかし本文の10節では、全く違うことを話します。 10 私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛し、私達の罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。私達が救われたのは、私達が神様を愛したからではなく、神様が私達を愛したからだと言います。資格のない人に与えられた救い、これが恵みです。自分の努力と能力で、救いを得たと信じれば、私達は他人に対して、道徳的優越感を感じるでしょう。自分を高く見て、他人を低く見る誘惑を感じます。そして自分と異なった信仰を持つ人々に対して、攻撃的になるかもしれません。しかし、イエス・キリストが私達の罪の代わりに背負われたという恵みを心からわかるようになると、私達は謙遜を感じながら、自分を低くするのです。自分と異なる信仰を持つ人が、弱い自分よりも倫理的に、また道徳的にもっと立派なことができると認めるようになります。他人を自分より優れたと考えるようになります。したがって、キリスト教の恵みの教理は、平和を作るのです。そして本文の7~8節が言うように、恵みの教理は私達を互いを愛するよう導きます。世界は大多数の人々を包容するために、自分の宗教を他人に薦めず、全ての宗教は公な部分から排除されるべきだと言います。しかしこの世界を見ると、人々が経済的な条件によって疎外され、職業・学歴・居住地・出身地・性別・外見、その他の多くの条件によって、様々な群れで分かれ、互いに排他的なのです。表向きには包括的な社会を強調しますが、実際には排他的なのです。しかし、恵みの共同体は違います。私達がイエス様だけを救い主と信じることは排他的ですが、実際にその中では人々が条件によって疎外されず、そのままの姿を歓迎され愛されるのです。なぜなら資格のない私達が、条件なしに神様の愛を受けたように、私達も条件なしに互いを愛さなければならないためです。私達がこの恵みの福音を受肉して、排他的なようですが、実際は最も包括的であり、愛が溢れる共同体になり、この分裂している世界の中で、真の平和を伝える共同体となるのです。

No102『神様と悪、苦痛』      Ⅰペテロ1:3~12

 悪と苦痛の問題について考えてみたいと思います。このように考える人が多いのです。「神が悪と苦痛を抑えることができないので試練がやって来たのであれば、神様は善良な方であるが、全能ではない。神様は悪と苦痛を防ぐことができる力を持っているが、意図的に試練を許されるなら、神様は全能な方ではあるけど善良な方ではない。だからキリスト教が教える善良で全能な神は、存在しない」 悪と苦痛の存在によって神様を信じない人々は、この世界は残忍で不当なことが多いと考えます。しかし何を基準として、残忍で不当だと考えるのでしょうか? 神が存在しないとしましょう。人間は、偶然に化学的な要素が結合して生じた存在です。そして寿命が切れると体が分解され、再び無の存在に戻ります。貧しく弱い人々を助けた人生を生きたとしても、もしくは弱者を苦しめ殺人を犯した人生を生きたとしても、関係なく皆が無の存在という同様の運命を迎えるのです。どんな人生を生きようが構わないと、たとえ短い寿命であっても、それぞれ自分の生存のために利己的に生きることは、非常に自然なことなのです。まるで動物の世界のように、強者が弱者を犠牲にして繁栄したり、弱者が強者に食べられることは、生存のために自然で当たり前のことなのです。神がいなければ、全てが許されます。誰かに不幸が起これば、それは意味もなく偶然に起きた自然なことなのです。憤りを感じる理由も悔しがる理由もありません。悪と苦痛について憤る理由も悔しがる理由もないのです。何を基準に、また何と比較して悪だと判断するのでしょうか?神様がいなければ、善悪を区分する客観的な根拠がなくなります。また悪事を控えて善行を追及しなければならない根本的な理由もなくなってしまいます。しかし道徳と何の関係もなしに生きてる人はいません。人間は何か行動をする前に、自分がしようとしていることが正しいことなのか、それともそうでないかを自分なりに判断しようします。つまり人間は、善悪を区分しながら生きようとする、良心を持っているのです。こうした人間の道徳的性向について聖書はこう言います。ローマ書2:14-15「14 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じることを行う場合は、律法を持たなくても、彼ら自身が自分に対する律法なのです。15彼らは、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの心の思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりさえするのです。」神様の律法を知らない異邦人も、律法による審判から自由にならない理由は、神様はすべての人間の心に、良心という神様の律法が記されているからだと言います。神様は道徳的な方なので、神様の形に造られた私達人間も、道徳的な存在なのです。人間は罪によって堕落したので、人間の良心も深刻なダメージを受けました。しかしそれにもかかわらず、基本的に人間は自分の心に書かれている神様の道徳に沿って生きようとする傾向があるということです。その神様の道徳が、善悪を区分する客観的で普遍的な基準となるのです。神様がいなければ何が善で悪なのか、善悪を区分できる根本的な基準がなくなります。神様がいなければ、善もなく悪もありません。道徳は人が感じる主観的な意見となるため、私達は他人に自分が正しいと考える道徳を強要することはできません。自分ではこれが正しいと思えても、相手は違うことを正しいと考えるからです。しかし道徳の根源が人ではなく神様であれば、いつも善悪を区分し他人と共に善を追及しようとする私達人間の傾向は、はるかに説得力をもって説明されるのです。こうした人間の道徳的な傾向は、ご自分の律法を人の心に記された神様の存在を現わすのです。したがって悪と苦痛が存在するので、神様はいないとする主張は矛盾なのです。神様がいなければ、悪と苦痛が何なのかを判断できないからです。悪と苦痛が存在すると、判断しているその人の考え方自体がむしろ神様が存在するということを示しているのです。神様がなぜ悪と苦痛を許されるかについての質問には、わからない、というのが答えです。聖書はその質問についての答えは、教えてはいません。しかしイエス・キリストの十字架は、何が答えではないかは教えてはいます。 十字架での死を控え、イエス様はどうだったでしょうか?イエス様は、苦痛を恐れました。苦痛を嫌われました。 しかし私達のためにその全宇宙的な苦痛を、一人で背負われました。その理由は、何でしょうか?私達を無限に愛されるからです。私達を無限に愛される程、無限の苦痛を受けられたのです。イエス・キリストの十字架は、神様が苦痛を許される理由については答えてはいませんが、それが神様が善良でなかったり、神様が私達を愛していないという意味ではないことは明確に示します。そしてイエス・キリストの十字架は、神様が苦痛を許される理由が、神様の無能さのためではないということを見せます。聖書本文の6節と7節「6 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、7 試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」 私達が、まるで火のような苦痛な試練の中にあっても、私達は絶対に燃えて消えないと言います。何故ならば、私達が受けるべきだた全ての火の試練を、イエス様が代わりに受けられたからです。そしてイエス様は燃えて亡くならず、死から復活されました。したがって、悪と苦痛の存在が、神様の無能さを意味するものではないのです。死の力に勝利され、イエス・キリストを蘇らせた神様は、依然として変わらず全能なのです。神様が悪と苦痛を許される理由は、私達人間が理解できる範囲を超えていますが、それが試練の中で私達を放っておくということを意味するのではありません。極度の火炎のような試練の中にご自分を投げ出されたイエス・キリストが、試練の中で私達といつも一緒におられるからです。そして復活されたイエスキリストの中で、私達は絶対に燃えて消滅するのではなく、あたかも製錬された金のようにきれいで美しい信仰の子供として成長していきます。イエス・キリストは、いかなる試練も奪うことができない私達の生きておられる希望なのです。

No.103『変わらない唯一のこと』    詩編103:15~17

 詩篇103篇の著者であるダビデは、私達人間の人生についてこう言います。15 "人その一生は草のよう。人は咲く。野の花のように。16 風がそこを過ぎるとそれはもはやない。その場所さえもそれを知らない。ダビデは、人生はまるで草と同じだと話しました。広い野原のどこかで、小さな草の種が芽を出し、どんどんと大きくなって爽やかな緑の美しさを自慢します。しかしある日激しい風が吹き、永遠に折れないような様子で、真っ直ぐに立っていたその草は、ついに倒れて、そしてついしおれて消えてしまいます。またダビデは、人生が野原の花のようだとも言いました。芽が出て、茎が育ち、美しい色の花を咲かせて繁栄しまうが、月が経つといつかは枯れ、その花がどこにあったのかさえ記憶している人がいなくなります。このように私達に与えられた人生という時間は、咲いてまもない花と同じであり、こんなに短い人生の中でも私達の容姿や健康、能力、人間関係、周囲の状況など、私達のすべてのものがしおれて消えてしまいます。流れる時間の前で、私達はあまりにも無力な姿で支配される軟弱な存在なのです。私達をこんなにみずぼらしくさせる時間という存在は、一体何でしょうか。ギリシャ語には、時間を示す単語が二つあります。一つは'カイロス'で、もう一つは'クロノス'です。クロノスとは、止まらずに続けて流れる年代記的な時間を意味します。クロノスが流れ、新しい人間と動物と植物が生まれ、また全ての生命体は老いて病み死んでいきます。カイロスは機会、瞬間という意味を持っています。逃すと二度ととらえることはない機会の時間が、カイロスです。軟弱な私達の知恵と能力では、与えられたすべてのチャンスをつかむということは不可能です。結局カイロスの時間の前でも、私達は小さくなります。世界に存在する全てのものがクロノスとカイロの流れの中で、変化し消えます。しかし、一つだけ例外があります。聖書本文の17節です。17 しかし主の恵みはとこしえからとこしえまで主を恐れる者の上にあり主の義はその子らの子たちに及ぶ。"ここで時間の流れの中で、永遠に変わらないのは何でしょうか? "主の恵み"です。ここで"恵み"と翻訳されたヘブライ語は"ヘセド"という単語です。"ヘセド"は非常に多くの意味を持ち、最も翻訳するのが難しい単語の一つです。"ヘセド"を理解するためには、神様がご自分の子供達と契約を交わされた、契約を知らなければなりません。その契約の内容は"あなたがたは私の民で、私はあなたがたの神様だ"ということでした。"ヘセド"は契約の対象者である私達に、神様が持たれる確固とした愛です。"ヘセド"の愛には神様の恵み、いつくしみ、誠実、優しさなどが含まれています。こんなにも豊かな神様のヘセドの愛は、クロノスとカイロスの領域を超越して永遠から永遠まで、相変わらずに私達に与えられるということです。私達がこの事を信頼できる理由は、神様の"ヘセド"が救い主イエス・キリストによって、最も明確かつ具体的な姿で明らかになったからです。私達は神様との契約を破り、自分自身を偶像化する数多くの罪を犯しましたが、それにもかかわらず、変わらないヘセドの神様は、私達を救われようとご自分の御子イエス・キリストを送られました。そして、イエス様はご自分の救いの働きを指して、このようにおっしゃいました。マルコ1:15です。15 "「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」"イエス様は、"時が満ちた"とおっしゃいましたが、ここで時と翻訳されたギリシャ語単語が、まさにカイロスです。ギリシア神話でカイロスは、機会の瞬間を逃した後、またつかまえられない私達の悲惨な運命でした。しかし聖書では、カイロスは全く違う意味で使われます。聖書でカイロスは、神様との関係の中で、意味のある出来事が生じることを指します。特に神様のご計画が展開され、実現する特別な時間を意味します。その中でイエス様の登場は、私達を救われようとされる神様の変わらない愛、つまりヘセドが実現されたカイロスの瞬間だったのです。時間という領域を創造し支配される神様は、悲惨な運命の中で変わらず私達を愛され、ご自分が計画された時にイエス・キリストを送って下さいました。イエス様は私達が受ける罪の結果を、十字架の上で背負われ、最後の瞬間まで私達を愛されました。イエス様はご自分の命を犠牲にして、私達が立っていられる基盤となって下さったのです。私達はその恵みの基盤の上に立ち、現在の日々を送っているのです。神様がおられない時間は、未来に流れつつ、死んで行く時間となりますが、イエス様がこの地で過ごされた時間は、永遠の命を与える意味ある時間となったのです。イエス様のカイロスは、遠い過去の話ではなく、今も流れている時間の中で死に近づいていく私達、重要な機会を掴めず、間違った判断と失敗を重ねている私達にとって、大きな慰めと希望になるのです。罪によって壊れたこの世の中で時間は、すべてが変化する残酷な現実に見えるかも知れません。しかし、イエス・キリストの死と復活が、私達を愛される神様が永遠の前から、計画し実行されたカイロスであることを、信頼する中で、私達に与えられた一日一日は、恵みで与えられたプレゼントとなるのです。草と花は枯れ、すべては変わりますが、私達への神様のヘセドの愛は永遠なのです。崩れ落ちないヘセドの基盤であるイエス・キリストの上に立ち、私達に与えられたすべての瞬間を感謝の気持ちで満喫しましょう。

No.104『真理と自由』   ヨハネ8:31~32

 キリスト教は相対的な真理ではなく、絶対的な真理を追求します。絶対的な真理は、人間や文化によって作られたものではありません。絶対的な真理とは、神様から私達へと与えられたものです。神様が私達に示され、啓示され、その啓示の主な通路は聖書なのです。聖書が教える真理は、永遠に変わらない絶対的なものです。この部分について、多くの人々はキリスト教が信者の自由を非常に多く奪っているという印象を受けます。まずキリスト教は、宗教の自由を制限します。キリスト教は、ただ三位一体の神だけを礼拝の対象とすることを、どんな状況でも変わらない絶対的な真理として信じているからです。またキリスト教は、聖書を通して神様が教えられた価値が、この社会が追求する価値より上にあると教えます。これにより、数多くの自由が制約を受けます。私達は、真の自由とは何かを考えてみる必要があります。現代社会で自由とは、何からも縛られず制約を受けないことです。他人に被害を与えない範囲で、個人の欲求通りに自由にし、自分の人生の意味と目的を自らが作ります。現代人は、真理に基づいて自由を追求するのではなく、逆に自由を追求するため、真理を変化させます。もはや手段ではなく、自由そのものが目的となりました。しかし自由そのものが目的となる時、その自由は自分自身を傷つけます。 愛とは、ある意味で自分の自由を制限することを意味します。愛する関係において、私達の個人的な選択は制限され、独立性を失います。愛する時、私達の自由は制限されますが、愛だけが与えることのできる別次元の自由があります。愛の中だけで感じられる平安と安定感と自尊感があり、愛する時に、私達は真の自分自身を発見することができます。私達は愛し、また愛されるための存在としてこの世に生まれ、この真理に基づく制約の中で、私達は真の自由を感じるのです。その制約を越えた自由は、自分自身を破壊するだけなのです。何の制約もない状態でいるのは、本当の自由ではないのです。制約を正しく選択することが、真の自由なのです。そしてその制約は、自身の本当の現実に合わせて、自分が生きる世界の真の現実に合わせて設定されなければなりません。自身とこの世界の真実、つまり真理に基づく制約の中で、私達は真の自由を享受できるのです。これに対して、神様はこうおっしゃいました。31 イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。32 あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」"イエス様は、自由そのもののために、真理を犠牲にしなさいと言われませんでした。反対に真理が私達を自由にすると教えられました。自分の自由のために、それぞれ自ら、制約の基準を決めるのではなく、神様が私達に啓示された絶対的な真理が基準となって、制約が設定されなければなりません。神様は、私達人間と私達が生きているこの世を造られた創造主です。したがって、創造主である神様から啓示される真理は、私達の存在と状況に最適な真実であり、私達の本当の現実なのです。自由は真理から始まるのであり、真理に基づく時にのみ、維持できるのです。キリスト教の神様は、人間を愛するためにイエスキリストの中でご自身を制限されました。イエス様は神様ですが、罪人である私達を愛するために、人間という弱い存在となられました。そして人間の限界という制約の中で生きて苦痛を受けられ、死なれました。このすべてが私達へのイエス・キリストの驚くべき愛なのです。ただキリスト教の神であるイエス様だけが、私達を愛するために、先にご自身を制限されました。今は、その恵みを受けた私達の番です。私達はイエス様を愛するために、神様が啓示された真理に基づいて、正しい制約を選択しなければなりません。聖書本文の32節で、イエス様は真理があなたがたを自由にするとおっしゃいました。それでは私達を自由にするその真理とは、一体何でしょうか。答えは36節にあります。36 "ですから、子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは本当に自由になるのです。"神様は子が私達を自由にするとおっしゃいました。ここでの子は誰でしょうか? イエス様です。イエス様は私達を自由される究極の真理です。その真理が人間となられ、私達のそばに来られました。私達はイエス様という真理に基づいて、自分が受ける制約を設定しなければなりません。イエス様が愛されることを私達も愛し、イエス様が嫌がられることを私達も嫌がり、イエス様が歩まれた十字架の道を、私達も従って歩まなければなりません。イエス様は"わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。"とおっしゃいました。天のお父様が私達に送ってくださった真理であるイエス様の中で、私達皆が真の自由を享受することをイエス様の御名で祝福します。

No.105『しつこく大胆に祈る』     ルカ11:5~8

 真夜中にある友人が訪ねてきて、こう言いました。「私の友人が、旅行中に突然私の家を訪れました。何かもてなさなければいけませんが、今私には食べ物が全くないのです。すいませんが、パン三つだけ貸してください!」ユダヤ人の慣習によると、自分の家に客が訪問すれば、豊かで寛大にもてなすのが、ふさわしい礼儀だからでした。そして客をもてなすためにパンを求める隣人を、助けなければならなかったのです。しかし真夜中にこのように頼むことは、大変失礼なことでした。おそらく、相手は小さな家に住んでいたでしょう。そして、家族全員が一緒に寝ていたはずです。パンを探してその友人に渡すためには、布団から起き上がって、光をつけなければならなかったのです。その友人によって、すでに眠っている子供たちだけではなく、妻や家畜も眠りから覚め、騒がしくなるのが目に見えました。しかし、このような失礼なことにもかかわらず、その友人はしつこく、またずうずうしく大胆に門を叩き、パンを求めました。この比喩を語られた後、イエス様はこのように結論づけられました。8節「あなたがたに言います。この人は、友だちだからというだけでは、起きて何かをあげることはしないでしょう。しかし、友だちのしつこさのゆえなら起き上がり、必要なものを何でもあげるでしょう。」イエス様は要求されたその人が、友人に必要な量のパンを渡すとおっしゃいました。なぜならその理由は、友人がお願いしたからではなく、その友人のしつこさのためでした。ここでしつこさと翻訳されたギリシャ語単語はanaideiaです。Anaideiaはしつこい、または恥かしさも知らずにずうずうしく、という意味を持っています。ヘブライ語フチュパと似たような意味です。真夜中に寝ている家族全体を起こしてまで、ドアを叩き続け、パンを求める友人のしつこさ、その厚かましさを見て、結局その要請に応えるだろうということです。イエス様は、私たちにもこのような態度で神様に祈るようにと教えられました。友達関係ですら、しつこくお願いすれば助けてくれるのに、私たちを愛される神様は、当然私達のしつこく大胆な祈りに、応えてくださらないわけがありません。私達が誰かに何かを頼むことに、恥ずかしさを感じる理由は何でしょうか? それは自分自身で解決できずに、他人に助けを求めることは、自分の無能さを表すからです。また助けを要請した相手が、自分についてどう思うか、自分にどう反応するかと恐れるからです。しかし、私たちが神様にお願いする時には、このような考え方や態度は悪影響を及ぼします。祈りは自分と祈りの対象が誰なのかを、どのように認識するかによって、大きく影響を受けるからです。祈る私たちは、一体誰でしょうか? 無能な存在です。ただ、神様の助けに頼ってのみ生きられる、弱い人間なのです。祈りは、自分を有能な存在として認識する者には必要がなく、もっぱら自分の無能さを認めて、神様の恵みを求める者にだけ有効なものなのです。それなら、私たちの祈りを聞く対象は、誰でしょうか? 神様です。神様は私たちが失礼なお願いや無理な頼みをしたとしても、私達を否定的に思われる方ではないのです。私たちは、私たちの罪のために死んで復活されたイエスキリストの恵みによって、神様の子供として養子縁組されました。神様は何の関係もない他人ではなく、私たちの御父であり、私たちは神様が愛される子供です。したがって、神様には決して失礼なお願いというものはありません。全能なる神様に対して、無理な頼みというものはないのです。このような意味で祈りとは、恥と恐れの心から捧げるのではなく、率直さと確信で神様に捧げるものです。私たちを、子供として愛される神様の善良さに確信を持って、ありのままを率直にさらけ出して委ねなければなりません。私たちの祈りは、神様がご自分の御国をこの地上に立てられる手段であり、通路なのです。私達の周りを見回すと、私が祈らなければならない人々がとても多いのです。まだ神様を知らない私達の配偶者、子どもたち、私たちの両親や兄弟姉妹、友人や隣人がいます。祈ってください。しつこく、大胆に祈ってください。彼らを誰よりも愛される神様なのです。彼らの救いを誰よりも望まれる神様です。私たちが彼らのためにしつこく、大胆に祈ることを誰よりも喜ばれる神様なのです。私たちのしつこく、大胆な祈りを通して、神様の御心が私たちが住むこの地上に成就されるのです。

No.106『より真実なる信仰へと』      ルカ11:37~44

 今回はクリスチャンの不義について、テーマ説教を致します。クリスチャンの不義によって、キリスト教のイメージは深刻な悪影響を受けます。キリスト教への信頼性を落とす問題は、クリスチャンの人格的、道徳的な欠陥です。一般的には、クリスチャンは世俗的な人々と比べて、もっと成熟した人格を持っていると期待します。しかしクリスチャンの言動が、彼らの信仰と矛盾している姿をよく見るようになります。一方私達の周りには、信仰生活を送っていなくても、人格的に優れ倫理的に実直な人々が確かにいるのです。信仰を持つ人々みなは、信仰を持たない人々よりもはるかに、優れていないといけないのではないでしょうか。そうでないことは、キリスト教の信仰が正しくないという証拠とならないでしょうか。これがキリスト教への主な批判の声です。これは常識的な話のように聞こえますが、聖書は信者が未信者より人格的にいつも優れているとは言っていません。キリスト教の教理には'一般恩寵'という言葉があります。神様はご自分への信仰を持つ人々と、信仰を持たない人々皆に、善良な心を持っておられます。そして信仰の有無とは関係なく、すべての人間にあらゆる良い贈り物を下さいます。これによって未信者の中でも、手本として値する人生を送る人がいるのです。信仰はなくても、優しくて善良な人々がいます。なぜこのようなことが可能でしょうか。すべての人間は堕落しているにも関わらず、世界が滅亡しないよう、神様は続けてすべての人々に良いプレゼントを下さり、人間の罪の本性をある程度おさえるものです。罪の問題が存在するにもかかわらず世界が続いているのは、神様の恵みによって可能なのです。したがって未信者が信者より、もっと人格的で道徳的であることが充分に可能なのです。真の信仰を持つ者は必ず人格的に道徳的に成長しますが、その聖化は生涯にわたって、ゆっくりと進行されるからです。したがって、クリスチャンの人格的欠陥が、キリスト教の信仰が正しくないという証拠となることは、できないのです。しかし、人格的にまた倫理的に立派であっても、神様と関係を結ぶことができる資格を得ることはできません。罪の影響の中にある私達人間は、自分の道徳的な努力を通してではなく、ただ神様の恩恵に頼ってのみ、神様と共にいられるということが聖書の教えです。イエス様は、ご自分の死と復活を通して私達に救いをもたらし、それによって私達は何の資格なしにその救いをプレゼントとして受けたのです。つまり教会は聖者が集まる場所ではなく、何の資格もない罪人たちが集まる場所です。教会は、神様の恵みで罪人を治療する霊的な病院なのです。言い換えれば、教会は霊的に、人格的に未成熟な人々で満ちているということです。しかし私達は恵みを受けた者として、その恵みへの感謝の反応を見せなければなりません。必ず人格的に道徳的により良い人生を、生きる努力をしなければならないのです。このような努力が、救いを得るための資格条件とはなりませんが、救いを受けた者から必ず見られる反応なのです。恵みへの感謝の反応がない人は、自分は信仰を持っていると勘違いするだけで、実際は真の信仰を持っていないのです。このようにして、キリスト教神学はクリスチャンが持つ人格的な欠陥を、赤裸々に指摘するのです。またキリスト教に対する信頼性を落とす問題は、狂信です。宗教にひどく心酔すると、洗脳されて分別力を失わないかと心配する人が多いです。人々は信じ過ぎることはなく、過度に従わず、社会的な常識の線で考え、行動する宗教生活を望みます。宗教とは、道徳的な成熟を追求する一つの方法に過ぎないというのが、多くの人々の一般的な考えになったからです。しかし宗教が、道徳的な成熟のための一つの方法にすぎないという考え方は、かえって狂信的な人々を生産します。道徳的な成熟のみを目標として宗教生活を送ると、自分と同じ道徳的水準に達しなかった他人に対して、優越感を感じるようになります。そしてこの優越感は、他人への多様な形態の無視と抑圧へとつながります。イエス様の時代のパリサイ人は、このような道徳主義的な宗教を追求する人々でした。聖書本文のパリサイ人は、道徳的に整って正しい教理を追求して、ユダヤ人社会の常識から考えて行動しました。彼らは自分自身が神様の御前で義であると思いました。そして自分と同じ水準の信仰を持たない人々に対して、道徳的な優越感を感じるようになりました。このような優越感にとらわれ、社会的な弱者に、様々な形で不義の行動を犯しました。道徳的な優越感、これが狂信の核心であるのです。しかし、キリスト教の信仰の本質は、道徳的成熟への人間の努力ではなく、ただ神様の恵みによる救いなのです。救いは道徳的な成熟を叶えた人に与えられた褒賞ではなく、資格のない者に与えられたプレゼントという福音は、クリスチャンに謙虚に作ります。しかし狂信的な人々は、そうではありません。優越感にとらわれて、強圧的に人を支配しようとして独善的であり、自分の意見を曲げないのです。狂信は、福音に過度に心酔して生じる問題ではなく、反対に十分に福音に自分自身を任せずに起こるのです。イエス様は、適当に信仰生活を送る者の最大の批判者でした。イエス様は、ルカ11章で、こう言われました。「40 愚かな者たち。外側を造られた方は、内側も造られたのではありませんか。41 とにかく、内にあるものを施しに用いなさい。そうすれば、見よ、あなたがたにとって、すべてがきよいものとなります。」 イエス様は飾りではなく、もっと真実な信仰を強調され、汚れた宗教をきよめようとされました。福音を適当に、表だけで受け入れるのではなく、心の底まで受け入れるよう命じられました。そして内にあるものを適当に行うのではなく、しっかりと行うよう命じられました。そのうちの1つは、貧しい人々のための施行する、つまり正義を追求することです。"私達の心が福音で満たされ、その福音が正義を追求することで表現される時、すべてがきよいものとなる"というのです。これがイエス様が教えられたキリスト教の自浄能力です。つまりキリスト教の福音は、汚染された自分自身を自ら清める能力を持っているということです。キリスト教は、堕落を繰り返しましたが、外部によってではなく、自ら浄化されてきました。キリスト教の不義を見て、多くの人々は批判の声を高めます。しかしキリスト教を批判する彼らのすべての論理は、彼らが直接考え出したものではなく、すでに聖書の中で預言者とイエス様や使徒達が、自らの宗教を自ら批判して使った論理でした。聖書は自分を批判し、信者に悔い改めを求める内容で溢れています。宗教的に不義を行う者を分析し、辛らつに批判し、彼らを悔い改めに導く最高の道具は、キリスト教の聖書なのです。新約聖書のなかで、福音はどう始まりますか。バプテスマヨハネは、何と叫びましたか。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」キリスト教の福音は、信者に悔い改めなさいというメッセージで始まります。そしてキリスト教は、どんな人によって伝わっていきましたか。イエス様を裏切った人々、イエス様を十字架に掛けた人々、しかし自分の力では罪を克服できないことを認め、神様の恵みに頼って悔い改めた者によって、キリスト教は成長していきました。キリスト教は、信者の道徳的な優越性を主張する宗教ではありません。逆にキリスト教は、信者が堕落する存在であり、弱く無能な存在であることを前提とする宗教です。キリスト教は、人間の道徳的な能力ではなく、ただ神様の恵みによって自らを浄化していく、自浄の宗教なのです。そして自浄に行く道は、適当な信仰ではなく、より真実な信仰で自分の心を満たし、その信仰を行動で表現していくことです。私達は、霊的にまた人格的に弱くて未成熟な存在ですが、より真実なる信仰を切望する中で、神様の恵みは、日々私達を浄化させ、よりきよい存在として成長させていくのです。

No.107『あわれみの審判者』    ルカ6:36~38

 イエス様は37節でこう言われました。「さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。人を不義に定めてはいけません。そうすれば、あなたがたも不義に定められません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。」他人を判断する私達人間の秤は、無罪よりも有罪のほうに、かなり傾いているということです。私達の罪の本性は、有罪の皿の方へ、もっと多くの重りを置こうとするからです。イエス様は、人間の否定的な判断が持つ危険性を心配されました。しかしこれに対する根本的な解決策は、当時のユダヤ人が主張する友好的判断だとは思われていませんでした。もちろんイエス様も、私達が他人と接する時、寛大な態度を取るべきだと言うことに同意されるでしょう。しかしすべての人は、基本的に善だという考えが友好的な判断の前提になるとすれば、それはイエス様の教えとは異なります。イエス様は逆に、全ての人が罪人であることを前提とされます。相手も弱い罪人で、自分は相手とたいした差はなく、罪を犯す弱い存在に過ぎないことを認識しなさいということです。イエス様の御言葉は、"相手方の善意を信じて、友好的に判断しなさい"という意味ではなく,"自分が罪人であることを知っているから、あなたも他人の罪をあわれみ深く判断しなさい"という意味です。私達が、他人をさばけない理由は、私達は他人の心を見ることができないからです。過ちを犯した人の動機を知る時にだけ、正しくその罪を判断でき、それに合った処罰ができるのです。私達が知っている唯一の心は、罪で満たされた私達自身の心だけです。すべての人の心をのぞき見ることができるのは、ただ神様しかいないのです。ヤコブの手紙 4章 12節はこう言います。「律法を定め、さばきを行う方はただひとりで、救うことも滅ぼすこともできる方です。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。」律法は、無罪と有罪を判断する基準になります。そしてこの律法を造った方はただ神様だけであり、その律法を執行される方も、ただ神様です。律法の創造者であり、執行者でもある神様だけが律法から自由であり、人間の罪を律法通りに審判される権限を持っています。律法の前で、罪人の私達には他人の罪をさばく権限がありません。神様が見るには、罪人が他の罪人をさばくほど、傲慢な行動はないのです。イエス様は、36節でこのようにおっしゃいます。「あなたがたの父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くなりなさい。」天の御父は、あわれみ深い方です。私達は、神様の御心より、自分の心に従って生きようとする罪人です。それにもかかわらず、赦される資格のない私達を救うために、神様はご自分の御子イエス·キリストを送って下さいました。そして私達の罪の代わりに死に、復活されたキリストの中で、神様は私達を赦して下さいました。このような神様の驚くべきあわれみによって赦された私達は、自分の受けたその憐みで、他人の罪を赦さなければならないというのです。親と子が似ているように、神様の子供になった者は、神様の気性に似ていくことになります。神様の持られる価値と態度を吸収し、自分の人生に反映させていきます。神様が私達にあわれみ深いように、他人に対してあわれみの心を持つことこそ、神様の子供から発見される実の実りなのです。あわれみの審判者である神様の姿を、子どもである私達が似ていくこと、これが聖書本文の中でイエス様が教えられた、私達が他人を赦さなければならない根本的な理由なのです。あわれみは、他人が犯した罪に対する分別をあきらめることではありません。あわれみは他人の罪に背を向けることではありません。マタイ8章の中で、イエスは様はむしろ、過ちを犯した相手に、その罪が何かを表わし、その人が悔いて赦されるように、励まさなければならないと教えます。私達は他人の行動の是非をわきまえる義務があります。しかし私達が罪をわきまえる以上に、相手の人格全体に対して有罪を言い渡すことは、私達の権限ではありません。私達が相手の行動ではなく相手の価値に対して有罪を言い渡すなら、その結論は逆に有罪を宣告した私達自身の運命になるでしょう。「さばいてはいけません。そうすれば、あなたがたもさばかれません。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦されます。」という御言葉は、私達への励ましとなると同時に、私達が他人を判断する態度が、神様が私達を判断される態度になるはずで、私達が他人の価値に対して下す結論が、神様が私達の価値に対して下される結論になるでしょう。他人にきびしい審判者になろうとする行為は、自分が福音を知らず、信じられず、神様の恵みを拒否しているという証拠になるからです。神様の子供になるというのは、神様の代わりに審判者になる資格を得るということではありません。神様の子供になるというのは、あわれみの審判者である神様に似ていくことです。

No.108『一致に向けて』     コロサイ 3:10

 神様は、私達人間をご自分の形どおりに創造され、ご自分に似る私達に、三つのアイデンティティを与えられました。神様と人格的な交わりをし、他者と愛の関係を結び、神様を代表すること、これが人間を造られた創造主神様の元々のデザインであり、本来の私達の姿でした。しかし、罪によって私達の中にいる神様の形は、深刻に破壊されました。神様が意図された私達と、奇形的な神様の形を持つ現在の私達の間には、埋められない距離ができました。神様の形を追求する自分と、歪んた形を持つ間で、大きな矛盾を持ったまま生きて行くのです。私達は、自らの力では絶対にその矛盾を克服することはできません。自らの力では、絶対に奇形になってしまった神様の形を取り戻すことはできないのです。聖書本文の著者であるパウロは、このような人間の二重性について、誰よりも深刻に悩んだ人でした。彼は、神様の御前で義人になるよう最善を尽くしました。律法について一生懸命に勉強し、律法を守るために努力しました。しかしイエス様を神聖な冒涜者として考えたパウロは、イエス様に従う人を監禁し、さらには殺害しました。律法を通して義人になろうとした彼は、律法の完成者であったイエス様を迫害し、律法が一番タブー視する殺人を犯すなど、極端な矛盾に陥ってしまいました。パウロが考える理想の自分と、実際の自分との間には、自らの力では縮められない距離があったのです。 しかし、ある日パウロは、自分の二重性を悟ります。自分がそんなにも迫害したイエス様に、出会ったのです。彼はイエス様が大事にする人々を、残忍に痛めつけて殺しましたが、イエス様はそんな彼に復讐せず、むしろ赦して下さいました。パウロは昔の自分から離れ、イエス様に仕える新しい人に生まれ変わるようになりました。このような恵みの中で、パウロは義人だと考えてきた自分自身は実際は罪人であり、無能な自分の力によって、歪んだ神様の形を回復させることは不可能だという真実を知るようになりました。一方このような自分とは異なり、イエス様は何ら二重性もなく、神様の形と一致し、それを越えて神様そのものであると悟りました。それでパウロは、自分の道徳的な能力に対する信仰を捨てて、ただ自分を罪から救われたイエス様の恵みに寄りかかって、神様の形に似ていく旅を始めるようになりました。パウロは、コロサイ教会の信徒達に、昔の自分が犯した過ちを繰り返さないことを願って、このように励ましたのです。9 「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、10 新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」 パウロは信徒達に、単に本人の道徳的な努力に頼るのではなく、イエス·キリストの中で生まれ変わらなければならないと教えました。そうすると、新しくなった彼らのアイデンティティーの中で、神様は彼らがご自分に似ていくよう手助けされると強調しました。そういう過程が続くということは、違う形で説明すると、イエス様に従うようになってからも、創造主である神様の形を完全に持つ自分と、現在の自分との間には、依然として一致しない部分が存在するということです。神様に似ていくことは、一生かける長い旅であるということです。しかし、いつか私達は必ずすべての二重性を克服し、一致するという目標に到達できるよう、最後まで助けて下さるという希望の約束なのです。私達の罪の本能は、私達自身に歪んだ私達の昔の自我を追及せよと言います。世界は、歪んだ私達に昔の人を着るよう強要します。人の視線が定義する自分、世界が定義する自分になるために、自分の有能さに執着するように誘惑します。しかし、人生の方向が神様の形に逆行すればするほど、自分の二重性はますます大きくなるでしょう。昔の人を、脱いでください。私達の罪に代わって死なれ、復活されたキリストの中で、私達はすでに新しいアイデンティティを持って生まれ変わりました。新しい自分自身に忠実な一生の旅を歩んで下さい。神様の恵みは、その旅の過程を祝され、私達は必ず完全な一致を成し遂げた、真の自分自身に出会うことになるのです。

No.109『不便な恵み』    マタイ20:1~16

 1節でイエス様は、天国が「家の主人のようなもの」と言われました。もっと具体的に言えば、天国は家の主人の心と同じだということです。他のぶどう園の主人の関心は、丈夫な労働者を相当な人件費で雇い、できるだけ多くの実を取り入れることです。ところがこの主人の関心は、市場での仕事が見つからず、遊んでいる労働者でした。彼らの哀れな状況が、ますます気になったのです。このたとえ話の中で労働者とは、技術もなく、知識も足りず、しっかりとした仕事がない人々のことです。この話の中で注目すべきことは、家の主人が約束した金額です。それは「一デナリ」この金額は、今で言えば、技術と競争力のある正規労働者がもらう賃金です。「一デナリ」は、価値と資格を認められる人に与えられる最低賃金でした。つまり「一デナリ」は、人間らしい生活をするために必要な、最小限のお金という社会的合意でした。「一デナリ」は、人生や命そのものを意味するものでした。しかし当時の労働者にとって「一デナリ」は、想像すらできない賃金でした。そんな彼らに、この恵みの主人は、「一デナリ」を約束してくれます。あなたにも「一デナリ」を、すなわち、人間らしい生活をする価値があると認められたのです。その主人に雇われた労働者は、どのように働いていたのでしょうか?ぶどう園の労働は、難しいのは明らかでしょうが、楽しく働いたのです。心に喜びが、満ちたのです。心に天国が来たようです。資格のない自分に、一デナリをほぼただで受けた恵みが、心をいっぱいにするからです。彼らが懸命に働いていると、主人はまた、労働市場に行き、労働者を連れてきます。ここの主人の関心、すなわち天国の関心が現れます。人より弱く、足りない選ばれない人々です。ですから9時に雇用市場に行った時、仕事を探せなかった人々より2時間後の、11時にも仕事を探せなかった人々に、より心が向きました。彼らよりは、午後1時にも仕事を探せなかった人々、また彼らよりは、午後3時にも仕事を探せなかった人々に、より興味を持たれました。より足りなく、より弱いからです。ぶどう園の主人は、彼らとは全く違う基準で、給料を計算しました。午後3時から働いた人も一デナリ、午後1時から働いた人も一デナリ、午前11時、朝9時から働いた人も一デナリをもらいました。この話の基準は、人々がどのように働いたかではなく、一デナリつまり恵みが目安なのです。労働者に、一デナリは期待できない金額です。そんな彼らが、一デナリの約束をもらった時、彼らの心には喜びが満ちたのです。ところが、恵みが溢れる一デナリが、突然不満と恨みの対象へと、変化してしまいました。 自分が受ける一デナリが基準だった時、こんなにも弱い自分が用いられるだけでも感謝でした。一デナリというその驚くべき恵みが自分の心を支配した時、彼らは天を経験しました。しかし他人と比較して計算してみると、基準がだんだんと自分の努力と苦労に変わりました。彼らの心はすでに恵みではなく、複雑な計算が支配しはじめ、計算通りの補償を受けられないと、天国から地獄へと変わりました。恵みの法律が支配する時、天国に生きましたが、Give and takeすなわちマーケティングの法律が支配しようとするなら、地獄に生きるようになりました。しかし、ぶどう園の主人が下した判決は明確です。14節「あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。」すべての人に一デナリを与えること、すべての人が、その一デナリという恵みを経験すること、それが主人の心なのです。後で来た人よりも、最初に来た人に、より多くの報酬が与えられるのは、私達の定義です。しかし、すべての人に一デナリを与えるこは、神の御国の定義なのです。天国は主人の心と同じであるためです。主人の心はより弱いほど、不足すればするほど、欠点がより多ければ多い程、より多くのもを出されたいのです。キリスト教の神様は、ご自分を未亡人と孤児と異邦人の神であると紹介されます。貧しく大変で寂しい人ほど、彼らをさらに愛するしかないのが、神の愛の本質です。より弱い人ほど、ご自分のより多くを出されるのです。愛するほど、ご自分をより弱くされるのです。相手が弱くなればなるほど、不足すればするほど、病気になればなるほど、自分も知らないうちに、自我の壁を越え大胆に自分を相手に出すようになります。相手のために、自分がより弱くなり痛みはあっても、より自分のことを差し出せる能力、それが本当の愛の力です。 神は愛です。神様はこの世界をあまりにも愛され、ご自分の御子まで差し出されました。イエス・キリストは、神様のすべてでした。私達を救うためにどんな垣根もなく、何の制限もなく、また相手が弱ければ弱い程、罪が多ければ多い程、何の制限なしに、ご自分を差し出されました。喜びましょう。私達には一デナリが与えられました。感謝しましょう。資格のない私達に、神様の驚くべき恵みが与えられました。神様の恵みが私達の心を支配するとき、私達の心には天国が来ます。神様のような心で誰かを愛するために自分が弱くなる時、私達はすでに天国を生きているのです。

No.110望み得ない時に望みを抱く信仰』  ローマ 4:18~25

 この説教の本文であるローマ書4章は、創世記15章を背景としています。当時、アブラハムの歳はおそらく80~90代の高齢だったでしょう。彼の妻サラは、アブラハムより10歳位しか若くありませんでした。しかし、彼らには子どもがいませんでした。神様はアブラハムの身から生まれる息子が相続者になる、とおっしゃいました。高齢のアブラハムにとって、これはどれほど非現実的で、むちゃな話だったでしょう。神様は、常識と理性からはずれた、とんでもないことを約束されたのでした。それに、神様がその約束をされてから、もう十数年が過ぎた状況でした。待ちくたびれたアブラハムは、もう信じられない状態でした 神様は、そんなアブラハムを、外へ連れて行かれました。そして夜空に輝く星を、見せました。神様は、アブラハムにおっしゃいました。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」 一つ、二つ、三つ... このように星を数えるうちに、アブラハムはますます無限の世界に深く陥ったことでしょう。その世界は、天地を御言葉によって創造された、無限の神様の能力の世界であり、自分の多くの罪と不信にもかかわらず、いつも自分と共におられる無限の神様の愛の世界でした。その無限の世界の前で、アブラハムの目に見える現実の限界を、はるかに越えてしまう信仰の世界が、開き始めたのです。星をすべて数えることは、できません。星の世界は、私たちの計算と理性の限界を、はるかに越えてしまうからです。しかし数え切れないから、存在しないのでしょうか? 私たちが理解できないから、否定してもいいのでしょうか。星は、今私たちの目にはっきりと見えるのです。神様は、アブラハムにこうおっしゃいました。"アブラハム、あなたは目に見える星をすべて数えることができないのに、あえておまえの計算を基準として、私の能力を判断しようとするのか? おまえの体が衰え弱いという理由だけで、その体とこの世界を創造した私の能力を制限しようとしているのか? 星が照らす無限の世界の前で、アブラハムの人間的な常識は崩れました。神様はアブラハムに、こうささやかれました。"アブラハムよ! 今、星を全部数えることは、できないだろう? おまえの子孫も、数え切れないあの星のように、多くなるだろう!" アブラハムは、この御言葉を信じました。自分の計算に基づいた世界が、崩れてしまったからです。そして神様は、この信仰を根拠に、アブラハムの義を認めて下さいました。『彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。』ローマ4:18パウロは、義と認められたアブラハムの信仰を「望み得ない時に望みを抱く信仰」と定義します。信仰は、決して現実を否定するものではありません。信仰は、現実を直視することです。アブラハムは高齢になって、自分の体とサラの子宮に赤ちゃんを持てないことを知っていました。自分の能力によって、約束が成就されるいかなる根拠も、すでにありませんでした。ですから、望み得ることができなかったのです。それにもかかわらず、アブラハムは望みを抱きました。それは、根拠が変わったからです。自分の老いた弱い体が根拠ではなく、彼の体の限界にもかかわらず、制限されない神様の無限さが、根拠となったのです。神様の無限さを信じれば、自分が今まで大事に思ってきた世界が死にます。神様は、この信仰を義と認めたのです。同じく、神様の無限な愛であるイエスキリストを信じれば、死ぬことがあります。私たちが今まで大事に思ってきた、自分の義が死ぬのです。私たちのために、ご自分を無限に差し出されたキリストの御前で、自分はみすぼらしい罪人だという事実を悟り、自分は義人だという偽りの思いが死ぬのです。自分の昔の自我は死に、イエス様の無限な愛で生きる信仰が、私たちを義とします。イエス様によって現れた神様の無限の愛を信じれば、アブラハムのように、私たちも自分自身に望みを抱かないのです。その無限の世界の前で、自分の弱さと罪を悟るようになるからです。自分は罪によって死ぬ者だと、認めるようになるのです。しかし、悲惨な罪の現実の中で、無能な自分によって望み得ない時に、望みを抱く信仰が生じます。このように汚れた罪人さえ、愛される無限の神様の愛と恵み、つまりイエス・キリストを信じるようになるのです。これが、望み得ない時に、望みを抱く信仰であり、神様が義と認められる信仰です。私たち人間の理性を超越する、無限の世界があるのです。イエス・キリストの中で明らかになった、神様の無限の愛と恵みなのです。その無限の世界の前で、自分がこれまで大事にしてきたすべてを、下ろしましょう。イエスキリストを通して、私たちを救われる神様のご計画は、限界のある私たち人間が作った狭い枠内に、制限されないのです。私たちのために死なれ復活されたイエス·キリストの中で、罪による私たちの悲惨な現実は、すでに変化し始め、キリストが再び来られるその日に、世界のすべての苦しみと悲しみが征服されるでしょう。イエス·キリストが、すでに達成されたことと、これから成し遂げられる無限の世界をそのまま直視し、本当にその世界を信じる者のように生きていきましょう。

Np.111『私達とともにおられる神様』   マタイ1:18~23

 孤独はある特定の人だけでなく、私達みなが経験するものです。独身であれ既婚者であれ、あるいは性格が独立的であれ依存的であれ、すべての人は人生の中で孤独という問題を必ず扱うことになります。皆さんは、孤独とは何だと思いますか。一般的に孤独とは、自分の周りに人格的に関わる人がいないことで生じる、肉体的、感情的な問題だと思われます。多くの人々は、孤独を主に肉体的で感情的な領域のものだと理解します。しかし聖書はこれにもう一つの観点を追加します。孤独は、肉体的で感情的な問題でもありますが、さらに根本的に霊的な問題であることを教えます。孤独が、霊的な問題であるというのは、一体どういう意味でしょうか。これを理解するためには、聖書が教える創造について知らなければなりません。私達皆は、おそらく一度は,この世界がどのように始まったのかと考えると思います。聖書は、世界が偶然にできたのではなく、神様がこの世界を造られたと教えます。ただの退屈からではなく、被造物への無限の愛情を持って、造られました。聖書は、神様が愛であり、愛こそ神様がこの世界を造られた根本的な理由だと教えます。神様は他の動物と違って、人間に人格を与えられ、人間と人格的に互いに愛し合おうとされました。私達が誰かと付き合う時に、一番重要なものは何でしょうか。相手を愛そうとする、自発的な意志です。愛は、強要することができないからです。それで神様は、人間を自由に自分の意志で神様を愛する人格体として造られました。しかし神様の意図とは違って人間は自分に与えられた自由を、創造主である神様を愛する事に使うのではなく、自分自身を誰よりも、もっと愛する利己的なことに使うようになったということです。「私は、神様を必要とはしません。私は、自分の力だけで十分に生きていけます。」と考えることを、聖書では罪と言います。聖書が教える罪は自分を造られた創造主神様を無視し、自己中心に生きようとする人間の属性を意味します。人は神様の御心を優先せず、自分自身を一番に優先するため、神様と人間の間には狭められない距離が生じました。このように神様から関係が断絶されたことが、私達が持つ孤独という苦痛の根本的な原因なのです。そして聖書では、罪は結局死を引き起こすと教えます。聖書で死とは、単に体が生物的な機能を失い腐敗することだけを意味するのではなく、神様と永遠に離れること、永遠に関係が断たれること、永遠に孤独になることを意味します。そして人間自らの力では、生命の根源である神様には帰ることはできず、人間自らの力では壊れた神様との関係を回復させることができないということが、聖書の核心的な教えの一つです。しかし無限の愛を持って、世界を創造された神様は、このように私達を、永遠に孤独の中で放っておくことはできませんでした。人間が神様に近づくことができなければ、神様と人間が、もう一度近づけるための唯一の方法は何でしょうか。それは、神様ご自身が、直接人間に近づいて来られることです。神様が遠ざかった人間に近づいて来られたこと、これがクリスマスの最も重要な意味になります。聖書本文の中で、御使いはマリアという女性から生まれる赤ちゃんについてこう言います。23「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私達とともにおられる」という意味である。御使いが明らかにした赤ちゃんの正体は、私達とともにおられる神様です。この世界を造られた創造主が、私達人間と一緒にいるために、私達のような人間になられたということです。聖書は、尊い神様が低い人間になられた動機について、このように言います。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」ヨハネ3:16愛、私達への愛、これがまさにイエス様がご自身を低くされ、人間となられた、一番根本的な動機なのです。そしてイエス様は、人間として私達が経験するすべての痛みと苦痛を経験されました。またイエス様には、罪がありませんでしたが、私達のすべての罪を背負って死なれました。そしてご自分の子どもたちを、生命の根源である神様のもとへと引き寄せられたのです。イエス様と一緒にいる時にのみ、私達は孤独から本当に自由になることができ、生命の根源である私達の神様へと、帰ることができます。イエス様はご自分を本当に信じ、委ねる人々といつも一緒におられます。そして彼らを慰めます。私達が悲しい時に、苦しい時に、イエス様は私達の痛みを最も深く共感して下さり、一番最善の道へと導いてくださいます。

No.112『箱舟の教会』    創世記7:1~24

 創世記9:8-16の中で、神様は洪水の審判によって世界を新しくされた後、二度とこのような洪水で世界を滅ぼさないと約束して下さいました。そしてその約束のしるしとして、虹を見せて下さいました。神様は虹を見て、ご自分の約束をいつも覚えるとおっしゃいました。一体なぜ神様は、虹を約束のしるしにされたのでしょうか。虹はヘブライ語で、戦争の武器である弓をあらわします。虹は、まるで矢の弦を引いた、弓の姿のようです。虹が弓なら、その弓はどこを狙っていますか?虹は、どこに向かっていますか?天、すなわち天体に向かっています。当時、古代中東では、神様が天体の中央に住んでおられると考えられていました。つまり神様は、神様ご自身に向かって、弓を構えておられるのです。神様は、虹の契約にご自分の命をかけられたのです。「お前たちは、ずっと私に反逆して、私を裏切り罪を犯すが、私は命を失っても、お前たち人間の罪を背負う!」ということです。虹は、神様がご自分を呪ってまで、人間を救おうとされることを見せる、恵みの象徴なのです。この虹の契約が、究極的にどのように成就されましたか?人間の罪を背負うために、誰が命を失いましたか?人間を救うために、誰が自分自身を呪いましたか?そうです、イエス様です。人間の罪を背負うために、十字架で命を失された、ご自分を呪われたイエス様が、虹の契約を成就されたのです。まだ世界は、ノアの時のように暗いのです。人は続けて罪を犯し、自らの力では自分の罪の本性を乗り越えることができないのです。そのため、世界では人々が憎しみ合い、虐待し、抑圧する悲劇が絶えないのです。自然という神様の被造物が、人によって破壊されています。今も続く罪の影響の中で、悪と苦痛の問題が、私達の人生の中に存在します。しかし、神様がノアを箱船に避難させたように、私達は神様の恵みによって、イエス·キリストという箱舟の中に避けるようになりました。私達は、真の箱舟となられた救い主イエス·キリストに、自分の運命を任せ、教会という運命共同体に属するようになったのです。クリスチャンになってからの皆さんの人生はどうでしょうか?イエス様という箱舟での日々は、いかがでしょうか?いつも嬉しくて幸せなことだけがいっぱいあるのでしょうか。いつも生活は安定しているのでしょうか。違います。箱舟に身を乗せて、人生の航海を送る中、強い風が吹いてきて、荒波が私達を揺すって脅します。箱舟への信頼で耐えるには、私達の目に映った現実が、非常に大きくて恐ろしく見えることがあります。箱舟がひっくり返って、壊れそうな時があります。しかし箱舟の中に留まり、静まって下さい。イエス様を避難所とするすべての者が救いの目的地に至るまで、常に共におられ守ってくださるという、神様の約束を信頼して下さい。ご自分の御子イエス·キリストの命を犠牲にしてまで、虹の約束に忠実であられた神様は、いつも私達との約束を覚えて守られるのです。2019年、嬉しい事もあり、悲しい事もあるはずです。笑う時もあれば、涙を流す時もあるでしょう。繁栄する時もあれば、失敗する時もあるでしょう。私達は、何が起こるか全く予測できません。しかし一つ、私達が確信できることは、イエス·キリストは私達が信頼できる、唯一の箱舟だということです。人生の荒波が押し寄せてきても、キリストは私達の防波堤になって下さり、厳しい寒さが私達を脅かしても、キリストの翼が、私達の魂を暖かく覆いかけるでしょう。キリストに自分の運命を任せた神戸恵みチャペルという運命共同体として、私達皆が神様の驚くべき恵みを、深く体験する一年になるように、感謝の証が溢れる一年になるように、主の御名で祝福し、お祈りします。

No.113『繰り返される現実を直視する聖書的な観点』    伝道者の書1:1~11

 私達が満足する対象は、過去からこれまでずっと経験してきたもの、つまり食べて、飲んで、働くなど、私達が常に繰り返していることではありません。私達は日々繰り返されることよりも、これまでとは違う新しい変化を経験すること、また新しい目標を達成することを、さらに期待し、もっと喜び、もっと大きな満足感を感じます。そして私達自身が毎回作り出す新しい変化や新しい結果が、まるで永遠に続くかのように考えるということです。しかし、伝道書は私達にこのように言います。2,3節 2空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。3日の下でどんなに労苦しても、それが人に何の益になるだろうか。旧約聖書の元の言語であるヘブライ語で「空」という言葉は、へベル ですが、へベルは霧、蒸気、息という意味を持っています。これらの共通点は何でしょうか?それは、これらすべてはあまりにも短い間に、散在して消えてしまうということです。へベル=空という言葉は、「あまりにも短い」という意味です。日の下での私達の時間は、あまりにも短いのです。私達皆は、死ぬからです。人生は、私達が吐き出す細い息のように、瞬時に失われます。ですから日の下で、私達が何を達成しようとしても、それは一瞬の建築だけであって、その建築物は、まるで砂浜に砂で作ったお城のように、死という波が押し寄せると、流され消えてしまうのです。また、人生は短いだけでなく、続く繰り返しにしか、過ぎません。9節昔あったものは、これからもあり、かつて起こったことは、これからも起こる。日の下には新しいものは一つもない。永遠という長い時間の観点から見ると、すべてのものは反復し、循環します。過去にすでにあったものがなくなり、また現れます。私達が今行っていることは、過去に誰かがすでに行ったことの繰り返しであるだけなのです。すべては来ては消え、また来ます。浮び上がり、再びあらわれるのです。すべては回り回る循環だけで、新しいものはないのです。David Gibsonという牧師は、9節をこう説明します。「私達が今、見たり聞いたりするものは、すでに存在していましたが、消えたもの、時間の砂の中に埋もれていたのが、ただ再び現れただけなのです。見かけは異なっているかもしれませんが、本質的には前と同じものに過ぎません。」 しかし、人間はこのような現実を拒否します。絶えず繰り返される循環を止めることのできる何かを、自分の人生の中で経験したがるのです。新しいもの、しかし永遠に続くような何かを言ったり見たりして、また聞きたがるのです。しかし私達が成し遂げる、いかなることも、永遠の観点から見れば、この世界に全く影響を与えないのです。私達が何を発見しても、それは過去にすでにあったことの繰り返しであるだけです。過去のすべての人々が、死後忘れ去られたように、私達の存在は、業績とは関係なく、消え去ってしまいます。私達は過去の一部に過ぎなくなるでしょうし、世界は循環しながら流れるでしょう。そのため、働きと苦労によっては、決して究極的な益を得ることができないというのが、伝道者の助言なのです。それでは、私達はどうやって生きなければ、ならないでしょうか。どうすれば、全てのことが繰り返されるこの世界で、満足しながら喜んで生きていけるのでしょうか。伝道者はこう答えます。"死を考えなさい。あなたが必ず死ぬことを、覚えておきなさい。" 自分が死ぬということを覚えるということは、時間という領域において、自分が無能であることを、認めることです。私達は、結局繰り返される循環の歴史の中に、消えます。しかし、例外があります。ただ一人、時間の領域を超えて存在する方が、おられます。それはまさに、時間の創造主である神様です。神様は、永遠の昔から存在され、世界のすべての事が、それぞれ適時に起きるように主管される、時間の支配者です。私達は死を迎えた後、時間の領域を統治される、神様の御前に立つことになるでしょう。そして私達が、反復して循環するこの世界で、どのような日々を送ってきたかを問われるのです。唯一、時間の制限から自由な神様は、私達の過去へと戻られます。そして当時、私達が持っていた心や感情、また私達がした行動全てを、ご自分の定義に従って審判するでしょう。しかし死と審判は、信者にとっては恐怖の対象ではありません。ピリピ人への手紙1:21 です。21 私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。日の下で、私達はどんな働きからも益を得ることができませんが、ただ一つ、イエス·キリストは私達の唯一の益なのです。人間の数多くの罪にもかかわらず、時間の支配者である神様は、イエス·キリストを通した救いの時を定められました。そしてその時になると、イエス様はこの地に来られ、私達の罪のために死に復活されました。 か細い息のように、短い人生を生き、罪によって消滅する私達を、永遠の命で導びかれました。したがって、死と審判官の神様の御前に立つ日は、キリストの中で、恐怖ではなく栄光と恵みの瞬間になるでしょう。キリストの中で、私達が送る反復の日々は、神様の御前に立つその日を喜びで準備していく、祝福の通路なのです。イエスキリストの中で、私達が経験する反復は、当たり前で退屈な事の連続ではなく、時間の統治者である神様が、私達のために演奏される愛と恵みのリズムです。死を準備してください。神様の御前に立つその日を準備して、私に繰り返される現在という時間を、キリストのために過ごしてください。食べて、飲んで、働いて、人に会い、その人を愛し、神様に祈り、神様を賛美し、神様を礼拝する、このすべての反復の瞬間を、真の感謝の心で迎える時、か弱い息のような私達の短い人生は、新しいものへの執着から脱し、本当の喜びでいっぱいになるでしょう。

No.114『もてなし合い、祈り合う教会』  使徒の働き2:42

 初代教会において、もてなしと祈りは別々にあるのではなく、常に集まりの中で一緒に行われました。使徒の働き2:42「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」聖霊を受けた初代教会の信徒達は、神殿や家庭に集まり、交わりの中で互いをもてなし、共に祈りをささげることに努めました。彼らにとって、もてなしと祈りは、単なる暇な時のイベントではなく、常に行う最も本質的な活動だったのです。もてなしが、私達を歓迎される神様の愛を表す福音の表現であれば、一緒に祈ることとは何でしょうか?福音書を見ると、イエス様が祈られたり、祈りについて教えられた箇所は、全部で37箇所です。この祈りについての37箇所の中で、イエス様は複数の聴衆に、2人称複数型の動詞でおっしゃった箇所は、何か所でしょうか。33箇所です。これは何を意味するのでしょうか?イエス・キリストにとって、祈りはもちろん個人的にも行うものですが、主に共同体として一緒に行われるものでした。兄弟姉妹が集まり、神様の御心がこの地に成されることを、共同体として願うことが、神様の意図した祈りのデザインだということです。共に集まって祈ることには、特別な力があります。マタイの福音書18:19-20です。19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。この御言葉の背景は、罪を犯した信徒をどのように、正しい道へと導くかについて、イエス様が教えられた箇所です。しかしこの御言葉は、祈りについて非常に重要な事実を明らかにします。神様は、私たちが一緒に祈ることを願われ、最も小さな単位の集まりである二三人の祈りといえども、その共同体の祈りに耳を傾けて下さり、お応え下さるということです。20節で、イエス様の御名において集まるところとは、何を意味するのでしょうか?もちろん、すべての教会の集会がこれに該当しますが、イエス様の御名において集まるところは、主に、イエス様に従う者が共に集まって祈る集まりだと言えます。イエス様は、ご自分の子供達が一堂に会して祈る所に、彼らと一緒におられるとおっしゃいました。一緒に集まって祈ることは、イエス様を招待する行為、イエス様を歓迎し、もてなしする行為なのです。そして、キリストの教会が行うべき、本質的な使命なのです。皆さん、教会はどのようにして、始まりましたか? 教会の誕生日のことを、何と呼ぶでしょうか。ペンテコステと呼びます。ペンテコステ、どんな日でしょうか。聖霊様が、下られた日です。聖霊様の主な働きは、何でしょうか。イエス様が、私たちの中で住むようにされること、 イエス様が私たちに臨在するようにされることです。それで、イエス様は天に上られる前、ご自分の代わりに聖霊様が下られることを約束して、聖霊様を通して、世の終わりまで私達といつも共におられると約束されました。聖霊様が下られた時、イエス様に従う群れは、その時、何をしていたでしょうか。一緒に集まって、祈っていました。一緒に集まってお祈りをする中、聖霊が降臨され、天におられるキリストが、彼らの中に臨在され、キリストの教会が誕生したのです。そして、初代教会の信徒たちは、いつも集まって祈る中で、彼らが行うすべての教会の働きの中で、イエス様を歓迎し、もてなしたのでした。「もてなし合い、祈り合う教会」という今年のテーマを決めた後、私は最近一つの質問を良く考えます。教会のためにお祈りする中で、よく私の心の中にこの質問が浮び上がります。それは"神戸恵みチャペルは、一緒に集まって祈る、大切な思い出を作って行く教会であるか?"ということです。皆さんは、今までの信仰生活の中で、主日礼拝や集会の他に、定期的に誰かと一緒に集まって、祈られた思い出をお持ちでしょうか。そして、今もそのような思い出を作っておられるでしょうか? みなさんが苦しい時、いっしょに集まって祈ろうと言える祈りの友達がおられるでしょうか。そういう祈りの友達が、この教会におられるでしょうか。皆さん自身は、誰かにそのような祈りの友達となっているでしょうか? 皆さんは、周りの人が辛い時、一緒に集まって祈りを誘うことができる人でしょうか? 神戸めぐみチャペルがこのような思い出を作っていく教会になることを、またお互いに祈りの友達となる教会になることを、希望を持って祈っています。一緒に集まって祈り、すべての中で、イエス様を歓迎し、もてなす教会、イエス様の臨在があふれる私達の教会になることを主の御名で祝福します。

No.115『もてなし合い、祈り合う教会』  使徒の働き2:42

  初代教会において、もてなしと祈りは別々にあるのではなく、常に集まりの中で一緒に行われました。使徒の働き2:42「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」聖霊を受けた初代教会の信徒達は、神殿や家庭に集まり、交わりの中で互いをもてなし、共に祈りをささげることに努めました。彼らにとって、もてなしと祈りは、単なる暇な時のイベントではなく、常に行う最も本質的な活動だったのです。もてなしが、私達を歓迎される神様の愛を表す福音の表現であれば、一緒に祈ることとは何でしょうか?福音書を見ると、イエス様が祈られたり、祈りについて教えられた箇所は、全部で37箇所です。この祈りについての37箇所の中で、イエス様は複数の聴衆に、2人称複数型の動詞でおっしゃった箇所は、何か所でしょうか。33箇所です。これは何を意味するのでしょうか?イエス・キリストにとって、祈りはもちろん個人的にも行うものですが、主に共同体として一緒に行われるものでした。兄弟姉妹が集まり、神様の御心がこの地に成されることを、共同体として願うことが、神様の意図した祈りのデザインだということです。共に集まって祈ることには、特別な力があります。マタイの福音書18:19-20です。19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。この御言葉の背景は、罪を犯した信徒をどのように、正しい道へと導くかについて、イエス様が教えられた箇所です。しかしこの御言葉は、祈りについて非常に重要な事実を明らかにします。神様は、私たちが一緒に祈ることを願われ、最も小さな単位の集まりである二三人の祈りといえども、その共同体の祈りに耳を傾けて下さり、お応え下さるということです。20節で、イエス様の御名において集まるところとは、何を意味するのでしょうか?もちろん、すべての教会の集会がこれに該当しますが、イエス様の御名において集まるところは、主に、イエス様に従う者が共に集まって祈る集まりだと言えます。イエス様は、ご自分の子供達が一堂に会して祈る所に、彼らと一緒におられるとおっしゃいました。一緒に集まって祈ることは、イエス様を招待する行為、イエス様を歓迎し、もてなしする行為なのです。そして、キリストの教会が行うべき、本質的な使命なのです。皆さん、教会はどのようにして、始まりましたか? 教会の誕生日のことを、何と呼ぶでしょうか。ペンテコステと呼びます。ペンテコステ、どんな日でしょうか。聖霊様が、下られた日です。聖霊様の主な働きは、何でしょうか。イエス様が、私たちの中で住むようにされること、 イエス様が私たちに臨在するようにされることです。それで、イエス様は天に上られる前、ご自分の代わりに聖霊様が下られることを約束して、聖霊様を通して、世の終わりまで私達といつも共におられると約束されました。聖霊様が下られた時、イエス様に従う群れは、その時、何をしていたでしょうか。一緒に集まって、祈っていました。一緒に集まってお祈りをする中、聖霊が降臨され、天におられるキリストが、彼らの中に臨在され、キリストの教会が誕生したのです。そして、初代教会の信徒たちは、いつも集まって祈る中で、彼らが行うすべての教会の働きの中で、イエス様を歓迎し、もてなしたのでした。「もてなし合い、祈り合う教会」という今年のテーマを決めた後、私は最近一つの質問を良く考えます。教会のためにお祈りする中で、よく私の心の中にこの質問が浮び上がります。それは"神戸恵みチャペルは、一緒に集まって祈る、大切な思い出を作って行く教会であるか?"ということです。皆さんは、今までの信仰生活の中で、主日礼拝や集会の他に、定期的に誰かと一緒に集まって、祈られた思い出をお持ちでしょうか。そして、今もそのような思い出を作っておられるでしょうか? みなさんが苦しい時、いっしょに集まって祈ろうと言える祈りの友達がおられるでしょうか。そういう祈りの友達が、この教会におられるでしょうか。皆さん自身は、誰かにそのような祈りの友達となっているでしょうか? 皆さんは、周りの人が辛い時、一緒に集まって祈りを誘うことができる人でしょうか? 神戸めぐみチャペルがこのような思い出を作っていく教会になることを、またお互いに祈りの友達となる教会になることを、希望を持って祈っています。一緒に集まって祈り、すべての中で、イエス様を歓迎し、もてなす教会、イエス様の臨在があふれる私達の教会になることを主の御名で祝福します。

No.116『主の祈り②:天のお父ちゃん』      マタイ6:7~9

 聖書本文7節で、イエス様がおっしゃった異邦人は、信者を条件的に扱う存在だと考えていました。異邦人は神の名を書いて、その名を繰り返し呼び、非常に長く祈りました。そして多くの供え物を捧げました。そのように誠意を見せ、神が望む条件を満足させてこそ、神が自分を認め、祈りが聞かれると考えていたのです。条件が満たされる時には、信者が願う通りになりますが、満たされない時は、徹底的にそっぽを向く、ビジネス的な関係の神だったのです。このような神のイメージによって、異邦人の祈りは意味のない言葉で、無限に反復するだけでした。神との人格的な付き合いではなく、互いを満足させるための交渉でした。それで彼らの祈りの生活には、平安と感謝はなく、不安と不満と疲労だけが満ちていたのです。神様へのゆがんだイメージを持っていたのは、異邦人だけではなかったのです。ユダヤ人も同じでした。神様が選んだ民族であるにもかかわらず、また旧約聖書の神様が、彼らを息子と呼ばれたにもかかわらず、決して神様を父と呼びませんでした。ユダヤ人にとって、天におられる神様は、あまりにも偉大で神聖であり、地上の人間が、父と呼べる存在ではなかったのです。神様を父と呼ぶことは、自分が神様と同格であると主張するような、深刻な神聖冒涜だったのです。ユダヤ人が感じた神様は、人間が親密に近付くことができない、絶対的な威厳の存在だったのです。しかしイエス様は、そのようなユダヤ人の前で、神様をアラム語でAbbaと呼ばれました。Abbaは、父を丁寧にまた身近に呼ぶ言葉でした。(日本語では、お父さんよりも、お父ちゃんにもっと近いと思います。)古代のユダヤ人社会において、神様をお父ちゃんと呼ぶのは、どれほどの衝撃的な事だったでしょうか。それはユダヤ人の伝統を、ひっくり返してしまう行為だったのです。これだけではなく、イエス様は絶対的な威厳の神様を、ただ平凡な父親だけでなく、あまりにも受け入れ難い父親の姿を描写されました。代表的な例は、ルカ15章の放蕩息子の話です。お父さんは、何の条件なしに、帰ってきた息子を受け入れました。お父さんの心には、息子のみすぼらしい姿への憐れさと、失われた息子を見つけた喜びでいっぱいだったからです。イエス様は、このように非常識な父親の姿が、天の御父の子供である、私達を指して見せる姿だと教えられたのです。私達は、放蕩息子のように、神様の御心ではなく、自分の思うままに生きるために、神様のそばから遠く離れた罪人です。私達人間の不従順と裏切りによって、神様は大きな傷を負われ、神様の意図された美しい創造は、崩れました。世界の常識どおりであれば、偉大な神様には、このような私達を赦す理由は、全くないのです。ただ怒って、罰するのが当然でした。しかし神様は、常識どおりに動く方ではありません。続けて私達人間は、罪を犯しているにもかかわらず、神様は長い歳月を耐えられ、さまよう私達を切なく待たれました。そして失った私達を取り戻すために、御子イエス様を送られました。神様は私達の罪を背負われたイエス·キリストの中で、何の条件もなしに、私達を受け入れて下さるのです。天におられる尊い神様が、私達のお父ちゃんとなって下さり、私達を神様の愛される子供にして下さるのです。それでイエス様は、"天にいます私達のお父ちゃん"と神様を呼び、神様の子供としての特権を、満喫する祈りを、私達に教えて下さいました。天におられる神様は、地にいる私達とは、全く異なる次元の方です。短い人生を生きて死んでしまう私達とは違い、永遠であり、弱くて汚れた私達人間とは違い、絶対的で神聖なのです。しかし高い神様は、低い私達と、距離を置かれませんでした。いつも私達と一緒にいらっしゃって、私達のすべての心と体の動きをご覧になり、私達のすべての言葉に、耳を傾けて下さるのです。私達はいつも弱くて足りない者ですが、私達への神様の愛は変わらず、暖かいのです。なぜならイエス·キリストが、私達のためになさったその救いの御業の中で、天におられる神様は、私達のお父ちゃんとなられ、私達はそのお父ちゃんの子供となったからです。私達は祈る度に、最後に「イエス·キリストの御名によってお祈りします」という言葉で終わります。私達は、その言葉の意味を深く考えずに、祈る時が多いのですが、救い主イエス·キリストの御名には、神の子どもとして、天のお父ちゃんに祈ることができる、驚くべき特権が込められているのです。それで私達は、異邦人とは違い、キリストを通して子供となった私達の口に、耳を傾けて下さるお父ちゃんを信頼し、平安と感謝の中で祈りを捧げることができるのです。キリストの恵みの中で捧げる祈りの中で、天のお父ちゃんは、子供である私達が、父親であるご自分の聖なる形に似ていくように、私達を美しく造っていかれるのです。

No.117『主の祈り③:私だけではなく、私達の父』     マタイ 6:5~9

 神様との関係は、共同体なしに一人で十分に守れるのでしょうか。6節「あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」イエス様は「あなたがた」ではなく、「あなたが祈るとき」と言われました。イエス様は、他者と一緒に祈ることではなく、個人的に祈りなさいと教えられたのです。周りに人々がいない、完全にプライベートな環境で、一人で祈るように命じられました。そして誰に祈りなさいと言われましたか?あなたの父。祈りの対象が「あなたがたの父」ではなく、「あなたの父」、つまり自分一人の父なのです。イエス様の御言葉によると、神様は私達に個人的に祈ること、また神様を「私の父」と呼ぶことを許しておられます。また個人的に祈る中で、一人一人と個別に会ってくださる方なのです。神様はあなたの父、また私の父、一人一人の個人的な父であるのです。ではイエス様は、私達が共同体なしに、一人で信仰生活をしても良いと、おっしゃったのでしょうか? イエス様は、6節ではあなたのお父さんに祈りなさいとおっしゃいましたが、9節ではこのように、教えられました。『ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私達の父よ。」』6節とは全く異なり、イエス様は「あなた」ではなく、「あなたがたはこう祈りなさい。」と言われました。個人的だけではなく、他の人とも一緒に祈るように教えられたのです。そして神様を「あなたの父」「私の父」だけではなく、「私達の父」とも呼びなさいとおっしゃいました。神様は一人一人の父だけではなく、私達皆の父なのです。私達の信仰において、「私の父」と「私達の父」をバランスよく経験することは、非常に重要なことです。神様は私達が部屋の中で一人で祈り、神様と一対一で交わることを望んでおられます。また神様から与えられた愛を持って、他の兄弟姉妹と交わり、一緒に祈ることを願われます。「一人でいること」と「一緒にいること」をバランスよく繰り返すことが、神様がデザインされた、私達の生活なのです。ドイツの神学者ボンヘッファーが書いた「共に生きる生活」という本によると、神様と一人でいることができない人は、他人との交わりの中で、神様を経験することに失敗します。また逆に他人との交わりの中で、神様を経験できない人は、神様と一人でいることに失敗します。「一人でいること」と「一緒にいること」、この二つは、互いに離れることができません。しかしパリサイ人と律法学者は、この2つを分離しようとしました。同胞から、不条理な税金を取り立てる取税人と、体を売る売春婦を罪人と呼び、彼らと距離を置きました。彼らと距離を置くことが、神様を愛する最善の道だと思いました。「私は神様は愛しますが、教会は好きではありません」と考えるなら、パリサイ人と律法学者の態度と、全く違いはありません。しかしイエス様は、取税人と売春婦の客になられ、彼らの家で一緒に食事をされ、また彼らをいのちの言葉で、もてなされました。人々は、イエス様を罪人の友だと非難しましたが、イエス様は彼らと一緒に交わり、その交わりの中で、神様を経験しました。彼らから遠ざかるのではなく、彼らと一緒にいることが、神様を愛する最善の道であることを、よくご存知だったからです。天におられる父は、自分だけの父ではありません。イエス様は、祈りを聞かれる天の父が、私だけの父ではなく、私達の父だという事実を、教えて下さいました。父の愛は、義の子供だけに流れるのではなく、ご自分を裏切った汚れた子どもにも流れます。このような天の父を、よく知っておられたイエス様は、失われた子供を救おうとされるその御心に沿って、私達のそばに来られました。罪人の私達から遠く距離を置くのではなく、罪人の私達と一緒におられる、インマヌエルの神様となられたのです。そしてご自分のいのちを犠牲にされるまで、私達と永遠に一緒にいようとされた、イエスキリストの恵みによって、私だけの父でなく、私達の父になることを願われた神様の御心が、成就されたのです。神様を愛するならば、必ず教会を愛するようになります。教会を愛すると、必ず教会から傷つくようになります。そして愛する人から受けた傷は、とても痛いのです。真の愛は、必ず試練が伴うものです。しかし私達がその人のために祈って、その苦痛を克服し、その人の魂を諦めず愛する中で、私は私だけの父ではなく、私達の父となられた神様の御心を、より深く共感できるようになるのです。そのような御父の御心によって、自分のような汚れた罪人が、救われたという事実を、さらに深く悟るようになるのです。さらに感謝するようになるのです。さらに愛するようになるのです。さらに喜ぶようになるのです。「一人でいること」と「一緒にいること」、「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」が、私達の人生の中で、美しいハーモニーとなるのです。主イエスが教えられたこの祈りを通して、兄弟姉妹たちと一緒にいることに力を注ぎ、その交わりの中で、愛が多い私達の父に似ていく、キリストの共同体になることをイエス様の御名で祝福します。

No.118『主の祈り④:自分より神様をさきに』    マタイ6:9~13

 一般的な祈りと、イエス・キリストが教える祈りには、決定的な違いがあります。それは何でしょうか? 祈りの手順です。イエス様は「天にいます私達の父よ。」と神様を呼んでから、六つの願いをなさいます。そして、この六つの願いは、初めの3つと残りの3つ、このように2つの部分となっています。最初の3つは、まず「御名が聖なるものとされますように。」、2つ目は、「御国が来ますように。」、3つ目は、「みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」です。この3つは、神様についての、願いなのです。その次の三つは、まず一つ目は、「私達の日ごとの糧を、今日もお与えください。」、2つ目は「私達の負い目をお赦しください。」、そして3つ目は「私達を試みにあわせないで、悪からお救いください。」です。この3つは、祈る人自身についての願いです。まず神様についての願い、そしてその次に、祈る人自身についての願いです。しかし一般には、人々は自分が何であるか、あるいは自分に何か問題がある時に限って祈る場合が多いのです。神様に対して祈る、ごく少数の人々の中にも、順序の上で自分についての祈りを先にする場合がほとんどでしょう。なぜなら、自分自身が一番大きな関心事だからです。しかしイエス様は、主の祈りの順序を通して、自分の必要より、先に神様について祈らなければならないと教えられました。祈りの中で、私達が注目すべき最大の関心事は、自分自身ではなく、神様であるということです。信仰の目的についてウエストミンスター小教理問答第1問は、こう述べています。「問: 人の主な目的は何ですか。」「答: 人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 。」ウエストミンスター小教理問答は、意図的に、人から神様に視線を向けます。私達人間が、自分の存在する目的について考える時、質問の出発点は自分自身ですが、答えは自分ではなく、神様から発見されるということです。「私達が、なぜ信じるのか」という質問も、同様です。質問の出発点は私達自身ですが、答えは私達自身ではなく、神様から発見されます。信仰は、根本的に自分のためではなく、神様のためなのです。信仰の根本的な目的は、自分の救いではなく、神様を知り、神様の栄光をあらわし、神様を喜ぶためなのです。私達の祈りも、このようなものです。私達が誰かを本当に愛する時、相手が何が好きなのか、何が嫌なのかに関心を持って、相手を喜ばすことに専念するようになります。そして相手の喜びから、自分の幸せを発見します。いつのまにか、焦点が自分から、愛する相手に移ります。祈りは、神様とのつきあいです。私達の祈りが未成熟な時、自分自身に焦点を合わせますが、祈りを通して神様と付き合い、神様がいかに偉大で、どんなに良い方なのかを体験し、神様をもっと深く信頼すれば、私達の視線は、自然に自分自身から神様に、移動します。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」という御言葉のように、自分の不安と心配が、祈りの中心ではなく、神様への信頼が祈りの中心となります。自分が何か必要な時だけ祈るのではなく、神様そのものが、祈りたい主な動機になります。イエス様は主の祈りを通して、私達の祈りが成長し、自己中心から、神様中心に成長していくことを、願っておられるのです。それでは、神様に対して私達が、一番先に祈らなければならないことは、何でしょうか。9節後半はこう答えます。「御名が聖なるものとされますように。」 古代中東で名前は、その人のアイデンティティと、価値を表す非常に重要なものでした。「御名が聖なるものとされますように。」という言葉は、簡単に言えば、その御名が示す対象であられる神様が、聖なるものとされますようにという意味です。それなら、神様だというのは、どういう意味でしょうか。ヘブライ語で「聖」は、「区別する」という意味です。聖書で「神様は、聖です」というのは、神様が私達とは完全に区別される、別次元の方であられることを、意味します。神様は創造者であり、私達は被造物です。私達は、能力と時間と空間の領域で制限されている、弱い存在です。しかし、このすべての領域を超える神様は、全能であり、永遠であられ、すべての場所に存在されます。人格と道徳の領域においても、私達は嘘で矛盾しますが、神様は常に真理と正義の究極として存在されます。「御名が聖なるものとされますように。」という願いは、創造者神様が、他のすべてと区別される方であることを、すべての被造物、特にすべての人間が認めることを願う祈りなのです。

N0.119『天の都へと歩く旅人』 マタイ 6:9~13

 神様の御国とは、基本的に神様の統治を意味します。「御国が来ますように。」という祈りは、神様を信じる人の中で臨む、神様の統治が、もっと明確にあらわれるように願うものなのです。私達はまず、自分自身のために「御国が来ますように。」と祈るべきです。祈る私たち自身が、神様の統治にすべてを任せ、神様の御国の市民らしく、生きるようにさせて下さいという祈りなのです。もともと私たち人間は、このような祈りが必要のない存在でした。神様は、人間をご自分の形として、神様ご自身に似た存在として造られました。その理由は、私たちが神様に代わって、他の被造物を治めるためでした。つまり人間は、神様の代理統治者であるのです。代理統治者は、まず統治者に従う者です。そして統治者の権限を委任されて、自分の思いではなく、統治者の心に沿って治める存在です。神様が、エデンのすべての実を承諾されましたが、ただ一つ、善悪の知恵の実は禁止されました。代理統治者である私たちが、神様を私たちの王として認め、神様の統治に、私たち自身を任せるためでした。しかし人間は神様の統治を拒否し、自ら自分の人生を統治することを、望みました。神様から独立して、自分の意志と力で、人生を開拓して行こうとしました。しかし、時間が経つほど、無限のように見えた自分の所有は、だんだんと無くなっていきます。若さも、健康も、能力も、意志も、一つ,二つ,自分のそばを去り、結局、神様のおられない人生のむなしさと、悲惨さを感じます。無限である神様を去ってしまった私たち人間の資源は、有限的であって、あまりにも早く消えるからです。 人生の統治権は、有限の存在である私たちには、決して与えられないものです。結局、残った選択は、自分への信頼に固執するのか、それとも御父のもとへ戻るかなのです。イエス様は、このような私たちにまず「御名が聖なるものとされますように。」 それから「御国が来ますように。」と祈りなさいと教えられました。この手順には、理由があります。聖なるという聖書の表現は、区別されるという意味です。「御名が聖なるものとされますように。」という祈りは、創造主の神様が、私たちの被造物とまったく違う次元の存在であり、区別される方であると悟ることを願う祈りです。すべての領域で不足する、弱い私たちとは異なり、神様は全能で、私たちを限りなく愛してくれる方と、認めるならば、私たちは自然に「御国が来ますように。」と祈るようになります。弱い私たち自身の国を諦めて、神様が治められる御国の市民になることを願う、祈りをささげなければならないのです。自分ではない神様を、王として仕えることは、一瞬にして行われるのではなく、持続的な過程であるため、神様は私たちに引き続き「御国が来ますように。」と祈りなさいと教えてくださったのです。この地に住むクリスチャンは、すべて二重国籍者です。一時的な国籍は、自分のパスポートに書かれている国であり、永久的な国籍は、神様の御国です。私達は、この両方の国が要求する、市民の義務に、忠実に取り組まなければなりません。しかし問題は、この両方の国の間で、葛藤する時があるということです。私たちは生きながら、この両方の国の価値観が一致できずに、衝突する瞬間を、しばしば経験することになります。 この時,私達の罪の本性は、信頼するよりは、自分の目を頼りなさいと言います。神様の御国が要求する市民の姿勢は、この世の国ではあまりにも無謀で、危なく、非常識に見えます。世の中の国が要求する市民の道が、自分により安全で、安定的で楽に感じられます。このような誘惑を拒否できなければ、神様の知恵より自分の知恵を、永遠な神様の御国より、一時的なこの世界の国を、優先することになります。私達は、世の中という国に属して住んでいますが、同時に、神様の御国の市民です。二重国籍者である私達は、地上に住んでいますが、この世に束縛されていない外国人のように、旅人のように生きなければばりません。世界の国が、自分の信仰を脅かすとき、抵抗しない人々は、神様の御国の市民に、なることができません。この世界の統治は、いつか崩れるでしょうが、神様の愛と正義の統治は、この地に戻って来られる王の王、イエス様によって必ず完成されるのです。「御国が来ますように」という祈りは、天の都へと歩く旅人のように、生きることを、神様に求めている、信仰告白の祈りです。私達は、私がこの世に属して生きていますが、私達の真の故郷は、ここではなく、天の父の御旨です。私達はこの地上を歩いていますが、信仰の旅人のように、ここに縛らずに、私たちを温かく抱き、祝宴を開いてくださる神様に向かって、堂々と歩いていきましょう。

No.120『不明瞭さの中での信頼』    マタイ6:9~13

 「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」という、主の祈りの3つ目の願いについて、学んでみましょう。イエス様は神様の御心が行われる場所について、天と地を比較されました。天は神様の統治が完全に実現される、神様の領域です。天には、神様の御心に対抗する勢力がありません。しかし地は、天とは異なります。地は、まだ神様の統治が完全に、実現されてはいない所です。ですから、地に神様の御心に対抗する勢力があります。神様の御心に抵抗しようとする罪の本性が、私達人間の中にあります。そしてそれを悪用して、神様のご計画を妨害しようとする、サタンと悪魔の力があります。ですから、イエス様は私達に、神様の御心が、地でも行われますようにと祈るように、教えられたのです。神様の御心を確実に知ることができる秘訣は、絶対に存在しません。神様の御心は、地にいる私達に曖昧で、不明瞭な姿で現れるからです。信仰の章と呼ばれるヘブル11章1節は、信仰についてこう言います。「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブルの著者は、信仰は見えない中で、その本来の価値を現わすと言ってから、信仰の道を歩んだ先祖、一人一人を例にあげます。その中で私達が注目すべき人物は、アブラハムです。8節「信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」アブラハムは、自分が通って行く所、到着する所がどこなのかについて、具体的な地図なしで、ただ神様への信頼だけで、一歩一歩踏み出しました。聖書は、信頼だけで神様にすべてを委ねたアブラハムの行為を、信仰と定義しました。神様の御心が完全に行われる天でのように、苦難で満ちたこの地でも、神様の御心に沿って生きることができるのは、神様は私達に御心を明瞭に見ることを要求されるのではなく、御心を完全に信頼することを願われるからです。神様の御心が、不明瞭な状況の中でも、私達にはっきりとした二つの事実があります。一つ目は、神様は私達を愛される善良な方で、二つ目は神様はご自分の御心を、必ず成す全能の方だということです。神様の御心は、私達人間の知恵で、絶対に推定することはできません。創造主である神様の御心は、私達人間の理解を超えた方法で、必ずハッピーエンディングを達成されるからです。私達に必要なのは、行く先への具体的な地図ではなく、善良で全能なる神様への全的な信頼なのです。「みこころが天で行われるように、地でも行われますように」という祈りは、神様を完全に信頼して、神様の御心が行われることに、自分のすべてをささげるという信仰告白の祈りです。ウエストミンスター小教理問答第一問が言うように、人の主な目的は、自分ではなく、神様の栄光をあらわし、永遠に神様を喜ぶことです。これが、私達への神様の御心なのです。この喜びは、神様を信頼し従順する中でのみ、味わうことができる真の喜びです。自分の心ではなく、神様の御心のために生きる時、明瞭な状況ではなく、神様への信頼で生きる時、私達は神様の御心が完全に行われる天での喜びを、この壊れた地でも味わいながら、生きることができるのです。

No.121『真の勝利者』    ヨハネ19:30

 裸で十字架にかかり、皆が嘲弄する中で死ぬことは、人間が経験する恥の中で、最も最悪の恥でした。最も無力で悲惨な姿のイエス様に、周りの人々は「おまえの人生は失敗した。おまえは敗北者だ。おまえは価値のないやつだ。」と結論付けたに違いありません。しかしこのような状況の中でも、全身がボロボロになったイエス様を、全く別の視点から見ている人がいました。それは、イエス様ご自身でした。イエス様は、すべての人がご自分を非難し嘲笑するにもかかわらず、ご自分がなさった働きの価値を、少しも否定されませんでした。むしろこう言われました。「完了した」イエス様は、一体何を意味して「完了した」と言われたのでしょうか?多くの人々が、この言葉を「終わった。It is over」と理解します。すぐに死なれるイエス様ご自身の命が、終わったという意味で、またはご自分の働きが終わったという意味で「完了した」と言われたと解釈します。しかしここで使われた言語tetelestaiは、終了したという意味ではなく、完成したという意味です。「完了した」は、イエス様がご自分が来られた目的を、達成されたという意味で言われた勝利の叫びなのです。神様が何かを達成されて喜ばれる場面が、聖書の他の所からも出てきます。どこでしょうか?神様が、天と地の創造を完成された時です。創世記2:1-3「こうして天と地とその万象が完成した。2 神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。3 神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。」神様は、6日間天と地のすべてのものを造られ、7日目に創造の働きを止めました。そして創造されたその日を記念し、喜ばれました。ご自分が造られた被造物への神様の大きい喜びが表現された7日目、そして神様の民が、この神様の喜びに参加する日を、安息日と呼びます。神様は、この美しい世界をとても愛されました。しかし神様の意図とは異なり、人間の罪によってこの世は危機を迎えるようになります。神様と人間、人間と人間、自分と自分の関係が、すべて壊れたこの悲惨な姿が、罪に染まったこの地の現実なのです。世界を創造し喜ばれた神様は、壊れたご自分の被造物を罪から救い出される計画でした。そしてそのご計画の中心には、この地に来られたイエス様がおられます。ヨハネは、ヨハネの福音書1章で意図的に創世記1章を連想させながら、イエス様の登場を話します。その理由は何でしょうか。世界を創造されたイエス様、この世に直接来られて、人間の罪によって壊れたこの地を、新しく再創造されることを、見せて下さるためです。創造者イエスキリストが、死の運命に陥ったこの世を捨てず、罪の闇を追い出して再創造すること、これがイエス様がこの地に来られた、最も大きな目的です。十字架の上で血まみれになったイエス様は、私達人間の目に最も悲惨な姿になられましたが、神様の目にはご自分の血が、罪に染まったこの世界を再創造するイエス様のその弱いお姿が、最も輝く瞬間でした。世界はイエス様に向かって、敗者だと嘲笑しましたが、イエス様は「完了した」と勝利の宣言をされました。世界を造られ、7日目に創造の完成を喜ばれた創造主イエス様は、再びご自分の死で世界を新しく造られ、再創造の完成を喜ばれたのです。そして、イエス様を信じる私達は、「完了した」と言われたその喜びの実なのです。世界が自分へどのような否定的な評価を下しても、私達自身の価値を傷つけることはできません。私達自身の価値は、他人が決めるものではなく、私達自身が定めるものでもなく、ただ十字架のイエス·キリストが、私達の為にしてくださったことによって、発見されるものです。最後の瞬間の中で「完了した」と言われたイエス様のその喜びが、私達の価値なのです。私達はイエス様の喜びで、再創造された存在です。イエス様が完了されたことにより、神様の目には、私達は汚い罪人ではなく、神様の愛しい子として映えているのです。私達がこれからイエス様に、従って歩かなければならない信仰の道は、高く、容易な道ではなく、低くて険しい謙遜の道です。イエス様は周囲の人々から嘲弄されたように、世界は目につく私達の存在に向かって、否定的な評価をするかもしれません。他人の目には、非常識的で、愚かな人に見えるかもしれません。しかし、肝に銘じてください。人の目に映る勝利者の姿が、神様の目には敗北者と見え、人の目に敗者と見られる人が、神様の目には勝利者になり得るということです。私達が、本当に神様を愛し、隣人を愛する中で、犠牲と試練を忍耐する私達の姿は、神様の目に勝利者として映えるのです。私達の主イエス様が、もう世界に勝利されました. その勝利が、子供である私達のものであると信頼し、「完了した」と言われたイエス様の喜びに、私達の聖なる人生で入りましょう。

No.122『架上七言⑦:信頼の中で生き、信頼の中で死ぬ』    ルカ23:44~46

 イエス様が亡くなられる直前、最後におっしゃられた御言葉は、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」でした。この御言葉は、元々イエス様が初めて話された言葉ではなく、詩篇31:5の御言葉を引用されたのでした。「私の霊をあなたの御手にゆだねます。」この詩篇の著者であるダビデは、当時自分が最も信頼していた友達にまで、裏切られました。ダビデがどこに行っても、周辺のすべての人々は、彼を敵対して嘲弄しました。このような悲惨な状況を克服するために、いくらあがいてみても、全く希望が見えませんでした。ダビデは、すぐに自分が死ぬかのような危機感にとらわれました。それで彼は、自分の唯一の避け所である神様に、心から祈りました。これはどんな状況でも自分を見捨てず、必ず探される救い主神様への深い信頼の祈りでした。イエス様の状況も、ダビデと似ていました。いえ、むしろもっと絶望的でした。イエス様は、ご自分がもうすぐ死ぬことを、よくご存知でした。しかし亡くなった後でも、天の御父は息子である自分を見捨てず、必ずその死の淵から引き出して下さるということを、深く信頼されました。それでイエス様は、ダビデが信頼の中で捧げたその祈りを、ご自分の最後の遺言にされたのです。誰かが、「イエスはどうやって死んだのか?」と質問すれば、聖書はこう答えるでしょう。イエス様は信頼の中で死にました。信頼、それがイエス様の最後の瞬間を、一番よく要約できる言葉です。しかし、イエス様の最後の御言葉の中で、もう一つ注目すべきことがあります。イエス様の祈りと、ダビデの祈りは、ほぼ同じですが、唯一、一つ違いがあります。何でしょうか? 「父よ」です。父という言葉は、イエス様のすべての働きを、最もよく表しています。イエス様は、最大の試練の中でも、御父を呼ばれました。そして御父への信頼によって、あまりにも無謀に見えるその計画に、従われました。ついにイエス様は十字架にかかられ、あらゆる拷問を受けました。しかし最後の瞬間にも、イエス様は「父よ」と呼びかけ、ご自分の霊をご自身のすべての運命を、父の御手に任せると祈られました。このようにイエス様の人生について、簡単に説明しました。「イエスは、どのように生き、どのように死んだか?」と尋ねるならば、聖書はこう答えます。「イエス様は、御父への絶対的な信頼の中で生きられ、絶対的な信頼の中で亡くなりました。」十字架の道には、目に見える安全装置がありません。あまりにも非合理的で、危険に思われ、神様が確実に方向を示してくださっても、私達はその所に足を踏み出すことを拒否する時が多いのです。弱い私達人間の心は、よく十字架と正反対の方向を示します。そしてこのようなすれ違いの中で、私達は自分の判断に頼ろうとする誘惑を強く感じます。しかし、箴言3:5-6はこう言います。「5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。6 あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」神様の判断は、私達の目には愚かに見えますが、真に人生の道を真っ直ぐにします。私達の判断は、世の中の目に賢く見えますが、むしろ人生の道を険しくします。真の信頼は、私達の判断ではなく、ただ神様こそ、この世界を支配する真の現実であることを謙遜に認めることです。十字架での死を前に、イエス様も葛藤されました。十字架の上には、何の安全装置もないばかりか、私達人間の罪が引き起こした、世の中のすべての悲惨な現実と、それに対する厳格な正義の刑罰が待ち受けました。イエス様は、その道を避けることができるなら、避けるようにして下さいとお祈りされましたが、神様の指は、引き続き十字架を指していました。イエス様は、すべての人々が矛盾だと嘲弄するそこに、御父への信頼だけで、ご自分の霊を任せられました。そのような非常識な信頼が、私達のような罪人を死の淵から引き出し、神様へと導かれたのです。イエス様が歩まれた十字架の道は、もはやイエス様だけの道ではなく、イエス様に従う私達も歩かなければならない道です。 「私はどう生きるべきか。どうやって死ななければならないのか。」に対する答えは、十字架が教えてくれます。神様を信頼する中で生き、神様を信頼する中で死ぬこと、それが神様がご自分の指で指しておられる私達の人生の方向なのです。十字架の道は、イエス様の人生のように、信頼の中で、自分の霊を神様に任せる旅路なのです。天の御父は、息子であるイエス様のその無謀な信頼に、復活でこたえられました。そして天の御父は、イエス様を通して神様の子供になった私達にも、同じようにこたえられるでしょう。信仰の旅の中で、疲れきった時は、「父よ」と呼んで下さい。どのような苦難の中でも、絶対的な信頼で、勝利された御子イエスが、私達のそばにいつも共におられ、私達の足を天の御父へと導いてくださるでしょう。

No.123『復活の力を持って生きる』      ピリピ3:10~11

 私達の肉体が復活するのは、イエス様が再び来られる日、すなわち未来におこりますが、復活は現在の私達を、神様の子供として新たにします。では復活によって、私達が経験する変化とは何でしょうか? 本文の10節前半「キリストとその復活の力を知り」キリストと、キリストの復活の力を知りたいという、情熱なのです。私達は誰かを本当に好む時、その人から何か利点を得たいと思う心よりも、その人の苦難に参加したくなるのです。同様に、イエス様を本当に知ろうとする時、私達はキリストを通して、自分が繁栄したい気持ちよりも、キリストが歩まれた十字架の道に、参加しようとする心を持つようになります。10節の後半「キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり」神様の子供となった者は、必ずキリストの苦難と死にも参加し、さらにキリストに似ていこうとします。その道は、時に大変疲れる旅ですが、自分のために苦しまれたキリストをより深く知っていき、世界が与えることができない、真の喜びを味わう旅でもあります。まず私達は、神様の子供という、新しいアイデンティティに合うように、罪人だった昔の自分を、捨てなければなりません。救いは始まりましたが、まだ完成していないため、私達は神様を信じても、依然として罪を犯したり、罪の誘惑と戦いながら、生きていきます。 そしてキリストの恵みに頼って、続けて自分を見つめ、悔い改めます。罪に対して続けて死にながら、イエス様の死に参加することは、大きな苦痛が伴います。また私達は十字架の福音に生き、また伝えるために、自分の多くのことを犠牲にしなければなりません。福音通り生きることは、決して易しくありません。時には、人に仕えるために、惨めになるほど低くなり、不義に対しては、声を高める勇気を出さなければなりません。一人でも、もっと神様に導くために、弱い人には弱い人になり、強い人には強い人になるなど、あらゆる種類の人に合わせて、すべてにならなければなりません。真の神様の祝福を受けるために、自分が握っている多くのことを、手放さなければなりません。福音のために死にながら、イエス様の死に参加することも、やはり大きな試練が伴います。「自分のように気弱な人間が、どうやってこんな険しい道を歩めるのか」「これは、現実に合わない、理想の話ではないか?」という疑問が、私達の率直な気持ちなのかもしれません。しかし良い知らせは、私達がこのような試練の道を歩む前に、すでに復活の力が、私達に与えられたということです。この復活の力は、イエス様に従って行く中で、自分が倒れたとしても、起こしてくださり、自分が死ぬとしても、よみがえさせてくださる、神様の恵みを信頼する力です。この復活の力が、私達に試練を乗り越え、キリストをもっと知り、キリストにもっと似ていくようにします。パウロは、最後の11節でこう言いました。「何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」イエス様をもっと深く知るため、もっと愛するため、イエス様の死に参加する人生こそ、最終的な復活に至る道だと、パウロは信じているのです。旧約で、神の民であるイスラエルは、毎週第七日つまり土曜日を安息日として、守りました。しかし教会は毎週1日目、つまり日曜日に信徒が集い、共に礼拝を捧げます。なぜならイエス様が復活されたその日が、一番目の日だからです。教会は、イエス·キリストの復活への、信頼と信頼で始まった共同体です。クリスチャンにとってイースターは、今日だけでなく、毎週の日曜がイースターなのです。私達は、主日礼拝の中でキリストの復活を記念し、復活の力とともに、世界に送られます。そして世の中を生きる中で、私達はキリストに従うために死に、また復活します。キリストの死を模範とすることは、私達が肉体的に死ぬ瞬間だけに、可能なことではありません。私達には復活の力があるため、生きていく全ての瞬間に、キリストの死に参加できるのです。復活の希望があるため、死と復活という信仰のリズムを私達のすべての人生を通して、演奏できるのです。 復活があるため、試練は悲劇ではなく、むしろキリストと私達の親密さを証明する、恵みの贈り物になるのです。私達皆が、十字架の道を一緒に歩みながら、新しい天と新しい地に入る、復活の証人になることを、私達の唯一の希望であるイエス·キリストの御名で祝福します。

No.124『正しい恐れを持って生きる』     詩篇111:1~10

 詩篇111篇は、何が正しい恐れかについて、教えます。10節前半「知恵の初め それは主を恐れること。」非常に有名な御言葉ですね。聖書の中で、神様について恐れという言葉が、300回以上出るほど、「主を恐れること」は、非常に重要なテーマです。「主を恐れること」は、神様に対して恐怖を感じることではなく、驚異を感じることです。神様の偉大さを見て感じる感動の驚き、そのような偉大な方が、自分のそばにおられることへの感謝と喜びの驚きです。神様への驚異を感じるためには、私達は何をすべきでしょうか?2節「主のみわざは偉大。それを喜ぶすべての人に尋ね求められるもの。」神様の驚異を感じるためには、まず神様が行われた偉大な御業を、見なければなりません。そして、その御業の偉大さを深く研究し、喜ばなければならないのです。詩篇の作者は、具体的に神様のどのような御業のことを、言っているのでしょうか?詩篇111篇は、出エジプトを回想しながら書いた詩です。4節で言う「奇しいみわざ」とは、神様がエジプトの奴隷だったイスラエル人を救い出されたのことを指します。5節前半は、神様が主を恐れる者に、食べ物を与えられたと言う、これはイスラエル人が荒野を歩いた時に、天からマナを降らせて下さったことを指します。詩篇の作者は、神様がご自分の民、イスラエルと結ばれた契約を忘れずに、彼らをエジプトから救い出され、約束の地に入るまで導かれたことを見て、その偉大さに驚異を感じているのです。神様は過去と同様、現在もご自分の子供を守っておられます。神様のなさるこの偉大な御業を、この世界の中で、そして自分の人生の中で見て驚異を感じ、神様の御言葉の通り生きなさいと、詩篇111篇は教えているのです。私達は無意識的ですが、実際自分が神様の御心のために、存在するのではなく、自分の自己実現のために、神様が存在するかのように生きる傾向があります。自分にとっての良い選択と結果は、神様より自分の方がよく知っていると仮定します。自分は、選択して決定する主体であり、神様は自分が望む結果を作り出す道具と同じなのです。このような信仰を持てば、試練が来る時に、心がひどく揺れ、弱くなってしまいます。自分の願うままに状況が動かなければ、それは神が自分に疎かで、愛がないことを意味するようになるからです。それで試練の中で、神様に対して簡単に懐疑感、失望感、裏切り感を感じてしまうのです。このような信仰を持てば、神様はいつも自分の常識の中だけで、自分が理解して予想できる範囲にだけ、動かなければならないと思うようになります。大きい神様を自分の小さな枠組みに合わせて、縮小しようとするのです。こうした意味で、Tim Keller牧師は「主を恐れること」を、こう定義しました。「主を恐れること」は、神様を、神様そのままに見るものです。大きく無限な神様を、私達人間の枠に合わせて縮小させたり、歪曲させて見ることではなく、ありのままの神様を見ることこそ、「主を恐れること」です。誰が弱い奴隷だったイスラエルが、超大国のエジプトから、抜け出せるだろうと予想できたでしょうか。誰が、紅海が割れるだろうと予想できたでしょうか。どんな人間が、何もない荒野で、一つの民族が40年間生存できると予想できたでしょうか。神様は、大きいのです。無限なのです。決して、小さな人間の枠に閉じ込められないのです。ご自分が創造された、世界を絶対に放置されず、人間が理解できない、驚くべき摂理で保存され救われる神様を、ありのまま見つめる時、私達はその偉大な御業に、驚異を感じるようになります。驚くようになります。感動するようになります。感謝を感じるようになります。偉大な主を、本当に恐れるようになります。このような信仰は、試練の中で揺らぐことは、ありません。自分の状況が願う通りに進まないのは、神様が自分を裏切ったということではなく、神様が自分の狭い視野では、絶対に全てを見ることができない、大きな摂理と、驚くべき恵みで、自分を導いておられることを意味するからです。私達が神様を恐れれば、その恐れは、私達の心の中にある、他の恐れを追い出します。そして空いたその空間を、感謝と平安で満たすのです。主を恐れることこそ、神様を神様のまま見ることこそ、私達が恐れから真に自由になれる、唯一の道なのです。紅海を割ってイスラエルを救われた神様は、キリストの死と復活を通して、罪の海を割って、私達を救われました。そして約束の地に入るまで、イスラエルを導かれた神様は、私達が新しい天と、新しい地に入るまで、私達を守り導いて下さいます。杯を持ち上げて、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。」とおっしゃった、その救いの契約を、必ず守って下さいます。主を恐れましょう。それが、知恵の始まりです。聖書が教える知恵とは、この世界で神様の秩序を発見し、その秩序どおりに生きることを意味します。偉大な創造主である神様の御業が、自然の中に満ちます。偉大な救い主、神様の御業が、聖書と私達の人生の中に満ちています。その偉大な御業を通して、神様が自分のために存在するのではなく、自分が神様の御心のために存在するという真実を見つけ、神様の啓示されたその秩序に従って生きる知恵が、私達に与えられることを主の御名で祝福します。

No.125『主の祈り⑦:食べさせてくださる神様』     マタイ6:9~13

 主の祈りの6つの願いのうち、後半の3つの願い、つまり祈る人自身の願いについて学びます。その中の一つ目の願い「私達の日ごとの糧を、今日もお与えください。」を見てみましょう。「日ごと」と翻訳されたギリシャ語は、今日あるいは明日まで、食べる糧を指します。多く積み、長期間食べる豊かな糧ではなく、生きるための基本的な量の糧を、求めなさいという意味です。豊かに暮らしている私達が、日ごとの糧について祈らなければならない理由は、何でしょうか?私達が日ごとの糧について祈るのは、その糧を神様が与えられることを認め、告白することです。私達は、数日間食べられる量の食べ物がありますが、そのすべては、根本的な意味で、私達自らの力で得た当然の結果ではなく、神様が私達に下さったプレゼントなのです。「私達の日ごとの糧を、今日もお与えください。」という祈りは、人生の主人が自分ではなく神様であり、人生の中で自分が経験するすべての事が、神様の主権の下にあることを認める祈りです。そして、その神様の主権に、自分のすべてを委ねるお祈りなのです。「私達の日ごとの糧を、今日もお与えください。」という願いについて、もう一つ注目すべきことは、イエス様は「私の日ごとの糧」ではなく、「私達の日ごとの糧」のために祈られたということです。神様はご自分が造られた、すべての人間を愛しておられる父です。ですから、その御父の御心に沿って、私達は「私だけの日ごとの糧」ではなく、「私達の日ごとの糧」のために、祈らなけらばなりません。人間が持っている利己的な罪の性質により、豊かな人々の所有は、急激に増加していきますが、貧しい人々の所有は、日ごとの糧さえ脅かされます。私達みなの日ごとの糧への、根本的な希望は、あらゆる被造物を保存して、罪から救われる神様であることを告白する祈りなのです。同時に、日ごとの糧について悩む隣人が他人ではなく、私達の兄弟姉妹であることを覚える祈りです。このような"私達"という認識は、祈る人自身の良心をとても苦しめます。貧しい隣人を思い、自分の生活全体を点検するようにし、また節制するように促す、苦しい祈りなのです。神様から与えられた自分の糧を、憐みの心で、難しい隣人と分かち合うように促す、危険な祈りなのです。しかし「私達の日ごとの糧を、今日もお与えください。」という祈りに忠実に取り組む中で、私達はすべての子供に日ごとの糧を与えることを願われる、神様の御心を、より深く体験するようになります。自分の今の状況を、神様に心から感謝できるようになります。日ごとの糧さえない人々を、憐みを持って思う、心の余裕ができるのです。最後に、「私達の日ごとの糧を、今日もお与えください。」という祈りの中で、私達は自分が肉体の糧だけではなく霊的な糧も、必要な存在であることを覚えておいてください。肉と霊で造られた私達人間は、生きるために食べ物と一緒に、神様の御言葉を食べなければなりません。人間の多くの問題は、魂の飢えを無視し、肉体の飢えだけに集中することに起因します。高級な食べ物で自分のお腹を満たしても、決して満たされない心の空間があるのです。その空虚さと不安、寂しさが耐えられないほどに、私達自身を圧倒します。口にするものでは決して満たされない霊的な飢えが、その原因です。ただ神様の御言葉だけで私達の魂が力を得て、生きて行くことができます。神様の御言葉は、イエス·キリストの中に鮮明に現われました。ことばが人となって、私達のそばに来られた方がイエス·キリストです。イエス様は、ご自分が命のパンであることを、教えられました。命のパンを食べることは、イエス様を自分の救い主として信頼し、イエス様の御教えを学び、イエス様と一緒に人生の道を歩むことです。「私達の日ごとの糧を、今日もお与えください。」という願いは、ただイエス様を通してのみ、自分の魂の飢えと渇きが満たされ、ただイエス様を通してのみ、自分が生きられることを宣言する、信仰告白の祈りなのです。イエス様は、私達に日ごとの命のパンを求めなさいと命じられました。私達は、決してイエス様の恵みを、自分の魂に何日も備蓄しておき、独立的に生きる存在ではなく、毎日毎瞬間、イエス様の恵みに頼って生きる存在なのです。「私達の日ごとの糧を、今日もお与えください。」と祈り、一日一日、私達の体と魂に、命の栄養分を供給してくださる天の父と、イエス・キリストの恵みに注目しましょう。私達が当たり前のように、ここにいたのが奇跡になり、無感覚だった私達の魂に真の感謝が溢れるのです。

No.126『周りを満たす愛の香り』       ヨハネ12:1~8

 過ぎ越しの6日前、イエス様は、友達のラザロの家に寄りました。ラザロの家族は、イエス様を喜び、夕食を準備しました。彼らは、死んだラザロを生かしてくださったイエス様に、少しでも感謝の表現がしたかったのでしょう。マルタは食事の世話をしていて、ラザロはイエス様と一緒に食事をしていました。暖かい雰囲気の交わりが続いていたある瞬間、ある女性がイエス様のもとへ近づいてきました。ラザロの姉のマリアでした。マリアはイエス様の足に香油を塗りました。そして自分の髪の毛で、イエス様の足を拭きました。当時の文化では、女性が他の人々の前で、髪の毛を解いているのは、非難されるほどだらしない姿でした。マリアは、そうした非難を甘んじて受け入れるほどの大きな覚悟で、イエス様に自分の愛を表現したのです。やはりマリアは、他の人々から非難されました。しかし彼女が非難されたのは、だらしない彼女の髪の毛のことではなく、別のこと、イエス様の足に注いだ香油のためでした。その香油はインドにある"ナルド"という木の根と、穂から抽出した油のような香水であり、雪花石膏(アラバスター)で作られた特別な瓶に入れて、輸入されました。マリアを非難したイエス様の弟子、ユダの言葉によると、その香油は三百デナリオン、つまり労働者が一年間、働かなければ稼げない高価なものでした。  昨年、日本の1当たりGDPが430万円ほどでした。誰かが愛を表現するために、たった一度に430万円を使えば、みなさんはその人に何と言われますか。私達に与えられた、時間と金とエネルギーは、無限ではなく限られています。それで私達は誰かを愛する時、必ず知恵を持って、行動しなければなりません。聖書は決して、理性を排除したまま、感情だけに充実したものを、愛とは教えません。しかし問題は、誰かを愛さなければならない時に作動する、私達人間の理性が、私達人間の判断や考えが、神様の御心と一致しない時があまりにも多いということです。私達は、マリアを非難したユダの姿から、私達自身の弱い姿を見ることができます。その香油を売って、貧しい人々を助ける方がましだと主張したユダの意図について、聖書はこう言います。6節「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼が盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。」聖書が注目したのは、ユダの判断が正しいかどうかではなかったのです。それは、誰かを愛さなければならない瞬間に、ユダの心をとらえた何かでした。ユダは、本当に貧しい人々を大切に思って、怒ったわけではありませんでした。彼が激怒したのは、会計担当の自分の手に握られた430万円がなくなることが、もったいなかったのでした。誰かを愛さなければならない瞬間に、ユダの心をとらえたものは、自分の利益を追い求めようとした利己心でした。同様に、誰かを愛すべき時に作動する私達の理性は、利己心にとらわれることが非常に多いのです。  罪に染まった私達の冷静な理性は、マリアの行動を、浪費としか判断できないのです。しかしイエス様は、私達とは全く違う視点で、マリアの行動をご覧になられました。7、8節「イエスは言われた。『そのままさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。』」なぜイエス樣は、430万円を一度に使い、貧しい人々を助ける機会を失ったマリアに、こんなに寛大だったのでしょうか?イエス様は、マリアの行動に込められた意味を、ご覧になっていたからです。マリアは、ただイエス様のために、何かをしたかった自分の心にそって、行動しただけでした。しかしその行動が、まもなく十字架で死なれるイエスキリストの葬りのための行動となったのです。貧しい人々は、いつも弟子たちの周辺にいますが、彼らにとって最も重要な存在である、イエス様の葬りを準備することは、その時にしかできないことでした。合理的な判断は重要ですが、誰かを本当に愛する時、私達はその合理という範囲を、超える時もあるのです。マリアは、イエス様の足に、香油を少しだけつけることもできました。あるいは、香油ではない他の方法で、イエス様を愛することもできました。しかし、イエス様を愛そうとした彼女の心は、その香油をすべて浪費するようにさせました。そしてその浪費が、人々の知恵を超えて、イエスの葬りを準備するようにしました。 マリアの浪費によって、その家に溢れた"ナルド"の香りのように、本当の愛は、浪費の様子だけで、人の心を満たします。私達が愛されたその瞬間、瞬間、瞬間、誰かがあなたのために浪費した時なのです。浪費と呼ばれるその愛の香りが、皆さんと私を満たし、私達の人生を導きました。何よりも、私達のような汚い罪人を捨てずに、ご自分の大切な御子を浪費された天の御父の愛と、私達のために血と肉と命を浪費された御子イエス·キリストの恵みがあって、私達はイエス·キリストの体になった教会に、属しているのです。教会は三位一体の神様が浪費されたその愛の香りで、満たされた共同体なのです。神様の尊い浪費によって、神様の子どもになった私達は、誰かのために、自分に与えられた多くのことを浪費する使命を受けました。自分の全ての人生を、キリストへの香油として捧げましょう。他人からの非難が、伴います。涙と犠牲が、要求されるでしょう。しかし神様だけは、私達の無謀な行動に込められた、真の意味をご覧になるでしょう。そして私達の浪費を通して、この暗い世の中を、愛の香りで満たすでしょう。マリアの意図しない行動が、キリストの葬りを準備したように、神様は私達の捧げる愛の香油を通して、人々をご自分のふところに導き、ご自分の救いの計画が、全て完成するその時を、準備されるでしょう。

No.127『主の祈り⑫:罪の連帯性と赦しの恵み』   マタイ6:9~13

 罪の本性を持った私達人間は、罪の被害者であり、また加害者です。ある一人の罪は、独立して起ったものではなく、広い意味で、私達人間すべてが関連しています。罪は一人だけの責任ではなく、私達皆の責任なのです。それで、イエス様は祈りを教えられる時に、「私の負い目をお赦しください。」ではなく、「私達の負い目をお赦しください。」と言われました。文字通り訳して言うと、「私達の負い目を私達にお赦しください。」「私達」が2回出てきます。私達は、自分一人の罪、自分が直接犯した罪だけでなく、私達人間のすべての罪、自分が間接に犯した罪に対しても、神様に赦しを求めなければならないのです。私達は、アダムの中で、共に罪を犯しました。神様が善悪を知る知識の木の実に対して、人間と契約をした時、私達人間を代表する契約の頭は、アダムでした。アダムは、人間という共同体の代表なのです。私達は、代表のアダムの中でその契約に参加し、アダムの中で共に罪を犯したのです。今日の多くの問題は、私達が共同で罪を犯しているという事を、心から認めないことに起因します。しかし人間のすべての罪が、私達皆につながっているということを信じなければ、聖書が教える救いも、理解できません。ローマ書5:17「もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。」アダムの中で、私達は皆罪に繋がっています。アダムの中では、私達は皆罪人になり、死という運命を共有するようになりました。しかし同様に、私達のような人間となられたイエス様が、第2のアダムとして私達を代表され、私達の罪を贖われたために、イエス様お一人がなさったことが、私達皆のものになりました。イエス様の義なる身分が、私達皆の身分になりました。アダムの中で罪人であった私達が、イエス様の中で、義人となり、神様の子供となったのです。ですので、私達皆が、共に犯した罪を認めて「私達の負い目をお赦しください。」と祈る時、私達が享受するキリストの恵みも、もっと深まるのです。イエス様は、またこのように祈るように、教えて下さいました。「私達も、私達に負い目のある人たちを赦します。」 私達が慣れている口語訳の主の祈りには,「我らに罪を犯すものを我らが赦すごどく」が先にあり、その次に「我らの罪をも赦したまえ」という願いが出ます。しかし、新改訳聖書2017は正反対ですよね?ギリシャ語新約聖書の原文は、新改訳聖書2017のように、神様が私達の罪を赦して下さるのが先であり、その次に私達も他人を赦しますという告白が出ます。主の祈りの手順のように、まず神様に赦しの祈りをささげ、その赦しを体験すると、自分を傷つけた他の人の罪も赦そうと努めることになります。到底赦すことができないようでも、愛に無能な自分に与えられる神様の恵みを頼りに、その人の罪を赦す旅路を続けるのです。 「私達も、私達に負い目のある人たちを赦します。」という祈りは、自分に与えられた赦しの恵みを、自分だけに留まらせるのではなく、他の人にまで流れるようにするという、信仰告白なのです。憎しみと復讐は、決して癒しには、ならないということです。敵対心と怒りは、むしろ自分の体と心を、傷口の監獄の中に閉じ込めようとするでしょう。続けて過去にとらわれるように、これから前に進めないように、掴もうとするのです。赦すということは、その人が犯した罪を知らないふりをする、ということではありません。その罪の残酷さを、無視するわけでもありません。赦しは逆に、その罪の残酷さを、直面する勇気であり、その罪による傷から、自分自身を解放させることです。そして罪人に対する、神様の恵みを自分と他の人、皆に流れるようにすることです。私達が他人を赦す時、最も大きな益を受ける人は、私達から赦される、その人ではありません。その人を赦す、私達自身が、最大の益を受ける者なのです。アダム一人の行為が、全てを罪の投獄に閉じ込めたように、イエス·キリストお一人の恵みが、皆を自由にしたのです。その恵みの川が流れる通路になることを、神様の御前で祈る時に、私達は最も大きな解放の喜びを、味わえるようになります。赦しを祈りながら、真の自由を体験する私達皆になるように、救い主イエス·キリストの御名でお祈りします。

No.128『一つの体へと呼ばれる聖霊様』       使徒の働き2:1~13

 ペンテコステとは、天に昇られたイエス様に代わって、聖霊様が弟子達へと降りて来られた事を記念する日です。神様は、私達人間を、神ご自身と似るように創造されました。高い所から、低い所に下りて来られた神様のように、私達が低い姿勢で生きるように意図されました。しかし被造物である人間は、高い創造主神様に順従して生きる道ではなく、自分が神ほどに高くなる道を、選びました。これが、罪が私達人間の世界に入って来た始まりでした。聖書の中でこのような人間の罪が、最高潮に達した事件が何だったでしょうか。バベルの塔です。人間は、神ほど高くなるために、塔を積み始めました。その結果、どうだったでしょうか?神様は、人々の言語を混乱させ、全地に散らされました。それぞれ、自分がより高い位置にいようとする人間は、互いへの理解とコミュニケーションなしに、自分だけが分かる自己中心的な声を出しました。これによって人々は分裂し、散らばってしまいました。バベルの塔は、すでに終わりのある過去の話ではなく、現在私達が生きる、この世界の物語でもあります。今日の人々が、世界的に共有している思想は何でしょうか。モダニズムです。つまり近代主義的とは、17世紀の以降に、理性と科学を非常に信頼する思想の流れを意味します。神が全ての根本だという神中心の思想から、人間がすべての中心になるという思想へと変わりました。つまり神本主義から人本主義、ヒューマニズムへの転換が、モダニズムの最も大きな特徴の一つです。モダニズムは、人間の科学的知識と、理性のレンガを築けば、人間の社会が進歩し、究極的な幸福に達するという、近代のバベルの塔なのです。理性と科学が人間を平和と繁栄に導くというモダニズムのバベルの塔は、20世紀に残酷な事件が連続で起こり、深刻に崩れ落ちました。神のようになるために、善悪を知る知識の実を食べたアダムのように、神の代わりに自分の理性を選択した私達人間は、結局信じた自分の理性に、徹底的に裏切られてしまいました。"神は死んだ。人間は何で神を代替するのか?"というニーチェの質問に、人間はまだ答えを得ていません。人間は、永遠に神様に代わるものを見つけることは、できないでしょう。これからも、人間が築く全ての塔は、神様のおられるその高みに至らずに、崩れてしまいます。そして結局、互いを理解できず、互いを愛せず、分裂して散らばるのです。人間は、決して自分の力で、互いに和合することができないのです。自分が、他人より高くなろうとする罪の本性は、決して人間自ら克服できるものではないからです。イエス様が天に昇られ、五旬節になった日、弟子達皆は、一ヶ所に集まっていました。その時、聖霊が弟子達に下られ、彼らは急に自分の言語ではなく、全く知らない他の地域の言語で話し始めました。弟子達は皆ガリラヤ出身でしたが、各自が他の地域の方言で福音を述べ、また福音を聞くことが起きました。これが意味することは、神様は聖霊を通して、全ての国の人々に、彼らの言葉で福音を聞くように、意図されたということでした。神様は、人間を創造された時、人間に「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」とおっしゃいました。しかし、バベルの塔の時、人間は 「地に満ちよ」という神様の御言葉に逆らって、自分達の塔を築くためにシナルという地に集まっていました。それで神様は、彼らを全地に散らばされました。しかし聖霊様が、キリストの弟子達に下られてからは、全土に散らばることが、審判や呪いではなく、神様の祝福になりました。聖霊が、キリストを信じる者を、世界のすべての民族に送られ、各国の人々に、彼らの言葉でキリストを証するようにされたのです。 驚くべきことは、弟子達が方言を話したこと以外に、もう一つあります。弟子は、互いに異なる言語で福音を語りましたが、互いが互いを完璧に理解して疎通し、皆が一つになったということです。それぞれが他の言語で話しましたが、聖霊の中で、言語の異なる疎通の壁はなく、むしろ互いを理解し、建て、満たしてくれる美しいハーモニーになりました。私達人間が、バベルの塔を積み上げた時、言葉が入り混じって互いを理解できず、皆散るしかありませんでしたが、聖霊が下られた時、そこにあったすべての人々の壁が崩れたのです。キリストが聖霊を通して、教会に真っ先にされたことは、バベルの塔がもたらした分裂を、逆にされたことです。イエス様はすでに天に上昇られましたが、聖霊を通して、ご自分を信じるすべての中に臨まれ、彼らをキリストの中で一体とされたからです。私達は、他の背景、異なる姿、異なる考えを持っていますが、イエス様が下さる聖霊の中で、一つになることができます。皆が高くなろうとする、この分裂の世界の中で、謙遜なイエス様に従って、むしろ低くなることを望む者たち、他人に謙遜に仕える者たち、そのような者たちが、本当にイエス様の霊を受けた者であり、そのような者たちが存在し、そのような者たちを育てるところが教会です。

No.129『弱い人間への恵み』     マタイ6:9~13

 主の祈りの最後の願いは、「私達を試みにあわせないで、悪からお救いください。」です。この文章を見ると、イエス様は「試み」が、私達を悪の支配に陥らせる原因だと、認識していることがわかります。私達を悪に引き渡す「試み」とは、何でしょうか。まず、私達が肝に銘じなければならないことは、ここでのイエス様の意図は、神様が私達に下さる「試み」ではないということです。神様は、絶対にご自分の子供を、悪に引き渡す方ではありません。神様が私達を試みられることがあります。神様が人々を試みられる場合は、彼らの信仰をもっと強くするためなのです。そして神様は、私達に忍耐できるほどの試みだけにされます。ですから私達は、神様からの試みを拒否してはいけません。イエス様がおっしゃった試みとは、神様からの試みではなく、他の試みです。神様が与えられる試みではなく、神様の意図とは違って、私達が試みを経験する場合もあります。 神様は、すべての状況を主管されますが、すべての試みが神様によって、起こるわけではありません。私達は、人間の自由意志によって、破られたこの世界の中で、神様が意図されなかった試みを経験するのです。また時々、私達は自分の弱さと過ちによって、自分自身を試験みに陥ることもあります。 しかし、試みよりも、危険なことがあります。「悪からお救いください。」というイエス様の御言葉のように、悪からの誘惑です。ここで悪と翻訳されたギリシャ語は、悪そのものを指すのではなく、具体的には悪い者、悪者を指します。新共同訳には、"悪い者"と翻訳されています。イエス様が、おっしゃった悪い者は誰ですか。サタンです。イエス様は、サタンの強い力の前で、人間はあまりにも無力であることを、よくご存知だったので、サタンから救い出して下さいという祈りを教えられたのです。イエス様は、サタンには真理がなく、「偽りの父」(ヨハネ8:44)だとおっしゃいました。サタンが本当に強い理由は、気づきにくい姿で人を欺くからです。サタンは、アダムとイブを欺き、全世界を欺くほど、トリックが上手なのです。サタンは、今もこの世を偽りで支配しています。多くの人が集まる組織の中で、そして各人の日常の中で、非常に平凡な姿で誘惑します。イエス様は、主の祈りの中で、神の御国が、この地に来るように祈りなさいとおっしゃり、またサタンから救って下さいという祈りも、教えて下さいました。イエス様は、神様の御国と、サタンの国が対立していることを、しっかり認識されていたのです。サタンは、人を罪として統治し、自らの統治に従う人に、死という報酬を与えます。人間自らの力で、罪の問題を克服できないように、サタンの平凡な誘惑の前に、人間はあまりにも弱いのです。サタンの誘惑に対抗できる唯一の道は、神の御国を渇望することです。神の御国を渇望することは、その御国の王様であるイエス·キリストを受け入れることであり、イエス様の統治が、私達のすべての人生の領域に、染み込むように、キリストの福音に忠実に順従することです。福音は、絶対に一人で追い求めるものではありません。サタンは、絶対に一人で立ち向かうことはできません。それでイエス様は、私ではなく、私達を試みにあわせないで、悪からお救い下さいと祈られました。キリストの福音をもって、サタンの攻撃に立ち向かうことは、同じ信仰を持つ兄弟姉妹と協力する時に、可能なことなのです。私達は、一緒に神様を礼拝し、自分の兄弟姉妹が、試みに陥らないよう、互いに励まし合って、祈らなければならないのです。サタンは強く、人間は弱いのです。しかし弱い人間にとって良い知らせは、神様はサタンより、遥かに強いということです。何より弱い私達人間にとって嬉しい知らせは、神様は世界のすべての罪を背負って死なれ、復活されたキリストの中で、既にサタンに勝利されました。私達は、勝利が約束された戦いを、経験しているのです。時には、私達人間の目に、神の御国は弱く見えますが、その御国は絶対に敗北しないのです。王であるキリストが再び来られる日、最終的な勝利は、神様のものになるでしょう。神の御国を渇望して、毎日祈りましょう。イエス様は、私達を愛と恵みで統治され、義と永遠の命を与えて下さることで、私達の祈りに応えて下さいます。

No.130『主の祈り⑩:全てが主のもの』   マタイ6:13注釈

 本文の13節には、このような注釈がついています。『後代の写本に「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」 後代の写本に、主の祈りの最後の部分を、加えることもあるというのはどういう意味でしょうか。原本が書かれた時から、 最も近いうちに作られた写本、つまり最も古い写本には、主の祈りの最後の部分が、ないということです。主の祈りの最後の部分は、イエス様が教えられたことではなく、後代の誰かが、写本を作る時に追加したものなのです。「どうして、イエス様がおっしゃっていないことを、聖書に追加できるのか?」と考えるかもしれません。しかしなぜ、後代にその部分を追加するようになったのかがわかれば、私達は安心できると思います。聖書学者達は、このように推論します。私達が、毎週礼拝の中で、主の祈りを共に暗唱するように、2世紀に生きたクリスチャン達の間では、礼拝の中で主の祈りを暗唱する伝統が定着しました。私達が、礼拝の最初と最後に歌うものは何ですか。週報を見て下さい。頌栄です。頌栄というのは、神様に栄光を捧げる、短い賛美や祈祷文です。2世紀のクリスチャン達は、主の祈りを暗唱し、最後に頌栄として「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」と祈る伝統を守り始めました。詩篇でもよく見られるように、頌栄は旧約時代から、礼拝の中で使われてきた伝統です。そこで写本を作った人は、悪い目的ではなく、主の祈りを私達が礼拝の一部分として、また祈祷文として、より適した形式で使用するために追加したのです。そして、当時、他のクリスチャン達もこれに同意しました。頌栄は、全てが神様のものだと教えています。神様の持ってるものの中で、頌栄の言う代表的な例は、国と力と栄えです。まず頌栄は、国が神様のものだと告白します。当時、世界最強の国は、ローマ帝国でした。ローマ皇帝の目に留まれば、残酷に殺されたため、ローマ帝国に属するすべての国は、戦争なく静かに過ごしました。それでその時代を「ローマの平和 Pax Romana」と呼ぶほどでした。このような殺伐とした状況の中で、クリスチャン達は、主の祈りの頌栄を暗唱し、「国は皇帝のものではなく、神様のものです」と告白したのです。主の祈りの頌栄は、神様こそすべての王の上の王であり、すべての国が、神様のものですという信仰を、告白するようにします。私達は、自分の国家と、社会と職場と家庭に、忠実でなければなりませんが、私達が根本的に忠誠心を持つべき対象は、全世界を創造され、治められる神様だということです。第二に頌栄は、力が神様のものであると教えます。ここで力とは、何かを動かす力をいいます。当時人々は、すべての力がローマ皇帝にあると、信じていました。皇帝の指示によって、一つの民族が消えることもあるほど、皇帝の力はすごかったのです。このような、恐ろしい状況の中でも、クリスチャン達は、主の祈りの頌栄を暗唱し、「本当に世界を動かして治める力は、皇帝ではなく、神様に属しています」と告白したのです。三つ目に頌栄は、栄えも神様のものだと教えます。聖書で「栄えを受ける」というのは、「高められる」あるいは、「ほめたたえられる」という意味です。当時、皇帝の栄えは、一番輝いていました。ローマの貴族達は、皇帝に近いポジションに上り、その栄えを分けてもらうように努めました。時代と関係なく、人々は自分の価値を認めてもらい、また尊敬されるために努力します。努力することはいいですが、その目的が自分の栄えならば、その努力はいつか自分を裏切るでしょう。ウェストミンスター信仰告白、第1問によると、人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです 。栄えは、神様のものだという事実は、私達人間が存在する、最も重要な目的です。自分の栄光のためではなく、神様の栄光のために生きて行く時に、私達は自分という存在のデザインに最も適した姿で、人生を送ることになります。頌栄は、栄えの主人が自分ではなく、神であることを認めるように励まし、人生の最も重要な本質に戻るようにするのです。私達は、主の祈りの最後に、頌栄の最後にアーメンと祈ります。アーメンは、二つの意味を持っています。一つは、「はい、そうです」という同意の意味であり、もう一つは、単純な同意を超えて、「はい、そうします」という意味なのです。主の祈りを アーメンと言って終える瞬間、"私は主の祈りの教えに従って、人生を生きます"と決断することなのです。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」というのは、全てが主の物であることを認め、この事実を否定する勢力があるにもかかわらず、主に従って行くことを決断する祈りなのです。

 

No.131『恐れを締め出す愛』     Ⅰヨハネ4:16後半~21

 ヨハネの手紙第一は、長さが非常に短い手紙であるにもかかわらず、愛について36回も言及するほどに、愛を強調します。ヨハネが、最も重要に思う真理はこれです。19節「私達が愛することは神様が私達を先に愛したからです。」神様は、愛の源泉です。私達に属する愛は、愛のように見えますが、本当の愛ではありません。私達が本当に誰かを愛することができるのは、神様が私達を先に愛して、神様から受けたその愛で、他人を愛することができるからです。神様は、私達のような汚れた罪人のために、ご自分の御子を犠牲にされ、まず私達を愛されました。私達は、キリストを通して与えられたその愛を持って、神様を愛し、また兄弟姉妹を愛する旅を、続けて追求しなければなりません。ヨハネは、私達が真の愛を行うための旅を歩く時、私達に致命的な妨害となるもの、一つを警告します。それは、何でしょうか? 18節前半「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」ヨハネは、愛と恐れは、相反するもので、絶対に共に存在できないと言っています。私達の心に愛がないとき、私達の心を支配するのは恐れであり、愛が私達の心に入る時、愛は恐れを追い出して、私達の心を占めます。神様は本来、私達人間の心に、愛と恐れの中で、愛だけが存在するようにされました。エデンの園で、アダムとエバが送った幸せな人生は、彼らの心の中に、愛がいっぱいだったということを見せてくれます。しかし彼らが罪を犯してから、彼らの心を支配したのは、もう愛ではありませんでした。彼らは神様を避けて、木の間に隠れました。どうして、隠れたのでしょうか。愛の代わりに、恐れが彼らの心を、つかんだからです。彼らは、なぜ恐れたのでしょうか。表われた自分の恥と、それに対する神様の懲罰のためです。ヨハネも、恐れに対してこう言います。18節後半「恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。」ここで"懲罰"は神様に、拒否されることをいいます。神様に、拒否されることに対する恐ろしさが、私達人間が持つ恐れの根本なのです。神様に対する恐れは、神様と私達の関係だけに影響を及ぼすのではなく、私達と他の人との関係にも、影響します。アダムとエバの罪は、彼らの子供に遺伝し、長男のカインは自分の弟、アベルを嫉妬して殺してしまいました。神様が殺人を犯したカインに罰を下した時、カインはこのように答えました。創世記4:13、14「カインは主に言った。「私の咎は大きすぎて、負いきれません。あなたが、今日、私を大地の面から追い出されたので、私はあなたの御顔を避けて隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人となります。私を見つけた人は、だれでも私を殺すでしょう。」」カインは、神様だけが自分を罰するのではなく、他の人たちも自分を敵対して、殺そうとするだろうと思いました。なぜカインは、神様だけでなく、他の人たちまで恐れたのでしょうか。神様から拒否されることへの恐れが、神様が造られた他の人間からも、拒否されると恐れるようにしたからです。神様に対する恐れは、それだけで終わるのではなく、神様が造られた被造物に対する恐れへとつながるのです。自分が拒否されるかもしれないという恐れは、他の人たちとの関係で、私達を萎縮させます。私達にとって最悪の状況は、他人からの拒否され、傷つくものだと勘違いするようになることです。しかし人間にとって、最悪の状況は、他人からの拒否ではなく、神様からの拒否です。永遠に罪の懲罰を受け、神様と断絶されることこそ、私達に襲われる最悪の状況なのです。しかし聖書本文は、私達が最悪の状況をすでに免れ、最高の状況の中に置かれていることを教えてくれます。17節前半「こうして、愛が私達にあって全うされました。ですから、私達はさばきの日に確信を持つことができます。」 神様は、私達が経験しなければならない、最悪の状況を、イエス·キリストが、代わりに経験するようにされました。それで私達は、救い主であるイエス·キリストの中で、審判の日に大胆にできるのです。これらを表現すると、私達は永遠に、神様に受け入れられた者になったということです。また私達が、神様に受け入れられた者になったということは、神様が造られたこのすべても、結局私達を認めて、受け入れるようになるということです。救いは始まったばかりですが、まだ完成していないので、この世界で私達は他の人々を愛し、時には拒否され、時には見捨てられ、時には傷つくと思います。しかし、私達は恐れる必要が、ありません。世界の全ての人々が、私達を拒否しても、愛の源である神様は、私達を受け入れて下さったからです。

No.132『新しくなる人生の質問』    使徒の働き 22:6~11

 私達人間は、それぞれ自分を中心に、または自分のアイデンティティを形成した、自分の背景を中心に、世界を理解する傾向があります。聖書本文を書いたパウロも、元々は自分と自分の背景を中心に、世界を理解する人でした。パウロ自身はユダヤ教であり、ユダヤ教がパウロだと言えるほど、ユダヤ教という背景は、パウロのアイデンティティにおいて、最も重要な核心であり、パウロの世界観そのものでした。「ユダヤ教の信者である自分は、神様のために何をすべきか。」というのが、パウロが持っていた最も重要な人生の質問だったはずです。パウロは、クリスチャンの拡散を防ぐことこそ、自分に与えられた最も重要な使命だと、固く信じるようになりました。それで彼は、自分が直接主導して、クリスチャン達を迫害し、閉じ込め、ひどい場合は殺したりしました。神様のために、自分は何をするべきかという質問への答えを、ユダヤ教という自分の背景から探そうとしたパウロは、「神さまのために」という目的と正反対に、神様の御心を最も痛める罪を、犯すことになったのです。パウロは、ユダヤ教という自分の背景に基づいて、イエス様を神聖冒涜者だと判断しました。そのようなイエス様に従うクリスチャン達を、狂信者だと判断しました。そして、彼らを残忍に迫りました。しかしダマスコの近くで、イエス様に会ってからは、パウロは自分がそんなにも確信していたすべてを、否定されました。イエス様の光を見たパウロは視力を失い、その闇の中で、実際には自分が最も重要な真理を見ないで、ずっとそっぽを向いてきた罪人であることを、悟るようになりました。自分が慣れている観点で中途半端に判断してしまった、その見えない領域の実体は、神聖冒涜者ではなく、自分の存在を創造され、罪に陷った悲惨な自分を求め、神様へと導びかれた救い主イエス·キリストだったのです。イエス様が、パウロの人生に入って来られた後、パウロは新しくなった人生の質問に、直面することになります。10節 私が『主よ、私はどうしたらよいでしょうか』と尋ねると、主は私に言われました。『起き上がって、ダマスコに行きなさい。あなたが行うように定められているすべてのことが、そこであなたに告げられる』と。パウロが質問をした対象は、驚いたことに、自分が憎んでいたイエス様でした。そしてもっと驚くべきことは、パウロがイエス様を、「主よ」と呼んだことです。パウロは、イエス様を自分の主として認めて、イエス様へ自分が生きていく人生の方向を、尋ねたのでした。これまで見られなかったその領域に、人生の本質的な質問に対する答えが、存在していることを、パウロは新しく認識するようになったのです。パウロは、イエス様の指示されたその方向に、歩いて行きました。イエス様の御言葉に順従すると、パウロの視力は回復しました。そしてパウロは新しい視覚で、自分の人生を見始めました。これまで彼の視点は、自分の背景で留まっていましたが、イエス様に会った瞬間から、パウロのすべての考え方と生活方式は、完全に永遠に変わることになりました。パウロは、「イエスの迫害者」という、昔のアイデンティティを捨て、「イエスの証人」という、新しい使命を受けました。そして彼は、聖書本文の内容のように、すべての人に、自分が出会ったイエス様を証言する人生を、生きるようになったのです。私達は、今どのように世界を見ていますか? 私達が、歩んでいる人生の方向は、どこに向っていますか。人生の本質が見えず、さまよっているのなら、今まで自分が頼ってきたすべてに慣れているものを、降ろして下さい。そして、今この瞬間、私達のそばにいらっしゃるイエス様に質問しましょう。『主よ、私はどうしたらよいでしょうか。』礼拝は、自分の人生の物語の中に、神様を当てはめる時間ではありません。礼拝は、イエス·キリストを通して、世界を救われる神様の大きな物語の中で、小さな自分を発見する時間です。その物語の中で、自分が存在する理由と、目的を見つけ、自分を呼ばれるイエス·キリストの御声に従って、従順の歩みを、踏み出しましょう。その歩みの中で、イエス様の明るい光が、いつも一緒にあるのです。

No.133『深い淵から主を待つ』     詩篇 130:1~8

 詩篇130篇は、伝統的に「深い淵から」というタイトルで、呼ばれてきました。「深い淵から」は、1節の御言葉をそのまま引用したものです。ここで深い淵とは、何を意味するでしょうか。混沌を、意味します。聖書は、主に中東を背景に書かれ、古代の中東の人々は、海や川のように、水の深い所を「混沌のくぼみ」と認識していました。私達は人生の中で、時に耐え難い危機を迎え、その危機の中で混沌を経験します。そしてその危機的状況から、早く抜け出せることを願い、祈ります。状況が良くなることだけが、神様からの応えかのように思ってしまいます。私達は、自分に苦痛を与える状況そのものを、危機として認識してしまい、おもにその状況に集中してしまうのです。しかし詩篇130篇の著者が注目するのは、状況ではありません。自分の望む通りにならない状況、自分を苦める状況は、著者の関心事では、ないということです。では著者が本当に、注目するのは何でしょうか。この詩篇が、使用する単語を見るとわかります。3節に、不義という言葉が出ます。4節に赦し、7節に恵みと贖いが出て、最後の8節に、もう一度不義と贖いが出ます。不義、贖い、赦し、恵み、この全ては、何と関係があるでしょうか。それは、罪です。詩篇130篇の著者が危機として注目するのは、自分の内面に存在する、罪の問題なのです。罪の問題こそ、私達を深い淵に陥れ、私達が神様の礼拝者として生きることを邪魔する混沌の現実なのです。罪は、神様のために自分が何を、どれだけ成就してきたかに関わらず、また自分がどれほど成熟した信仰を持っているかに関係なく、すべての人間の心の中に常に潜み、いつでも、私達を危機に陥らせる危険な現実なのです。したがって、私達にとって本当の深い淵は、自分の外で起こる状況や、自分を脅かす外部の敵ではなく、自分の内面で、神様を礼拝できないように邪魔する、罪の問題なのです。それでは、私達はクリスチャンとして、どのように罪の問題を扱い、生きていかなければならないでしょうか。3、4節「主よあなたがもし不義に目を留められるなら主よだれが御前に立てるでしょう。しかしあなたが赦してくださるゆえにあなたは人に恐れられます。」 この御言葉を見ると、人が神様を恐れる理由は、何ですか。罪を指摘して、罪を赦す権限は、神様一人だけにあるからです。人は、どんな状況であっても、どんな条件を備えていても、罪に対して徹底的に無能な者です。それ故に、罪に対して私達に必要な姿勢は、自分の義に対する自信を捨てて、ただ神様だけを頼りにすることです。ただ、神様だけを頼るということは、罪を犯さないようにする自分の努力を諦め、すべての責任を神様に押し付けるという意味ではありません。逆に自分の罪に対して、さらに敏感になり、自分の罪の問題により積極的に直面し、克服していくことを意味します。この意味を理解するために、影を想像してみましょう。私達は、どんな時に自分の影を見ますか。光が自分を照らす時にだけ、影が見えます。光のない闇の中では、自分の影は見えません。しかし、光が自分を強く照らすほど、自分の影はより濃く、鮮明に見えます。私達の罪も、これと同じです。私達が、信頼を持っているということは、神様の恵みが、私達と一緒にある証拠です。神様の恵みの光が私達を照らすと、以前はあまり見えなかった自分の罪の影が、より深く鮮明に見えます。クリスチャンとして成熟すると、自分の罪が、だんだん見えなくなり、罪の問題がもっと軽くなりそうですが、神様の恵みは、私達が罪に対して、霊的に敏感になるようにして、巧妙に隠れている自分の罪を、もっとはっきりと認識するようにさせ、以前には、真剣に考えなかった罪の問題を、もっと深刻に感じさせるようにするのです。ですから、聖書がほめる信仰の先祖は、常に自分の霊的な状態に敏感であり、神様を礼拝する上で、少しでも妨げになる罪の問題を、まるでそれが人生最大の悲劇であるかのように、深刻に受け止めたのです。しかし罪に対して、敏感で深刻になるということは、私達が常に罪悪感に悩まされるという意味ではありません。7節後半「主には恵みがあり豊かな贖いがある。」 ここの恵みと訳されたヘブライ語はHesedですが、Hesedを直訳すると、"変わらぬ愛"です。救いは始まりましたが、まだ完成していないため、私達は罪から完全に自由ではなく、罪を犯し続けます。しかし、このような私達の弱さにもかかわらず、神様は変わらず、私達を愛し、続けて私達を赦して下さるというのです。神様の変わらぬ愛は、私達が続けて罪を犯しても良い、という許可ではありません。逆に神様の愛は、私達が続けて罪に対抗できるように力を与え、私達を励まして下さいます。したがって、神様の変わらぬ愛を受けている私達は、私達自身も、神様を変わらず愛するために、神様への礼拝を妨げるすべての罪に対して、続けて対抗しなければならないということです。これが、「深い淵から主を待つ」の意味です。イエスキリストが照らす、私達自身の闇を見て、イエス·キリストの十字架の愛を信頼し、大胆に罪に立ち向かいましょう。豊かなイエス様の贖いが、私達の罪を償い、私達を混沌の穴から取り出し、神様の真の礼拝者として造って下さいます。

No.134『馬の代わりにロバを』    マタイ21:1~11

 この聖書本文は、エルサレム入城の日に、よく読まれる箇所です。教会は、伝統的に受難週の初日をエルサレム入城の日とし、救いのご計画を成し遂げるために、イエス様がエルサレムに入られた事を、記念しました。当時、人々は、イエス様のエルサレム入城に対して、耐えられないほどの喜びに、満ちていました。当時のユダヤ人は、メシアが現れて、ローマ帝国の束縛から解放してくれることを、切実に待ち望んでいました。人々は、イエス様がなさった多くの奇跡を見て、イエス様がメシアである可能性が、非常に高いと考えていました。イエス様がメシアだという彼らの推測は、非常に正確でした。しかし、そのメシアがどんな存在で、何を行なうかについては、よくわかっていませんでした。彼らは、イエス様が今まで見せて来られたその驚くべき能力で、革命を起こすと期待していました。強力な力で、イスラエルをローマ帝国から救い出し、崩壊したユダヤ人の王国を、再び建てることを期待しました。しかしイエス様は、そうした彼らの期待を、完全に裏切りました。イエス様はメシアでしたが、剣とムチで征服するメシアではなく、剣とムチで苦難を受けられるメシアでした。華やかな王座に座る高いメシアではなく、恥深い十字架に架かられる、低いメシアでした。イエス様は、絶対的な支配力とカリスマ性で、イスラエルを救うメシアではなく、謙遜と従順で、世界を救うメシアだったのです。それで彼らは、イエス様は自分達が期待していたメシアではないことを知り、徹底的にイエス様を裏切ったのです。私達の信仰生活も、彼らの姿と似た時があります。私達もイエス様がメシアというのを知って、信じています。しかしイエス様が、どのようなメシアであり、私達に何を与えようとされるのかに、大きく注目しません。人々が、イスラエルに勝利をもたらす強力なメシアを望んだように、私達も世界の荒波から自分を守り、順調で安定した生活へと導いてくれる、繁栄のメシアを期待します。しかしイエス様は、このような私達の期待を裏切る時が、多いのです。人生の中で私達は、自分の計画とは全く違う、現実を迎えたりします。不安な未来のために設置しておいた安全装置が崩れ、耐え難い試練に見舞われます。切実に祈っても、状況は変わりなく、目に見える現実は、自分の希望を笑うような時も、あります。私達が願う救いの旅と、イエス様が導かれる救いの旅には、大きな違いが存在します。 これを教えるために、イエス様はとても独特な方法で、エルサレムに入られました。力の象徴である馬ではなく、ロバに乗って、入城されたのでした。マタイは、ゼカリヤ書の預言を、こう引用しました。 4、5節「このことが起こったのは、預言者を通して語られたことが成就するためであった。「娘シオンに言え。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。柔和な方で、ろばに乗って。荷ろばの子である、子ろばに乗って。』」 ゼカリヤは、将来に来られるメシアが、ロバに乗る柔和な方、謙遜な方だと預言し、イエス様はこの御言葉を成し遂げるために、ロバに乗られたのです。イエス様は、馬の代わりにロバに乗る、謙遜のメシアです。しかし、罪の影響を受けている私達は、イエス様が、馬に乗って、自分の人生に入って来られ、強い能力で、荒い世界の波風を静め、私達に安定と勝利を下さることを期待します。私達は、イエス様に今すぐこの危機を免れる、瞬間的かつ実用的な救いを求めています。しかし、私達の期待とは裏腹に、イエス様は馬ではなく、ロバに乗って私達の人生に入られます。私達の危機的状況自体を、除去されるのではなく、または私達の希望通りに、状況を変えてくださるのではなく、私達がすべての状況の中で、神様だけを頼りに、克服して行くように励まし、力を下さるのです。それは、私達がロバに乗ったイエス様の謙遜なお姿に、似ていくようにされるためです。イエス様は、私達に小さな救いではなく、永遠に続く、根本的な解決となる大きな救いを与えることを願われるのです。私達に、最も良いものを与えることを、願われるのです。そのような救いの旅は、ただ謙遜の歩みによってのみ、前に進むことができるのです。

No.135『十字架を負って弟子を作る』      使徒の働き14:21~23

 21節後半によると、パウロとバルバナがデルベを離れて戻った所は、リステラ、イコニオン、アンティオキアです。この3箇所は特にパウロにおいて、忘れられないトラウマの場所でした。特にリステラで、パウロは今まで経験したことのない、最悪の迫害を受けました。誰かがアンティオキアとイコニオンにまで行って、パウロとバルバナを憎む、ユダヤ人の群れを呼んで来たのです。小さな石までも、人に致命傷を与えかねないのに、数十人の大人が、重い石をパウロに投げたのです。パウロは意識を失って、倒れました。そして人々は、パウロの体を、郊外に移しました。しかし人々が去ると、死んだと思っていたパウロが、目を覚ました。神様がパウロを殺さないように、守って下さったのです。次にパウロは、デルベに移動して、宣教活動をしました。デルベでも、多くの弟子達を得ました。これでパウロとバルバナは、自分達が計画したすべての都市を、訪問しました。全ての宣教日程を終えた彼らは、自分達を宣教師として送ったアンティオキア教会へ戻り、宣教報告をしなければなりませんでした。私達が、パウロとバルナバなら、右側に向かって、アンティオキアに戻ると思います。このように、アンティオキアに戻るのが、距離も短くなり時間も短縮され、安全な方法なのです。しかし、彼らはどの方向へと帰りましたか。反対方向へ、ほぼ1000kmにもなる道へと戻ったのです。あまりにも非効率的で、危険な道を選んだのです。しかも彼らがまた通ったのは、パウロに石を投げた人々が住んでいる、リステラとイコニオン、ピシディアのアンティオキアでした。これがパウロの第1回宣教旅行が持つミステリーです。22節前半「弟子たちの心を強め、信仰にしっかりとどまるように勧めて、」パウロとバルナバが戻ったのは、イエス·キリストの弟子になった者を、励ますためでした。パウロとバルナバが去っていったら、弟子達は、とても難しい現実の中に残されるはずです。パウロとバルナバは、根拠のない希望を、約束しませんでした。「イエスキリストを信じれば、安全で、平安で、すべてが平坦になります」とは、慰めませんでした。代わりに彼らは、キリストの弟子になる道が何なのか、22節後半でとても率直に教えました。『「私達は、神の国に入るために、多くの苦しみを経なければならない」と語りました。』彼らの助言は、ルカ14:27と連結します。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」イエス様も、弟子が歩む道の本質について、非常に率直に語られました。「十字架を背負って、私に付いて来るようにしなさい」ではなく、「十字架を負わない限り、私の弟子にはなれない!」と強調されたのです。イエス様は、ご自分は気楽に馬に乗りながら、弟子達に十字架を背負いなさいとは、おっしゃいませんでした。イエス様は、自ら先に、十字架の人生を生きた後、弟子達に、十字架について語ったのです。それが弟子を育てる、イエス様の方法なのです。ですからパウロも同じように、十字架を背負い、迫害の地、リステラとイコニオンと、アンティオキアに戻り、弟子達に十字架を背負いなさいと、励ましたのです。私達は、自分を石で殺そうとした場所に戻るパウロを見て、そのような信仰の英雄だけが可能だと考える傾向があります。しかしパウロは、もともと弱い人間に、過ぎなかった存在でした。パウロは、神様のために石を迎える前に、神様の人に、石を投げた人です。パウロが投げた石の犠牲者は、誰でしたか。ステパノでした。パウロは、ギリシャの忠実な弟子、ステパノを殺した邪悪な罪人でしたが、キリストはステパノが負った十字架を通して、資格のないパウロをご自分の弟子にされたからです。パウロは、キリストの弟子となった自分が、ステパノが背負った十字架の実だったことに、気付き、感謝したに違いないのです。こうした意味で、パウロが強いのではなく、パウロに与えられた、キリストの恵みが、驚くべきことなのです。弟子になったパウロは、ステパノの十字架を覚えて、リステラ、イコニオン、アンティオキアの弟子達のために、自分も十字架を背負いました。そして御言葉と一緒に、自分の十字架の人生で、彼らを励ましました。信仰によって受ける迫害は、意味のない犠牲ではなく、神の御国の市民にだけ与えられる、恵みだという生きている証でした。そしてパウロは、各教会ごとに、長老達をたてました。長老達がパウロ自分に代わって、難しい現実の中でも、教会のために、十字架を背負わせたのです。キリストの御体なる教会として、信徒達が、それぞれ十字架を背負い、互いに弟子としての人生を生きるよう励ますこと、これがパウロが教えた、十字架で弟子を育てる方法なのです。そして驚くべきことに、こうしたパウロの励ましの中で、パウロをつなぐ、キリストの弟子が誕生します。パウロが石を投げられたリステラ出身のテモテです。イエスキリストは、ステパノの十字架を通して、パウロを弟子とし、パウロの十字架を通して、テモテを弟子にされたのです。同じく、私達がキリストの弟子になったのは、決して偶然ではありません。イエス様は、私達の周りの誰かに、十字架の人生を送られ、その人生を通して、私達を弟子の道に導いて下さったのです。今度は、私達の番です。イエスキリストに従うことには、いつも試練が伴います。私達は、自分の心の中から、家庭から、社会から、教会の周辺から、自分の信仰を脅かす、多くの要素と闘いながら、生きていきます。このような葛藤の中で、私達の内面に存在する、罪の傾向は、私達を簡単で、安全で、効率的な道へと導こうとします。しかし十字架の道は、罪が指す方向の、反対側に存在します。その道は、狭くて険しく、遠い道のりに違いないのです。しかし難しい条件にもかかわらず、私達がその道を歩めるのは、キリストがすでにその道を歩まれたからです。キリストの弟子になった自分に、どれほどの大きな恵みが、与えられたかを感じてみましょう。その恵みの偉大さが、私達自身の弱さを、圧倒するという事実を信頼し、十字架を負いましょう。キリストが、ご自分の弟子を作るために用いられる、祝福の通路が、私達の生きる十字架の人生になることを、イエス様の御名で祝福します。

No.136『償われた負債』      ピレモン1:8~22

 ピレモンへの手紙はAD60年ごろ、パウロがローマの監獄に閉じ込められていた時、ピレモンという人に書いた手紙です。ピレモンは奴隷を所有するほど、経済的に豊かで、また最初は信じていませんでしたが、パウロの働きによってイエス·キリストを信じるようになりました。その後、彼はコロサイ教会の指導者になり、当時迫害によって、教会の建物を持つことができなかったコロサイ教会のために、自分の家を集会の場所として提供したほど、献身的に仕えました。コロサイ教会の中には様々な問題が多かったので、おそらくピレモンは指導者として、悩みの種が多かったことでしょう。しかし彼には、教会以外にもう一つ、大きな悩みがありました。それが、彼の奴隷だったオネシモとの葛藤でした。オネシモは、主人のピレモンに、経済的な被害を与え、恥をかかせたにもかかわらず、赦しを請わず逃げてしまいました。ピレモンには、オネシモから必ず返さなければならない負債がたくさんできたのです。オネシモがその負債をすべて返す前に、彼と仲直りできないのが、当時の一般的な常識でした。その負債を返してもらう唯一の方法は、オネシモを処罰し、きびしく仕事をさせ、自分が苦しんだ分、彼にも苦痛を受けさせることでした。しかしパウロは、ピレモンにこのような負債の計算から離れ、新しい計算方法でオネシモとの関係を、築き上げることを勧めたのです。 パウロは、ピレモンにオネシモの巨大な負債を免除し、多くの損害を背負ってまで、彼を家族として迎えることを勧めます。負債という概念から離れ、資格のない者に無条件の愛を与える、恵みの人間関係を教えたのです。このような教えは、この社会が求める人間関係の知恵と、多くの部分で対立します。負債という概念は、私達が他人に接するすべての状況の中で、あまりにも自然に、しかしあまりにも破壊的に、私達の心を支配しているのです。まだ罪の影響から自由でなく、この世を生きていくのに、相手に与えるものと受けることの平衡を維持する知恵が、必要な場合が多いですが、問題はその知恵が、人々を愛する能力につながらないことです。真の愛は、計算という領域を越えるからです。パウロは、ピレモンがオネシモの大負債を免除して、多くの損害を背負ってまで、彼を家族として受け入れなければならない理由を、こう説明しました。17~19節『ですから、あなたが私を仲間の者だと思うなら、私を迎えるように、オネシモを迎えてください。もし彼が、あなたに何か損害を与えたか、負債を負っているなら、その請求は私にしてください。私パウロが、自分の手で、「私が償います」と書いています。あなたが、あなた自身のことで、私にもっと負債があることは、言わないことにします。』 パウロは、ピレモンにオネシモが負った全ての負債をパウロ自身が、代わりに返すと言いました。しかしオネシモの負債を考える前に、パウロに負ったピレモン自身の負債を考えてみるよう励ましました。パウロに会う前のピレモンは、神様を知らずに生きてきた罪人でした。そうして、罪から自由でない、悲惨な人生を送っていました。しかしピレモンは、パウロが伝えた福音を聞きながら、何が真理なのかを悟り、神様を信じるようになりました。その信仰によって、ピレモンの現在と、未来がすべて変わりました。ピレモンは、パウロに絶対に返せない負債を負うことになったのです。しかしパウロは、ピレモンに何も要求しませんでした。ただ相変わらず、同じ愛でピレモンの魂を世話しました。パウロが持っている負債から、自由な愛がピレモンに向かう神様の祝福の通路になったのです。もしこのような愛を受けたピレモンが、オネシモに負債を求めれば、世界の論理では常識的ですが、神の御国の論理では矛盾しています。この世の人間関係を支配する絶対的な基準は、自分の受ける得と、損失の計算ですが、神の御国の人間関係を支配する絶対的な基準は、キリストが私達のためにされたことだからです。キリストが、私達のために何をされましたか。私達に代わって、十字架を背負われました。その十字架の愛によって、神様に、深い傷を与えた私達の罪の負債が、すべて返されたのです。 こうした福音の論理で考えると、オネシモの負債を、自分に渡しなさいといったパウロの意図が、理解できます。パウロは、オネシモの負債を、代わりに返済するという言葉を通じて、ピレモンに、私達のすべての負債を返してくださった、キリストのことを考えるよう励ましたのでした。そしてこのようなキリストの恵みの上に、オネシモとの関係を、築き上げなさいということでした。自分のすべての負債が、キリストによって返されたという信仰と、それに対する感謝の気持ちこそ、私達が神様を愛し、隣人を愛するための原動力になるのです。15節でパウロはこう言いました。「オネシモがしばらくの間あなたから離されたのは、おそらく、あなたが永久に彼を取り戻すためであったのでしょう。」 負債の計算に基づいた、私達の愛では、他人と深く付き合うこともできず、一度葛藤が起きれば、その関係は、回復することが難しいのです。しかし、神様から逃げ出した私達を、永久に取り戻してくださったキリストを覚えば、私達は、誰かを深く愛することができますし、葛藤が生じても、心から和解し、その人を自分に永久に導きだす、神様の恵みを体験することができます。私達のすべての負債を返してくださったキリストの愛で互いに愛し合いましょう。

No.137『礼拝者の心』   マラキ書1:6~14

 神様は、単に私達が礼拝に参加することに、満足されません。礼拝をする者の内面を近くでご覧になり、心の欠けた礼拝を、虫唾が走るほどに嫌がられます。嘘で偽装された祈りと、賛美と献金を悲み、憤りを感じられるのです。本文の10節前半で、神様はご自分の傷ついた心を、非常に赤裸々に表現されます。「あなたがたのうちには、扉を閉じて、わたしの祭壇にいたずらに火をともせないようにする人が、一人でもいるであろうか。わたしはあなたがたを喜ばない。」ここで、神様が閉じたい扉は、どこの扉ですか? 神殿の扉です。神殿の扉は、今日のどこの扉でしょうか。教会の扉です。「あなたがたに汚された礼拝を受けるよりも、誰か私の代わりに、教会の扉を閉めてほしい。それで、私に嘘で祈り、嘘で賛美し、偽りで献金する者が、教会の中に一人も入ってこないことを望む。」とおっしゃったのです。本当に、身の毛がよだつほど、恐ろしい表現ではないですか。一度、想像してみましょう。礼拝堂へ向かっている自分の生ぬるい心が、教会の扉を閉めてしまいたくなるほど、神様を苦しめるということです。自分も知らないうちに、私達は何度か、神様を苦しめてきたという恐ろしい話です。それでは私達は、どんな心で神様を礼拝しなければなりませんか。「神に受け入れられる礼拝」というものは、何ですか? 答えは6節にあります。【「子は父を、しもべはその主人を敬う。しかし、もし、わたしが父であるなら、どこに、わたしへの尊敬があるのか。もし、わたしが主人であるなら、どこに、わたしへの恐れがあるのか。──万軍の主は言われる──あなたがたのことだ。わたしの名を蔑む祭司たち。しかし、あなたがたは言う。『どのようにして、あなたの名を蔑みましたか』と。】 神様は、神様自身と私達の関係を、何に例えられましたか? 始めに、父と子です。神様は、子供が父を尊敬するように、私達も、神様を尊敬しなければならないとおっしゃいました。ここでの"尊敬する"というヘブライ語は、もともと「何かに重さを加える」という意味を持っています。つまり、何かを真剣に考えるということです。私達は、神様を父のように、真剣に考えなければなりません。当時、父は子供のアイデンティティにおいて、最も重要な存在でした。人々は、誰かを指し、"誰の息子""誰の娘""、誰の家族に属している者"など、その人の父親を中心に、その人を定義しました。ですから、子どもは、自分を存在させ、自分に"誰の子"という、アイデンティティを与えた、父の存在を真摯に接し、尊敬しなければならなかったのです。神様は、父のように私達を存在するようにし、私達自身が、どんな存在かを定義する唯一の基準になります。神様を除けば、私達は、自分という存在の始まりと、今を説明することができません。したがって、私達が存在する理由になり、自分のアイデンティティのすべてになる、神様に真剣に接し、尊敬すべきなのです。神様を心から真剣に思っているなら、私達は決して礼拝を軽く見ることができません。礼拝を、おろそかにできません。神様の存在を重く思うなら、礼拝が自分の人生の重さの中心に、なるべきです。礼拝を真剣に思い、礼拝を通して神様に栄光を捧げることに、誠実でなければならないのです。これが神様の願われる礼拝者の心です。また神様は、私達との関係を、父や子だけでなく、主人としもべにも、たとえられました。ここでしもべは、奴隷を指します。古代イスラエルの社会で、奴隷は、市場で取り引きされる存在でした。富裕な人は、お金を払って、奴隷を買ったり、その奴隷は、お金を支払ったその人のしもべになって、恐れをもって仕えました。同じく、私達は奴隷です。自分の存在を創造された神様から逃げ出し、罪の市場に売られた罪の奴隷でした。しかし神様は、私達が犯したすべての罪に代わって、救い主イエス·キリストの命で支払われ、私達の存在を買って下さったのです。このような驚くべき恵みによって、私達は神様のしもべになりました。神様は、私達のすべての人生をご支配なさる主人であり、私達は、その主人の心に従って、恐れをもって仕えるべきです。神さまへの恐れは、恐怖心ではありません。神様が行なった、驚くべきことについて感じる驚異が、神様への恐れなのです。自分のような罪人を愛された、神様の偉大さの御前に、謙遜にひざまずき、主人である神様に、感謝と愛を表現する、聖なる恐れです。この恐れは、私達の心に存在する、他のすべての恐れを追い出します。神様以外を恐れず、主人である神様を礼拝することを、最優先させる恐れです。神様を恐れる者は、自分のために神様がなさったことを当然と思わず、いつも驚異と感謝で礼拝します。これが、神様の願われる、礼拝者の2つ目の心なのです。神様は、私達を礼拝者として、創造されました。私達は、神様を礼拝するために、存在します。生きるために、礼拝するのではなく、礼拝するために、生きているのです。ですので、礼拝者は、私達自身を定義する、最も重要なアイデンティティであるのです。私達は、どのような礼拝者ですか。神さまへの私達の心には、何がありますか? 覚えましょう。神様は、私達の父であり、私達の主人です。神様は、私達が尊敬と恐れを持って、私達の一番良いものを捧げるのに、ふさわしいお方です。私達の心に、最善の尊敬をもって、礼拝に真剣に取り組みましょう。私達の心に、最善の恐れを持って、驚くべき神様に感謝しましょう。私達が、真の礼拝者の心で、神様を礼拝しに来る時、神様は、教会の扉を広々と開けて下さり、ご自分の子であり、しもべである、私達の礼拝を喜んでくださるでしょう。

No.138『神様の召しに従う』     創世記 22:1~14

 創世記は、神様の召しへのアブラハムの反応に注目し、彼の話を展開します。アブラハムは、ウルという土地が非常に肥沃な地域の出身でしたが、神様はアブラハムをお呼びになりました。故郷を離れて、神様の示される所へ行けとおっしゃいました。そこがどこなのかは、全く教えて下さいませんでしたが、アブラハムは神様を信頼し、その召しに従って遠い旅に出かけました。神様は、アブラハムが故郷を去った後も、続けてアブラハムを呼ばれ、その度にアブラハムは、大きな決断を下さなければならなかったのです。その決断は一回だけではなく、持続的なものでした。この聖書本文でも、神様はアブラハムを呼ばれ、彼は再び、リスクが大きい選択をしなければなりませんでした。神様は、アブラハムに1人息子のイサクを供えなさいとおっしゃいました。アブラハムは神様の意図が何なのか、どのような結末が待っているのか、分からなかったのです。 神様の召しは、いつも易しくありません。どこに行くのか、教えて下さらないからです。それはハッピーエンドなのか、それともサッドエンディングなのか、その不確実性が、私達を惑わします。本文の中で、アブラハムは一体、どのような考えで神様の召しに従ったのでしょうか。自分の息子のイサクを、本当に失うかもしれないのに、なぜその道を選んだのでしょうか。ヘブル11:8~10はこう答えます。「8信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。9信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました。10堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都の設計者、また建設者は神です。」アブラハムが、どこに行くのか分からないまま、一生を転々としながら、テント生活をした理由は、10節が言ったように「堅い基礎の上に建てられた、故郷を期待した」からです。その故郷を支えている基礎は、何ですか。それは、その故郷の設計者である神様です。アブラハムが一生を旅人として生きた理由は、自分が定着する所は、この世の基礎の上に建てられるのではなく、神様という基礎の上に立てられると信じたからです。アブラハムは、神様という基礎に希望を置いて、自分の人生を送りました。 同様に、クリスチャンであれ未信者であれ、人間なら誰でも、必ず何かをもとに、その基礎の上に、自分の人生を生きていきます。何を基礎として生きているかによって、私達人間は、それぞれ違う人生を送ることになるのです。人々は、不安な自分の状況の中で、目に見える何か、触られる何かをもとに、その上に自分の住まいを立てようとします。しかしそれはいつかは、必ず崩れます。神様以外の基礎は、永遠ではないからです。アブラハムは、神様の召しの前で、息子イサクではなく、ただ神様だけが、自分の人生の基礎であることを、告白しました。それで、アブラハムはイサクが死んでも、イサクを復活させることができる全能の神様を信頼し、神様が指示されたモリアの山に行くことができたのです。私達は、今何を基礎として生きていますか? 私達の言葉と、行動と生きる方法は、何が自分の基礎だと言っていますか。私達の人生が、神様以外のものに根を下ろそうとする時、神様は私達を呼ばれるでしょう。試練の中で、重大な選択の瞬間の中で、心の空虚さを通して、知人の助言を通して、神様は私達が、全く知らないその場所へと行くことを命じられます。すべてが不確実な状況の中で、弱い私達は不安を感じますが、その不確実さが、私達を真の信頼で導いてくださる、神様の恵みであることを覚えて下さい。不確実さの中で従順の一歩を踏み出す時、私達は神様以外のすべての安全装置を脱ぎ、神様という絶対に崩れない、永遠の土台の上に自分の人生を送るようになります。神様が直接建てられた天の都で、永遠の安息を享受する私達皆になることを主の御名で祝福します。

No.139『心から聞く神の御言葉』   マタイ13:1~23

 私達が神の御国、神様の統治の中に入るためには、何が大事ですか。神様の御言葉を聞く、私達の心です。イエス様のたとえの中で、農夫であるイエス様が蒔かれた御言葉の種は、すべて同じものでしたが、その種が落ちた土地の状態によって、全く異なる結果が出ました。種が蒔かれた最初の土地は、道端でした。どうなりましたか? 19節「だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。」当時のイスラエルの農夫は、日本の農夫のように、一定の所に、一定の量の種を植えるのではなく、手で種をつかみ、散布して撒きました。それによって種は、あらゆる方向へと飛んでいきました。時には、人々が通り過ぎる畑周辺の道端に落ちました。小麦農業をする畑には、普通3~8㎝ほどの土がありましたが、道端には土がほとんどなかったのです。道端に落ちた種は芽も出ずに、鳥に食べられてしまいました。イスラエルの宗教指導者達のような集団は、イエス様の話された神様の御言葉に対して、心が完全に硬くなっていました。今日にも、似たような人がいます。神様の御国の福音について深く考えないまま、「それはありえない!」とすぐに判断してしまいます。今まで自分が見て感じ、経験したことだけが、世界に存在する全てだと固く信じているからです。自分がまだ考えてみたことがないこと、経験したことのないことの必要性に対して、硬く心を閉ざします。サタンは、このような人々が神様の御言葉に対して、深い抵抗感に陥るように誘うのです。種が蒔かれた2番目の土地は、岩地でした。20、21節「また岩地に蒔かれたものとは、御言葉を聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」イスラエルの土地は、岩が多いです。岩地は土が覆われても、その厚さが浅すぎて、種が育つのに適しません。岩地に蒔かれた種は、畑に撒かれた種より芽が早く出始めますが、 根を下ろすことができず、日照りであつくなれば水分が取れず、すぐに枯れて死んでしまいます。このような心を持つ人は、表向きは福音に感動したような反応を見せますが、その福音に献身はしません。まだ人生の主権を神様に渡さず、自分の手でぎゅっと握っているのです。まだ神様より、神様以外のことをもっと信頼するのです。彼らが望むことは、自分を罪の問題から解放してくれる根本的な救いではなく、永遠の生命でもありません。彼らが望むのは、自分が直面している今の危機を免れるような一時的な助け、今と、残りの数十年の短い余生を、安全に守ってくれる短期的な祝福なのです。イエス様は、神の御国に入ろうとする者に、必ず試練が伴うと言いました。試練というあつい日差しが、自分に犠牲を要求する時、彼らは簡単に、神様の御言葉を見捨てるでしょう。彼らの浅い信仰には、真実な心がないからです。種が蒔かれた3番目の土地は、茨の中です。22節「茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」野生の茨は、周りの他の植物が必要とする栄養分を取り上げ、実を結ばないよう妨害します。この場合の人々は、心が神様とこの世の2つに分かれます。神様の御言葉をある程度は知っていますが深く信頼しないので、危険に見える現実の前で、いつも心配が多いのです。自分の不安を解消するために、神様への信頼と富、この2つを一緒に追求します。自分の安全を守るための世的な次元の解決策に執着し続けるので、御言葉への知識があっても、その知識が生き方の変化につながりません。信仰生活が長くても、自分の人生の中で変化と良い証がなく、他人を変化させることはできません。種がまかれた最後の場所は、良い地です。23節「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」パレスチナの土壌では、普通植えられたものの10倍程度が収穫されるそうです。30倍、60倍、100倍の実は、非常によい収穫です。しかし現実的に、不可能な収穫量ではありません。ヨルダン川周辺の農業は、普通10倍から100倍の間の量が、収穫されたそうです。イエス様は、4番目の土地の心を持った人々だけが、神様の御言葉を真に受け入れたとおっしゃったのです。イエス様の真の弟子は、神様の御言葉を心から聞きます。ですから神様の御言葉が、その人のすべてを支配し、人生を変化させます。その人の人格に、聖霊の賜物が開かれ、その人の生き方が、生きている証になります。ですからその人の存在を通して、周りの多くの人々が、神様に帰って来る、驚くべき実が実るのです。今まで私達は、種が蒔かれた4つの地を調べてみました。私達の心は、4つの土地のうち、どこかに属しています。私達は皆例外なく、このたとえの中にあるのです。イエス様が聞かせて下さったこのたとえが、霊的な種になり、御言葉に対する私達の心の状態によって、それぞれ違う姿で育っていきます。今この時間、心から神様の話に耳を傾けましょう。 心から聞く者に、このたとえは霊的な鏡になって、私達の心の姿を映し出し、神様の御前で謙遜にひざまずかせ、神様の驚くべき恵みに、私達自身を委ねます。Michael Greenという新約学者はこう述べました。「「神の御国」は、土地と種の出会いの中で、土地と種の結婚の中で臨みます。」神様の御言葉が、私達の心と出会い、結婚して、神の御国が、私達の中で臨むことを、私達に命の種を蒔いて下さる真の農夫、イエスキリストの御名で祝福します。

No.140『羨みに勝つ望み』     箴言 23:17~18

 嫉妬とは、他人のものを欲しがることです。他人の所有物を見て、自分にはそれがないことを悲しむことです。箴言23:17前半「心のうちで罪人を羨んではならない。」この御言葉が教えるように、罪の本性を持つ私達人間は、永遠に続く天のものより、罪人達が喜ぶ、一時的で消耗的なものを欲しがるようになったということです。一生懸命努力しまた達成して、自分が欲しがっていた何かを得れば、その哀れさが解消されるでしょうか。違います。なぜなら、嫉妬が求めるのは、一時的で消耗的な喜びだけを与えるからです。得たその瞬間は嬉しいのですが、すぐにその喜びが消えてしまいます。そして再び他人が持っているものに目を向け、足りないものを見つけて、また満たそうとします。嫉妬は自分が持っているものにではなく、持っていないものに集中するため、嫉妬する人は、持つことにではなく、もっと持つことに意味を置くのです。嫉妬は心の麻酔剤のようで、今神様から与えられたものの価値を感じないようにさせ、本当の喜びが何なのかわからないまま、喜びを得ようとする、意味のない試みを無限に反復させることです。嫉妬は、まるで心にできた大きな穴のようなもので、何かで満たそうとしても、結局また空っぽになります。嫉妬する者、すなわち今の自分の人生を喜ぶことができない者は、決して未来も喜ぶことができないのです。また嫉妬する者は、心から愛せなくなります。人は羨めば、単に他人のものを欲しがることだけに、終わりません。嫉妬は、私達が羨むその人が幸せになることに対して、憤りを感じさせます。そして逆に、その人が経験する不幸を、喜ばせるのです。自分の下にいる人々に同情することは簡単ですが、自分の上に立っている人々に対しては、決して祝福できないようにさせます。神様は、私達が神様を愛し、他人を愛する喜びで生きるようにと、デザインされました。しかし嫉妬は、他人を愛する能力、他人を祝福する能力を低下させ、他人を呪う能力、他人に傷つける能力を向上させます。嫉妬は、私達の人間関係から喜びとやりがいを奪い、その代わりに剥奪感と悔しさを与えます。私達が嫉妬すれば、自分を愛する存在として意図された神様の計画と、完全に食い違った人生を送ることになるのです。ですから、私達は自分の内面のどこかに隠された嫉妬の心を見つけ、直面し、必ず解決しなければならないのです。それでは私達はどのようにして、嫉妬から自由になれますか。どのようにして嫉妬せずに、純粋に愛して祝福することができるのでしょうか。17節後半と18節「いつも、ただ主を恐れていよ。あなたには確かに将来がある。あなたの望みは断たれることはない。」神様への恐れは、恐怖心ではありません。私達が誰かに対して恐怖を感じれば、その人から遠く逃げるでしょう。なぜならその人の強さが、自分の安全を脅かすからです。神様への恐れは、これとは正反対です。神様の偉大さに驚異を感じ、強い神様の中で、自分の安全を求めます。神様の中にだけ自分の未来があり、希望があることを感じます。ですから神様への恐れは、自分が神様から離れることを警戒し、神様にいつも近付く恐れなのです。神様を恐れる者は、私達の関心を他人ではなく、神様に与えます。人間が持つ一時的なもの、消耗的なものより、神様の子供に与えられる継続的なもの、永遠なものが、ずっと価値あると肌で感じるからです。私達が、神様に対して驚異を感じなければならない部分は何でしょうか? それは、神様がご自分の御子を犠牲にして、私達のような哀れな存在を救って下さったという、驚くべき恵みです。Tim Keller牧師は、こう言いました。私達が救われたのは、神様の御子が私達を嫉妬されずに愛されたからです。私達はイエスキリストを信じる信仰で、私達が犯した罪への処罰なしに、神様の子供になる特権を受けました。しかし私達には、与えられたその特権が、イエス様には与えられませんでした。イエス様は私達とは違い、ご自分が十字架の上で、私達の罪への残酷な処罰を受けること、また天の御父から、ご自分が徹底的に捨てられることをご存知でした。しかしイエス様は、私達を嫉妬されませんでした。嫉妬の代わりに、ご自分の血と肉を犠牲にして、私達を救おうとされる御父の御心に順従されました。この素晴らしい愛によって、今の私達が存在し、未来の私達がいるのです。この福音こそ、私達が恐れ、欲しがって、すべての人生をかけるべき価値のあるものです。箴言は、神を恐れることが知恵の始めだと教えます。知恵は単純に、情報を知るのではなく、体験を通じて悟ることです。嫉妬なく私達を愛された、キリストを体験してください。この礼拝を通して、日常の礼拝を通して、体と心で深く感じ、その驚くべき愛を恐れてください。その恐れが嫉妬に勝って、私達の心を真の喜びと感謝で満たすでしょう。

No.141『使徒信条①:信仰で生きる』   へブル11:1~3

 信仰の要約であり、ガイドである使徒信条を理解するためには、まず「信じる」ということは、どういう意味かを知らなければなりません。神様は、霊です。神様は触れることができず、また見えないのです。神様がご自分を自ら現わさない以上、私達は神様について、一つも分からないでしょう。聖書が教える信仰は、このような見えない領域を扱っているのです。ヘブル11:1「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」 この御言葉によると、信じること、信仰が先ですか。それとも、体験して理解することが先でしょうか?望んでいる領域、見えない領域の実在を知ることが、先ですか? 多くの人々が、理解してから信じるようになると思いますが、御言葉は信じてから分かるようになると言います。神様と神様の御国は、証拠によってではなく、ただ信仰によってのみ、感じて知ることができます。信じてから、神様の中で自分が望んでいることが実際となり、信じてから、見えないその実在が見えるようになるのです。以前は分からなかった自分の中にある不安の実体と、見えない領域で、自分の人生を導いて下さった神様の痕跡の一つ一つが、信仰を持った後に、そのパズルが合わされ、神様こそが自分が存在するようになった始まりであり、今自分が生きている理由であり、またこれから生きていく目的であることが、実際に感じられて、見えるようになります。まず、自分が本気で神様を信じるようになることを、本当に切実な心で求めて祈ってください。信仰を持てば、どんな変化が起こりますか。2節「昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。」4節から最後の節までは、神様を真に信じていた先祖達が、どのような人生を送ったのかが、列挙されています。彼らの信仰は、単に頭の中にだけ存在する一つの思想ではなく、彼らの生き方全体を変化させた、原動力になりました。自分はクリスチャンだと主張しますが、生き方が信じない人と全く区別されない人々がいます。実のない信仰は、本当の信仰ではありません。神様がほめられる信仰は、自分が信じるものを中から外に生み出す信仰、自分が信じることを、人生の中で生き出す信仰なのです。 「Os Guinness」というクリスチャン作家は、 すべてのクリスチャンはCoram Deoの信仰へ、神様の呼びかけ:召しを受けたと言いました。Coram Deoとは「神様の御前で」という意味です。私達の人生は、神様の御前での舞台ということです。その舞台に立った私達が、意識しなければならない唯一の聴衆は、ただ神様だけだということです。「私は、その唯一の聴衆の前で生きている。他の全ての聴衆の前では、私が立証すべきものも、得るものも、失うものもない。Coram Deoの信仰は、聴衆を意識することから離れ、ただ最後の聴衆であり、最高の聴衆である神様だけを大切にすることだ。」 人間はたいてい見えない神様より、見える他の人々の視線を意識しながら、生きて行きます。しかし信仰は、真っ暗な舞台の前の聴衆の席を照らす、照明とも同じです。その聴衆の席には、最初から永遠まで私達の人生をご覧になる唯一の聴衆、神様がおられます。自分の人生が、神様の御前での舞台であることを認識し、まるで神様を近くで見るように生きる信仰、それが神様の御前での信仰、Coram Deoの信仰です。 最後に信仰は、世界を見る私達の目を変えます。3節「信仰によって、私達は、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」信仰を持つようになると、以前とは違って自分を取り巻く現実を、御言葉の世界観で、見て理解するようになります。か弱い人間の目には、世界が自らできて、世の中が、力とお金と能力がある人々によって、動いているように見えますが、信仰の目には、世界が神様の御言葉によって創造され、神様の御言葉によって、動いていることが感じられます。私達の現実を本当に支配しているのは、目に見えるものではなく、見えない所で御言葉で、世界を動かされる神様だということに気づくのです。ですから試練が来ても、御言葉に頼り、御言葉の通りに生きることをあきらめません。使徒信条は、単に形式的に暗唱するのではなく、このような真の信仰で神様の御前で告白するのです。元のラテン語の使徒信条には、"Credo私は信じます!"という言葉が、3回出ます。まず、"私は信じます"と告白した後、御父への信仰、つまり御父がすべての世界を、創造されたと宣言します。二つ目に、"私は信じます"と告白した後、御子への信仰、つまり御子が人間となられ、私達の罪のために死なれ、復活され、天に昇られ、再び審判者として戻って来られることを宣言します。三つ目に、"私は信じます"と告白した後、御霊への信仰、つまり聖霊が、教会とすべての聖徒を守られ、救いの旅が完成するまで導いて下さることを告白します。私達は使徒信条を通して、このような三位一体の神様の真理を、私達が信仰で見ており、この真理に基づいて、唯一の聴衆である神様の御前での聖なる人生を生きることを、目ではなく、真理の世界観で、現実を理解し、受け入れることを、神様の御前で告白するのです。使徒信条が単なる暗唱ようの祈祷文ではなく、私達自身の信仰そのものになり、私達の人生が、使徒信条を証言する生きた証になることを、私達に使徒信条をくださった御父、御子、御霊の御名で祝福します。